虎狐恋花 ~ユメミザクラ~

 窓から射し込む西日が壁に四角を描く。壁に背をつけた茶箪笥の上に被るので、窓枠が描いた十字の格子は半分から折れ曲

がっていた。

 年季の入ったアパートの居間、中央に置かれた座卓にポツンとひとりついているのは、まん丸く肥え太った大柄な虎。

 休日の午後、三時も回った時刻である。日没まで時間があるようで、夕暮れがそう遠くはない半端な時間、虎は砂糖を入れ

たコーヒーをかき混ぜて一口啜ると、座卓中央の皿に八つ乗っているどらやきを一つ取り、モソリと齧る。

 つけっ放しのテレビからは、ワイドショーの司会のテンションが高い声と、レギュラーの大げさなリアクション、客席から

の歓声が零れ出てくる。

 学生達の携帯電話所持率や、高額な代金請求や出会い系被害などのネットトラブルについて組まれた特集は、よほどそれ以

外の報道や番組、新聞を見ていない限りは目新しさのない、当たり前に見聞きする事ばかり。それをぼんやり聞きながら壁時

計を見遣ったヒロは、

『でも、持ってたら緊急連絡とかできるじゃないですか?』

 最近よくテレビで見るようになった、少年アイドルグループのメンバーが述べた発言で視線を戻す。

 美形と言うほど可憐な印象は無いかわりに、目鼻立ちのすっきりした、素朴ながらもなかなか男前な少年だった。肌がやや

焼けているのはマリンスポーツに打ち込んでいるからだと、何かの番組で聞いた事がある。

『子供の緊急ってどーゆー状況やねん!』

 ツッコミを入れたのは二年ほど前に一時ネタが流行った漫才師。オーバーな声とアクションで客席の笑いを誘う。

『事故とか、急病とか、何があるか判らないじゃないですか?』

「………」

 番組内の司会者や客のリアクションから意識を外し、虎の細い目は台所の戸へ向けられた。

 あの日、そこに携帯があった。発信は間に合わなかったが、最後に頼る物としてそこにあった。

 あの日を最後に、この部屋の戸をヒロ以外が開ける事はなくなった。

 あの日を最後に、この部屋にヒロ以外が帰って来る事はなくなった。

 あの日を最後に、この部屋にあの味噌汁の香が漂う事はなくなった。

 テレビを眺めながら喋る相手が居ないのには、随分慣れた。元々独り暮らしだったのだから。

 茶菓子を摘みがてら、自分でコーヒーや茶を淹れるのも慣れた。元々そうしていたのだから。

 それでも時折、話題を振りたくなって座卓の反対側を見遣る癖は、なかなか抜けてくれない。

 引き摺っていないと言えば嘘になる。気持ちを切り替えるならば引っ越してしまうのが一番良いのだろうが、そうしてあえ

て断ち切りにかかるのも何か違うような気がする。

 この部屋を出る理由が無いから、ヒロはずっと引き摺っている。それを弱さだと感じる反面、これで良いのだろうとも思う。

 いつかは嫌でもここを去るのだろう。

 いつかは嫌でも記憶が薄れるだろう。

 絶え間なく時が漂白し続ける記憶の向こうに、かつての幸福な日々が消え、鮮明に思い出せなくなってしまうその時まで、

じっくりと時間をかけて引き摺ってゆこうと思っている。

 ピンポン…。

 来客を知らせるチャイムに耳をピクつかせ、電源ボタンが馬鹿になりつつあるリモコンを弄ってテレビを消しつつ、のっそ

りと座布団から尻を離したヒロは玄関に向かう。来客の予定があったので、今日穿いているのは膝などがツルツルになったジ

ャージでもなく、着ているのも毛玉だらけになったフリースではない。モスグリーンのポロシャツにクリーム色の綿パンと、

それなりの服装にしてあった。

「どうも」

 ドアを開けたヒロは、細い目をさらに細めて柔和に微笑んだ。

「やあ。しばらく」

 開いたドアの向こうに立っていたのは、厳つい顔にガッシリした体付きの獅子獣人。

 小麦の穂を思わせる色合いの豊かな鬣に白が僅かに混じり始めた、壮年と言える歳なのだが、背筋は伸び、体に弛みは見ら

れず、男盛りを少し過ぎていよいよ脂の乗った…そんな精力的な印象がある佇まい。

 厳めしい獅子鼻に凛々しい眼差しと、獅子らしい雄々しさが感じられる偉丈夫だが、ただ、その双眸には知的ながら力強い、

澄んだ光が灯っている。

「ご無沙汰です。海原(うなばら)先生」

 高校時代の恩師を部屋に招きいれて、ヒロはポットから急須に茶を入れる。

「面白みのない物だが…」

 持参した紙袋入りの箱を座卓に置いた獅子へ、ヒロは「これはどうも。中身は何でしょうか?」と訊ね…。

「冷凍海老シュウマイ」

「かなり面白みありますよそれは」

 耳を倒して有り難く頂戴し、まず冷蔵庫に押し込んで来る。

「レンジで暖めるだけで美味い、手間がかからない上に素晴らしいオススメの品でね。ご飯の御供から酒の相方まで勤まるよ」

「そりゃあ助かります」

「手間をかけたくない時、この手の手軽で美味い物は独り暮らしでは重宝する」

「同感です。しかし相変わらず…」

「相変わらず、ツボを押さえた物を持ってくる、と?これでも元担任だからな」

 こちらに来る用事があるので顔が見たい。

 唐突にそんな連絡があったのは三日前の事。久方ぶりの再会なのだが獅子はゆっくりできないらしく、日暮れにはもう出発

しなければならないという話だった。

「少し太ったか?」

「変わりませんよ。皆に同じ事を言われますが…」

「では皆の意見が正しいな」

「こりゃ手厳しい」

「昔からだろう?」

「その通りです」

 座卓を挟んで笑い合い、互いの近況を手短に話した後、獅子はヒロの家族について訊ねた。

「アユミも元気にやっているようだが?」

「兄貴はまぁ…、あの通りですよ。相変わらずと言えば相変わらずで、私より不摂生です」

「アレが今では大手商社の敏腕営業とは…、判らない物だよ」

「兄貴は何になると思ってたんです?」

「プロボクサーにでもなるかもしれないと思っていた」

「減量が嫌だそうで」

「兄弟だな、やっぱり」

「こりゃ手厳しい」

「昔からだろう?」

「まったくです」

 穏やかな語らいの合間に、両者はかつて教師と生徒だった頃を思い出した。



 ヒロとその兄は、恵まれた家庭環境の学生とは言えなかった。両親が亡く、兄弟揃って親戚の家に住まわせて貰っていた。

 虎の兄弟は親戚に迷惑をかけまいと勉学に打ち込む、むしろ真面目な子供達だった。同時に、必死過ぎて余裕がなく、高校

生活を楽しむどころか、周囲の生徒と馴染めていない部分もあったが。

 だが、口さがない者は何処にでもおり、まして好奇心に満ちた高校生からすれば両親の居ない兄弟など格好の噂の種。やれ

捨て子だの、やれ親が借金をこさえて逃げただの、無責任な噂が飛び交った。

 世話になっている親戚に迷惑はかけられない。そんな思いで勉学に打ち込み、アルバイトに精を出す兄弟は、そんな噂話に

耳を傾けなかった。

 そんな中でたった一度だけ、兄弟が本気でキレた事があった。

 両親がそれぞれ愛人を作って、邪魔になった子供達を親戚に預けて蒸発した…。

 その話だけは、例え冗談のつもりで口にされたとしても、兄弟にとって許せない物だった。

 当時から体格が良く、当時は無駄肉もなかった兄弟である。無反応で言い返さないのを良い事に調子に乗り続け、心無い囃

し立てで両親を侮辱した生徒達を、二対六にも関わらず瞬く間に叩きのめした。

 怒りが収まらず、足腰が立たなくなった相手の胸倉を掴んで壁に押し付け、なおも執拗に殴り続けたその時のヒロも、兄も、

完全に周囲が見えなくなっていた。

 正気に返ったのは、後ろから襟首を掴まれて、床へ仰向けにひっくり返された後だった。

 見上げたそこに立っていた。獅子の教師が泰然と。

 厳しい光を双眸に湛え、虎の兄弟と、苦痛を訴え泣きじゃくる生徒達を睥睨し、獅子が発した言葉は…。

「話を聞こう。殴った側も、殴られた側も、この場でひとりずつ、包み隠さず全部話しなさい」

 怪我人を保健室に…という事もなかった。口裏合わせを許さず現場でそのまま実況検分に入り、事情を理解するなり、獅子

は虎兄弟を睨んだ。

「やり過ぎだ」

 冷静さが戻り、自分達もそう思うので反論できなかった兄弟に…。

「…ただし、先生も同じ事をしたかもしれないがね」

 厳めしい顔の中で、鋭い双眸にほんの少しだけ穏やかな光を潜ませて、獅子はそう付け加えた。

 結局、暴力行為という立派な校則違反により、虎兄弟は停学処分と、アルバイト許可取り消しの処分を受けた。

 怪我を負わされた方の生徒側では、親が多少ゴネたものの、獅子が事情を全て語って虎兄弟を弁護した。負傷した生徒達自

身も、虎兄弟を怒らせるだけの一線を越えてしまったという事実と、その重大さを痛みをもって理解したので、過ちを認めて

兄弟に対して謝罪した。

 事が丸く収まって、停学があけて登校した兄弟に、獅子はスポーツを勧めた。

 アルバイトもできなくなったので時間も余るだろうし、何より高校生活を楽しむには友人達が居た方がいい、と。

 最初は戸惑った虎兄弟達は、しかし獅子が自分達の保護者である親戚夫妻にも提案し、部活の方にも口利きして外堀を埋め

ていたので、なし崩しにそれぞれ部活に所属する事になった。

 それから一ヶ月もしない内に、兄弟には友人が何人もできて、誹謗中傷の噂も流れなくなった。

 かつて被害者加害者の関係となった生徒達とも、わだかまりを時間で溶かしながら友人付き合いするようになった。

 その影に獅子の働きかけがあった事を、兄弟は何となく察知した。

 獅子の勧めでウェイトリフティングに打ち込むようになったヒロは、いつの日だったか、トレーニングジム見学の帰りにふ

たりだけになり、ラーメンを驕って貰う機会があった。

「先生。何であの時、俺達だけ責めなかったんだ?」

 カウンターに並んで座り、猫舌の獅子が執拗に吹いて冷ましている様を横目で見ながらヒロは訊ねた。

 その後の獅子の奔走などを考えれば、事情はともかく「暴力を振るった側」として校則に照らし合わせた処分を兄弟に科す

るだけの方が、面倒は少なかっただろう。

 そんな疑問を口にしたヒロに対して、獅子は、何だそんな事か、と言いたげな顔で応じた。

「生徒に正しい事を教えるのが教師だろう?教師が正しくない事をしていたら示しがつかないってもんじゃあないかね?」

「そんな理由だけで、ですか?」

「ん?他に理由が要るのかね?」

「…いや…、別に必要ってわけじゃないですけど…」

 ムスッと仏頂面で味噌ラーメンを啜りながら、しかしヒロの尾はどこか嬉しそうに揺れていた。

 テレビアニメの悪役のような厳つい顔と低くて太い声で、言うことやる事いつでも公明正大。

 そんな獅子が注ぐ情愛を受けながら勉学に勤しんだヒロが、憧れから教職を志すようになるまで、そう時間はかからなかっ

た。



「充実しているかね?」

 昔話をひとしきり終えて急須を傾けるヒロに、獅子は問う。

「ええ。お陰様で」

「それは良かった」

 淹れ直された熱い茶を啜りこみ、一息ついた後で、

「ヒロシ。私と同じ学校で、教諭をやってみる気は無いか?」

 コーヒーカップに伸びかけた虎の手が、途中で止まった。

「…急ですね?」

 やがて訝しげに耳を倒したヒロの後ろで、縞々の尾が疑問符をなぞるようにくねる。

「切り出すのは…そうかもしれないな。しかし前々から思っていた事でもある」

「どれぐらい前からです?」

「お前が教鞭をとった日から思っていたよ。同じ学び舎で働きぶりを見てみたいとね」

「それは…、緊張して手につかなくなりそうだ」

 苦笑いしてコーヒーを啜ったヒロに、

「何も指導の方針であれこれ口を出そうというつもりじゃあないとも」

 と応じた獅子も茶を啜る。

「理事長が亡くなり、奥様が理事を継いだ。数年掛けてだいぶ落ち着いたが…、前理事長の手腕で囲っていた教師も多かった。

彼らが抜けた事で生じていた穴が、未だにちょくちょく見つかる有様でね」

「………」

「化学を受け持って貰っている教諭は、妊娠を期に今年度限りで退職する事になっているが…、後釜はまだ「決めていない」」

 黙りこんだヒロに、かつての恩師は言う。

「近年、スポーツ系の部活動の活躍もあって進学志望者は増える一方。我々には長く頼れる戦力が必要だ」

「………」

 口を噤んだままの虎の目が、台所の戸に向かう。

「お前の助けがあれば心強い」

「………」

 ヒロの目に瞼が下りる。じっと真っ直ぐ見つめてくる恩師と目を合わせないまま、瞑目するに至ったヒロは…、

「…少し、考えさせて貰えますか?」

 恩師の頼みに、即答しかねた。





 午後九時。

 期待を持たせ、しかし色よい返事ができないまま恩師を見送り、カップ麺とカップ饂飩とレトルトのチャーハンで夕食を済

ませたヒロは、バスルームにポツンと座り込んでいた。

 胡坐をかき、頭を垂れて出しっぱなしのシャワーを被りながら、踝をじっと見つめるヒロの顔は、かつての仏頂面に戻って

いる。

「星陵ヶ丘高校…」

 唸るように声を漏らす。

 腹には夕食時に空けた缶ビールが二本分収まっている。普段の夕食時は一本だけにしているのだが、今日は風呂上りに飲む

分にまで手をつけてしまっていた。

「…アイツの母校、か…」

 アルコールが多めに入った理由はそれだった。

 恩師の頼み…。かつての自分ならば、一も二も無く首を縦に振っていただろう。

 カズが元気だった頃に持ちかけられていたならば、応じたいと心情を吐露して相談しただろう。

 だが今は、かつてと同じく独り身で、相談が必要な相手も居なくて、身軽になっているはずなのに…。

「………」

 両手を揃えて受け皿にし、シャワーを溜めてバシャッと顔に被る。

 ソープを手に取り、雑にガシガシと頭を掻き洗い、湯で流されるままに泡を落とす。

 コックを捻ってシャワーを止めて、浴槽に肥えた体を沈めて、溢れた湯が排水溝に押しかけてゆく音を聞きながら、濡れそ

ぼった顔を天井の換気扇に向ける。

「俺は…、どうするべきだ…?」

 自問するヒロの鼻を、ヒチョン…と、落ちてきた水滴が打った。



 ざっぷりと一っ風呂浴びたヒロは、入浴前まで着ていた衣類に袖を通して居間に戻ると、そのまま台所へ向かって冷蔵庫に

手をかけた。

 ふと、恩師から貰ったシュウマイの事を思い出したが、手をつける気になれず、職場の新年会で余り物として貰ってきてい

300mlの日本酒の瓶を摘み、パックされた安物のロースハムをお盆に載せて引き返す。飲み過ぎそうだと自分でも思うのだ

が、欲求に抗えなかった。

 座卓につき、瓶の封を切り、茶箪笥から出した自分用のぐい飲みに注ぐ。ペアで揃えた色違いのぐい飲みは、片方しか使わ

れなくなって久しい。

 並々と注ぎ、一口に煽って一杯目を飲み下す。美味い酒のはずだったが、味がわからなかった。

 ハムを摘んで口に放り込み、もう一杯飲み下す。喉と口内がアルコールで刺激される感覚すら何処か希薄だった。

「………ふぅ…」

 ため息をついたヒロは、微苦笑を浮かべて瓶を掴むと、直接口をつけてラッパ飲みした。

 二度喉が鳴り、口を離して息をするなり、腹の中から温まる。アルコールは作用しているのに、気味が悪いほど飲んでいる

気がしない。

「自分で思っていたほど、タフじゃあないって事かなぁ…」

 巡らせた視界に入るのは、慣れ親しみ、思い出が詰まった、部屋の風景と家財道具。

 いつかは嫌でもここを去るのだろう。

 そう、これまでもずっと思っていた。

 しばし室内を眺めてから酒瓶を煽り、またぼんやりと部屋を見回してからラッパ飲みしようとして、ヒロは瓶が空になった

事に気付く。

 のそっと腰を上げて冷蔵庫に向かいながら、これは悪い飲み方だぞ、と頭では判っているのに、どうにも止められない。

 今度は流し台の下の戸を開け、ヨシノリから分けて貰った清酒の四合瓶を掴むと、座卓に戻って封をあけるなりラッパ飲み

で煽った。

(自棄酒だなぁ、これじゃあ…)

 プハッ…と瓶から口を離して、耳を倒す虎。丹精込めて酒を造った酒蔵にも、酒を寄越したヨシノリにも、酒そのものにも

悪いと感じつつ、こんな飲み方になってしまっている。

 ハムをつまみ、口直しをするが、やはり味がよく判らない。美味い酒を美味く飲めない申し訳なさが胸を突く。

 ふう…、と息をついた虎は、ごろりと仰向けに引っくり返った。

 生活の場として愛着を持っていた部屋は、今となってはもうこれ以上増える事の無い、彼との大切な思い出が詰まった場所

にもなっていた。

 目を閉じて思い返せば、この部屋で彼と過ごした時間が蘇る。

 他愛の無い話ばかりしていた。

 何でもない話ばかりしていた。 

 冗談を飛ばし、からかい合い、時にしんみり語り合って…。

 ありふれたその時間が、かけがえのない時間だと、後になってようやく悟った時にはもう遅く、残された時間は僅かになっ

ていた。

 後悔が無いと言えば嘘になる。寂しくないと言えば嘘になる。引き摺っていないと言えば嘘になる。引き摺り続けたくない

と言えば嘘になる。

 もっと一緒に居たかった。

 ずっと一緒に居たかった。

 そんな気持ちは、咲き時を逃した蕾のように、枯れも落ちもしないまま…。だから自分はこの部屋へ、桜の残り香を求めて

いるのだろうとも思う。

 いつの間にかまどろんで眠りかけ、鼻の奥と喉の中間で息が引っかかる音を聞きつつ、ヒロは繰り返すその音に誘われて…。



 スンッ…と、鼻が鳴る。嗅いだ匂いを確かめるように。

「あ~、ほらダメでしょ?おヘソ出して寝ちゃあ」

 プニョンと脇腹をつつかれるこそばゆい感触に、馴染んだ声が耳をくすぐった。

 目が開く。驚きをもって大きく。

 首を起こしたヒロの瞳に、大の字になった自分の脇に屈み込んでいる、狐の青年の姿が映り込んだ。

 仰向けになって伸びをした際に捲れ返っていた肌着とポロシャツの裾を引っ張り下ろしてやって、狐は笑う。

「風邪引くよ?生徒達にうつったら大変じゃない」

 身を起こし、後ろ手をついて上体を支え、ヒロはきょとんと狐を見つめた。

「…カズ?」

「何でビックリしてるの?あ。もう酔ってる?」

 ムニュッと頬をつままれて、狐につままれたような顔をしている虎は…。

「あ~…、何でだろうなぁ?まだそんなに酔ってないと思うんだが…」

 軽く首を傾げて不思議がった。そんなヒロを尻目に、豊かな尾をフサフサと揺らして茶箪笥に向かった狐は、自分のぐい飲

みを手にして戻ると、虎の隣に腰を下ろす。

「ただいま」

 ぐい飲みの底でトンと卓を鳴らし、酌を催促したカズがニンマリ笑う。

「ああ、おかえり」

 応じて微笑み返し、ヒロは四合瓶を持ち上げた。

「おっとっとっと…」

「よよいのよい…」

 合の手を入れて酒を並々注いだら、今度はカズが瓶を取り、ぐい飲みを取ったヒロに酌をする。

 おそろいのぐい飲みを軽くぶつけて、揃ってくいっと酒を煽り、一緒に『プハーッ!』と声を漏らす。

「おいおい、そういうのは「おっさんくさい」んじゃあなかったのかぁ?」

「ヒロに合わせてあげてるんですよ~だ!何せ永遠の十五歳ですから!」

「いいなぁ若々しくて。しかし十五じゃ飲酒はできないなぁ」

 ぐい飲みをひょいっと取り上げられ、「あーっ!」と声を上げるカズ。

 軽くからかってすぐに返したヒロに、しなだれかかるように体重を預けて寄り添って、ん…、とカズがマズルを突き出す。

 耳を寝かせて照れているように微苦笑したヒロは、そっと口を寄せてキスをした。

「…とりあえず」

 すぐに唇を離したヒロは、細い目を片手に向ける。

「零しちゃいけない」

「うん、飲もうね」

 クイッと揃って酒盃を煽り、もう一度『プハーッ!』と声を揃えて、タタンと同時に卓へ置くと、ふたりは顔を見合わせて

笑い合った。

「癖になったんじゃないのかぁ?」

「感染元は間違いなくヒロだねぇ」

 細腕を虎の首に回し、狐は二度目の口付けを交わす。

 迎え入れて顔を傾け、互いのマズルを咥え合うように深いキスで応じるヒロは、絡んでくる舌に懐かしさを憶えて少し戸惑っ

たが、微かな違和感はすぐに、頭の芯が痺れるような快感に取って代わられる。

 先ほど裾を下ろしたカズの手が、ポロシャツと肌着を捲って下から入り、腹の曲面を擦りながら胸元に至ると、脂肪が乗っ

た垂れ気味の乳房を掴む。軽く力をかけるだけで柔らかな贅肉に指が沈み込んだ。 

 ヒロの厚い手が狐のくびれた脇腹にかかり、そっと上下に撫で擦る。腰骨からあばらまでアーチを描く締まった胴は、衣服

の上からでもその可憐な細さがはっきり判るほど。

 互いの吐息を飲み合うような深い口付けを交わしたまま、両者の手は相手の体を愛撫する。

 カズの手はヒロの腰に下がり、腹を締め付けているベルトを解いてズボンを少し下げて楽にしてやる。段がついた腹肉の下

までズボンが降りると、開放された下腹部がボヨンとせり出した。

 その土手肉の下に手を添えて弾ませるように揺すると、虎が恥かしげに息を吹き、狐は悪戯っ子の顔で笑う。

 ヒロの太い腕はカズの細い腰に回り、胡坐をかいた上に抱き寄せつつ、尻尾の付け根を指で挟みこんで圧迫する。少し強め

に尾の付け根を押さえられ、感じた狐が鼻の奥をンッ…と鳴らす。

 ぴったり身を寄せて抱き合う両者は、しばし酒を忘れて、愛する相手を愛撫し続けたが…。

「…ヒロ」

「うん…」

 口を外してカズが囁く。

「お布団、いこっか?」

「………」

 いや今日はいい。と言いかけたヒロだったが、思い直したようにかぶりを振ると、カズの細い体を軽々と抱き上げた。

「ニシシッ!お姫様抱っこだぁ~!」

 はしゃぐカズをしっかり抱いて立ち上がり、その額に軽くキスをしてから寝室に向かって歩き出したヒロは、

「あ」

 小さな声を漏らして立ち止まる。

「どうしたの?」

 問いかけたカズに、ヒロは…。

「攣りそう…かも…」

「え?何処を?」

「…右脇腹と背中の中間斜め後ろ45度辺り…」

「具体的でよろしい。…じゃあまず背中マッサージかな?」

 ヒロの軽く引き攣った顔を見ながら、カズはニシシッと笑った。



 ペッタリ潰れた布団の上で、細い肢体があられもなく足を開く。

 仰向けになったヒロは、自分の体を跨いで立つ狐のなまめかしく細い肢体のラインと、対照的に豊かな被毛でボリュームが

ある尾の、鮮烈なコントラストにバランスの美を見い出す。

 逆にカズから見下ろす大の字のヒロは、虎にあるまじき無防備な姿。贅肉で山になった腹は肥満しているせいで白い部分が

広く、ヘソの窪みが作る陰影がアクセントになっていた。

 位置を確かめて腰を沈めていったカズは、ヒロの腰に跨る寸前で動きを止め、「…んっ…!」と小さく声を漏らす。キュッ

と口を結んだヒロは、自分のモノが根元まで咥え込まれてゆく感触を味わい、次いで腰に触れたカズの尻から重みを感じ取る。

 奥深くで繋がって、熱い吐息を一緒に零した両者の濡れた視線が熱っぽく交わった。

 繋がったまま体を前に倒したカズが、覆い被さるようにヒロと口付けする。首を少し起こしてこれに応じた虎は、呼気と舌

を狐と絡める。

 湿った音がヒチャヒチャと淫靡に響く舌のまさぐりあいは、かなり長く続いた。

 カズの細い背に手を回して、ヒロは舌で探るのと同じく丹念に、フカフカした毛の下でキュッと締まったその感触を確かめ

る。かつて確かにこの手の中にあった、懐かしい何かを感じながら。

 狐の手は虎の太腿から脇腹まで、所々でボヨンと肉が張り出したラインを撫で擦る。腋の下にできる窪みが曖昧なほど肉が

厚く付いたむさくるしい体を、いとおしげに優しく。

 しばしの愛撫の後に、

「動くよ?」

 カズは断りを入れてから体を起こして、ヒロのテプンとした腹に手をつく。

「ん…!」

 目を閉じて歯を食い縛ったヒロが、鼻の奥から声を漏らす。

 狐がリズミカルに腰を揺すり、動きに連動して豊かな尾がフサフサと、実った稲穂が風を受けたように揺れる。

 上の狐の動きに合わせ、下になった虎の緩んだ胸が、腹が、たぷんたぷんと波打って、息遣いにまでその揺れが表れる。

「可愛い顔だよ、ヒロ…」

 クスクスと笑うカズは上気した顔で息を弾ませている。股間では形の良い陰茎が反り返り、先端から透明な滴を零していた。

「んっ…!んんぅっ…」

 乗っているカズの体重を受けて陰茎回りの贅肉が押し退けられ、根元まで飲まれた肉棒に加えられる刺激で、堪える表情の

ヒロが時折喉を鳴らす。

 いつしか、カズの両手とヒロの両手が上下から伸びて、指を絡ませてしっかりと噛み合っていた。

「カズ…!そ、そろそろ…!出そぉ…だぁ…!」

 ハカハカと、苦しくなって開けた口から息を漏らして喘ぐヒロ。

「私も…、イキそ…!」

 同じく半開きにした口から熱っぽい声を漏らすカズ。

 間をおかず、狐が背を丸めてビクンビクンと身を震わせた。その肉棒の先から、ダラダラと止め処なく体液が溢れ出す。

「んぁ…!あ…!あっ…!」

 ぐっと首を縮めたヒロが、腹を膨らませて力む。腰を持ち上げるように尻を布団から少し浮かせ、繋がったカズの中へと精

液を迸らせて。

 同時に達したふたりは息を止め、押し寄せる恍惚を受け止め、頭が空白になり思考を止め、一瞬を経て脱力に至る。

 クタンと脱力したカズは倒れ込むようにかぶさって、その背に腕を回す格好でヒロが抱き止めて、ふたりは折り重なって互

いの温もりと心地良い気だるさを噛み締める。

「何だか…、あ~…」

 久しぶりだと言おうとして、どうして久しぶりなのだろうかと、ヒロは視線を上に向けて不思議がる。

 しばしぼんやりした後で、「まだ元気ある?」とカズが耳元に囁き、ヒロはくすぐったそうに耳をピクつかせた。

「いやぁ…、もう満足…」

「そう?居間にお酒を出しっぱなしだから、飲み直そうかと思ったんだけど…」

 ああそうだった、と言われて気付いたヒロは、「珍しいなぁ?」と視線を下げ、豊満な胸に指先でクルクルと円を描いてい

る狐を見遣る。

「飲み直したいなんて言いだすのは」

「いいじゃない?たまには、ね!」

 ウインクする狐に、虎は求められていた柔らかな微笑を返して…、

「まぁ、どうせ風呂にも入り直さなきゃあいけないしなぁ」

 と、愛しい恋人の体を、キュッと軽く抱き締めてやった。



「ふ~ん。恩師からお呼びがかかるなんて、頼られてるねぇ」

「どうかなぁ。猫の手も借りたい、というところかもしれないぞ?」

「それにしたって、誰でも良いならとっくに枠埋め終わってるでしょ?」

 しばしの晩酌の後、最後の一杯を飲み干してぐい飲みを卓に戻したヒロは、壁に背を預けて「う~ん…」と唸る。

「私に気を使ってる?」

「そりゃあ…、う~ん…」

 体を預けて寄りかかって来たカズの問いに、ヒロは少し考えてから「多少はあるかなぁ」と、正直に答えた。

「私には住む場所なんて関係ないんだよ?」

「そうかぁ?…そうかぁ…」

 何だか引っ掛かりがあって、あまり納得していかったが、それでもヒロは顎を引き、カズに応じるようにその肩を抱く。狐

特有のフサフサした豊かな被毛は、高品質なファーのように肌触りがいい。

「私の母校の先生か…。自分の恋人が通ってた学校の先生になるなんて、そうそうできる経験じゃないね」

「それはそうだろうなぁ…」

 ヒロのタプついた顎下に華奢なカズの手が入り、曲面をなぞるように軽く撫で擦る。

「あの学校から私みたいに巣立つ子供達を、ヒロが見送るんだ。師として、羽ばたく子供達を見送ってあげるんだ。ちゃんと、

私を見送ってくれたように、優しい笑顔でね…」

「………!」

 虎の目が大きく見開かれた。

「「見送る」…」

 カズはその表情を間近で見ながら、慈愛に満ちた微笑を浮かべて微かに頷く。

「そうか…。ああ…、そうかぁ…」

 この時ヒロは、カズと語らいながらずっと抱いていた、微かな違和感の正体に気が付いた。

 それと同時に、不意に悟ってもいた。自分が「何者」なのかという事を。

「私はこれまでも…、ずっと…。ああ…、そうだったんだなぁ…」

 巣立ち、旅立ち、独り立ちする者達が在る以上、この世の何処にでも必然的に生じる存在…。

 ヒロは理解した。自分は「そういう者」だったのだと。

 思えばこれまでもそうだった。

 そしてこれからもそうなのだろう。

「私はきっと、そうなんだなぁ…」

 手塩にかけて育て、愛情込めて面倒を見て、立派になった生徒を送り出す者。

 旅立つ者の傍らに寄り添い、自らはその場に残り続け、ただただ送り出す者。

 巣立つ小鳥を散りゆく花を、繰り返し繰り返し、何度も何度も、送り出す者。

 それはどこまでも誉れある存在であり、同時にどうしようもなく哀しい存在。

 自分はきっと、「見送る者」なのだとヒロは悟った。

「…うん…」

 自分を見つめるカズの視線を感じながら、ヒロは真っ直ぐ前を向いて頷いた。

 眠そうに細い温和な双眸で、ずっとずっと遠くを、未だ来ない先を、穏やかに望んで。

「大丈夫だ」

 顎に触れる狐の細い指を、薄い手を、虎の分厚い手が、太い指が、優しく包み取る。

「私は、大丈夫だ」

 横を向き、笑いかけたヒロに、カズは笑顔で頷いた。

「けどね、何も独りで見送らなきゃいけないなんて事は無いんだよ?」

「うん?」

 鼻先をちょんとつつかれた虎は、狐の指を見て寄り目になる。

「ちゃ~んと、「おかえり」を言ってくれるひと、探さなきゃダメだよ?人生は長いんだからさ!」



 瞼を開けると、煌々と灯りが灯った居間の電灯が目に飛び込んできた。

 眩しさに顔を顰め、細い目をなお細めて、のっそりと身を起こした肥満体の虎は、壁に背を預けてあくびをする。

 ぼんやり壁を眺めた後、ふと視線だけ横へ動かしたが、勿論そこには誰も居ない。

 目を前へ戻すと、卓の上にある物が気になった。

 空になった300ml瓶と四合瓶。ハムが消えた空っぽの皿。底へ僅かに、湿らせる程度の酒を残したぐい飲みと、並んで置か

れた乾いたぐい飲み…。

「………」

 目を見開き、ソレをじっと見つめるヒロ。

 センチになる程度の動揺はあった。おそらく、酔っ払った自分が出してきたのだろう。

 そう思うのだが、ほんのちょっぴりこうも思う。

 悪戯好きなアイツなら、尻を叩きに来たついでにこのぐらいやりそうだ、と。

(仕方がないヤツだ。いや、仕方がないのは私の方か…)

 手を伸ばし、カズが使っていたぐい飲みを取る。

 いとおしげに目を細め、大きな両手で包むように持ち、洗ったきり永らく使われていない乾いた肌を撫で擦る。

 時計を見れば寅の刻。夜明けにはまだ早く、しかしそう遠くもない。

「…ヘソを出して寝ちゃあダメ、だったな…」

 寝返りを打っている間にポロシャツが捲れたのだろう、ベロンと出ている白い腹を見下ろしたヒロは、苦笑いしながら裾を

降ろす。

 彼が望んだように振舞う事を心掛けても、彼が喜ぶ顔を見る事は叶わない。それでも、それが彼の願いだから、自分はそう

して生きてゆこうと心に決めた。

 約束の全てはなかなか果たせないけれど。見晴らしが良くなってしまった隣は時々気になるけれど。それでも、叶えながら

生きてゆくのだと自分に誓った。

 その想いは、早咲きで満開になった桜を見取ったあの日から変わらない。

 彼はもうここには居ない。

 部屋を見回して顎を引く。

 彼は今この中に居るから。

 胸に手を当て目を閉じる。

 理由という名の風が吹き込んだ。ここに留まる理由と入れ替わるように。

「カズ…。お前が過ごした高校は、きっと素晴らしい所なんだろうなぁ…」

 薄く目を開けて虎は笑う。穏やかに、柔らかく、優しく…、彼が望んだ通りに、春風のような暖かな笑顔で…。

「…さて、もう一眠りするかなぁ…」

 時計を再確認し、コリーとの約束の時間を思い出して、ヒロはのっそりと立ち上がる。

 瓶を片付け、皿を洗い、改めて寝る虎が後にした台所は、居間に先駆けて灯りを落とされる。

 水切り籠の上には、数年ぶりにぐい飲みが二つ並んでいた。

 

 ヒロが恩師へ返事をしたのは、その日の昼の事だった。

 その答えは…。





「う~ん…。これは「私の番」、という事かぁ…。皆やってきた事だろうしなぁ」

 教え子達の巣立ちの季節に重なり、慌しく部屋を片付ける事になった自分を、少し滑稽に感じたヒロは小さく笑った。

 掃除機をかけ終えて見回した部屋は、荷物が無くなったら妙に広かった。

 引越し前日。荷物類は既にコータやヨシノリなどの友人達に手伝って貰い、梱包も発送も終わっている。

 最低限の物を残して処分するつもりだったのだが、予想していたより残すべき荷物は多かった。受け持った生徒達の卒業ア

ルバムや文集など、箱につめたら底が抜けるほどの重量になったので、重さを考えて小分けにした。

 家財道具はその大半をヨシノリやコータ、職場の同僚に譲った。正直なところ、テレビのリモコンから食器に至るまで、カ

ズが触れた物は全て残しておきたかったのだが、そうして行くと切りがない。本当に大事な物以外は新たな住まいで買い求め

る事にした。

 残る荷物は、ヨシノリから借りたこの掃除機と、貴重品類、そしてノートパソコンを入れたバッグだけ。カズの遺品の中で

も最も大切なノートパソコンだけは、宅配せずに自分の手で持って行く。

「ああ、これも一緒に入れておこうなぁ」

 思い出したように部屋の隅へ行き、肥満の虎は「よいしょ」と一冊のノートを取り上げる。

 それは、カズが遺した僅かな品々の中にあった、彼が生前用意し、結局手をつけなかったノート。

 コータのように故郷を離れてしまう者もある。

 カズのように本名を知られず逝く者もある。

 見送られた全員が誰かの記憶に残る訳ではないのだから、せめて自分は憶えていよう。そんな想いから、ヒロは無垢のノー

トを一冊手に取っていた。

 ノートをパソコンのバッグに収めて、明日でお別れになる窓の外の見慣れた景色に目を向けた虎の顔を、春の日差しが柔ら

かく照らす。

 見送る者が書き記す、見送った者全てについて、どんな者が、どんな事をし、どう旅立ったかの記録…。

 最初はこの一冊から始まり、年々増えてゆくそれを、後にヒロの教え子の一人がこう呼んだ。

 「虎先生の年代記」、と…。

                                                                                      おまけ