おまけ
小高い丘の上の墓地で、屈んだヒロは分厚い手を合わせて目を閉じる。
つけたばかりの線香の煙が漂う墓は、跡取りも絶えたのにピカピカに磨かれていた。
(約束を守ってくれてるんだなぁ…)
顔が映りこむほどピカピカな御影石の前で、しばし合掌していたヒロは、その清潔さの理由を察していた。カズの遠い本家
筋にあたる青年が、約束を守ってマメに掃除してくれているのだろうと。
(こっちに住むんだから、挨拶はしておかないとなぁ)
星陵ヶ丘市。
真ん中を川が通って市街地が二分化されたこの街は、カズが両親と共に眠る故郷。
以前一度、カズと一緒にここに来た。その時は、まさかこんな形で自分がこの街に住む事になるとは思いもしなかったが…。
春風は思いのほか暖かかった。持て余し気味の贅肉と、備えが無駄になったダウンジャケットでモコモコ丸くなった虎は、
立ち上がって墓を見下ろし、優しい笑みを浮かべている。
「これからは、私も頻繁に掃除に来られるからなぁ」
供える花を考えなければと、これからの来訪に思いを馳せて、「じゃあ、またな」と挨拶するように軽く手を上げ、踵を返
して歩き出す。
何処に何があるか憶えなければと、頭の中に地図を浮かべながら。
「早速、軽く迷ったなぁ…」
ポリポリと頬を掻き、ヒロは街の中央を流れる川に出て、橋の上に立った。
墓地を降りてから道を間違えたようで、迷って困ってとりあえず川辺まで来てみたのだが、幸いにも見覚えのある橋を見つ
ける事ができた。
ここもカズと一緒に訪れた場所。時は流れても、あの時と川の流れは変わらないように見える。
川面を駆けてくる風は心地良い。艇出しての練習を解禁されたばかりのボート部が、スイスイと気持ち良さそうに川面を滑っ
ている。
ここを基準にすれば位置関係が判るなぁと、ヒロは左右の岸を見遣り…ふと目を止めた。
かなり遠い位置。土手の斜面に座り込んでいる者があった。
距離はあるのだがそれでも目立つ、大柄な白い巨漢。ヒロと同じく備えた厚着が無駄になったのか、ジャンバーを脱いで傍
らに置き、トレーナーの腕をまくっていた。
行き交うボートを興味深そうに眺めている白い大きな犬は、時々手を振ってみては、振り返されて喜んでいる。
「ああ…、確かに珍しい。見ていて飽きないモンだからなぁ…」
目を細めて笑ったヒロは、歩き出しかけて、それからそちらが逆方向だと気付いて、苦笑いしながら引き返した。
橋から引き返してきてしばし歩いた後、ヒロは立派な建物の前で足を止めた。星陵の生徒達が住む学生寮の一つ、男子が暮
らす寮である。
カズから聞いた話によれば、この街にはリゾート開発が失敗した際に残されたホテルがいくつもあるそうで、この寮もそれ
を買い取って改築した物らしい。設備もかなり立派で、学校が人気である理由の一つにもなっている。なお、職員寮は無いの
で、ヒロは安アパートを借りている。
(男子寮…。アトラもここに入るのかぁ)
あと数日したら移って来る予定の親戚の子の顔を思い浮かべる。
学生の時分に世話になった親戚の家の子供で、自分達兄弟を兄のように慕ってくれている。
自分の赴任先とアトラの進学先が一致した偶然に、双方親まで含めて驚いたものである。
親類だからといって、変に親しく振舞ってしまわないように気をつけなければ…、と苦笑いして、体の向きを変えて歩き出
しかけたヒロは…。
「む…?」
歩いて来ていた学生とバッタリ正対する。
長ランにボンタン、一昔前の不良のような改造学生服だが、これは星陵の応援団が身に付ける正式な「団服」である。
応援団員らしい学生は、焦げ茶色の大柄な牛だった。ガッシリした逞しい体つきで、いかにも力が強そうな牛は威圧感たっ
ぷり。ヒロを不審人物と疑ったのか、ガタイがいい牛は低く声を漏らしたきりじっと人相を確認していたが…、
「…失礼ですが…、春から着任なさる先生で?」
ふと、思い出したように問いの言葉を発する。
「ああ。寅大、四月から化学教諭として教えさせて貰う事になるなぁ」
不審者と思われたかもしれないと察し、自己紹介したヒロに、牛は「そうでしたか!」と明るい大声を発して破顔する。
「いや、ふと考えてみれば校長がおっしゃっていた特徴に近いと…。失礼しました。ワシは潮芯一(うしおしんいち)。今年
度から二年になる寮生です!ご指導、よろしくお願い致します!」
背筋を伸ばしてキビキビと一礼した牛に、「ああ、よろしくなぁ」と緩んだ笑みで応じた虎は、親戚の子についてもよろし
くと言おうとして、すんでのところで飲み込んだ。
(おっと、いかんいかん…)
そしてふと気になり、訊ねてみる。
「校長が言っていた「特徴」というのは…」
「ああ!「丸い」とただ一言おっしゃいましたので、何の事かと思っとったんですが…。いやぁ、確かに丸いですな!」
言いえて妙、と納得して気分がいいのか、カラカラと笑う牛。
声が大きく礼儀正しく正直だが、残念なことに空気が読めない…。つられて苦笑いするヒロは、大牛にそんな第一印象を抱
いた。
歩いている内に腹が減っていた事に、しばらく気付かなかった。
目にする景色に注意が向いて、カズが歩いたかもしれない道に想いを馳せて、昼も回ってかなり経ってからついに、腹の虫
がグゥ~っと鳴いて飯を催促した。
気が付いたら途端に切ない空腹感に襲われたヒロは、行く手に丁度、鰻屋の看板を見つける。
かつてカズと歩いたルートだった事もあって、期せずしてあの旅行で入った老舗の暖簾を潜る事になってしまった。
「ごめんくださぁい」
戸を開けたヒロは、一瞬ダメかな?と思った。昼時という事もあって店内は客で溢れ、席が一つも空いていない。
「あ~…、また来ます」
すごすごとバックしかけた虎を、しかし河馬の亭主が「ああ!大丈夫だよお客さん!すぐ席あくから!」と呼び止める。見
ればカウンター端の二人連れが、河馬の婦人へカウンター越しに代金を支払っているところだった。
出る客と入れ替わりにカウンター端につき、手早くテーブルを拭ってお絞りをくれた婦人に礼を言ったヒロは、すぐさま鰻
重を注文する。店内に満ちる香ばしい鰻の匂いを嗅いでは、他のメニューを頼む気になれなかった。
記憶にあるままの店の内装と、思い出の中そのままの姿の河馬夫妻。懐かしがって首を巡らせている虎へ…、
「お客さん。この辺じゃ見ない顔だけど、前にも来てくれた事あったかねぇ?何となく見覚えがあるんだけどもぉ~…。う~
ん…」
ヒロよりさらに大柄な、体型は良く似て真ん丸い河馬亭主が、鰻を焼く手を休めないまま気さくに声を掛けてきた。巨体に
太くて低い声なのだが、やや金沢訛りがあるイントネーションが少し可愛らしい。
「ええ。前に一度、旅行で来た事がありました」
河馬亭主が「ああやっぱり!」と大口を開けて気の良い笑顔を見せた。
「ちょいと雰囲気が違う気がして、違うかなぁ~ってね!まだボケてねぇようだ、わっはっはっ!」
「凄いモンですねぇ、一回来ただけなんですが…」
豪快に笑いながらも河馬の亭主は絶好の加減で鰻を火から離し、婦人が構えた皿へスッと移している。ヒロはその手際に加
え、よく憶えている物だと感心していた。
(雰囲気が違うかぁ…。一度来ただけなんだが、そこまで憶えていられるんだなぁ)
客商売とはそういう物なのかと、出された番茶を啜ったヒロは、
「そりゃあ憶えてるよ。確か…、ああそうそう!サクライ君と一緒に来たんだったねぇ」
河馬の亭主が続けた言葉でハッとした。
(ああ、そうだ…)
ここは、カズが暮らしていた街。
(ここには、カズを憶えてるひと達が居るんだなぁ…)
ここは、カズが育った土地。
「まだ若かったのにねぇ…。おっと」
しんみりした話はよしておこうと考えて、河馬の亭主は「お客さんはまた旅行で?」と話題を変えた。
「いやぁ、仕事の都合でこっちに越してきまして」
「へぇ!そんじゃまぁ一つ、今後ともご贔屓に!お仕事は何を?」
「教師でして。新年度から星陵高校に…」
「お!?」
河馬が妙な声を漏らして顔を上げ、虎が軽く首を傾げる。
「じゃあウチの倅の先生になるなぁ!いや、よろしく先生!」
倅?と視線を上げ、ヒロは記憶を手繰る。
そういえばそこの戸から顔を覗かせた子が居たなぁと、虎は横手を見遣った。体は大きかったがおそらく小学生程だったろ
うと思い出し、その子がもう高校生になるのかと感慨深くなる。
「今日は稽古に出てて留守だけどねぇ。重太郎(じゅうたろう)ってんだけど…ま、会えば判るよ。この辺じゃ河馬なんてウ
チしか居ねぇし」
「稽古?」
「相撲馬鹿でねぇ、あのカバの逆立ちは…」
「はぁ、相撲ですか」
「…ひょっとして先生は、相撲の経験がおありで?」
体型を見て、ひょっとしたらと思ったらしい河馬亭主に、
「生憎と、重量挙げからの中年肥りでして」
ヒロは苦笑いしつつ、ポンと太鼓腹をはたいて見せた。
絶品の鰻重に舌鼓を打ち、老舗の秘伝タレを堪能した後、河馬店主達の好意で古馴染みがやっているのだという定食屋など
の名を数軒教えられたヒロは、礼を言って店を後にした。
(中の景色も、あのひと達も、鰻の味も変わらないのになぁ…)
小学生が高校生になっている。歳を取った物だと、歩き出しながら首を縮めた。
広大な敷地に大きな校舎群が並ぶ、星陵高校。
この春から教壇に立つ私立高校をぐるりと一周した後で、ヒロは敷地裏手でこんもりした山を見上げていた。
坂道を挟んで並ぶ、蕾が膨らんできた桜並木と向き合いながら、太った虎は目を糸のように細くして柔和な笑みを浮かべる。
「もうちょっと、一緒に旅行とかすれば良かったなぁ」
ゴツゴツした桜の肌に手を添えて、下から枝葉を見上げるヒロは、やがてヒラヒラと舞い降りた一枚の葉が鼻の上に乗って
寄り目になる。
カズと旅行で来た時、一緒にここで桜の木を見た。あの時も花が咲いていない季節だった。もうすぐ開花して景色が一変す
るのだろうと考えたら、楽しみになってきた。
越してきたばかりのアパートの部屋に帰れば荷物整理の続きが待っている。家具類も買い足さなければいけない。やる事は
多いが、新たな街でスタートした新生活には張り合いがある。
生活が落ち着いた頃には花が咲くだろうか?そんな事を考えながら、ヒロはゴツゴツした桜の肌にそっと触れた。
「じゃあ、またなぁ」
桜の木々に挨拶して、ヒロは踵を返す。
立ち去る肥った虎の背に、春風にサワサワと揺れた桜並木が、枝葉を振って返事をしていた。
桜はもう、嫌いな花ではなくなっていた。
新学期が始まり、花開いたら、きっと素敵な景色になるのだろう。
かつて恋人が見せたいと言っていた光景に期待しながら、虎の教師はのっそりのっそり、変わらぬ足取りで歩いて行った。