おまけ
「行ってきま〜す」
「ああ…」
朗らかな笑顔で手を振りつつ、玄関から出て行くカズを送り出すと、ヒロは寝ぼけ眼を擦りながら居間へと引き返す。
時刻は午後一時。典型的な休日ぐうたら男のヒロの事、カズに起こされなければまだまだ眠り続けていたはずである。
タンクトップにトランクスという、彼の寝巻きの格好で、ヒロは大欠伸しながら台所に向かい、コップに水を汲み、喉を鳴
らして二口飲んだ。
それから、「ふぅ〜…」と一息つくと、ようやく目覚め始めた頭を軽く振り、水を注ぎ直したコップを片手に居間へ戻る。
暦は五月後半。先月初めから同居するようになったカズによって、愛しのコタツはさすがに撤去されてしまっていた。
整理整頓にマメなカズのおかげで、安アパートの部屋はコタツが撤去されただけでなく、二ヶ月前の散らかりようからは信
じられない程に綺麗に片付いている。
汚く散らかった部屋に住み慣れていたせいか、ヒロにしてみれば、小ぎれいになった部屋は、若干落ち着かなかったりもす
るのだが…。
テーブルの横にどすっとでかい尻を下ろし、リモコンを手にとってテレビをつけ、何も考えずに番組を眺める。
いや、一応は考えているかもしれない。今日の夕食は何だろう?くらいの事は。
ピンポーン。と、軽やかなチャイムが鳴ったのは、カズが出かけてからまだ10分も経っていない内の事だった。
宅配か何かだろう。そう考えつつヒロは立ち上がり、玄関に向かう。
新聞の勧誘だろうが郵便だろうが、相手が男だろうが女だろうが、ヒロは「この格好」で玄関に出る。なので、相手が女性
だった場合は(時には男性の場合でも)悲鳴を上げられるか顔を顰められる事になる。
郵便や宅配業者は、機会があればまた来なければならないが、仏頂面で半裸の大柄なデブ虎に遭遇したセールスレディ、あ
るいはマンは、大概の場合は二度とこのアパートに来ない。
アパートの住民にしてみれば、しつこいセールスを撃退してくれるヒロは、頼もしく、愛すべき隣人である。
いつものように無言で玄関に向かい、魚眼レンズを覗いたヒロは、訝しげに目を細めてから、鍵をかけていなかったドアを
押し開けた。
ゆっくりと開いたドアの向こうには、すらりと背の高い、コリー犬の獣人が立っていた。
「や。久しぶり」
軽く手を上げて微笑したコリーに、ヒロはむっつりとした顔のまま、ぺこりと頭を下げた。
「少し話がしたかったんだが…。今、良いか?」
「…どうぞ」
ヒロは大学の先輩であり、カズの元恋人でもあったコリー犬を、部屋の中に導き入れた。
「お前の部屋は常に散らかってるイメージがあったが…、結構小ぎれいだな?社会に出ると変わるものか?」
コリー犬は意外そうに部屋を見回した後、
「ああ、カズが掃除してるのか…」
と、納得したように頷いた。
ヒロはその前に熱い茶を注いだ湯飲みを出すと、仏頂面に怪訝そうな表情を浮かべる。
「ヨシノリさん…。あんた、カズが今ここに居る事、知ってるんだな?」
「まあな」
湯飲みを手に取り、息を吹きかけて茶を冷ましながら、ヨシノリは目を閉じて頷いた。
「…なんで、カズと一緒に居てやれなかったんだ?」
ヒロは目を細め、二つ上の先輩を挑むような目で見据えた。
最初こそ戸惑いはあったものの、今やヒロにとって、カズが自分の所に居てくれるのは有り難く、そして幸せな事だった。
だが、カズにしてみれば恋人に突き放され、居場所を失い、寂しくて仕方が無くて自分の所に転がり込んだのだ。
現在の状況を常々そう考えているヒロは、大学時代の先輩を前に、少々腹を立てていた。
太っているとはいえ、大柄で、しかも虎獣人。ヒロがその気になって睨めば、大の男でも竦むような鋭い眼光が両目に灯る。
だが、細身の、どちらかと言えば華奢とも言える体付きのコリー犬は、その眼光を受け止めながらも、怯えることなく苦笑
いを浮かべた。
その様子に、ヒロは両目から厳しい光を消し、代わりに訝しげな光を両目に灯す。
「…もしかして…、何か、理由があったのか…?」
尋ねるヒロに、
「理由というか…、何というか…」
ヨシノリは少し寂しげな微笑を浮かべた。
「あいつな。お前に気があったんだよ。たぶん、ずっと前からな…」
「………」
ヒロは沈黙し、訝しげに眉根を寄せ、視線を上に向けて何やら思案する。
ややあって、言葉の意味がようやく脳に届いたのか、大虎は目をまん丸にし、腰を浮かせてガバッと身を乗り出した。
「へ!?おっ、おおおおおおお俺に!?」
「遅いなオイ。ってか取り乱し過ぎだぞヒロ」
明らかに、そして過剰に動揺している大虎の顔を見ながら、ヨシノリは苦笑いする。
「そっ…れはもう屈辱だったぞぉ?六年以上も付き合って来て、それでもノンケの親友の方に気があったんだと、今更になっ
て気付くのはなぁ…」
ヨシノリは両手で湯飲みを包むように持ち、ズズッと茶を啜ると、
「俺は、今でもカズの事が好きだ。…だが…」
深く、深くため息をついた。
「…あいつはな、俺と一緒に居る時も、ずっとお前のことを頭の片隅に留めていた。…それに気付いた後も、俺もしばらくは
頑張ったさ…。…でもな…?あいつの中からお前を追い出す事は、結局できなかった…。いつだって、あいつの心はお前の元
にあった…」
コリー犬はそこまで一息に話すと、ニヤッと、不敵な笑みを浮かべた。
「俺は確かに敗者だ。だがなぁ、良き敗者である為に、良き理解者である為に、あいつの事を優先する事にしたのさ」
ヒロは小さく頷き、納得したように口を開く。
「おかしいとは思っていた。あんなにカズを大事にしていたあんたが、なんで別れ話を切り出したのか…。カズに訊いてもはっ
きりとは話さなかったが…。ヨシノリさん、あんたカズの為を思って身を引いたんだな?」
ヨシノリは目を閉じて頷くと、
「傷つける事にはなってしまっただろうが、あいつの好きにさせる為にな…、少々キツめに突き放したよ」
と、少しばかり辛そうに呟いた。
それからしばし、二人は言葉もなく、それぞれ物思いに耽るように、じっと互いの手元の湯飲みを見つめた。
「…迷惑、だったか?お前にカズを任せた事…」
ヨシノリの呟きに、ヒロはしばし黙考してから、ゆっくりと、首を横に振った。
「悪くない。ちょっと前までは考えもしなかった生活だし、こんな関係になるなんて予想した事も無かったが…。悪くない…。
今は腹の底からそう思っている…」
「…そうか…」
ヒロの言葉を聞くと、コリー犬は少し寂しそうに、そして少しほっとしたように、微かな笑みを浮かべた。
「返送も受け取り拒否もできない…、全く、とんだ押し売りもあったもんだ…」
冗談交じりに口の端を吊り上げて笑ったヒロに、
「でも、まんざらでも無いんだろう?」
コリー犬は、彼の元恋人と良く似た、少年のような悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「ただいま〜」
「おかえり」
買い物から戻ったカズは、テーブルの上の二つの湯飲みに気付き、自分に背を向けてテレビを眺めているヒロを見つめた。
「お客さんでも来たの?」
「ああ」
「珍しいね?誰が来てたの?」
興味深そうなカズの問いに、ヒロは背を向けたままニヤリと笑った。
「押し売りが…、アフターサービスにな…」
「へ?」
恋人の言葉の意味が判らず、カズは細い首を傾げて、不思議そうな表情を浮かべた。