私立醒山学園男子寮三号棟の春の日々
なだらかな傾斜を描く山々に抱かれた、道北ののどかな山間の街。
真上から見下ろせばほぼ中央に当たる位置には、全体がクリーム色に塗られた、巨大な建造物が聳え立っている。
街の中心部となる、駅の真正面に伸びるメインストリート。
その突き当たりに、デンと腰を据えたその建物は、五階建ての校舎である。
私立醒山学園。
近隣で最も大きいその高校は、六つの寮に囲まれている。
正面から見て、斜め前、真横、斜め後ろの左右、それぞれ正六角形の頂点に配された学生寮は、右側三棟が男子寮、左側三
棟が女子寮。各寮では、今年度は三十名から四十名の寮生が生活していた。
その内の一つ、校舎に向かって右後方に位置する建物、男子寮三号棟という名のその寮の一階では、週末から始まるゴール
デンウィークを控え、テンションの高まった生徒達が、ワイワイガヤガヤと騒々しく朝食を摂っていた。
「へ?ゴールデンウィークも寮で過ごす?」
長机が並んだ食堂で、プラスチックのスプーンを咥えたまま、ムクムクした大きな生徒が声を発した。
立ち上がれば2メーターを超えそうな、まるで小山のような体躯の、羆種の獣人である。
暖かみのある薄茶色の被毛に覆われた体は、むっちりと肥えており、横にもかなりのボリュームがあった。
眉は太く顔も大きい、山親父と形容するに相応しい風貌の、大兵肥満の蝦夷羆はしかし、今年で十八になったばかり。
身につけているのは学校指定のワイシャツに黒いズボン。この後は学ランの上を羽織っての登校となる。
名は大和直毅(やまとなおき)。三年生。この男子寮三号棟、寮生三十六名を纏める寮監を務めている。
「実家には帰らないのか?」
向かい側に座っていた二名が顎を引いて、羆の問いに同時に頷いた。
「はい。部活もありますし、オレ達の場合、帰るだけでかなり時間が…」
「あぁ、そう言えば二人とも本州の出だったなぁ」
ヤマトは思い出したように頷き、咥えたスプーンをピコピコと縦に振った。
応じたのは、羆と向き合う形で、並んでテーブルについている二名の一方。猪の少年である。
がっしりした…というよりは少々ぷっくりした体付きに、猪特有の剛毛。
身長も170は超えるのだが、幅のせいか、さして長身の印象は受けない。
大きな鼻に立派な牙、それなりにいかつい顔立ちではあるものの表情は穏やかで、落ち着いたバリトンボイスは実に優しく
響く。
他の二名とは異なり、ワイシャツのボタンをきっちり締めている猪は、今年の春に入学したばかりの寮生で、今年の誕生日
を迎えて十六歳となる。
名は飯野正行(いいのまさゆき)。柔道部所属の一年生。
「お郷は何処だったっけ?」
「宮義です。往復だけで二日潰れるから、稽古の時間が惜しい」
ヤマトの問いに、味噌汁を啜る合間に低い声でボソリと呟いたのは、イイノの隣にかけた大柄な虎。
180センチを超える、筋肉質な体付きの虎は、その不機嫌そうにも見える無表情な顔の中で、目だけを横に動かした。
「…それに、イイノがこちらに残る以上、去年のように帰るかどうかで悩む必要も無いわけで…」
小声で呟いた虎の瞳は、そのいかめしい顔つきに反し、何とも穏やかで優しい光を灯していた。
黄色地にくっきりとした黒いストライプが入った、鍛え上げられた見事な体をしているこの虎は、名を尾嶋勇哉(おじまゆ
うや)という。
今年十七歳となる二年生であり、イイノと同じく柔道部に所属している。
「オジマ先輩…。そんな事朝っぱらから…」
耳を寝せ気味にし、恥かしそうな、しかし少し嬉しそうな調子で応じるイイノ。
同郷でもあるこの二人は、中学時代から恋人同士の付き合いを続けている。いわゆる男のカップルである。
「…良いよなぁ…。二人とも…」
スプーンを口の端に咥えたまま、ため息混じりに呟いたヤマトはというと、春の訪れを待ち侘びる状況が、生まれ落ちてか
ら今日この日まで続いている独り者であった。
イイノ、オジマの関係については、もちろん周囲には秘密である。
が、同類であるヤマトにだけは、オジマを通して前年中に告げられていた。
二人が点呼後の深夜に密会を繰り返している事は、本来であれば咎めなければならない立場のヤマトではあるものの、
「ま、女とって訳じゃあないし、酒飲んだりタバコ吸ったりしてるわけでもないしな。節度さえ守れるようなら良いか…」
と、気付きながらも知らん振りをしてやっている。
「ところで、ヤマト先輩は帰られないんですか?」
問い返したイイノに、ヤマトは曖昧な半笑いを浮かべながら肩を竦めて見せた。
「帰るとさぁ、家の仕事手伝わされて、休むどころじゃねぇんだよこれが〜…」
「先輩の実家は、何をしてらっしゃるんですか?」
「魚屋だ」
本人に代わって応じたオジマは、自分の手元に向けられているヤマトの視線に気付き、プリンのカップをすっと前に出す。
「食いたいなら、どうぞ」
「お。悪い!」
心底嬉しそうに破顔し、プリンを手に取ったヤマトは、
「りょ〜かぁ〜ん!」
自分を呼ぶ一年生の声に、蓋を剥がす途中で動きを止め、首を巡らせた。
「シャツを入れた乾燥機が、止まらないんです!」
食堂に飛び込み、泣きそうな顔で訴える、パジャマ姿の人間の男子を目にし、ヤマトは「はぁ〜…」とため息をついた。
「だから洗濯、脱水なんかは夜にやっとけっていつも言ってるのにっ!何処のだよ!?」
「三階のですぅーっ!」
「またあそこか!朝なら他も空いてるだろうに、何でわざわざあの気分屋を使うんだよぉっ!?」
プリンをテーブルに置き、席を立った羆は、実に哀しそうな顔でプリンを一瞥した後、
「…オジマ…、プリン、食ってやってくれ…。気持ちだけ有り難く貰っとく…」
残念そうにそう良い残し、ドタドタと食堂から出て行った。
半分蓋が開いたプリンを無言で見つめた後、
「…部屋の冷蔵庫に、入れておいてやるか…」
オジマは微かな苦笑いを浮かべながら、そう呟いた。
「大変だよなぁヤマト先輩…。あ、オレのも先輩にあげてくれる?」
イイノが自分のプリンを掴み上げ、半分蓋が開いたプリンの隣に並べると、オジマは「ふむ」と顎を引いて頷いた。
二人きりになった途端にイイノの言葉遣いは若干変化し、オジマに対しての口調が恋人同士のそれになっている。
「俺達の時も、先代寮監は苦労していた。入寮したての一年生は毎年様々な問題を起こす。…まぁ、ここの設備は古くなって
いる物もかなり多いがな…」
言葉の後ろの方へ行くほど小声になっていたオジマを横目で見遣り、
(…たぶん、ユウヤもやったんだな…)
と、イイノは心の内で呟いた。
「…今日も絶好調だなぁ…。えぇ兄弟?」
ゴウンゴウンと低い音を立て、延々と回り続ける乾燥機を前に、何度か停止ボタンを押したヤマトは、「はぁ〜…」と、た
め息をついた。
その後ろでは、乾燥機に衣類を放り込んだまま取り出せなくなってしまった二人の寮生が、先輩の背を見守っている。
一方は先ほど食堂に駆け込んだ、髪を後ろに撫で付けた、パジャマ姿のままの中肉中背の人間の男子。
もう一方は、同じくパジャマ姿の、極めて小柄で線の細い、黒色でロングコートのフサフサしたチワワ。
ともに、今年の春に入ったばかりの一年生である。
洗濯物の量が少なかったのか、そして二人で一度ずつ使う手間を省く為なのか、動き続ける乾燥機には、二人分のシャツが
放り込まれていた。
この大型乾燥機、実はかなりの年代物で、時折、停止ボタンをいくら押しても停まらなくなるという、老人特有の頑固さを
持っている。
二、三十分も放って置けば高まり過ぎた熱を感知して勝手に止まるものの、それを知っている生徒はよほどの事が無い限り
嫌がって使用を避けていた。
そのため、このトラブルを起こし、ヤマトに助けを求めるのは、事情を知らずに使い、洗濯物が取り出せなくなった一年生
に限られる。
乾燥機が動いている間は、扉がロックされていて取り出せない。
かといって、このまま電源を落としても扉はロックされたままである。
さらに困った事に、電源を入れ直せば、そのまま何事も無かったように運転まで再開されてしまう。
「仕事熱心なのは結構なんだけどなぁ…。もうちょっと融通が利くと助かるんだが…」
ヤマトは分厚い手の平で、乾燥機の上をペシッと親しげに叩き、苦笑いした。
そしてワイシャツを脱ぎ、ズボンにタンクトップといういでたちになると、肩を回してほぐし始める。
「どぉれ…、腹ごなしといくかぁ…!」
腰を落とし、太い両腕で乾燥機を抱え込んだ羆は、ギリッと歯を食い縛ると、手をかけるべき取っ手すらない、一辺1メー
トルはある乾燥機を、両手で挟み込んだだけの状態で持ち上げた。
体格に見合った腕力で大型乾燥機をグイっと持ち上げたヤマトを、二人の一年生は感嘆の息すら漏らして見つめる。
そしてヤマトは、持ち上げられてもなお運転を続けている乾燥機を、ゆっさゆっさとゆっくり揺らし始めた。
あやすようにしばらく乾燥機を揺すっていたヤマトは、一向に運転が止まらない乾燥機に、困ったように苦笑いした。
「きょ、今日は…、なかなか…、頑固じゃねぇのぉっ…!?…これ、なら、どうだぁっ!?」
すぅっと息を吸い込み、ヤマトが少し力を込めて揺さぶり始めると、乾燥機は内部でカツンと音を立て、音を低くする。
羆が力任せに揺すった事で、ほぼ故障して泥酔している酔っ払い並に鈍感になっている震度検知器が作動し、乾燥機はよう
やく運転停止に至ったのである。
「よっこい…せぇっ…!」
ヤマトはゆっくりと乾燥機を下ろし、元の位置に戻すと、「ぶはぁーっ!」と、荒々しく息を吐き出した。
「ふぅ〜…。ほら、もう出せるからな?次からは気をつけなきゃだめだぞぉ?」
手をパンパンと打ち合わせ、乾燥機の蓋を開けて見せたヤマトに、二人の一年生は申し訳無さそうに、そして嬉しそうに、
揃って勢いよく、深々と頭を下げた。
「そう言えば、寮監ってどうやって決まるんだろう?ユウヤは知っているかい?」
まだ新しい学生服に身を包み、学校までの道を歩きながら、イイノは隣を歩む虎に訊ねた。
「前任者の推薦か、でなければ自薦。それを先生方が協議して決まる。まぁ、自薦は少ないそうだがな」
「だろうね…」
責任と雑役を背負い込む事になる寮監などを、好き好んでしようとする者など、そうそう居ないだろうと、イイノは納得し
ながら頷いた。
「だが皆無という訳ではない。内申書に書ける上に先生方の評価も得られる。そういった物が欲しければ、寮監としての苦行
を背負う事も選択肢の一つという事だ」
「なるほど…。ねぇ、ユウヤはどう?やりたいと思うかい?」
「これっぽっちも思わん。寮監の仕事に心を割くぐらいなら、稽古とお前の事を考えて過ごした方が有意義だ」
「…真顔でそういう事言わないでくれるかな…?」
周囲を見回し、他に人が居ない事を再確認すると、イイノは照れ笑いを浮かべた。
「でも、嬉しい…。有り難う」
「む…」
鼻の頭を指先で掻き、長い縞尻尾を大きく一度揺らして頷いたオジマに、イイノはさらに質問を重ねた。
「それじゃあ、ヤマト先輩も推薦だったのかい?」
「うむ。後で訊いてみろ。「前寮監に押し付けられた」と、顔を顰めるはずだ」
「ふぅん…。でも、何だかんだ言っても向いてるような気がする。先輩、面倒見良いし」
「そこを、寮監は気にしている」
ボソリと囁かれた言葉に、イイノは耳をピクンと動かした。
「どういう事だい?面倒見が良い事を、先輩本人はあまり良く思っていない…、と?」
「そのようなものらしい。頼まれると、嫌々ながらも引き受けてしまう、断れない性格…。誰にでも平等に接するが故に、一
番を作れない性質…。俺達が美徳と捉えている面を、寮監自身はさして良い面とは見ていないようだ。曰く、「曖昧で流され
やすいだけ」なのだそうで」
「そんな事は無いと思うけれど…」
「うむ。…それにしても、遅いな、寮監…」
眉根を寄せるイイノに同意したオジマは、ちらりと腕時計を見ながら呟いた。
オジマの部屋の冷蔵庫にプリンをしまうなどして、時間を潰してから出てきたのだが、ヤマトはまだ追いついてこない。
ちょうど鐘の音と共に教室に入れるような、そんなローペースで登校していた二人は、少々心配になって顔を見合わせ、足
を止めて後ろを振り返った。
「あ。先輩だ」
曲がり角から駆け出て来て、勢い余って車道側まで大きくカーブを切った、ヤマトの小山のような巨体を目にし、イイノは
安心したようにほっと息を吐く。
よっぽど急いで出てきたのだろう、制服の前を開けっ放しのヤマトは、ワイシャツに押し込んだ太鼓腹を揺らしながらドス
ドスと駆けて来る。
その少し後ろを、先ほど食堂にパジャマ姿で駆け込んできた人間の男子と、同じく寮生のチワワの男子が走っていた。
しかし、そこまでで息が上がったのか、ヤマトは歩道の端に寄り、脇腹を押さえてよろよろと歩き出す。
「さ、先…、行きな…!ぜへぇっ!俺は…、平気だから…!ふぅ、はぁ…!」
手を振って先へ行くよう促すヤマトだったが、二人の一年生は迷っているらしく、先へ行こうとしない。
「ほ、ほら!…へひぃ…!ぼさっと、してるとぉ…!遅れる、ぞぉ…!かけあぁ〜しっ!」
「は、はいっ!有り難うございました!」
「す、済みません…!お先します…!」
声を張り上げられた一年生達は、ペコリと一礼してから、ヤマトを残して走り出す。
「………」
黙ってその様子を見ていたオジマは、二人が自分達の脇を駆け抜ける前に、一歩踏み出そうとして、イイノに腕を伸ばして
制され、動きを止めた。
「…マサ…?」
駆けて行く二人の一年生を見送った後、イイノはオジマの顔を見る。
「何をしようとしたんだい?ユウヤ」
「寮監に世話になった上、置いて先に行くなど、礼に欠けている。だから一言…」
「そのヤマト先輩が、二人が遅れないようにって気を利かせてあげてるんだ。オレ達は堪えてやらなきゃ」
イイノの言葉に、まだ不満げではあったものの、オジマは顎を引いて頷いた。
二人が言葉を交わしている内に、ぜぇひぃ息を荒げながら、よたよたと歩いてきたヤマトは、力無く手をパタパタ振り、二
人を急かす。
「ふ、二人とも…。いそ…げふぁっ!…お、遅れるぞ…!はひぃ…!」
「まだ大丈夫ですよ先輩。ゆっくり行きましょう?歩いてもギリギリ間に合うペースですから」
気遣うような、そして同時に「仕方ないなぁこの人は…」というような、親しげで穏やかな口調で言ったイイノに、
「そ、そうか?はぁっ…、て、てっきりヤバいかと…!へひぃっ…!は、ははは…!参った…、俺、あの二人を、無駄に急か
してたのかぁ…」
脇腹を押さえ、苦しげに息をしながらも、安堵したように笑みを浮かべたヤマトの顔を見ながら、
(あぁ…。確かに重症ではあるかも…。良い人過ぎますよ先輩…)
イイノは苦笑いし、オジマはまだ不服そうな顔のまま、黙り込んでいた。
そして、その日の夕刻。
食後に談話室に集まり、他の寮生数名と共に、卓球を楽しんでいたヤマトは、
「はぁ…!はぁ…!お、オジマ、おまっ…!て、手加減、しろってのぉ!」
情け容赦なく左右に動かされ、汗だくになって声を上げた。
オジマの打つピンポン球が、鋭く、正確に、台の角ギリギリを狙って走る。
寝巻きでもある自前の浴衣が、半分はだけかかった状態で、ヤマトがドタドタと駆け回る。
「ちょ、ちょっと、タンマ…!もぉダメっ、休憩…!」
体格が良く、腕力もあるヤマトだが、運動はあまり好きではない。
どちらかと言えば、体を動かすよりは、菓子を食べながら漫画を読むか、ゲームをするかして過ごす方が好きなのである。
おまけに甘い物が大好物の大食漢という事もあって、薄茶色の被毛に被われた体は、何処もかしこもムッチリと脂肪を蓄え
てしまっていた。
オジマに言わせれば、「常時冬篭り準備完了状態」という事になっている。
対するオジマはといえば、まだまだ余裕があり、涼しい顔でラケットを素振りしている。
「相変わらず…、バケモノじみた…、体力…、してるなぁ…」
先に挑んだイイノと、他の二年生二名が、思い思いに休憩しているにも関わらず、連続で四戦しているオジマは、多少息が
上がってはいるものの、まだまだキレのある動きを見せている。
「腕力だけなら、寮監の方が上だ」
「でも…、はぁ…、スタミナが…、ないから俺…、ふぅ…」
「そのプニプニした腹回りを絞れば、だいぶ改善されるのでは?」
「かちーんっ…!」
虎にからかわれた羆は、目を細くし、口元をひくひくさせたが、舌戦に応じる元気までは無かったのか、そのまま卓球台か
ら離れた。
そして首にかけていたタオルで顔を拭いつつ、はだけかけた浴衣の襟元をバタバタとはたいて、胸元に風を入れる。
壁際のベンチにドカッと腰を降ろしたヤマトは、早くも次の対戦相手のずんぐりした猫と向き合っているオジマの姿を目に
し「うぇっ…!」と、げんなりした顔で舌を出した。
「お疲れ様です」
かけられた声で右を向けば、スポーツドリンクのボトルを差し出すイイノが、羆のすぐ傍に立っていた。
「お!サンキューなぁイイノ!」
笑みを浮かべてドリンクを受け取り、早速ゴクゴク飲み始めたヤマトの隣に腰を降ろすと、イイノは自分の恋人の勇姿を眺
める。
「張り切ってるなぁオジマ先輩…」
「あのさ…?練習で体酷使してるんだよな?あいつ…」
「それはもう…。でも、連休中の練習試合が近付いてますから、気が高ぶっているのかも?」
「あぁ、何となく解るなそれ…。無表情で無愛想な割に、結構熱くなり易いみたいだからなぁ…」
体を休めながら、二人がそんな話をしている内に、オジマはまた後輩のポチャ猫相手に勝利を収めた。
しかし、勝ち残りでそのまま続行するのかと思いきや、ラケットを台に置き、二人の傍にツカツカと歩み寄る。
「………」
前に立ち、じっと、黙って二人の顔を交互に見つめるオジマに、イイノは小さく吹き出した。
「もしかして、オレと先輩が仲良く話をしていたから、やきもちですか?」
「ち、ちがっ…!」
「安心しろって。間に割り込もうとか思っちゃいないさ」
イイノとヤマトにからかわれ、オジマは不機嫌そうに鼻をならすと、二人の間にドスッと腰を降ろす。
「はい、お疲れ様です」
イイノが笑顔でドリンクを差し出すと、虎は不機嫌そうな顔のまま、無言でそれを受け取り、キャップを開ける。
しかし、不機嫌そうな態度とは裏腹に、腰の後ろから右足の横へとながした長い尻尾は、機嫌良さげにぱたっと跳ねていた。
「乾燥機は、どんな調子ですか?」
ドリンクを一口啜った後に発せられたオジマの問いに、ヤマトは軽く肩を竦めた。
「また抱っこして揺さぶって機嫌を取っただけさ。だましだましやってくしかない…。まぁ、ウチは寮費べらぼうに安いから
なぁ…。我慢しろって言われればそこまでなんだが…」
困った様子でため息をついたヤマトは、天井を見上げて続ける。
「運動部の設備に金かけ過ぎなんだよ…。そこらをちょっと堪えて捻出してくれれば…」
ヤマトは言葉を切り、「しまった!」とでもいうような表情で口をつぐんだ。
そっと視線を動かすと、彼が思った通りに、オジマとイイノは居心地悪そうに目を伏せている。
「い、いや!お前らのトコがどうとかって意味じゃ…!悪かった、聞き流してくれ!」
「…いえ、寮監の言い分ももっともです。ウチは随分と優遇して貰っていますから…」
オジマは申し訳無さそうに耳を伏せ、ぼそぼそと呟く。
「柔道部は別格だ。道内一の強豪だからな。頑張ってる分、少しぐらいは良い目を見なきゃ…」
慌てた様子でそう言ったヤマトにも、しかしオジマは頷く事ができなかった。
設備の充実は単純に嬉しい。様々なトレーニング器具に加え、シャワールームに、個人用ロッカー付きの更衣室など、他の
部と比較しても、立派な物ばかりが揃えられている。
必要な物が充実しているのは有り難いが、少々やり過ぎのきらいもあると、オジマもイイノも思っている。
ついこの間マッサージチェアが配備された事などを、寮の設備トラブルで四苦八苦しているヤマトに言う事は、さすがには
ばかられた。
もっとも、顧問の老教師しか使っておらず、結局のところは学校側の無用な配慮だったのだが。
(あぁ〜…、迂闊だった…。気まずくしたなぁ…)
ヤマトが耳を伏せながらガリガリと頭を掻いていると、
「あ、あの…、先輩…?」
か細い、小さな声が、その耳に届いた。
顔を動かしたヤマトと、それぞれ視線を動かしたオジマ、イイノは、ベンチの脇、談話室のドアのすぐ傍に立っている、パ
ーカーを着たチワワに気付く。
いつから居たのだろう?と首を傾げつつ、「どうかしたかい?」と、ヤマトはチワワに笑いかけた。
「あ、あの…、乾燥機が、また…」
目を丸くし、カクンと口を開けたヤマトの横で、オジマは物騒な光を湛えた目を細め、イイノは訝しげに眉根を寄せる。
「止まらなく…なった?」
「は、はい…、済みません…」
ヤマトは気を取り直したように、再び笑みを浮かべ、「やれやれ…」と腰を上げる。
「ちょっと行ってくる。俺は、今日はここらで上がっとくな?風呂にでも入ればすぐ点呼の時間になるし」
チワワを促したヤマトの背に声をかけようと口を開きかけたオジマは、イイノにそっと手を掴まれ、口をつぐんで振り返る。
二人が談話室から出て行くと、オジマは卓球に興じている他の寮生に聞こえないよう、声を潜めてイイノに話しかけた。
「…何故止める?マサ…」
「ヤマト先輩が、不慣れな寮生活で不安になりがちな一年生に、兄貴分みたいに親身に接してあげている事、ちゃんと感じて
いるよね?」
「無論だ。だが、甘えるにも限度がある。朝にやった過ちを、日付も変わらない内に繰り返し、寮監に迷惑をかけるなど…」
「解ってるよ。ユウヤの言いたい事は…」
自分の恋人が、同類という親近感もあって、あのお人好しの羆をいたく気に入っている事は、イイノには良く解っている。
不器用で無愛想で無表情で、他人と馴れ馴れしくする事を好まないオジマが、ヤマトに対してだけは、かつての恩師に接し
ていた時のように、実に丁寧な態度を取り、寡黙ながらもそれなりに心の内を曝す。
だからこそ、ヤマトに負担をかける下級生に、苛立ちを感じている。
イイノとて、ヤマトの裏表の無い、きさくな人柄は好きである。
その外見が付き合いの長い友人と似ている事もあり、会って間もない頃から親しみを覚えていた。
「でも、堪えてやろう?ヤマト先輩が一年生を安心させようと頑張っている時に、横から嘴を突っ込んでも、良い結果になら
ないような気がする…」
「だが…」
「ユウヤも、一年の内は、迷惑をかけるのなんか気にしないで自分に頼れって、オレに言ってくれたよね?」
「…言った…」
イイノが何を言いたいのかを察し、オジマは決まり悪そうに耳を伏せる。
今でこそすっかり寮に馴染んだオジマではあるが、入寮したてで不慣れな頃には、随分と世話をやいて貰った。
だからこそ、同じようにしてやりたくて、イイノにも自分を頼れと告げていた。
他の一年生に対しても、誰かを頼るなと言うのは酷だろうと、寡黙な虎は考えを改める。
「…そうだな…。俺が横から口出しするのは、余計なお節介になるか…」
低く呟き、心の内で自分を戒めると、オジマは、彼にしては珍しく、口元を綻ばせてイイノを見遣った。
「離れていた一年の内に、お前は随分大人びた…」
「それはまぁ、ユウヤと同じ立場を経験したからね。…あれ?それともガキっぽい方が好みかい?」
「…いや、前にも増して頼れる恋人になってくれていて、少々嬉しい」
小声で囁き交わした二人は、声を押し殺して小さく笑った。
「おっし、緊急停止完了っ!」
朝と同じく、抱っこから揺さぶりのコンビネーションで乾燥機を沈黙させたヤマトは、少し下がって待っていた二人…、人
間とチワワの一年生を振り返り、笑いかけた。
「まったくぅ〜…、気を付けなきゃダメだぞぉ?…さて、どっちがどっちのだ…?」
羆は乾燥機の中から引っ張り出した洗濯物を、確認しながら二人に返す。
恐縮し切った様子で洗濯物を受け取った二人は、揃ってペコリと頭を下げた。
「は、はい…、済みませんでした…」
「有り難うございました、寮監…」
おずおずと、詫びと礼の言葉を口にした後輩達に、ヤマトはニマ〜っと笑いかけながら、パタパタと手を振った。
「判ったならもう良いから。さ、行った行った!点呼の時間には、ちゃんと部屋に戻っておくんだぞぉ?」
『はい!』
極めて大柄なヤマトと向き合えば、チワワと人間の男子は、まるっきり子供のように見える。
傍から見れば、まるで先生に諭される小学生の図である。
部屋から出て行く二人を見送り、念の為に張り紙でもしておこうかと、傍らの乾燥機に視線を向けたヤマトは、
「ん?」
廊下へ出た所で足を止め、自分を振り返っているチワワに気付き、笑みを浮かべた。
「どうした?何か忘れ物か?」
ヤマトの様子を窺うように、こそっと振り返っていたチワワは、はっとしたように耳を立てると、慌てた様子でお辞儀し、
駆けて行った。
取り残された羆は、キョトンとした顔で首を傾げると、太い指で頬をポリポリと掻いた。
「オジマー、居るなぁ?」
「おす」
ドアを開け、後輩の在室を確認したヤマトは、手にしたボードの上の点呼票に、チェックマークを書き入れる。
左腕を背中側に回し、右手を床につけ、片手腕立て伏せを続けながら返事をした虎に、ヤマトは感心半分、呆れ半分の視線
を向け、肩を竦めた。
「精が出るなぁ。あんまりやり過ぎて、練習試合前にヘバるなよ?」
「問題、有りません」
腕立てを続けながらでもなお、規則正しい呼吸の間から応じたオジマは、口の端を上げ、楽しげな、そして不敵な笑みを浮
かべる。
「今年…、俺は、全国のトップに、登って見せる…」
「だーっはっはっ!大きく出たなぁ!イイノが傍で見てるから張り切れるのかねぇ?」
「おそらく、それも、あるでしょう」
からかうように言ったヤマトに、オジマは笑みを浮かべ、腕立てを続けたまま応じた。
まさか素直に認めるとは思ってもいなかったヤマトは、目を丸くして後輩を見つめた。
「…俺とあいつは、階級が…、同じです」
そのオジマの呟きで、ヤマトは「あ」と声を上げた。
「…例え、途中で、潰しあいに、なっても、俺が全国で、トップに立てば、あいつは、二番だ…」
腕立てのペースを上げ始めたオジマを眺めながら、羆は相好を崩す。
「それは、お前がイイノに負けるっていう可能性、初めから排除してないか?」
「まだまだ、あいつには、負けません。…一応、先輩としての、意地がある」
苦笑いしながら応じたオジマは、しかしいつか、イイノが自分を負かしてくれる日が来る事を、心の底で願っている。
「…む…、そうだ…」
体を床すれすれまで下げた姿勢で止まったオジマは、腕一本で上体を跳ね上げ、足を引き寄せて中腰の姿勢で立ち上がる。
筋肉質で大柄な重い体躯を完全にコントロールしている、驚くほど軽やかで柔軟な動きを目にし、ヤマトは感心して「ひゅ
う」と口笛を鳴らした。
「今朝のプリン、取っておきました。イイノも寮監にやると言っていましたので、二つ」
「お!?悪いなぁ!」
嬉しそうに破顔したヤマトに私物の小型冷蔵庫から取り出したプリンを手渡すと、オジマは何かを思い出した様子で「む?」
と声を漏らした。
「…ところで、点呼が途中なのでは?」
「おっとそうだった…!それじゃあ、お休みオジマ。プリンサンキューなぁ!」
「おす。お疲れ様です。寮監」
慌てて出て行ったヤマトを見送ると、オジマは何事も無かったように腕立て伏せを再開した。
「イイノー、居るなぁ?」
「はい。お疲れ様です先輩」
ティーシャツに短パン姿でスクワットしていた猪を目にし、ヤマトは口元を綻ばせた。
「こ〜の似たものカップルめ…」
「え?何です?」
「いやいやこっちの話…。あ。さっきオジマから受け取った。プリンサンキューなぁっ!」
「あぁ。オジマ先輩、忘れてなかったんですね?」
イイノはスクワットを中断すると、ニコニコしている羆に笑みを返す。
「…ところでイイノ。早川や千和田とは、仲良いか?」
視線を上に上げながら、猪は名を挙げられた二人の顔を思い浮かべた。
髪を後ろに撫で付けた髪型が特徴の人間の男子、早川隆俊(はやかわたかとし)。
小柄で線が細い、つぶらな瞳が印象的なチワワ、千和田良(ちわだりょう)。
オーバーワークしがちな乾燥機を、一日に二度に渡って暴走させた一年生コンビは、クラスは違えども、同学年の同寮生で
ある。特に親しいというわけでもないが、イイノともそれなりに話をする間柄だった。
その事をイイノが伝えると、ヤマトは浴衣の胸元に手を突っ込み、腹を掻きながらふむふむと頷く。
「先輩…、すっっっごいおっさん臭いですよ、ソレ?」
「う、うっさいなぁ!…で、あいつら、上級生を怖がってる素振りとか、あるかな?」
「え?いえ、そんな様子には気付きませんでしたけど…、そうなんですか?」
首を傾げて聞き返すイイノに、羆もまた困ったように首を傾げて見せた。
「いや、俺もちょっと思っただけだ…。朝に乾燥機を回してた事といい、夜にも同じ問題児を使ってた事といい、もしかして、
他を使ってる上級生を避けてるのかなぁと…」
腹をモソモソと掻きながら、眉間に皺を寄せて考え込んでいるヤマトに、
「う〜ん…。もしかするとそうなんでしょうか?オレもちょっと気をつけてみます」
イイノは腕組みをして、二人の顔を思い浮かべながら頷いた。
「悪い、助かる!でも、気張らない程度で頼む。たまにちょっと気をむける程度で良いからな?」
ヤマトは両手を顔の前で合わせ、少し笑いながらイイノを拝むと、
「な〜んか、さっきも俺の事をこそ〜っと窺ってたし、もしかして上級生が苦手なのかなぁ…、とか気になってさ…」
そう、少し寂しげに呟いた。
「寮生ってのは家族だ。少なくとも俺はそう思ってる。百人も居るようなでかい寮ならいざ知らず、ここみたいに1クラス分
程度ぐらいだったら、なおさらなぁ…。できれば、肩の力を抜いて、日々気楽に過ごして欲しいんだよ。なんたって、ここは
俺達全員の家なんだから…」
「…そうですね…」
ヤマトの言葉に頷いたイイノの顔には、嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。
(ユウヤが気に入る訳だよ。知った時は衝撃的だっただろうなぁ…。度が過ぎる程のお人好しなんだよな。ヤマト先輩は…)
ヤマトが口に含んだコーヒー牛乳を盛大に吹き出したのは、翌日の夕食直後の事であった。
褐色の甘ったるい液体を顔面に吹きかけられ、ジト目で自分を睨むオジマにも目をくれず、羆は呆けたような表情を浮かべ、
オドオドとしているチワワ…、チワダを見つめた。
「ま…、また止まらなくなったぁ…?」
口をポカンと開けたヤマトを上目遣いに見上げながら、チワダはコクリと頷く。
テーブルの上に置いてあった布巾を掴み、黙って顔を拭う虎の横で、猪は何かを思案するように目を細めていた。
「わ、判った…。すぐ行こう…」
さすがに三度目までは想定していなかったヤマトは、腑に落ちないながらも、まずは乾燥機の機嫌を直すのが先決と割りき
り、席を立った。
その背中に声をかけようとしたオジマを、またイイノが制する。
「抑えてユウヤ。ここは先輩に任せ…」
「違う。単に寮監へ文句を言おうと思っただけだ…!」
「あ、そう…」
不機嫌そうに応じた虎に、イイノは微妙な半笑いを向けた。
「それにしても解せん…。三度目だぞ?」
「…うん…」
不機嫌さを隠そうともせず、フンと荒い鼻息を漏らしたオジマの隣で、イイノは僅かに首を傾げていた。
(…もしかして…、わざと…?)
「よっこいせぇっ…!っと、…ふぅ…」
停止した乾燥機を床に戻し、ヤマトは大きく息を吐いた。
「はい停まったぁ〜!本当にダメだぞぉ?気をつけないと…」
「ごめんなさい寮監…。チワダ君!だからここのは使っちゃダメだって言ったのに!」
「ご、ごめん、ハヤカワ君…。寮監も、済みませんでした…」
二人のやり取りを聞きながら、ヤマトは「ん?」と首を傾げる。
どうやらチワダが乾燥機を使ったらしいが、何故今回もまたこの問題児の乾燥機を使ったのか、まだ聞いていなかった事を
思い出して。
「どうしてまたこいつを使ったんだ?この時間なら他も空いているだろうに…」
「そ、それは…」
ヤマトの問いに、チワダは耳を伏せて項垂れ、口ごもった。
「チワダ君…?」
隣のハヤカワも、黙り込んでしまったチワダを、訝しげな表情で見つめている。
(どうやら、この乾燥機を使ったのは間違えてって訳でも無さそうだ…。しかし何でまたこいつを使いたがるんだ…?)
腑に落ちないとは感じたが、ヤマトは穏やかな口調でチワダに話しかける。
「別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ、他の寮生…、上級生に遠慮してるんなら、そんな必要は無いんだぞ?」
大きな羆に優しく声をかけられ、小さなチワワは少しだけ顔を上げる。
「ご、ごめんなさい寮監…。ボク、うっかりしてて…」
うっかりで、普通三度も同じ事を繰り返すまい。
そうは思ったものの、深く追求して困らせるのも可哀そうだと感じ、ヤマトは笑いながら頷いた。
「気をつけなきゃダメだぞぉ?特に、俺が居ない時はやっちゃダメな?こいつ結構人見知りだから」
ヤマトが笑いながら乾燥機をペシペシと叩くと、チワダは安堵したようにそっと息を吐き、微かな笑みを浮かべて頷いた。
(何か事情でもあんのかねぇ?まさかギャンブル感覚でコイツに洗濯物を突っ込んでるわけでもないだろうが…)
取り出した洗濯物を二人に手渡しながら、ヤマトは心の中で首を捻っていた。
それから数時間後、巨体を揺すりながら廊下を歩き、各部屋の点呼を行っていたヤマトは、チワダの部屋のドアをノックし、
引き開けた。
「チワダー、居るなぁ?」
「あ、はい。居ますぅ!」
「よしよし。んじゃあ、お休みぃ」
にこやかに手を上げたヤマトに、チワダも少し恥かしそうな笑みを返し、会釈した。
「はい。お疲れ様です、寮監…」
ドアを閉めたヤマトは、そのまま隣のハヤカワの部屋を訪問し、点呼を取った後、
(そういえば…、まだチワダには連休中の帰郷計画とか聞いてなかったな?)
と思い出し、確認すべく引き返した。
たった今訪れたばかりだという気の弛みがあった事は否めない。
それゆえに、普段の点呼では決して忘れないノックを、ヤマトは忘れてしまった。
そして、点呼が終わった後という、受ける側の気が弛みがちな状況であったのも、そのアクシデントが発生した要因の一つ
であった。
「悪いチワダ。ゴールデンウィーク中の事なんだが…」
「ひっ!?」
ドアを引き開けたヤマトの問いを遮り、か細い悲鳴が、室内に響いた。
机から何やら取り出そうとしていたチワダは、それを取り落とし、ヤマトを振り返った姿勢で硬直していた。
「あ、あれ?悪い、何か邪魔したかな?」
目をまん丸にしているチワワに、頭を掻きながら詫びたヤマトは、一度廊下に出ようとしたものの、チワダの足元に落ちて
いるモノに視線を向け、足を止めた。
チワダは慌ててソレを拾い上げると、背中に隠す。
怯えきった表情で、カタカタと震えながらヤマトを見つめていたチワダは、
「あ、いや…、その…、チワダ?俺は…」
ヤマトがオロオロと声をかけた瞬間、弾かれたように走り出した。
「お、おい、チワダ!?」
小柄な体が、声をかけようとした羆の脇をすり抜け、廊下にまろび出て、そのまま階段へと転げるように駆けてゆく。
動揺のあまり立ち竦んでしまったヤマトの目には、自分の脇をすり抜ける際に見えた、つぶらな瞳に一杯に涙を溜め、怯え
きった表情を浮かべているチワワの横顔が、はっきりと焼き付けられていた。
「あぁくそっ!何てトンマだ俺はっ!」
己の失態をなじりつつ、ヤマトはボードを放り出すと、浴衣の裾を翻し、ドスドスと廊下を駆け出した。
チワダの姿を求め、一階のロビーまで駆け下りたヤマトは、正面玄関が施錠済みである事を確認すると、裏手側に回った。
しかし、ヤマトの心配をよそに、裏口も鍵はかかったままで、誰かが出て行った様子は無い。
「どこ行ったんだ…?外に出てないとなると、後は…」
息を切らせて駆け戻りながら呟いたヤマトは、一瞬、オジマやイイノにも探すのを手伝って貰おうかとも考えたが、かぶり
を振ってその考えを頭から追い出した。
(知られたくないだろうアレは…!誰にも言う訳には…!)
無人の真っ暗な食堂を覗き、トイレを確認し、談話室のドアを押し開けた所で、ヤマトの頭にその場所の事が思い浮かんだ。
「…あそこなら…、居るかも…」
三階建ての寮の屋上。五月間近となったこの時期でもまだ冷たい、醒山の夜風が吹き抜けるその隅に、チワダは膝を抱えて
蹲っていた。
カタカタと、体が小刻みに震えているのは、寒さの為だけではない。
胃の奥にストンと落ちたような、重苦しい不安。
胸の中で肺を圧迫しているような、強い恐怖。
そして、背骨を引っこ抜いて代わりに詰め込まれたような、深い絶望感。
それらに囚われた小さな、小さなチワワは、小柄な体をさらに縮めて、カタカタ、カタカタと震え続けていた。
キィっと、小さな音を立てて扉が開いた事には、膝を抱えて顔を伏せているチワダは気付かない。
真っ暗な闇に覆われた、屋上の隅で、手すりに背中を預けて小さくなっているチワダの姿を、ヤマトは乱れた息を整えなが
ら見つめた。
どうしようもない程寂しげで、この上なく頼りなく見える、震え続けているその小さな後輩の姿を目にして、ヤマトの胸は
激しく痛んだ。
(…こんな形でバレる事なんて…、考えたくもなかったろうにな…)
ノックをし忘れた。その些細な自分のミスで、後輩を深く傷つけてしまった。その事が激しく悔やまれる。
ゆっくりと踏み出したヤマトの足の下で、風が屋上に運んできた細かな砂が、微かにジャリッと音を立てた。
体に比してかなり大きいチワワの耳が、その小さな音を拾い、ピクリと動いた。
顔を上げたチワダは、室内の非常灯の弱い明かりを背負い、逆光の中に浮かんでいる巨体を目にし、息を飲んで立ち上がる。
そして、慌てた様子で手すりを掴み、乗り越えようとした。
逃げなければ。
その思いだけが先走り、パニックをきたしている今のチワダの頭からは、手すりの向こうがどうなっているのかという事が、
瞬間的に消えていた。
駆け寄ろうとしたヤマトは、しかし自分が近付く事でチワダはさらに逃げようとするだろう事を本能的に悟る。
そして、自分の足では、手すりを乗り越えるチワダを止めるには間に合わないだろう事も…。
伸ばした自分の指先が空を掴み、チワダの体が手すりの外へ、何も無い空間へと泳ぎ出る…。
その小柄な体を覆う黒い被毛が溶け込みそうな、真っ暗な夜の中へ落ちてゆく…。
数秒もおかず、叩くような、潰れるような、少し湿った嫌な音が下から響き渡る…。
手すりから身を乗り出し下を向くと、はるか下の地面に…。
そんな最悪の情景が頭を掠め、ヤマトは全身から脂汗を滲ませた。
少しで良いから動きを止めさせる、そんな手は無いか?
足を踏み出すそのコンマ数秒の間に、ヤマトはその手に思い至った。
自分の鼻ほどまでの高さがある手すりをよじ登り、今にも跨ぎ越えようとしているチワダに向かって、ヤマトは大きく口を
開けた。
「俺もホモなんだぁあああっ!!!」
その、緊迫した状況には不似合いな、しかしヤマトにしてみればかなり勇気が必要な一声は、
「………!?」
手すりに跨る格好になっていたチワダの動きを、しっかり止めていた。
驚いた顔で振り向いたチワダの瞳に、すぐ傍まで迫り、必死の形相で腕を伸ばしているヤマトの顔が映り込んだ。
手すりの上に跨った、不安定な姿勢の小柄な後輩を、ヤマトはその太い両腕でしっかりと捕まえる。
「わ!わ!わああああああああっ!?」
後ろからがっしりと抱き締められてパニックになり、滅茶苦茶に手足を動かすチワダの体が、手すりの外へと落ちかける。
ジタバタと暴れるチワダをしっかり捕まえたまま、ヤマトは大声を上げた。
「落ち着けチワダ!落っこちるぞ!」
耳元で怒鳴られてビクッと体を突っ張らせたチワダは、いくらか冷静さを取り戻したのか、下に視線を向ける。
20メートル以上も下に、寮を取り巻くコンクリートのたたきが窓明かりに照らされて微かに見えた。
「きゃぁあああああああああああああっ!!!」
自分がどんな状態にあるのか察したチワダが、今度は甲高い悲鳴を上げた。
「こ、こら!危なっ…ぷがっ!」
一層激しく暴れ始めたチワダの肘鉄が、羆の鼻を完璧に捉えた。
仰け反ったヤマトは、チワダを抱きかかえたまま、屋上の床に仰向けにひっくり返る。
「えぼぉっ!?」
硬い床にしこたま背中を打ち、抱いたままのチワダの体重をモロに鳩尾で受け、肺の中から空気を絞り出されるヤマト。
チワダの方はヤマトのまん丸い腹でボヨンと弾み、仰向けになった羆の頭側にドサッと投げ出される。
腹を押さえて転げ回りながら声もなく悶絶するヤマトと、パニックの波が去り横たわったまま放心しているチワダを、冷た
い夜風が静かに撫でて行った。
「う、うぇ…!げふぅ…!」
胃の辺りを押さえて、噎せ返りながら身を起こしたヤマトは、チワダと自分の間の床に転がっている、放り出された際にチ
ワダのポケットから落ちたモノを見つめた。
使用した経験は無いものの、それが何であるのかは、ヤマトは愛読している雑誌の広告で知っている。
チワダが隠して逃げ、そして今さっき落としたそれは、男性器の形を模したバイブレーターであった。
「…チワダ…」
声をかけられたチワダは、はっと我に返ると、ワタワタと起き上がろうとした。
四つん這いになって逃げようとする小さな後輩の腕を、ヤマトはがっしりと掴む。
「あ、あぁっ!は、放して!放してくださいぃっ!」
「落ち着けチワダ!大丈夫だから!誰にも言ったりしないから!」
また駆けだして、今度は階段から転げ落ちられでもしては堪らない。ヤマトはもがくチワダをがっちりと掴むと、
「わっ!?」
両腕で引き寄せ、抱え込むようにして抱き締めた。
ビックリして硬直しているチワダを、中腰の姿勢で、逃がさないようにしっかりと抱きかかえたまま、
「大丈夫…。大丈夫だチワダ…。何も恐いことなんてない…。俺は味方だ…。な?」
ヤマトはその耳元に囁きかけ、背中をゆっくりとさすってやった。
夜風で冷えた、チワワの小さな体に、羆の大きな体から、その温もりがじわりと沁みてゆく。
少しでも安心させようと、優しく語りかけるヤマトの腕の中で、
「…う…、うううっ…!」
チワダは小刻みに震えながら、小さく嗚咽を漏らし始めた。
「わ、悪いなぁ、散らかってて…!」
ヤマトは微妙な半笑いを浮かべながら、床に散らばった雑誌や小物類を乱暴に隅へと押しやり、座るスペースを作った。
寮監の部屋とは思えない散らかり様のその部屋の入り口で、チワダは所在なさげに突っ立っている。
部屋の床は大小様々、雑多な物が散らばり、そのままでは足の踏み場もない程に埋まっていた。
机の上には自前のパソコンが置かれているが、その周辺もゲーム機やソフト、ディスクのケースや漫画本などでごった返し
ている。
何も無ければ部屋にこもってぐうたら過ごしているヤマトは、寮監などをしている割には整理整頓にだらしなく、部屋も散
らかし放題にしている。
とりあえず、テーブルの下に荷物を押し込み、何とか二人座るだけのスペースを確保すると、
「ま、とりあえず座って…」
ヤマトは決まり悪そうに苦笑いしながら、チワダを手招きした。
「は、はい…。あの…、失礼します…」
恐る恐る部屋に上がり込んだチワダを、自らが先に腰を下ろしながら床に座るよう促すと、ヤマトは机の引き出しに手を伸
ばし、中から一冊の雑誌を取り出した。
「まぁその…、俺も、な…、こういうの読んでる訳で…」
ヤマトは鼻の頭を指先で擦りながら、愛読している雑誌の最新号を、自分とチワダの間に置いた。
その表紙では筋肉質なドーベルマンが、鍛えあげた肉体をボクサーパンツ一枚という格好で披露していた。
赤い筆文字で「特別企画、お兄系大集合!」と記された表紙を食い入るように見つめた後、チワダはゆっくりと顔を上げ、
上目遣いに問うような視線をヤマトに送る。
「…さっき、屋上で言ったようにさ…、俺、実は女より男が好きで…、つまりそのぉ…、そういう趣味してるんだよ…」
落ち着き無く首の後ろを掻きながら、ヤマトはボソボソと告げた。
「ビックリしたか?」
「は、はい…」
小さく頷いたチワダは、視線を雑誌に向け、それから項垂れて、大きく、ゆっくり息を吐き出した。そして、
「う…、うぅっ…、ひっく…!」
肩を震わせ、しゃくりあげ始める。
「ど、どうしたチワダ?もう安心して良いんだぞ?俺も同類なんだから、誰にも言わないって!」
慌てた様子で身を乗り出したヤマトは、しゃくり上げる後輩の、その細く小さな肩に手を乗せようとして、それから触れる
ことを躊躇うかのように両手を宙で彷徨わせる。
「ご、ご、ごめ…ん…なさっ…!えくっ…!ぼ、ボク、安心したら、な、何だか…、うっ…!」
両手で目を擦りながら、子供のようにすすり上げ、懸命に言葉を紡ぐ後輩の姿を見つめながら、ヤマトは、トクンと胸が高
鳴るのを感じた。
「もう泣くな、な?ノックしないで入ったりして、ホント悪かった…。この通り…」
深々と頭を下げて見せたヤマトに、チワダはウルウルした瞳を向け、首をブンブンと横に振る。
「そ、そんなの…!ぼ、ボク、がぁ…、ふぇ…、鍵を、かけ忘れて、あんな事しようと、してたのが、わ、わるっ…えうっ!
う、ううう、うえぇぇええええええん!」
「ちょまぁああっ!?ち、チワダ!落ち着いて、な?お、おい!?泣かないでくれってぇ!」
チワダが声を上げて泣き出してしまうと、ヤマトは大慌てで顔を上げ、意味もなく手を動かしながらオロオロする。
小さなチワワが泣きじゃくる様子を目にしたヤマトは、耐え難い程に胸が締め付けられるような感覚に囚われる。
放っておけない。護ってやりたい。そう感じながら、何故か少し苦しくなっている胸がキュンと疼く。
しばらく迷った後、ヤマトはゴクリと唾を飲み込むと、そっと、チワダににじり寄り、その小さな体を軽く抱き締めた。
「りょ…、ひっく!りょう…かん…?」
驚いているような表情を浮かべ、泣きはらした眼で自分の顔を見上げるチワダに、ヤマトは自分の胸が疼くのを感じながら、
少しぎこちない笑みを浮かべる。
「もう泣くなよ…、なぁ…?頼むから…」
優しく声をかけてくるヤマトの顔を、しゃくりあげながら見つめたチワダは、
「ご、ごめんなさい…、え、えふっ!えうぅぅぅううん…!」
また嗚咽を漏らし始め、羆の分厚い胸に抱き付いた。
自分の胸に顔を埋めてくるというチワダの行為に、ヤマトは顔が熱くなるのを感じながらドギマギし始める。
「ぼ、ボクぅ…!う、嬉しいのに…!涙が、止まっ…えうぅっ!ずっと、ずっとぉ…!同じような人と、会った事、なく…
ってぇ…!こんなふう、にぃ、…優しく、言ってもらえるなんて、ひっく!…お、思っても…なかった、からぁ…!」
心臓が激しくドコドコ言っているのが、しがみ付いているチワダに聞こえてはいないかと心配になりながら、ヤマトはカク
カクと小刻みに頷いた。
(お、おお、落ち着け俺っ!慰めなきゃ…!安心させてやらなきゃ…!しっかりしろ俺ぇっ!)
初めて経験する状況がもたらす緊張と、自分でも正体の判らない興奮に翻弄されながら、ヤマトはそう自分に言い聞かせ、
なんとか外面を繕う。
そして羆は一度深呼吸すると、ぎくしゃくと背中側にまわした手で後輩の背中を撫でながら、
「誰にも言わないし、俺で良ければ、いくらでも相談に乗る…。だから、もう安心して良いんだぞ?チワダ…」
なるべく落ち着いた声を出せるよう注意しながら、少しずつ、区切るようにチワダの耳に囁いた。
「は、はいぃ…!ぐすっ!あ、ありがと、う…、りょう、かん…!」
自分の胸に顔を埋め、小さく鼻を啜り上げながら、まだ小刻みに震えている後輩の背を、優しく撫でてやりながら、
(…ど、どうしたんだよ?…まさか、まさか俺…?)
高鳴る胸のその奥で、ヤマトはその興奮と妙な気持ちの正体が何なのか、落ち着かないながらも考え始めた。
翌朝、いつものように、食堂でテーブルを挟んで向き合ったヤマトを前に、オジマとイイノは訝しげに眉根を寄せていた。
「…ふぅ…」
わかめの味噌汁を箸でくるくると掻き回しながら、羆は切なそうにため息を漏らした。
「どうかしましたか?寮監」
オジマに声をかけられたヤマトは、
「ん?んん?な、何がぁっ!?」
取り繕ったような笑顔で問い返す。
「目、真っ赤ですが?」
「あ、あぁ…!ちょっとゲームしてて、夜更かししてなぁ!」
目が赤いのも当然の事で、昨夜、かなり時間をかけて泣きやんだチワダを部屋に帰した後、ベッドに入ったヤマトはどうに
も寝付く事ができず、明け方まで悶々と考え事をしていたのである。
応じたヤマトの態度に明らかに不自然な物を感じ、オジマとイイノは顔を見合わせつつ僅かに首を傾げる。
大食漢のヤマトにしては珍しく、食が全く進んでいない。
口数も少なく、話しかけても上の空だったりもする。
そして、口を開いたと思えば、出てくるのはため息ばかり…。
これで不自然さを感じない方がおかしいのだが、ヤマト本人は気付いていない。
羆がすっかりぬるくなった味噌汁を延々と掻き回して、虎と猪がその様子を不思議そうに眺めながら、しばし黙り込んでい
ると、
「あ、あのぉ、寮監…」
控えめな、消え入りそうな声が、横手からかけられた。
声に反応し、オジマとイイノはゆっくりと、ヤマトの方は弾かれたように首を巡らせる。
いつの間にか三人に歩み寄っていたチワダが、耳を寝せ、腿の所で両手を重ね、モジモジと身じろぎしていた。
「お、おう!おはようチワダっ!」
「おはようございます。寮監…」
少し上ずった声で、やや硬い笑みを浮かべながら挨拶したヤマトと、少し恥ずかしげな笑みを浮かべながら、ペコッと頭を
下げたチワダを、オジマとイイノは交互に見遣る。
「あの…、昨日は済みませんでした。有り難うございます…」
上目遣いに自分を見つめながら、恥じらうような笑みを浮かべて礼を言ったチワダに、
「あ…、あぁ、うん!」
と、ヤマトは何故かドギマギした様子で、微妙に硬い笑みを浮かべたまま頷いている。
「え、えと…。それじゃあ…」
「お、おう!遅くならないように出るんだぞ!」
チワダはお辞儀してから、他の一年生が集まっているテーブルへと、小走りに戻って行く。
やはり1オクターブ高い声で言葉をかけたヤマトは、その後ろ姿を見送った後、
「…はふぅ…」
と、切なそうにため息を吐き出した。
その様子を眺めて首を傾げるオジマの横で、イイノが口を開き、ヤマトに小声で話しかけた。
「昨日、何かあったんですか?」
「ん!?い、いやその…、あ!そうそうほら!あれ!乾燥機な!うん、乾燥機だ!」
(「そうそう」って…、まぁ、乾燥機の件じゃないなこれは…)
イイノは心の内で呟いたが、とりあえずこの場での詮索は止めておく事にする。
ヤマトはと言えば、ぼーっとした眼差しを一年生の群れに向け、何やら切なそうに、もはや本日何度目かも判らないため息
をついていた。
「…寮監が?」
「うん」
スクワットを中断したオジマは、自分のベッドに腰掛けているイイノに視線を向けた。
ジャージのズボンにタンクトップという動きやすい格好で、シャツは胸の筋肉の隆起でピッチリと引き延ばされている。
対するイイノもジャージの上下。どちらも同じメーカーの品で、デザインはやや違うものの、黒を基調としてサイドにのみ
白いラインが入った、おそろいのカラーリングである。
ヤマトの様子がおかしくなった日の夜、その夕食後、恋人の部屋を訪れたイイノはオジマに対して、様子がおかしいヤマト
の事を、「恋をしているよ」と、訴えた。
「…チワダに…か?」
「たぶんね」
朝の様子を思い起こしながら呟いた虎に、猪は顎を引いて頷く。
じっくり話を聞くつもりになったのか、オジマはベッドの傍に歩み寄ると、イイノと向き合う形で、床にどすっと胡座をか
いた。
「昨夜何があったのか、察しがついているのか?」
太い縞々の尻尾でトフッと床を叩き、興味深そうに眼を細めたオジマに、イイノは肩を竦めて応じた。
「細かくはちょっと…。でも、チワダが先輩に謝って、礼を言っていたのを見てから、色々と想像はしたよ」
「聞きたい。どう思った?」
話の先を促す虎に、猪は口元を歪ませて微苦笑しながら応じた。
「…もしかしてチワダ、オレ達と同類なんじゃないのかな?」
「…ふむ?」
どこか面白そうに眼を細めたオジマに、イイノは自分の予想を話し始めた。
おそらく、チワダの自慰行為か何か…、同類だと確信できる何かを、ヤマトはたまたま見てしまった。
そして、その事を黙っておくと約束して慰めた。状況までは解らないが、そんな所なのではないだろうかと。
「ならば、何故寮監は俺達にも黙っている?」
「それはたぶん、「誰にも話さない」とか、約束させられるか何かしたからじゃないかな?」
「なるほど…」
顎をさすりながら頷いたオジマに、イイノはさらに続けた。
「それで、ヤマト先輩はチワダに対して好意を持ってる。それも、昨夜から急に起こった心境の変化なんじゃないかな?だか
ら自分でも戸惑っているのかも…」
一歳下の恋人の推理を聞きながら、オジマは内心で(こいつはコワいヤツだな…)などと考え、微苦笑していた。
隠し事など簡単に見透かされてしまいそうな、実に素晴らしい洞察力を持っている、と。
「よし」
オジマは低い声で呟き、腰を浮かせた。
「一緒に寮監の部屋に行くか。話をしたいのだろう?」
「さすがユウヤ!話が早くて助かるよ」
オジマはジャージの上を羽織ると、嬉しそうに笑みを浮かべて立ち上がったイイノを促し、部屋を出た。
一方その頃、夕食もろくに喉を通らなかったヤマトは、早々と風呂を済ませ、部屋にこもっていた。
何かをするつもりにもなれず、ベッドの上で仰向けになり、ぼーっと天井を見上げ、点呼の時間を待っている。
「はぁ…」
ため息を漏らしたヤマトは、寝返りを打って枕を抱え込み、ギュッと抱き締めた。
胸が苦しい。その原因は解っているが、どうすれば良いのか、どうするべきかが解らない。
「う〜…!」
枕を抱え、唸りながら、ベッドの上でゴロゴロとのたうっていたヤマトは、ノックの音を耳にして、ガバッと起き上がった。
「お、おう!あいてるぞぉっ!」
やや上ずった声を上げつつ、いそいそとドアに向かったヤマトは、
「お邪魔します」
入ってきたオジマの顔を目にするなり、落胆したように肩を落とす。
「どうかしましたか?寮監」
「い、いやぁ、何でも…」
尋ねるオジマに曖昧に応じるヤマト。そこへ、オジマの後ろからひょこっと顔を覗かせたイイノが、
「もしかして、チワダだと思いました?」
と、悪戯っぽい笑みを浮かべながら尋ねた。
「うぇ!?い、いいいいいいやっ!なな、何言ってるんだイイノ!?はははははっ!」
あからさまに動揺しつつ、乾いた笑い声を上げるヤマトの前で、オジマとイイノは顔を見合わせ、頷きあった。
部屋に上がり込んだオジマとイイノは、ヤマトと三人で床に座り込み、車座になった。
「で、何だ?話って…」
尋ねたヤマトに、イイノは声を潜めて尋ねる。
「…チワダ、オレ達の同類ですよね?」
訊かれたヤマトの変化は、劇的であった。
「えぅっ!?ち、ちち違うぞ!?そんな事は…!」
目を丸くし、妙な声を上げ、腰を浮かしながらブンブンと首を横に振るヤマトに、
「答えなくても良いですよ。誰にも言わないとか、約束したんでしょう?」
イイノは苦笑いしながら手をパタパタと振って見せる。
「あ…!う…!お…!」
「落ち着いて下さい寮監。まず座って…」
言葉が出てこないヤマトに座るように促しながら、オジマはイイノの顔を横目で見て、話を続けろと目で伝える。
「無理に話そうとしなくても良いです。オレが勝手に喋りますから、まずは聞いていて下さい」
チワダの事が気になって仕方がないのは、ヤマトの態度を見れば一目瞭然だった。
が、この状態のヤマトにそれをいちいち認めさせていたのでは、話がなかなか進まない。そう判断したイイノは、まずは自
分から一方的に話をする事に決めた。
動揺しまくっていたヤマトだったが、オジマに宥められながらイイノの予想を聞かされると、やがて隠しきれないと観念し
たのか、項垂れながらボソリと呟いた。
「…誰にも、言うなよなぁ…?…チワダなぁ、ホモだって事がばれたせいで、えらいパニックになったんだから…」
ヤマトは昨夜の出来事を、バイブレーター等の細かな事は曖昧にぼかしつつ、かいつまんで二人に伝えた。
話を聞き終えたオジマは、ヤマトの顔色を窺いながら尋ねる。
「それで…、寮監はチワダのその様子を見ている内に、好意を持ってしまった、と…」
「えうおあぁっ!?」
「しーっ!声でかいですよヤマト先輩!」
妙な声を上げ、再び腰を浮かせたヤマトに、イイノは立てた人差し指を口元に当て、静かにするよう促す。
「な、なななな、なんでわかっかっかっかっ!?」
「それはまぁ、先輩の話しぶりから…」
「うむ。解りやすかった」
中学時代、幾人かの同類を見てきた二人である。根が単純な上に恋愛経験に乏しいヤマトの胸の内を言葉から窺うのは、さ
して難しい事ではなかった。
「それで、たぶんチワダの方も先輩の事を慕っている、と…」
「ち、ちちち違ぁああああっ!…え?」
フムフムと頷きながら呟くイイノ。裏返った声を上げて否定しようとしたヤマトだったが、口をポカンと開け、目を丸くし
て固まる。
これはオジマもまだ聞いていない事だったので、意外そうに眉を上げていた。
「チワダの方も…、そうなのか?」
「あくまで「たぶん」ですけれどね、ヤマト先輩に興味を持ってるんじゃないかと…」
イイノはそう前置きすると、キョトンとしているヤマトと、興味深そうに耳を立てているオジマに、自分が感じた事を話し
始めた。
「最初に「あれっ?」と思ったのは、乾燥機が止まらなくなった、二回目の事です。同日の内に二回もやるなんて、なんだか
変だなぁと思いました」
「ああ、それはまぁ…。でも、単純に他の乾燥機が使用中だったからだろう?」
「三回目の時も、他が混み合っていたんですか?」
イイノに聞き返され、ヤマトは返事に窮した。
三回目のトラブルについては、ヤマト自身もさすがに不自然に感じ、心の隅に引っかかっていた。
「いや…、食事時だったから、そう混雑はしていなかったはず…」
「オレも時間短縮の為に、オジマ先輩と二人分纏めて洗濯機にも乾燥機にも入れていますから、混み合う時間帯を避けたい気
持ちは良く解ります。でも、トラブルを起こす可能性が高い乾燥機に、そう何度も洗濯物を預けるかと聞かれれば…」
「…ん?ちょ、ちょっと待てよ…?」
ヤマトは目を細くして、イイノの言葉を遮った。
言いたい事を察して貰えたかと、顎を引いて頷いたイイノは、
「…お、オジマ?お前もしかして洗濯とかイイノにやって貰ってんのかぁ!?」
ヤマトが全く違うポイントに反応を見せてしまい、カクンと口をあける。
羨ましげに声を上げたヤマトに、オジマはといえば、やや照れ臭そうに頬を掻きながら頷いていた。
「落ち着いて下さい!問題はソコじゃないですから!…つまり、その乾燥機をわざわざ使う理由があったんです」
一方、イイノはやや呆れながらも先を続ける。
「…わざわざ使う…理由?」
とりあえずオジマへの追求を止め、本題に気持ちを戻したヤマトに、イイノは大きく頷いて見せた。
「ええ。あの乾燥機はトラブルを起こす。そして、トラブればヤマト先輩を呼ばなきゃいけない…」
「まぁ、そうだなぁ…。自慢する訳じゃあないけど、普通のヤツじゃアレは持ち上げられないし…」
「それが理由です」
頷いたヤマトの目を見つめ、イイノはキッパリと言った。
「ん?」
ヤマトは意味が解らずに首を傾げたが、オジマは察しが付いたのか、少し驚いたように眉を上げてから、「なるほど…」と、
低く呟いた。
「わざわざあの乾燥機を使ったのは、寮監を呼び出すためか…」
「え?」
一人だけ事情が飲み込めていないヤマトに、オジマは口の端を僅かに吊り上げながら告げた。
「寮監に話しかける為の口実…、親しくなる口実として、わざと乾燥機を暴走させた…、そんなところだな?イイノ」
「そういう事だと思います」
オジマに同意を求められたイイノは、微笑みながら頷いた。
「お、俺と…?」
まだいまひとつ飲み込めていない様子のヤマトは、自分の顔を指差しながら、オジマとイイノの顔を交互に見つめる。
「一回目はただの偶然かもしれません。呼びに来たのもチワダじゃなかったですし、それ以前にはあの二人が乾燥機を暴走さ
せた事、無かったですよね?」
「まぁ、それまでは無かったなぁ…」
ヤマトに確認を取ったイイノは、さらに続けた。
「その一回目に助けてもらって、寮監に好意を抱くようになったのか…。あるいは、もっと前から寮監に好意を持っていて、
助けてくれる事を知ったから以後も繰り返したのか…。どっちなのかは解りませんが、二回目以降はチワダが呼びに来ている
でしょう?二回目以降はどんな感じでした?」
「あ…、そう…だったかも…?えっと、二回目からは…」
首を捻り、記憶を辿りながら当時の状況を伝えたヤマトに、イイノは顔の前で立てた人差し指を左右に振りながら続けた。
「なるほど…。ハヤカワの口ぶりだと、使わないように忠告したにも関わらず、チワダはその乾燥機を使っている…。しかも、
昨夜じっくり話せてからは同じ事を繰り返してない…。ほぼ決まりじゃないですか」
断定したイイノを、横に座っているオジマは誇らしげに見つめ、ウンウン頷いている。
一方ヤマトは、困ったように眉根を寄せながら俯き、太い指を胸の前でチョンチョンとつつき合わせ始める。
「い、いや…、でもぉ…。俺デブだし、あんな可愛いチワダが、俺みたいなおっさん臭い先輩をだな…、その、好意的な目で
見るなんてとても…」
「オレだってデブです!でもオジマ先輩はオレを好きだと言ってくれます。好みなんてそれぞれだし、外見だけで好きかどう
かが決まるとは、オレは思っていません!」
恥かしげな様子も見せず、身を乗り出してキッパリと言ったイイノに、ヤマトは気圧されたように仰け反る。
その横でオジマは目を丸くし、「何もこんな所でそこまで言わなくとも…!」とでも言いたげに、口をパクパクさせている。
「ヤマト先輩も、チワダの事が気になって気になって仕方ないんでしょう?カマをかけてみれば良いじゃないですか?足踏み
していたって前には進めません!オジマ先輩は、すっごく男らしく、ストレートに告白してくれました!オレ、あれで完璧に
惚れちゃいましたから!」
「ま、まままマサっ!?」
狼狽した様子で全身の毛を逆立てたオジマを無視し、イイノは熱弁をふるい続ける。
「自信を持って下さい!ヤマト先輩は頼り甲斐があって、なおかつ可愛い所もある、とてもステキな人です!あんな回りくど
い真似をしてまで、仲良くなるきっかけを作ろうとしたチワダには、告白する勇気を出すのはきっと難しい事です。だからで
きれば先輩の方から!」
「お、俺の方から…?」
恐る恐る、上目遣いに自分を見つめてくるヤマトに、イイノは真面目な顔で大きく頷いて見せた。
「ビシっとコクっちゃえ!」
「こ!?こここここここくっ!?」
勢い良く立ち上がったヤマトが、完全に裏返った声を出しながら首をブンブンと横に振っていると、だしぬけにドアがノッ
クされた。
「お、おおおおおふうっ!?」
ビクっと身を引きながらヤマトが漏らした声を返事だと思ったか、ノックの主は遠慮がちにドアを開け、隙間からそっと顔
を覗かせた。
「あ、あの…、寮監…?ちょっと良いですか…?」
ドアを振り返り、訪問者の顔を見たオジマとイイノの目が、揃って丸くなる。
今まさに話題になっていた本人、チワダは、何故かカチンコチンに固まっているヤマトと、彼に向き合う形で腰を降ろして
いる二人に気付き、「あ」と声を漏らした。
「あ…、ご、ごめんなさい…!お取り込み中、失礼しました…」
一礼し、少し残念そうにドアを閉めようとしたチワダに、我に返ったイイノは、腰を浮かせながら声をかけた。
「あ、待ってチワダ!」
ドアを閉じかけていたチワダは、イイノの声で動きを止める。
猪は傍らの虎に素早く目配せし、視線の意味を悟った虎は微かに顎を引いて了解した旨を伝える。
イイノは「それじゃあ、失礼します先輩方!」と、明るく声を上げると、足早にドアまで歩き、チワダの隣に並んでドアを
閉めた。
何が起こっているのか解らず呆然としているヤマトと、口元に微かな笑みを湛えているオジマが、二人で部屋に残される。
「え、えぇと…。何する気だ?イイノのヤツ…?」
恐る恐る訊ねるヤマトに、オジマは口の端を吊り上げて見せた。
「任せて良いでしょう。あいつはあいつで、寮監の為に一肌脱ぎたいらしい…」
「いやぁ、ありがとう。助かったよチワダ!何だか先輩方の難しい話につき合わされちゃってさ。席を立つタイミングがなか
なか…」
「そ、そうだったんだ…」
並んで廊下を歩きながら、親しげに話しかけるイイノに、チワダは愛想笑いを返す。
点呼の時間の少し前という事もあり、皆一旦部屋に戻っているのか、廊下に人影は無い。
絶好のチャンスに、イイノは意を決して口を開いた。
「チワダさ、好きな人ができたんだろ?」
「えっ!?」
ビクっと硬直し、足を止めたチワダの横で、イイノもまた足を止めた。
「やっぱり。なんだかソワソワしてると思ったんだよね」
チワダが「違う」と、否定の言葉を発する前に、イイノは優しげなバリトンボイスで先を続けた。
「ステキな人なんだろう?実ると良いね、その恋」
微笑みながらそう言ったイイノを前に、チワダは意外そうな顔をした。
チワダはてっきり「誰が好きなんだ?」などと追求されるのだと思った。だが、顔に似合わず優しい声と口調で話すこの同
級生には、想い人が誰か問いただそうという気はないらしいと、何となく察する。
「自慢じゃないけど、オレも付き合ってる人が居るんだ」
イイノは頭を掻きながら、自分の半分程度しかない小さな同級生に笑いかける。
「ステキな人なんだよ?男の恋人じゃなかったら、皆に自慢して回ってるくらい…おっと!」
イイノはうっかり口を滑らせた風を装い、両手で口を覆った。
「…え…?」
言葉の内容を察し、ビックリして目を丸くしているチワダに、
「あ〜…、皆にはナイショな今の?この通り…!」
苦笑いしながら、顔の前で両手を合わせたイイノは、驚愕の色を浮かべていたチワダの目が、少しずつ、理解と共感の色に
染まっていく様子を確認した。
「オレなんかこんな見た目だろ?その点じゃチワダが羨ましいよ。可愛いから、誰だってきっと好きになる」
「そ、そんな事…!ボク、ただチビなだけで…、何にも取り柄がないし…」
笑いながら言ったイイノに、チワダは慌てて首を横に振る。
それから少し俯き、上目遣いにイイノを見つめ、恥かしげに微笑んだ。
「で、でも…、有り難う、イイノ君…!ボク、イイノ君もカッコイイと思うよ?声も笑顔も優しいし、柔道も強いんでしょう?
羨ましいよ…」
いつもモジモジしていて、あまり喋らないチワダが、恥かしそうにしながらも話しかけてくる。
その事で、イイノは彼が自分に対し、いくらか心を開いてくれた事を悟った。
猪はそのいかつい顔に、かつて友人達や後輩に向けてきた、「優しい」と評されるその柔らかな表情を浮かべ、
「ははは!こっちこそ、誉めてくれてありがとうチワダ!」
屈託無く、チワダに笑いかけた。
その数十分後、ぼーっとしながら各部屋を回り、点呼を終えたヤマトは、部屋に戻るなりボフッとベッドに倒れ込んだ。
点呼で訪ねたチワダの部屋で、
「さ、さささっきは…、何の用事だったんだ?」
と、それとなく、しかし見事なまでに上ずった声で尋ねてみたものの、小さな後輩は、
「いえ、た、大した事じゃ無かったんですぅ…!」
と、恥ずかしげに微笑みながら返答した。
ベッドに俯せに倒れ込んだまま、ヤマトはチワダの顔を、声を、その抱き心地を思い出す。
柔らかい毛に覆われた、乱暴に抱き締めたら壊れてしまうのではないかと不安になるほど、小さく、細く、柔らかな、細か
く震えていた体…。
涙をいっぱいに溜めて自分を見つめていた、顔の割に大きな、ウルウルした瞳…。
感情を雄弁に語る、これまた体に比して大きな、ピクピクと目まぐるしく動く耳…。
恥ずかしげに、それでも嬉しそうに微笑んだ際にハタタっと振られていた、フサフサした毛に覆われてカールした尻尾…。
護ってやりたくなる、か細く、華奢で、愛くるしい二つ下の後輩…。
「…やっぱ…、惚れたんだ…なぁ…」
枕に顔を埋めたまま、ヤマトは呟いた。
そして、その翌日、点呼前。
「バッチリだよ。「ボクも男の人を好きになったんだ」なんて事まで話してくれた」
「そうか。寮監の方は、言葉をかけてみる事にしたようだ」
オジマの部屋で顔を合わせた二人は、それぞれの知った情報を交換した。
並んでベッドに腰掛け、オジマの肩に軽く頭を預け、寄り添うような格好で、
「上手く行くよね、きっと…」
イイノは微笑みながら呟く。
「あまり楽観はしない方が良いぞ、マサ。祈るだけにしておけ」
オジマはそう応じながら、冷蔵庫に視線を向けた。イイノも恋人の視線を追い、冷蔵庫に目を向ける。
「ところで、さっき冷蔵庫に入れた袋、何だったんだい?」
「一応、俺からの祝いのつもりでな。今しがたコンビニで買って来たコーヒーゼリーだ」
「…な〜んだ。ユウヤも上手く行くと思ってるんじゃないか」
「………」
可笑しそうに含み笑いを漏らしたイイノの横で、オジマは困ったように鼻の頭を掻いた。
その数分後、定刻通りに点呼を始め、各部屋を回っていたヤマトは、
「へ?そ、相談?」
チワダの部屋で目を丸くした。
「は、はい…。あの、さっきお邪魔した時に、そのぉ…、お話ししようかと思ったんですけれど…」
俯き加減でモジモジと話すチワダを前に、ヤマトはゴクリと唾を飲み込む。
(き…、きた…!)
「て、点呼が終わってからで、い…良いかなぁ…?」
「は、はい!お邪魔して、良いですか?」
嬉しそうに尻尾を振るチワダに頷きながら、
(お、落ち着け俺!ま、まず手早く点呼を終わらせて、へ、部屋を片付けて…!あ、ジュースとかあったか!?チワダはどう
いうのが好みだろう…?)
常に無いほど、頭を高速回転させていた。
「お、おうっ!あいてるよぉうっ!」
裏返った声でノックに応じたヤマトに、ドアを開けて入ってきたチワダは、はにかんだ笑みを向けた。
慌てて片付けた部屋は、隅の方に荷物が固められて、やや見栄えは悪いものの、先日とは違い、きちんとテーブルが使える
ようにされている。
「お、おじゃまします…」
「おう!あ、上がって上がって!遠慮無く!」
ギクシャクとした動きで座るようにチワダを促したヤマトは、テーブルの上に炭酸飲料の缶を二つ置くと、チワダとはテー
ブルを挟んだ向かい側に、ビシッと正座する。
「で、な、何かな?そのぉ…、話は…?」
ヤマトに促されたチワダは、耳を伏せながら、僅かに俯いた。
「え、えぇと…。ぼ、ボク…、実は、好きな人が…、居るんです…」
思っていたよりもまっすぐに、寄り道する事無く話題がそちらに向かい、ヤマトは軽く狼狽した。
耳を伏せ、落ち着かなげに短い尻尾をモソモソ動かしているヤマトの様子には、しかしテーブルの上に視線を固定したチワ
ダは気付いていない。
「じ、実は…、ま、まだ会ったばかりで…、この寮に入って初めて顔を、そのぉ…、あわせて…」
チワダは俯きながらボソボソと続け、ヤマトは目をまん丸にしたまま、言葉を発する事もできず、とりあえずコクコクと頷
いている。
「そのぉ…、だから…、あ、相手の人の事も…、まだ、それほど良くは、知らなかったんですけど…」
チラッと、上目遣いに潤んだ瞳を向けられ、羆はゴクリと、音を立てて唾を飲み込んだ。
「そ、その…、や、優しくぅ…、されてぇ…、す、す…、好き…に…なっちゃ…ったん、で、すぅ…!」
チワダは再び顔を伏せプルプルと震えながら、なんとか言葉を吐き出した。
一方ヤマトはというと、あいかわらず無言でカクカク頷くだけで、気の利いた言葉をかける余裕すらない。
「で、でで、でもぉ…。ボクなんかに好きに、なられても…、迷惑、かなぁ、なんて…、思って…」
チワダは俯いたまま、それでも恥ずかしさを堪えて、プルプルと小刻みに耳を震わせながら言葉を紡ぐ。
ヤマトは、そのいじらしい後輩の姿を前に、あがって、声も発せられなくなっている自分が、恥ずかしく思えて来た。
(な、何やってんだよ俺…!決めたじゃないか、チワダの気持ちを確かめるって…!婉曲な表現だけど、チワダは頑張って喋っ
てるってのに、俺は…!)
一度ギュッと目を瞑り、それから瞼を上げた羆は、小さく、しかしはっきりと一度頷いた。
「ち…、チワダ…」
ヤマトは掠れた声で後輩の名を呼び、それからまたゴクリと喉を鳴らした。
「あのな…。お前に好きになられたって、これっぽっちも迷惑に思ったりなんかしない」
覚悟を決めて一言発してしまったら、自分でも驚くほど気が楽になった。
ヤマトはきちんと言葉を伝えられる状態になった事に安堵し、笑みを浮かべながら続ける。
「むしろ、凄く嬉しいよ。チワダに好きになって貰えて…」
ゆっくりと顔を上げ、オドオドと上目遣いに自分を見つめたチワダに、ヤマトは優しく微笑みかけた。
「チワダは可愛いな、本当に」
「りょ、寮監…」
目をウルウルさせるチワワに、羆は微笑みながら、大きく頷いた。
「あ、ありがとう、ございます…!今なら…、今ならボク、言える…!」
チワダは目尻から涙を零しながら微笑むと、
「ボク、ハヤカワ君に告白してみます!」
「おう!俺も…、へっ!?」
ヤマトは妙な声を上げ、目をまん丸に見開いた。
「寮監に励まされたら、告白する勇気が湧いて来ました!有り難うございます!」
チワダは口をポカンとあけているヤマトの前で、深々と頭を下げた。
「気持ちが変わっちゃう前に、言ってみます…!」
耳をピンと立て、胸の前で両拳を握り締め、鼻をピスピス鳴らし、天井を見上げてやる気になっている後輩を前に、
(あ、あれ?…あれぇ?)
ヤマトの頭の中は、疑問符だらけになっていた。
「有り難う御座いました寮監!あとで結果を報告しに来ますから!」
「あ?あ、あぁ…。が、がんばってぇ…な…?」
呆然としながらも、ヤマトは立ち上がったチワダに片手を上げて応じる。
ペコリとお辞儀し、ドアに向かったチワダは、ノブを握りながら、何かを思い出したように、魂が抜けてしまったようなヤ
マトを振り返った。
「あ、あの…。今度、寮監の恋人さんも、紹介してくださいね?」
「へふ?あ、ああ、うん…」
「それじゃあ、失礼しました。有り難う御座います、寮監!」
晴れ晴れとした笑みを見せて、ドアを押し開けたチワダは、
「あ、どうも…!」
と、ドアのすぐ前に立っていた二人にペコっと一礼し、足早に歩き去って行った。
チワダがヤマトの部屋に入った事を確認し、そろそろ告白か?笑い声はまだか?などと、祝いに飛び込む準備をしていたオ
ジマとイイノは、キョトンとした顔を見合わせ、それから部屋の中へ視線を移す。
一人、部屋に残されたヤマトは、
「は…、はは…。ははははぁ〜…」
とうとうと涙を流しながら、力なく微笑んでいた。
「…済みませんでした。先輩…」
「申し訳ない、寮監…」
テーブルを挟んだ向かいに座り、テーブルに額を擦りつけて詫びる二人に、
「ああもう!良いから顔をあげろってば…!」
ヤマトは頭をガリガリと掻き、苦笑いしながら声をかけた。
「いや、俺もほら、舞い上がってたっていうか…、疑いもしなかったしさ…。チワダの気持ちがどうあれ、俺が惚れてたって
のは間違いないし…」
羆は顔を上げた二人から、少し気まずそうに視線を逸らした。
「早いうちに決着がついて、良かったのかもなぁ…」
ヤマトから事の顛末を聞かされた二人は、なんとも情けない表情で顔を見合わせる。
「本当に済みません…。オレが勝手な想像を巡らせて、焚きつけるような真似までして…、結局は…」
しょぼくれた様子で謝るイイノに、ヤマトはカラカラと笑う。
「良いんだ良いんだ!俺だってすっかり勘違いして、その気になってたしな」
かけるべき言葉も見当たらず、無言のまま、気の毒そうにヤマトを見つめていたオジマは、思い出したように脇に置いてい
たコンビニの袋を掴みあげた。
「…とりあえず、差し入れです。食いましょう」
オジマは、お祝いにするはずだった、少し値の張るコーヒーゼリー四つを、差し入れという事にして並べる。
テーブルの上に並んだ、人数よりも一つ多いコーヒーゼリー。
差し入れと称されたそれらを前に、オジマが何のつもりでこれを用意したのか悟ったヤマトは、顔を歪ませて「ぐしっ…」
と鼻を啜った。
イイノは「何で四つ並べるの!?」とでも言いたげに、責めるような視線でオジマを睨み、失敗に気付いた虎は、耳を伏せ
て顔を引き攣らせ、「ぬ…!」と呻く。
気まずい沈黙が狭い空間を支配し、しばらくの間、ヤマトが鼻をすすり上げる音だけが、部屋に響いていた。
「…寮監、二つ…、食ってください…」
ようやっと声を絞り出したオジマが、羆の前にコーヒーゼリーをつぅっと押し出すと、
「お、おう…。サンキューなぁ…」
ヤマトは、無理矢理に笑みを浮かべて見せた。
三人はそれぞれ、開封したコーヒーゼリーに、添え付けてあったミルクを垂らす。
透明なプラスチックのスプーンでコーヒーゼリーを掬い、一口目をじっくり味わってから飲み下したヤマトは、おもむろに
天井を見上げ、泣き笑いの表情で「ズビッ!」と、鼻を啜り上げた。
「…はぁ…。ほろ苦ぇ…」
「そもそも、一回目の乾燥機の暴走が、チワダがハヤカワに惚れたきっかけだった訳だ」
翌朝、寮から学校までの道程をのしのし歩きながら、頭の後ろで腕を組んだヤマトはそう言った。
「あの時ハヤカワは途方に暮れてたチワダを慰めて、俺を呼びに来た。それでまぁ、頼れる優しい隣人って事で、好意を持っ
たらしいなぁ」
昨夜の内にチワダから詳しい経緯を報告されたというヤマトの説明に、その両脇に並び、歩調を合わせて歩くオジマとイイ
ノは、時折相づちをうちながら耳を傾けている。
「二回目は、ハヤカワの方が試しにって事で使ったらしい。で、恩返しのつもりで、チワダが俺を呼びに来た」
「では、三度目は一体?」
尋ねるオジマに、ヤマトは苦笑いした。
「ハヤカワと親密になるきっかけが欲しいけど、どうして良いか解らない。で、もう一回やってみたそうだ。何の事はない。
イイノの言った通り、チワダがあの乾燥機を使ったのは、やっぱり仲良くなるきっかけ欲しさからだってわけだ」
もっとも、イイノの予想とは、仲良くなりたかった対象がそもそも違っていたのだが。
「…済みません…。勝手な想像で突っ走っちゃって…」
「だ〜か〜ら〜、気にするなっての!」
項垂れて詫びるイイノの首に、ヤマトは笑いながら太い腕を回す。
「俺がチワダに惚れたって事は間違いないんだ。イイノは何も悪くないさ」
少し乱暴にヘッドロックをかけられたイイノが、苦しげに、しかしほっとしたような顔で笑う。
「それに俺、自慢じゃないけど失恋四度目だからな!」
本当に自慢できない事だが、ヤマトは殊更に胸を張って言い放つ。
もっとも、相手にもその気があるのかも?と期待したのは、今回が初めてである。
ダメージは決して浅くはなかった。が、ヤマトはそれを腹に収め、穏やかな視線を前に向け、二人に顎をしゃくって見せた。
「それとホレ、見ろよあいつら」
ヤマトが示した先、三人の30メートルほど前を、チワダとハヤカワが並んで歩いている。
「チワダが告白したらさ、ハヤカワは困ったような顔で「考えさせてくれ」って返事をよこしたらしいけど、こうやって見る
と上手く行きそうじゃないか?」
何を話しているのかまでは解らないが、時折横を向き、口を開いている二人の一年生は、互いに笑みを浮かべている。
そのチワダの楽しげな横顔を遠目に眺めつつ、ヤマトはほんの少し寂しげな、だが嬉しそうな笑みを浮かべた。
「うん。良かった!チワダもハヤカワも、楽しくやって行けそうで」
(良い人過ぎます…。先輩…)
心の中で呟きつつ、イイノは微苦笑を浮かべながら目だけ横に向け、羆の出っ張った腹越しに、自分の恋人の顔を盗み見た。
(ユウヤが気に入る訳だよ…。ヤマト先輩は本当に、天然記念物級のお人好しだ…)
羆は目を細めて後輩達の後姿を眺めながら、口を開いた。
「ホント、毎日毎日色々あって退屈しない。泣いて笑ってずっこけて。惚れてバカして喧嘩して…。丸二年以上続いても飽き
ないもんだ。似たような、それでいて同じ日なんて一日も無い生活ってのは…!」
丈夫そうな歯を見せ、にぃ〜っと笑ったヤマトの横で、オジマは軽く目を閉じ、口元に微かな笑みを浮かべて、イイノは一
瞬不思議そうな顔をした後に、満面の笑みを浮かべて、それぞれ頷いた。
似たような、それでも同じ日など二度とない日々を、寮生達は思い悩み、そして楽しみ、過ごして行く。
その一日一日が、甘酸っぱくてほろ苦い、青春の1ページ…。