私立醒山学園男子寮三号棟の向暑の頃
なだらかな傾斜を描く緑の山々に抱かれた、のどかな道北の街。
その街の中心に聳える私立高校、醒山学園には、六つの学生寮が存在する。
学校の裏手に建ったそんな寮の一つ、男子寮三号棟のやけに散らかった一室で、
「………」
仏頂面の虎が、携帯ゲーム機の通信プレイに没頭している羆と猪の二人を、無言でじっと見つめていた。
黄色地にくっきりと黒いストライプが入った虎族特有の被毛。
180センチを超える、贅肉が殆ど無い筋肉質で立派な体。
いかめしい顔つきのせいで、いつも不機嫌そうに見える虎は、…今日は本当に不機嫌であった。
この大柄な虎、名は尾嶋勇哉(おじまゆうや)。今年十七歳となる二年生であり、柔道部に所属している。
ここで特記しておくべきは、彼が重度の機械オンチである事。
電子レンジならばなんとか、ビデオの録画予約は不可、携帯では通話とメール送受信がかろうじて使えるレベルで機械が苦
手なのである。
そんなオジマはゲーム等にも疎く、後輩であり恋人である猪と、先輩である羆が、通信プレイで楽しく盛り上がっている様
子を…、
「……………」
不機嫌そうに、そしてほんのちょっぴり寂しそうに、黙したままじっと見つめていた。
やがて一段落ついたのか、羆はヘッドフォンを外し、猪もそれに倣い、互いに携帯ゲーム機の電源を落とす。
「かなり集まりました。先輩とやると狩りが楽で助かります」
笑みを浮かべてそう言ったのは、一年生の飯野正行(いいのまさゆき)。オジマと同じく柔道部所属である。
猪特有の剛毛に覆われた体は、鍛えられてはいるものの、やや脂肪の乗った太り気味の体型。
身長も170を超えているのだが、その体型のせいか、ずんぐり短身の印象を受ける。
大きな鼻に立派な牙の、猪らしいいかつい顔立ちではあるものの、落ち着いたバリトンボイスと、穏やかな眼差しと表情か
ら、人の良さが滲み出ていた。
「でも、済みませんね?このランクの素材じゃ、先輩にはあまり美味しくないでしょう?」
「いやいや、俺の方でもこの辺の素材は結構役立ってる。称号欲しいから、作ってなかった武器埋めに使えるんだよ」
そう上機嫌に応じた羆は、ここ、男子寮三号棟の寮監を務める大和直毅(やまとなおき)。
身の丈2メートル強。体重190キロ強。小山のような体躯は薄茶色のムクムクした被毛に覆われ、むっちりと肥えている。
眉は太く顔も大きな、山親父と形容するに相応しい風貌の蝦夷羆は、しかし今年で十八になったばかりの三年生である。
黒いジャージ姿の虎と猪に対し、羆はパジャマであり部屋着でもある浴衣姿。
夜間に浴衣や甚平を着用した寮監が徘徊するのは、この寮では常の事。
最初こそ違和感に眉をひそめていた新入生も、六月に入った今では、そろそろ慣れてきている。
「…っとぉ、もうじき点呼の時間だな…」
ヤマトが「どっこらしょ…」と腰を上げると、オジマとイイノも揃って立ち上がる。
「それじゃあ、部屋に戻ってますね?お邪魔しました」
「………」
会釈して部屋を出ようとしたイイノの横で、むっつり黙り込んだまま会釈するオジマ。
「なんだ?ヤキモチやいてるのかオジマ?」
「ち、違っ…!」
ヤマトがカラカラと笑いながら言うと、オジマは耳を伏せながら、慌てたように声を発した。
「だから先輩もやれば良いじゃないですか?貸しますって言ってるのに…」
「機械は苦手だ」
苦笑いしながら言ったイイノに、オジマは不機嫌そうにそう応じた。
「ま、無理にやれとは言わないが、試しにちょっと借りてみたらどうだ?面白いんだぞ?」
ヤマトは笑いながら二人を送り出すと、ボードにチェックシートをセットし、定時の点呼の準備を始めた。
本州では梅雨入りが騒がれているこの時期も、梅雨が存在しない醒山では、からりとしていて過ごしやすい。
山々に囲まれている為、時には山を下って来た朝霧が街をスッポリ覆う事もあるが、それも気温が上がるまでの事。日がな
一日湿っぽい事などはあまり無い。
生まれてこの方北街道を出た事が無く、梅雨という物を経験した事のないヤマトにとっては、本州から来ている寮生達の、
雨の少なさにアレレと首を傾げている反応の方が不思議でならなかった。
連日雨が降り続くなど、なかなかに面白い天気なのではないかと思うのだが、皆に聞けば「うっとおしい」「嫌な季節」な
ど、あまり歓迎されていないとはっきり解る反応しか返って来ない。
「そんなに雨が降るなら、相合い傘とかしたい放題じゃないか…」
というのがヤマトの意見ではあるものの、そもそもこの羆、相合い傘をする恋人が居なかったりする。
そんな独り身の寮監が点呼に訪れた部屋で、
「スゴ〜、居るか〜?」
「うーっス!」
足を広げてベタンと座り、床に広げた漫画本を読んでいた少年は、顔を上げ、元気に返事を返した。
彼もまた、ヤマトと同じく梅雨を知らない、道北で生まれ育った寮生である。
垂れた耳が印象的な猫、スコティッシュフォールドの獣人、数河公康(すごきみやす)は、この種にしては変わり種の少年
であった。
平均よりもやや低い身長に、コロっとした小太りの体型で、他の寮生にはよくポチャネコと揶揄されている。
背はやや低いものの、横に発育良好なこの一年生は、相撲部に所属していた。
「今日は何を読んでるんだ?」
「エフェクトデリバリーっス」
「ああ、去年映画になったアレの原作?」
「いやいや、ホントの原作は小説なんスよ?ほら、オニギリイナリっていう…」
「櫻和居成(おうにぎいなり)だよ…。映画は見なかったけど…、面白いのかソレ?」
ボードにチェックを入れながら訊ねたヤマトに、スゴは、
「おれは好きっスよぉ。何なら読んでみるっスか?三巻までは読み終わってるんで」
腰を上げ、傍に重ねていた漫画を三冊手に取って歩み寄った。
「そっか。んじゃ悪いけどちょっと借りてみるかなぁ」
差し出された本をスゴの手から受け取ったヤマトは、笑みを浮かべて片手を上げた。
「ありがとよ、明日には返す。じゃ、おやすみスゴ」
「うーっス!おやすみなさいっ!」
廊下に出てドアを閉めたヤマトは、スゴがこの寮にやって来た日の事を思い出しながら歩き出した。
それは、イイノが入寮した次の日の事。
最終日にやって来た、最後の入寮生二人の片割れが、スゴであった。
そのきさくな人柄に触れれば誤解は解けるのだが、ヤマトは縦にも横にも大きく、初対面では大概の相手が萎縮する。
今年度の入寮生の大半もそれに当てはまり、初対面でも普通に返答をよこしたのは、スゴを除けば、ヤマトに負けず劣らず
の体格をした友人を持つイイノだけであった。
しかもスゴの場合は、最初の挨拶の時からヤマトにニコニコと笑いかけただけでなく…、
「入部の希望は、いつから取り始めるんスか?先輩!」
と、その夜の点呼の時に、そう質問したのである。
「いや、俺部活してないんだけど?」
とヤマトが不思議そうな顔で応じると、スゴもまたキョトンとした。
点呼をして回っていた浴衣姿のヤマトを見て、ポチャネコは寮監が相撲部だと思い込んだのである。
後日その話を聞いた同学年の寮生達は笑い転げ、あのオジマですら俯いて肩を震わせ、笑いを堪える始末。
最初からヤマトに良く懐いたスゴは、快活で真面目、人懐っこい性格のせいで、他の上級生からもウケがいい。
騒がしい相手は嫌いなはずのオジマも、何故かスゴにはそう邪険には当たらない。
ヤマトの分析によれば、恐らく好みのタイプに近いから、というのが理由である。
真面目で根性がある太め体型。どうやらそれがあの虎の好みであるらしい事が、ヤマトには察せられていた。
それらの条件が完全に合致するのが、恋人のイイノである。
なお、ヤマトほどの巨体と恰幅になると、完全に守備範囲外であるらしい…。
「アサガ〜、居るなぁ〜?」
「は…、はい…」
先ほどの訪問先とはうって変わり、その部屋の寮生は、元気の無いか細い声で返事をした。
机の上に広げていた教科書から顔を上げ、開けられたドアを振り返ったのは、角が生え始めたばかりの、幼い顔立ちの羊。
羊特有のフカフカな被毛に覆われた一年生は、麻賀洋(あさがよう)。
例に漏れず、初めてヤマトと向きあった際に、硬直してしまった寮生の一人であった。
それだけでなく、六月に入った今でも馴れていないのか、未だに態度が硬く、どこか敬遠されているようなフシすらある。
「また勉強か?熱心だなぁ」
「はぁ…」
「イイノから聞いたけど、勉強できるんだって?中間試験でもかなり上位だったとか」
「い、いえ、そんな事は…」
「はは!そう硬くなるなって!熱心なのは結構だが、あんまり根を詰め過ぎるなよ?」
「はい…」
ヤマトの方は折を見て話しかけるのだが、アサガの方はオドオドと言葉少なに応じるだけで、会話が弾まない。
「それじゃあ、おやすみアサガ」
「お、おやすみなさい、先輩…」
部屋を出たヤマトは、ガリガリと頭を掻きながら、今度はアサガと初めて会った時の事を思い出した。
それは、やはりイイノが入寮した次の日。
今年度、スゴと共に最後にやって来た寮生がアサガである。
ヤマトを一目見るなり、羊はギシっと固まり、コクコクと頷く以外には反応を示さなくなった。
そこまで萎縮されたのは、迎えた寮生の中でもアサガだけであり、そういった反応に慣れているヤマトでも少々面食らった。
スゴとは同郷の幼馴染という事だったが、アサガの方は口数が少なく、引っ込み思案。
おまけに何を話しかけても、頷くか、「はい」「いいえ」程度の短い返答しか戻って来ない為、なかなか打ち解ける事がで
きないでいた。
ついでに言うなら、警戒でもしているかのようにヤマトを避けようとする。
どうやら極端な人見知りのようだとスゴの話から察する事ができたが、緊張を解かせる手立ても考え付かないまま今に至っ
ている。
ヤマトとしては、アサガにももう少し緊張を解いて貰い、リラックスして寮生活を楽しんで欲しい所なのだが、あれこれ話
しかけはするものの、今のところあまり上手く行ってはいなかった。
「チワダ〜、居るなぁ?」
「はい!お疲れ様です、寮監!」
尻尾をパタタッと振りながら、笑顔で返事をした小柄なチワワに、ヤマトは柔らかい笑みを浮かべて頷く。
「どうだ?ハヤカワとは。今日は一緒に外で夕飯食って来たんだろう?」
「え、えぇっと…、そのぉ…」
はにかんだ笑みを浮かべ、モジモジしているチワダの反応を見たヤマトは、声を上げて笑った。
「ははは!良い良い!無理に言わなくたって解る」
曖昧な照れ笑いをしているチワダを前に、羆は満足気な笑みを浮かべ、大きく頷く。
ヤマトは、自分がチワダに惚れていた事は、結局告げなかった。
言った所で困らせるだけで、せっかく上手く行っているハヤカワとの関係にとって邪魔にしかならない。
そう判断し、オジマとイイノにも他言しないよう言い含めた上で、自分の腹に収める事に決めたのである。
チワダとハヤカワの楽しげな様子を見る度、軽く胸の奥が寂しく疼くが、それでもヤマトは満足していた。
徐々に薄れてきているこの疼きも、やがては消えて行くのだろう。そう自分を言い包めて。
「それじゃあ、おやす…っと、そうだ…」
就寝の挨拶をする前に、ヤマトはドアを閉めると、声を潜めてチワダに尋ねた。
「あ、あのさ…。………は一応試して…………けど…、俺、アレは無理そう………、代わりの…………かな?できればもう少
し………なヤツとか…」
点呼を終えたヤマトは、遅めの入浴にやって来た。
寮の一階にある、一度に十五人以上がゆうゆうと入れる浴場は、時計が午後十時を示すこの時刻になると、ヤマトの他には
誰も居ない。
点呼の前に風呂を済ませるのが常なのだが、今日はイイノとゲームに興じていたので、今になっての入浴である。
肉付きの良い巨体を揺すり、鼻歌交じりに浴室に入ったヤマトは、片手にコーラの1.5リットルボトルをぶら下げていた。
風呂に浸かって汗を流しながら、冷えたコーラをグビグビやるのが、この羆が愛する入浴方法である。
勿論、他の寮生の手前、混み合う時間帯にはできない。
しかし、この時間になれば空いているのは解っているので、週に一度か二度は、人目を忍んで消灯前の時間に、こうしての
んびりと入浴を楽しむようにしている。
水を張った洗面器にボトルを浸けたヤマトは、まずは立ったままシャワーを頭からかぶって全身を湿らせた。
くせのあるモサッとした体毛は、濡れれば体にぺたりと張り付き、幾分体積が減ったようにも見える。
一通り体を流し、ボディシャンプーを手に取って泡立て、全身を洗い始めてからしばらくした頃、脱衣場から物音が聞こえ、
ヤマトは訝しげに首を巡らせる。
この時間に、自分の他にもまだ入浴していない者が?
意外に思いながら磨りガラスがはめられた引き戸を見つめていると、ガラスの向こうで白い影が動いて見えた。
程なく、戸を引き開けて姿を現したのは、全身が白いフカフカの毛に覆われた、羊の少年であった。
「アサガ?風呂まだだったのか?」
一年生の羊、アサガは、先客が居た事に少し驚いた様子で、目を大きくする。
やがて、アサガはペコリと一礼して、ヤマトが使っているものから最も離れたシャワーに向かう。
(やっぱ避けられてるよなぁ、俺…)
眉根をよせ、微妙な顔つきで腋の下を拭うヤマトに、椅子に座りながらちらりと視線を向けたアサガは、
「………?」
不思議そうな表情を浮かべ、羆の傍の洗面器に浸けてあるコーラのボトルを見つめる。
「あ?あ〜…、そのぉ、これ秘密な?」
後輩の視線に気付いたヤマトは、たっぷりとした胸を押し上げるようにして擦りながら、決まり悪そうに苦笑いした。
文面で禁止されている訳では無いのだが、言わなくとも常識で解ると判断され、条文化されていないだけである。
浴室での飲食など、もちろん褒められた物ではない事は、ヤマトも良く解っている。
無言のままヤマトとコーラを見つめた後、アサガは微苦笑を浮かべ、「はい」と小さく頷いた。
「ははっ!恩に着る」
笑いながら軽く頭を下げて、シャワーヘッドを手に取り、泡を洗い流しにかかるヤマト。
少し距離が離れている二人は、特に会話する事もなく、せっせと体を流す。
先に体を洗い終えたヤマトは、広い浴槽に身を沈め、手足を伸ばしてゆったりと浸かると、緩み切った表情で長い息を吐いた。
時にはその巨体を、脂肪過多の体型は別として羨ましがられるヤマトだが、でかいならでかいなりに困ることもあるのだと
本人は言う。その一つがまさにこれ、入浴であった。
普通のサイズの浴槽では、体を縮めて入らなければならない。場合によっては入れない事すらある。
畳んだタオルを頭に乗せ、気持ち良さそうに大の字に体を伸ばし、大欠伸するその様子は、とてもではないが十八歳の若者
には見えない。
そんなおっさん臭い外見の羆は、ふと視線を巡らせ、立ち上がったアサガを見遣る。
体を洗い終えた羊は、普段とは印象ががらりと変わっていた。
身に付けた衣類すらも押し上げるフカフカの豊かな被毛が、濡れそぼって体に沿って寝ており、ボディラインが解りやすく
なっている。
(へぇ…、結構細いんだなぁ…)
少し驚きながら眺めているヤマトの視線に気付くと、前を隠したアサガは顔を伏せて浴槽に歩み寄り、そっと足を入れた。
そして、湯船に体を沈めながらちらりと視線を動かし、ちょっと驚いたように、僅かばかり目を大きくする。
アサガのあまりの変わりように目を奪われていたヤマトは、「あ」と声を漏らすと、慌てて両手で股間を隠した。
(…って、完璧に見られたよなぁ今のは…)
顔を顰めてちらりと伺うと、アサガは口元に手を当てて、小さく笑っていた。
「…やっぱ、おかしいか?」
声をかけられたアサガは、「あ!」と声を上げ、慌てた様子で頭を下げた。
「え?い、いえ、その…、そんな事は…、す、済みません…」
しどろもどろになって詫びるアサガに、ヤマトは苦笑いで応じる。
「まぁ、大概びっくりされるけどなぁ…」
諦めたのか、ヤマトが手をのけた股間に、アサガはちらっと視線を向ける。
そこには、かなり短い逸物が、股間の肉と長い被毛に埋もれるようにしてチョコンとついていた。
皮は剥け、大人の逸物の形はしているものの、ヤマトのソレは太く、そして極めて短い。
太さと相まって極端な寸詰まりに見えるソレの事を、ヤマトは少々気にしていたりもする。
それを悟られるのが癪なのか、ヤマトは隠すそぶりもなく、湯を滴らせながらザバッと立ち上がる。
不機嫌にさせてしまったかとビクッと固まったアサガを残して浴槽を出た羆は、用意していた洗面器に歩み寄ると、コーラ
を掴み上げた。
封をあけ、ぐびぐびとコーラを飲み、「ぷはぁっ!」と満足げに息を吐き出した羆は、口元を腕でグイッと拭うと、羊に笑
いかける。
「体はでかくなっても、こっちはなかなかなぁ…。どうにもままならないもんだよ」
曖昧に頷き、顔を伏せたアサガは、横からグイッとコーラのボトルを突き出され、困惑したように顔を上げた。
「一応、口止め」
ニィッと笑うヤマトの顔と、差し出されたコーラを交互に見つめた後、アサガは会釈してからおずおずと手を伸ばし、ボト
ルを受け取ってチビッと飲む。
「おし、これで共犯な?」
ニヤリと悪戯っぽく笑ったヤマトに、アサガは微苦笑を返して頷いた。
再び浴槽に身を沈め、コーラを煽り始めたヤマトをちらりと見たアサガは、タオルで顔を拭うと、おずおずと口を開いた。
「あの…、寮監…」
「ん〜?」
「さっきはその…、済みませんでした…。ぼく、可笑しくて笑った訳じゃ、無いんです…」
俯いているアサガに視線を向けたヤマトは、訝しげに首を捻る。
「…寮監、恐そうなのに、あそこはその…、可愛いんだなって思って…、慌てて隠すところなんか見たら、なんだかほっとし
たって言うか、普通に見えたっていうか…」
「恐い?俺が?」
羆が問い返すと、アサガは「あ…」と声を漏らし、口をつぐむ。
「な、どういうトコが恐い?やっぱり見た目か?」
羊は答えなかったが、その沈黙をもって、ヤマトは当たりだと察する。
「あのさぁアサガ…、俺なぁ?ナリはでかいが気は小さいんだよ」
頭を掻きながらボソボソッと言うと、ヤマトは困ったような苦笑いを浮かべる。
「にしても…、ココの事、かわいいなんて言われたのは初めてだなぁ…」
「あ…、ご、ごめんなさい…」
体を小さくしているアサガに、ヤマトは湯を掻いて近付くと、中身が残り少なくなったボトルを差し出した。
「謝るなって。ま、微妙だけど褒め言葉と取っとく。…一応そっちの方も口止めな?」
苦笑いを浮かべながら言った羆に、おずおずと顔を上げた羊は、小さく顎を引いて頷いた。
「スゴ〜、ありがとなこれ」
翌日の夕食時、食堂に残っていたスコティッシュフォールドに歩み寄ると、ヤマトはテーブルの上に借りていた本を置いた。
チャーハンを口いっぱいに詰め込んでいたポチャネコは、モゴモゴと口を動かし、大急ぎで中身を飲み下すと、羆を見上げ
て人なつっこい笑みを浮かべる。
「どうだったっスか?」
「面白かった!鉄色の虎、格好良いなぁ!」
「そうっしょ!?おれも一番好きなんス!」
自分は早々と食事を終えたヤマトだったが、ちらりと向かいの席を確認すると、「ちょっと邪魔するな?」と声をかけて、
スゴの隣の椅子を引いた。
椅子を軋ませて腰を下ろしたヤマトを、スゴの真向かいに座り、黙々と食事をしていたアサガがちらっと見遣り、軽く会釈
する。
借りた漫画の内容について後輩と盛り上がる寮監の姿を、食堂の入り口に立った二人が見つめていた。
「寮監は誰とでも割と早く打ち解けるが…。アサガには手を焼いているようだな」
呟いたオジマに、傍らのイイノも頷いて同意する。
「アサガは先輩だけじゃなく誰とでも距離を置こうとするよ。ユウヤに対してはどうだい?」
「距離を置くというより、露骨に避けられている」
オジマのデフォルトである仏頂面を見遣り、イイノは小さく吹き出した。
「何だ?」
「いやぁ、無理も無いかなぁ、なんて…」
「…それはどういう意味だ?マサ…」
ジロリと睨まれたイイノは、肩を竦めて踵を返した。
「さてと。部屋に戻って支度しなくちゃ。点呼前に行かないと先輩にも迷惑かけるし」
「む!?またゲームか…!?」
オジマは不満げな表情を浮かべながらも、歩き出したイイノの後ろに従う。
「ユウヤもやってみればいいのに。食わず嫌いは直した方が良いよ?」
「嫌いではなく苦手なのだ。もっとも、好きでもないが」
「やってみればきっと好きになるって」
「だから、機械そのものが苦手なのだと…」
言葉を投げ交わしながら二人が去って行った後も、食堂ではヤマトとスゴが、まだ会話を弾ませていた。
「スゴ、居るなぁ?」
「うーっス!」
いつものようにチェックボードを片手に点呼をしていたヤマトは、ポチャネコの元気な返事に頷き返し、用紙にチェックマ
ークを書き込んだ。
「あ。アレ全部読み終わったんで、続き持って行くっスか先輩?」
「お?んじゃ悪いけど、また借りようかな」
笑顔で頷いたスゴは、漫画本がぎっしり詰まった本棚から二冊の本を抜き出し、羆に手渡す。
「ありがとな。…そうだ。アサガの事でちょっと聞きたいんだけど、良いか?」
「ヨウの事?なんスか?」
小首を傾げる後輩の、可愛らしい仕草に顔を綻ばせながら、ヤマトは口を開く。
「幼馴染みだから詳しいかと思ってさ。アサガ、昔から無口なのか?」
「う〜ん…、確かに人見知りはするかも?でも、おれとは普通に話すんスけどね…」
自分とは普通に会話するので、他の者が言うようなアサガの無口さが実感できないのだと、スゴは説明する。
(身近に居て普通に接して貰えると、逆に気付かないもんなのか…。これじゃああの硬い態度をどうにかする参考にはできそ
うもないなぁ…)
納得しながらも、しかしヤマトは少々困っていた。
意見を聞けると思っていたスゴに対して、あの羊は昔から普通に接している。これでは上手く付き合う参考にはならない。
アサガの態度を軟化させる手段は、なかなか見つからなかった。
「アサガ、居るかぁー?」
「………」
チェックボードを覗き込みながらドアを開けた羆は、返事が無い事に首を傾げながら、部屋の住人を眺めた。
入り口方向に背を向けて、床に座り込んでいる羊は、ヘッドフォンをはめており、ヤマトの存在に気付いていない。
「アサガ?」
首を捻りつつもう一度名前を呼んだヤマトだったが、アサガは腕を、肩を、時折微かに動かすのみで、返事をしない。
スリッパを脱ぎ、「おじゃましま〜す…」と小声で呟いて部屋に足を踏み入れたヤマトは、そっと、アサガの肩越しに手元
を覗き込んだ。
「…ありゃ…?」
羊の手に握られた携帯ゲーム機を目にすると、羆は面白そうに目を細めた。
(まさかとは思ったが、ホントにゲームしてる…。意外だなぁ、こういうのには興味無い、もっと堅苦しいヤツかと思ってた…)
小さな画面を後輩の肩越しに見つめたヤマトは、どうやら良い所であるらしい事に気付いた。
(結構弱ってるみたいだな…。もうじき討伐できそうだし、クエスト終わるまで待っとくか…)
声をかけるのは待つ事にして、しばし画面を見つめていた寮監の前で、やがてアサガはほっと息を吐き、体の緊張を緩めた。
「アサガ?」
「うわっ!?」
突然声をかけられ、一旦は緊張を緩めた羊は、ビクっと、文字通り飛び上がる。
「あ。悪い…」
よほどビックリしたのか、胸を押さえ、首を巡らせて自分を振り返っている後輩の顔を見下ろし、ヤマトはガリガリと頭を
掻いた。
「取り込み中っぽかったから静かにしてたんだが…、点呼な?」
「え?あ、ご、ごめんなさい寮監!」
ヘッドフォンを外したアサガは、卓上の置き時計に目をやると、既に点呼の時間になっている事に気付き、慌てて頭を下げた。
ゲームに集中していて、時間になっていた事に気付かなかったらしい。
ボードにチェックを入れたヤマトは、口元を綻ばせ、アサガに話しかけた。
「ソレ、俺もやってるんだ」
意外そうに目を丸くしたアサガに、ヤマトは笑みを深くする。
「ゲーム好きなんだよ。結構色々やってるんだぞ?そいつならイイノなんかもやってるしな。知らなかったか?」
驚きの表情で首を縦に振った羊に、ヤマトは楽しげに笑いながら片手を上げた。
「じゃあ、おやすみアサガ。良かったら今度一緒にやろうな?」
「あ、は、はい…!おやすみなさい、寮監…」
これはもしかしたら、打ち解けられるきっかけが見つかったかもしれない。
浴衣の尻から出ている短い丸尻尾をピコピコ動かしながら、ヤマトは上機嫌で片手を上げ、部屋を出る。
寮監が出て行ったドアを、アサガは呆けたような顔でしばらく眺めていたが、やがて目を細めると、微かな笑みを浮かべた。
「上手いなぁ…」
通信モードでゲームに興じながら、猪は感心して呟く。
翌日の夕食後、談話室で顔を突き合わせたヤマト、イイノ、アサガは、件のゲームを楽しんでいた。
「オレ、一番下手だし遅れてる…。足引っ張りで済みません…」
「仕方ないよ。だってイイノ君は部活しているじゃない?」
決まり悪そうに顔を顰めたイイノに、アサガは微笑みながら声をかけた。
「そうだよ。俺が一番進んでるのは、暇だからだしなぁ」
ヤマトもまた、苦笑いしながら追従する。
これまで、普段はあまり喋らなかったアサガだが、共通の話題が見つかると、不思議な事に自然に打ち解ける事ができた。
そんな盛り上がっている三人の方を、不機嫌そうな顔で眺めている男が居た。
今日も今日とて蚊帳の外のオジマは、自分と同色の、黄色地に黒のストライプが入ったスポーツドリンクの缶を、不機嫌そ
うにガブッと煽った。
ゲームに興味が無いとはいえ、自分抜きで盛り上がられてもいまひとつ楽しくない。
正直な所、イイノに構って貰えないのも少しばかり…、というよりも大いに寂しい。
口にこそしないものの、尾嶋勇哉、恋人の猪にゾッコンである。
そんな寂しさにつまらなさとジェラシーがブレンドされた視線を送るオジマは、自分と同じように三人を眺めている者が他
にも居る事に気付き、首を巡らせた。
談話室の隅、いくつか並べられたパイプ椅子に腰掛けたスコティッシュフォールドが、雑誌を読みながらもチラチラと三人
に視線を向けている。
(…そう言えば、スゴとアサガは古い馴染みだったか…)
「仲間に入らんのか?」
歩み寄ったオジマに尋ねられたスゴは、虎の接近に気付かなかったのか、ビックリしたように顔を上げた。
「いや…、おれ、ゲームの方は詳しくないんス」
仲間はずれにされて寂しいのだろうかと声をかけたオジマは、ポチャネコに親近感を覚え、隣の椅子に腰を下ろした。
「面白いものなのか?俺は機械が苦手で、ろくに知らんのだが」
「そうなんスか?おれはゲーム下手くそなんで、殆どやった事が無いんスよ…」
同類の連帯感とでも呼ぶべきであろうか、奇妙な親しみを覚え、二人はちらりと視線を交わす。
「先輩は、イイノと同郷なんスよね?幼馴染みなんスか?」
「いや、中学で初めて知り合った。スゴは、アサガと幼馴染みだったな?」
「うっス。長いっスね、家も隣同士だし」
応じたスゴは、まだゲームに興じている三人に視線を向け、ポツリと呟いた。
「…やっとヤマト先輩に馴れたみたいっスけど…。なんか…」
それ以上スゴの言葉は続かなかったものの、後輩の視線を追ったオジマは「ふむ」と頷く。かまって貰えなくて寂しいのだ
ろうと納得して。
だが、視線を戻し、三人を見つめたままのスゴの横顔を見た瞬間、訝しげに目を細めた。
スゴの目には、寂しさとはまた別の、何らかの感情が浮かんでいるように思えて。
オジマが「どうかしたのか?」と訊ねようと口を開きかけたその時、首を巡らせたスゴが先に声を発した。
「そだ。オジマ先輩、漫画とか読むっスか?」
「む?そうだな、あまり多くはないが…」
オジマはスポーツ漫画が好きである。現在も連載中の漫画の名をいくつか挙げると、スゴは笑みを深くした。
「オレも読んでるっス!単行本も集めてるんスよ?」
「ふむ?そうか…」
お互いに話し相手を見つけた二人は、談話室の隅で話に花を咲かせ始めた。
それから数日、ゲームに興じる三人の姿が談話室で見られるようになると、同じゲームをプレイしていた他の寮生も、輪に
加わるようになった。
引っ込み思案で無口だったアサガは、他の寮生とも徐々に打ち解けていった。
これにしめしめとほくそ笑んだのは、浮いているアサガを案じていた寮監の羆である。
寮内で件のゲームがにわかに流行り始めると、それまでプレイしていなかった者にも、ゲーム機を購入する者が出始めた。
「最近の高校生の財力は凄いもんだなぁ」
とは、バイトで稼いだ金を趣味に費やしているヤマトの言。
「見た目はともかく、寮監も高校生でしょう」
とは、流行に乗れていないオジマの言。
二人はゲームで盛り上がる一団から少し離れ、卓球を楽しんでいた。
ここしばらくの間、ついていけない流行を遠くから眺めて辟易していたオジマは、相手をして貰えて嬉しいのか、いつにも
増して張り切り、
「ちょ…っと!オジマっ!はぁ!お前…、おわっ!?も少し手加減、ぜひぃっ!しろっての!」
容赦のない左右への打ち分けと高速スマッシュで、寮監をメタクソにしていた。
「はい、終了〜っス!お疲れ様っしたっ!」
卓球台の横に立ち、スコアシートを捲っていたスゴが声を上げると、オジマは満足げに息を吐きながら、ヤマトはヘロヘロ
になりながら、台を離れてベンチに腰を下ろした。
「うげふっ!しょ、食後に…、はぁ、いきなりハードな…、ふぅ、運動なんて…、ごほっ!するもんじゃ、ないな…」
天井を仰ぎ見て、浴衣の胸元を開いてバタバタと風を入れるヤマトの横で、先にオジマと一戦していたスゴは、
「腹ごなしになるじゃないっスか」
ねじり鉢巻きにしていたタオルを解き、顔を拭いながらそう応じた。
ポッチャリしてはいても、柔軟な体の猫族。さらに相撲部の稽古で体を鍛えているスゴは、ヤマト程には疲労の色が見えない。
流行っているとはいえ、中には勿論ゲームをしない、興味を持たない寮生も居る。
和を好むヤマトは、流行り始めるまでのしばしの間は、毎日のようにイイノ、アサガとゲームに興じていたが、ゲームをす
る者が増えて自分が加わらなくとも十分だと見切りをつけると、今度はオジマやスゴのようにゲームが苦手な者のフォローに
も回るようになっていた。
「さて、だいぶ汗かいたし、風呂入って来るかな」
「なら俺も」
「あ。じゃあおれも行くっス!」
三人が汗を洗い流しに部屋を出てゆくと、たまたま手が空いたアサガは、部屋を出て行くヤマト達に気付き、視線を向けた。
「………」
微妙な表情で三人が出て行ったドアを見つめている羊の横顔を、
(ん…?アサガ、どうしたんだろう?)
同じく手が空いたイイノが、胡乱げに目を細めて眺めていた。
「アサガが、か?」
右腕を背中側に回し、片手腕立て伏せをしながら聞き返したオジマに、ベッドに腰掛けたイイノが頷く。
ヤマトが点呼に回った少しばかり後、イイノは恋人の部屋を訪れていた。
「何故だ?寮監が、懸念して、いた事は、ゲームで、解消、されたはず…」
腕立て伏せを続けたまま、規則正しい呼吸の合間に言葉を吐き出すオジマの姿を眺めつつ、イイノは「む〜…」と唸り声を
漏らした。
「でも、実際に寂しそうな顔をしていたんだ。思うに、アサガはもしかすると…」
言葉を途中で切り、腕組みをして考え込むイイノを見遣ると、オジマはついていた左手で上体を軽く跳ね上げ、足を引き寄
せてスッと立ち上がる。
岩石から削り出された彫像のような、鍛え抜かれ、筋肉に覆われた虎の体。しかしその動きは柔軟で軽い。
オジマが隣にドスっと腰を降ろすと、イイノは傍に置いていたタオルを差し出す。
「…気になるのか。だが、早計な判断は…」
受け取ったタオルで顔を拭いながらオジマが言いかけると、
「解ってるよ。前回の事もあるしね…」
イイノはそう応じてため息をつきながら、今度はスポーツドリンクを差し出す。
「まだ気にしているのか?」
ドリンクを受け取りながら訊ねたオジマに、イイノはコクリと顎を引いた。
良かれと思って先走り、チワダが貴方に惚れているのだとヤマトに訴えた一ヶ月前の失敗は、猪にとってはかなりの負い目
となっている。
結果的には、チワダに想いを寄せ始めていたヤマトが告白せずに身を引き、本命のハヤカワに告白したチワダは友達からの
スタートという事になって、事態は収まった。
が、ヤマトがいくら気にするなと言ったところで、イイノ自身は到底忘れる事ができない。
黙り込んでしまった猪の頭を、オジマはグシャグシャっと、いささか乱暴に撫でた。
「前回は少々突っ走り過ぎたが…、他者に気を配れるのはお前の美点だ。心から思い遣れるところはなおさらな」
そう言いながら手を引くと、虎はその厳めしい顔に、微かな笑みを浮かべる。
「寮監は赦してくれている。お前が気に病み過ぎると、寮監も気にするぞ?」
イイノは苦笑いを浮かべ、困っているように首の後ろをコシコシと撫でる。
「…むしろ、思い切り怒って、怒鳴り散らして貰った方が、気が楽になったかも…」
「そうできんのが、寮監の良い所でもあり、悪い所でもある」
訳知り顔でそう呟いたオジマは、恋人の視線を受けると、ニヤリと口元を歪めた。
「あの図体にあの顔つきだ。少しぐらい乱暴でがさつな言動をしていれば、そこにまた違う魅力も出てくるだろうにな。アイ
ツがそうだったように」
自分の友人が引き合いに出されている事に気付くと、イイノは可笑しそうに目を細めた。
「確かに、強面なのも体がでかいのも良く似てる」
「だが寮監は、運動は苦手で嫌い。ゲームは得意で好き。で、勉強はできる」
「アイツの方は、ゲーム類は苦手。運動は得意で好き。で、勉強はからっきし」
「だがまぁ…」
「「根っこ」は似ているかもしれないね?」
「同感だ」
二人は遠く離れた知り合いの顔を思い浮かべ、ヤマトと比較すると、可笑しそうに笑みを交わした。
一方、同時刻、この男子寮三号棟でもっとも散らかっている寮生の部屋では、
「悪ぃなぁ、散らかってて…。ビックリしたろ?寮監の部屋がこんなで」
ヤマトが決まり悪そうな苦笑いを浮かべつつ、夜の訪問者に缶のコーラを差し出していた。
「い、いえ!そんな事…!…遅くに済みません、寮監…」
荷物が乱雑に除けられ、何とか座るスペースを確保した座卓には、きちんと正座をした羊がついている。
「で、何だ、話って?」
座卓を挟み、向き合う形で「よっこらしょっ」とヤマトが腰を下ろすと、アサガは小さく身じろぎし、口を開いた。
「あ、あの…、寮監は、そのぉ…」
もじもじとしながら羊が発した小声は、緊張しているように硬い。
リラックスさせようと微笑みかけ、「うん?」と先を促すヤマト。
「りょ、寮監は、い、今…、す…、…!?」
突如聞こえたブイィィッという音に、アサガは驚いたように言葉を切って座卓に視線を向け、ヤマトも同じく首を巡らせる。
座卓の上に置かれたヤマトの携帯が、短く振動し、そして止まった。
「あ…、たぶん迷惑メールだから、気にしないでくれ。最近多いんだよ…」
困ったように言ったヤマトが先を促そうとすると、アサガは俯いて黙り込んでしまう。
(…何か相談事…?…だろうなぁ、この深刻な様子は…)
腕組みをしたヤマトが、何と言って先を促そうかと考えていると、アサガはペコっと頭を下げた。
「す、済みません…。やっぱり、いいです…。遅くにお邪魔して、ごめんなさい寮監…」
「ん?」
ヤマトは首を傾げた後、責めるような目で携帯を見遣った。
(口を開きかけたトコで携帯が鳴ったから、タイミング外しちまったかな…?)
アサガはすっと立ち上がると、「お邪魔しました…」と一礼し、座ったままのヤマトに背を向けた。
「なぁアサガ」
ヤマトに声をかけられると、羊はドアを開けた姿勢で首だけ巡らせた。
「相談したい事があるなら遠慮なく何でも言えよ?無理にとは言わないが、話す気になったらいつでもなっ!」
笑いかけたヤマトに、アサガは一度目を伏せてから、恥かしそうに微笑み返した。
「はい、ありがとうございます。寮監…!」
それからまた数日が過ぎたある日の事。
オジマの部屋では二つの人影が、立ったまま熱い抱擁を交わしていた。
ベッドの傍で立ったまま抱き合う二人は、共に下着一枚の姿である。
オジマは黒いボクサーパンツ。イイノは灰色と濃紺の縦縞トランクス。二人の足元には、互いの衣類が脱ぎ捨てられている。
時刻は午後七時半。食事を終え、点呼まではまだ十分な時間がある。
ここ最近、皆とゲームに興じる機会が多くなったイイノだったが、今日は恋人サービスの為に皆の誘いを断っていた。
「んっ…」
強く抱きしめられた猪は、重ねた唇の隙間から小さく息を漏らす。
そして、恋人の背に回した手で、くっきりとした黒いストライプが入った広い背中を撫でる。
鍛え抜かれた逞しい体の感触を確かめるように、きめ細かな被毛の中に指を埋めて、ゆっくりと。
閉じていた目を僅かに開き、静かに背を撫でられている虎が唇を離す。
イイノは顔を横にすると、鼻上をオジマの顎下に入れ、喉元にすり寄せる。
恋人を抱き締めたまま、喉をゴロゴロと低く鳴らすオジマの尾が、左右にひゅんひゅんと揺れた。
寡黙な本人に成り代わり、感情の機微を雄弁に物語る正直者の縞尻尾。
イイノはその根本を軽く握ると、先端に向かってすすっと撫でる。
少し毛を逆立ててフルルっと震えた尻尾を放したイイノは、その手をオジマの股間に這わせた。
「…むっ…!」
ボクサーパンツ越しに股間の膨らみをそっとさすられたオジマは、小さく体を震わせ、尻尾をピンと立てる。
その反応に気をよくしたのか、微笑を浮かべたイイノは、膨らみを覆うようにして手を這わせ、軽く揉みしだき始める。
刺激された膨らみはムクムクと大きくなり、あっというまにイイノの手に収まらなくなった。
「…溜まってた?」
「かもな」
微苦笑を浮かべるイイノに、言葉少なにそっけなく応じたオジマは照れているようにそっぽを向き、尻尾をひゅんっと一振
りさせる。
「やらしーなぁユウヤ、ちょっと弄っただけでこんなビンビンにして…」
「…ふん…!」
口をへの字にして鼻を鳴らしたオジマは、お返しとばかりに、イイノの胸に手を当てた。
鍛えているとはいえ、固太りしているイイノの胸は、筋肉の上に脂肪が乗り、丸みを帯びている。
その豊満な胸をいささか乱暴に揉みしだかれたイイノは、軽く顔を顰めながらも口元に笑みを浮かべ、オジマの口に自分の
唇を重ねる。
上がり始めた吐息と舌を絡ませる二人は、体をしっかり密着させ、きつく抱き合った。
二人が今まさに本格的な愛撫を始めようとしていたその時、
「オジマ先輩、アレの新刊が…あ?」
突然ドアが開いて声が聞こえ、二人は弾かれたように首を巡らせた。
開けたドアの前で、口をポカンと開けて突っ立っているのは、ポッチャリした猫…、スゴであった。
その手に掴まれていた、本日発売したばかりの漫画の単行本が、バサっと上がり口に落ちる。
誰もが動きを止め、沈黙が場を支配する。やがて…、
「ご、ごごごごごごめんなさいっ!邪魔する気なんかこれっぽっちもなかったんス!」
ガバッと頭を下げたスゴは、ドアも開けたまま廊下を駆け出す。
ポカンとしているイイノの腕を振りほどいたオジマは、大慌てでジャージのズボンを拾い上げ、ケンケンして穿きながら廊
下へまろび出た。
さすがに上を羽織る余裕までは無かったので、上半身は裸のままである。
コロッとした体型にもかかわらず、ポチャネコはかなり素早かった。
オジマが廊下に飛び出した時には、すでに20メートルは向こうに居る。
グッと身を屈めたオジマは、野生の虎が獲物に飛びかかるように、体を伸ばして大きく一歩踏み出すと、続く数歩で一気に
トップスピードに達した。
超高校級の身体能力を誇るオジマは、大柄な体を風のように前に蹴り出し、スゴとの距離をグングン縮める。
(声を上げて騒ぎ立てるのはまずい。追い縋り、捕らえ、黙らせる。至って隠密に処理せんとな…)
猫を追う虎が心の内で呟くその言葉は、本人にその意図はなくとも物騒な響きがある。
二人の距離がほんの数メートルに縮み、スゴが角を曲がって階段に向かう。
ほとんど速度を落とさず、素足で床を滑りつつ角を曲がったオジマは、
「おぶっ!?」
「むぎゅっ!?」
その光景を目にし、響いた声を耳にし、目を大きく見開いた。
角を曲がったスゴは、ちょうど一階から登って来て、そのまま三階の自室へ向かおうとしていた羆とはちあわせしていた。
はちあわせしたのみならず、勢いを殺しきれずにヤマトに正面衝突したスゴは、その鳩尾に顔から突っ込んでいた。
「どわわわわわわっ!?」
背後には階段。バランスを崩せば転げ落ちて行くその状況で飛び込まれたヤマトは、顔を引き攣らせながらグラッと後ろに
揺れる。
羆の太鼓腹に突っ込んでボヨンと跳ね返り、たたらを踏んだスゴは、大慌てで手を伸ばし、ヤマトの浴衣の帯を掴んだ。
が、重量にして自分の倍もあるヤマトを支えるには、いささか膂力が足りない。
「寮監っ!」
声を上げるが早いか、我に返ったオジマはパッと飛び出すと、腰を落として必死の形相で踏ん張っているスゴの背後から腕
を伸ばした。そして、バランスを取ろうと両手を振り回しているヤマトの浴衣の襟を、柔道着の襟を獲る要領で、指を噛ませ
てしっかりと掴む。
オジマが腰をグッと落とし、床を蹴って一気に後方へ体重をかけると、傾き続けていた羆の体が、ようやくバランスを取り
戻した。
二人がかりで引っ張られ、なんとか転落を免れたヤマトは、ほっと息を吐くと、視線を落として後輩達の顔を見遣る。
「す、済まんオジマ、スゴ…、助かったぁ…。うっあ、ヤな汗かいたぁっ…!」
「謝るところではなく、怒るところです、寮監…」
安堵と呆れ混じりに言ったオジマは、
「ご、ごごごごめんっス寮監!痛かったっスか?あ、危ない目に遭わせちゃって、何て謝ったらいいか…!」
ワタワタと大慌てで謝っているスゴに視線を向け、それから困ったように眉根を寄せた。
なんとか追いついたは良いが、ヤマトまで巻き込んでしまった。
(むぅ…?誰に何をどう説明すれば良い…?)
スゴを部屋に引っ張り込んで事情を説明し、口止めするつもりだった虎は、事態がやや複雑化してしまって困惑する。
「あれ?先輩まで…」
聞き馴染んだバリトンボイスを耳にしたオジマが振り向くと、そこには遅れて駆け付けたイイノが、やや息を切らせて立っ
ていた。
こちらもやはりズボンを穿いただけで、肉付きの良い上半身を晒している。
助けが来た事でほっとしたオジマは、ひとまずスゴに歩み寄った。
ペコペコと繰り返し頭を下げ、ヤマトに詫びていたスゴは、後ろからいきなり腕を掴まれ、ビクっと振り返る。
「済まんスゴ、話がある。まず俺の部屋まで来てくれ。寮監、お騒がせしました」
当初の予定通り、ヤマトとは関わりのない状態に持ち込む。それがオジマの判断であった。
最悪、スゴの口から自分とイイノが同性愛者だという事が漏れても、初めから関わらせず、伏せておけば、ヤマトにまで迷
惑が及ぶ事は無いと踏んだのである。
が、状況を飲み込めず、三人の顔を順番に眺めていたヤマトは、スゴが引っ張られていこうとすると、その微妙な雰囲気を
嗅ぎ取り、口を開いた。
「待てオジマ。スゴが何かしたのか?」
「いいえ。何も問題はありません。俺達の中だけでの話です」
答えたオジマを見つめる羆の目に、怪訝そうな光が瞬く。
「俺には話せないような事か?」
「…む…、それは…」
口ごもるオジマを見つめたまま、ヤマトは顔を顰めた。
ヤマトが懸念しているのは、スゴが何をされるのかという事である。
オジマの事は信じているが、内に秘める気性の激しさもまた理解している。
もしや、スゴが何か問題を起こしてしまい、「教育」するつもりなのではないか?と一抹の不安を抱いていた。
一方オジマにすれば、ヤマトを関わらせたくない。下手な説明をすれば、ヤマトも同性愛者である事がスゴにばれかねない。
黙って聞いているだけならば良いが、この寮監の事、訳を知れば二人を庇うべく、自分も同類である事をスゴに告げるだろう。
口ごもるオジマと、難しい顔をしているヤマトを交互に見つめたスゴは、おずおずと口を開いた。
「あの、オジマ先輩…?」
ヤマトから視線を外し、腕を掴んだままの後輩の顔を見下ろすオジマ。
自分を見上げて来る後輩の決まり悪そうなその表情を目にした虎は、訝しげに目を細めた。
予想していたものが、スゴの顔にない事に違和感を覚えて。
「さっきはその、すんません…。でも、おれも同じっスから大丈夫っスよ?誰にも言わないで、黙ってるっスから…」
オジマとイイノは揃って硬直し、一人事情が飲み込めていないヤマトは、難しい顔のまま首を傾げる。
「…同じ…って?つまりその、さっき見たアレで解る事と同じ?」
「うん。同じだ」
躊躇いがちに訊ねたイイノに、スゴは気恥ずかしそうな微苦笑を浮かべて頷いた。
オジマは、この男にしては珍しい、眼をまん丸に見開いて口をポカンとあけた驚きの表情のまま、スゴの腕を放す。
「…何が同じなんだ?え?何?もう決着ついたのか?」
不思議がるヤマトに視線を向けて、オジマは口をパクパクとさせた後、ゴホンと咳払いをした。
「…状況が変わりました…。…寮監にも同席して貰って話をするべきか…」
「ホモだったぁ!?」
素っ頓狂な声を上げたヤマトに、スゴはモジモジと頷く。
オジマの部屋には、オジマとイイノ、そしてスゴ、ヤマトの四人が集まり、座卓を取り囲んでいた。
「もしかしてそうかなぁ…って、ずっと前から思ってたんスけど、中学の頃に確信したっス」
照れ笑いを浮かべているスコティッシュフォールドに、甲斐甲斐しく全員のコップにアップルジュースを注いでいた猪が、
不思議そうな表情で訊ねる。
「じゃあ、さっきは何で逃げたんだい?それならそうと言ってくれれば…」
「無茶ゆーなってぇ…!その…、あ、あんな事してるの見たら…、その場に居られないっしょ普通…?」
「う!ご、ごもっとも…!」
引き攣った笑みを浮かべるイイノに、オジマがちらりと視線を向けた。
「今後は、鍵のかけ忘れなど無いよう、注意せんとな…」
「…はい…」
その状況を見られた事を思い出したのか、オジマとイイノは揃って頬を掻いた。
「しかし驚いた。今年の一年は豊作だなぁ」
ジュースをガブガブっと一気に飲み干したヤマトは、面白がっているような、嬉しそうな顔で続ける。
「これでもう三人目だぞ?っと、あっちは上手く行ってるっぽいから、四人になってるかもな」
首を傾げたスゴに、イイノは自分達の他にも同類が居るのだと説明した。
「で、スゴ」
猪にジュースのおかわりを注いで貰いながら、ヤマトは後輩に視線を向けた。
「ぬふふふふっ!付き合ってるヤツとかいるのかぁ!?」
好奇心丸出しでニヤニヤと笑みを浮かべるヤマトに、スゴは頭を掻きながら笑い返す。
「いやぁ…片想いなら…!…でも、相手は普通だし、結局言い出せないまま…中学卒業しちゃって…」
少しだけ哀しげに目を伏せたスゴの顔を見て、ヤマトは気まずそうに口をへの字にする。
「あ〜、そりゃ…、悪かった。ちゃかしたりして…」
耳を伏せた羆に、ポチャネコは尻尾を揺らしながら笑い返した。
「良いんスよ、もう!…んで、先輩こそ、誰と付き合ってるんスか?」
イイノとオジマが顔を見合わせ、ヤマト本人は決まり悪そうに笑いながら、太い指でコリッと鼻の頭を掻く。
「話振っておいてなんだけど…、実はフリー…」
惚れっぽい性格であるが故に、これまでに何人かに想いを寄せた事もあるヤマトだが、しかし一度としてそれが実った事は
無い。今年度も既に一度失恋した身である。
「あっとまずい!」
羆が急に声を上げ、三人は驚いたようにその顔を見る。
「もうじき定刻だ。点呼の支度しに戻るな?」
グイっとコップを煽り、一息にジュースを飲み下すと、ヤマトはのっそりと立ち上がって笑みを見せた。
「決まりだから、一回部屋に戻れよ?その後もう一度集まって、ゆっくり話をするか」
「判りました」
オジマが返事をすると、他の二人も笑みを浮かべて頷き、腰を上げた。
「フリーなんですね、スゴ…。チャンスじゃないですか先輩?」
翌朝、食堂で朝食を摂りながら言ったイイノに、
「んぐぅ?」
玉子かけご飯を口いっぱいに押し込み、両頬を膨らませたヤマトは首を傾げた。
「好みの問題があるだろう。寮監は細身の体型が好みだ」
周囲をはばかり、低く抑えた声で言ったオジマに、イイノは「はぁ、なるほど…」と頷く。
「まぁ、もちろん性格的には嫌いじゃないけどな。できればこう…、ほそ〜っとしてて、ちっちゃくて…、童顔だとなお良い
かな…」
ヤマトの返答を聞いたイイノは、小さく頷くと、ぼそっと呟いた。
「…自分に無いものを求める傾向があるって、何かで読んだけれど…。間違いでも無いのかアレ…」
ガツガツとご飯を掻き込むヤマトから視線を外したイイノは、その向こう側のテーブルを離れ、こちらに歩いて来る二人に
視線を向けた。
「おはようございます。先輩方、イイノ君」
「おはようございます皆さん方!昨夜はどうもっス!」
食事を終えて通りかかり、アサガが微笑みながら、スゴがニコニコしながら挨拶すると、ヤマトは茶を啜って口の中の物を
一気に飲み下し、笑みを返した。
「おうっ、おはよう!」
オジマは顎を引いて頷くことで、イイノは笑みを浮かべながら「おはよう」と、それぞれ挨拶を返す。
「んじゃ、お先するっスねぇ!」
ペコっと頭を下げて、テポテポと歩き出すポチャネコ。
その後ろで会釈したムクムクの羊は、一瞬躊躇った後、やがてヤマトに少し寄り、その耳元に小声で囁いた。
「あ、あの…。寮監…」
「ん?」
丸い耳をヒクっと動かし、首を曲げた羆に、羊はボソボソと続けた。
「学校が終わったら…、あの…、ご相談っていうか、お話っていうか…、聞いて貰いたい事が…」
一瞬不思議そうな顔をしたヤマトだったが、先日部屋を訪れたアサガが言いそびれていた事だと思い至り、微笑を浮かべて
頷いた。
「判った。帰ったら部屋に居るから、声をかけてくれ」
ほっとしたように微笑み、会釈すると、アサガは食堂の出口で待っていたスゴのもとへと、足早に歩いて行った。
「どうかしたん?」
「ん?ううん。何でもないよ」
二人がそう言葉を交わして姿を消すまで、首を巡らせて出口に視線を向けていたイイノは、顔を戻してヤマトの顔を見る。
「アサガ、どうかしたんですか?」
「ま、ちょっとな。前に俺が中断させちまった話の続き…」
しれっと誤魔化したヤマトは、再び茶碗を持ち上げ、ガツガツと掻き込み始める。
不思議そうな顔をしているイイノと、何やら窺うような目でヤマトを見ているオジマは、しかし結局何も問わず、食事を再
開した。
その日の夜、夕食が済んだ後に、アサガはヤマトの部屋を訪れた。
「コーラとコーヒー牛乳があるが、どっちが良い?」
「あ、そんな!おかまいなく!」
私物の冷蔵庫をあけながら訊ねた羆に、座卓の傍できちっと正座した羊は、プルプルと首を左右に振った。
帰って来てから大急ぎで片付けた座卓周りは、珍しく客も座れるようになっていた。
至って普通のこの状態も、整頓にだらしないヤマトの部屋においては、常に無いほど片付いているといえる。
「そう硬くなるなって。遠慮するなよ。な?」
「あ、それじゃあ…、コーヒー牛乳が良いです…」
笑みを浮かべるヤマトに、アサガははにかんだような笑みを浮かべ、モジモジと応じた。
それぞれの飲み物を注ぎ、座卓に歩み寄ったヤマトは、アサガにコーヒー牛乳が入ったコップを手渡し、床に腰を降ろす。
「で、何だ?話って?」
コーラを一口啜ってから促したヤマトに、羊はコクンと頷き、そのまま顔を伏せる。
「あ、あの…。寮監は、今、付き合っているひととか、居るんですか…?」
ピクっと耳を動かしたヤマトは、微妙な表情を浮かべた。
(もしかして、恋愛相談なのか…?)
「居ない。独り身だよ」
そう応じつつ、困った顔で頬を掻くヤマト。
片想いの経験は山ほどあっても、交際まで漕ぎ着けられた事など無い。恋愛相談だとすれば、上手く相談に乗ってやれる自
信が無かった。
「誰か、好きな相手ができたのか?」
どうしたものかと考えつつも、とりあえずそう訊ねてみたヤマトに、アサガはピクっと肩を震わせ、ややあってから頷いた。
(やっぱりか。…しかし参った…、俺じゃあ良い相談相手にはなれないぞ…?)
「寮監は…、誰かを好きになっちゃった事…、ありますか…?」
「…うん、まぁ…、何回か…。全部実らなかったけどな…」
少し気まずそうに応じたヤマトは、コーラを啜りながら考える。恋愛に関しての相談ならば、オジマやイイノに話を聞いて
みるのも一つかもしれない、と。
(もっとも…、普通の恋愛の参考にできるかどうかは、かなり怪しいけどなぁ…)
「…あの、例えば、例えばですよ?」
顔を伏せたまま、モジモジと体を揺すりながら、アサガは口を開いた。
「お…、男の人を…好きになっちゃった事って…、ありますか?」
ブパァッ!
「うわっ!?」
俯き加減でコーラを啜っていたヤマトは、口に含んだそれを真下に向かって吹き出した。
「げほっ!?えふあふあっ!」
白地に水色や薄桃色の朝顔があしらわれた、淡色の浴衣がコーラで染まる。
「だ、大丈夫ですか寮監!?」
気管に入ったか、激しく噎せ返る羆の前で、膝立ちになったアサガがアワアワとティッシュを取り、零れたコーラを拭き取る。
「げほっ!わ、悪いっ!えふっ!…と、唐突だったから、ビックリして…!」
一瞬、「寮監はホモですよね?」と指摘されたような気分になり、取り乱してしまったヤマトは、落ち着きを取り戻しつつ
アサガに詫びる。
「い、一体全体どうしたってんだ?急にそんな事…」
浴衣どころか褌までコーラが染みてしまい、ベタつく嫌な感触に顔を顰めながら、ヤマトは正座の姿勢に戻った後輩に尋ね
る。そして、尋ねた次の瞬間には気付いた。
アサガが何故そんな質問をしたのかという、その理由に。
俯いて沈黙した、ムクムクした羊の頭を見つめながら、
(あ〜、そういう事か…。そういう事なら力になってやれるかも…)
口元を軽くつりあげたヤマトは、微笑を浮かべて口を開いた。
「男に惚れたんだな?アサガは」
ピクっと身じろぎしたアサガは、それでも俯いたまま口を開かない。ヤマトはその様子を微笑みながら見つめ、続けた。
「はは、俺と同じだなぁ…」
ピクンと、また体を震わせたアサガは、おそるおそるといった様子で、僅かに顔を上げた。
「まぁ、そういう事…。俺もな、男に惚れた事がある。…ってか男にしか興味持てないんだけどなぁ…」
苦笑いしながら頭を掻いたヤマトに、上目遣いに窺うような視線を向けていたアサガは、おずおずと口を開いた。
「…ほ、本当ですか…?寮監も、男の人を…?」
驚きのためか、やや掠れた声で尋ねてきた後輩に、ヤマトは大きく頷く事で応える。
「それで、そのぉ…、初恋…なのか?」
やや躊躇いながら尋ねる羆に、羊は僅かに間を開けてから小さく頷いた。
「これまで、女の人にも、恋心みたいな物を感じた事は、ありませんでした…。男の人に、こんな気持ちになるのも、初めて
で…。もしかしたら、これが、恋心なのかなぁ、なんて…。そう考えたら、不安になって…。自分は、おかしいんじゃないかっ
て…」
ボソボソと、つっかえつっかえ、それでも懸命に言葉を紡ぐアサガに、ヤマトはウンウンと頷く。
「まぁ、世間一般のスタンダードとちょっと違うのは確かだな…。でも、好みなんてそれぞれだ。おかしいとか、変わってる
とか、そう気にする事じゃない。…と、俺は思う」
そう後輩に言ったヤマトは、苦笑いしながら鼻の頭をコリっと掻いた。
「…まぁ、カミングアウトする度胸もないから、俺も周りには秘密にしてるけどな。ついでに言うなら、こういうのに理解が
あるヤツって、そう多くないと思う。わざわざ告げて、いらない波風立てる事もないだろうし…。あ、そうそう」
ヤマトは思い出したように声のトーンを変えると、少し視線を上げたアサガに、ニンマリと笑いかけた。
「この寮、俺以外にもホモ居るんだよ。後で会わせてやるな?他にも同類居るんだから、そう気にするな。な?」
意を決して打ち明けたものの、もしかしたら気持ち悪がられるかもしれないと、半ば以上覚悟してきたアサガは、
「…うっ…。は、はい…!」
安心したのか、喉を震わせて目に涙を溜めた。
右手を上げて、グシグシと袖で目を擦る後輩を見遣りながら、ヤマトは穏やかに微笑む。
自分が周りの皆と違う。その不安や心細さを、早くから同性愛者の自覚があったヤマトは良く知っている。
アサガのそんな不安をいくらかでも取り除いてやれ、支えになれたなら嬉しい。
そんな事を思いながら、ヤマトは少し気になった事をアサガに尋ねた。
「…で、もしかして、好きになった相手ってこの寮のヤツか?…あ、いや…、答えたくないなら無理しなくて良いんだからな?」
少し気を遣って言ったヤマトに、アサガは視線を床に向けて、しばし躊躇った後、コクっと頷いた。
「あ、あの…。ぼく…、ぼくは…、その…」
モジモジと体を動かし、チラっとヤマトの顔を見上げたアサガは、言葉を切って俯く。
「いや、誰が好きとかまでは話さなくても良いぞ?無理に問い質す気だってないから…」
声をかけたヤマトに、しかしアサガは俯いたまま、首を横に振った。
「あの…、こんな事、言っても…、迷惑だと、思うんですけど…」
プルプルと体を小刻みに震わせる、ムクムクした後輩に、ヤマトは訝しげな表情を浮かべながらも、頷いて先を促した。
「…りょ、寮監…!ぼ、ぼぼ、ぼく…、ぼく…!寮監の事、す、好きに…なっちゃったみたいなんです…!」
「ほぇ?」
目をまん丸に見開いたヤマトは、あんぐりとあけた口から、間の抜けた声を漏らした。
「それで、何て答えたんですか?」
驚いた様子で目を丸くしているイイノに、ヤマトは頭を掻きながらボソボソと応じた。
「…ちょっと考えさせてくれ、急な事で混乱してるから、って…。そ、そんな目で見るなよぉ…!告られた経験なんてないか
ら、テンパっちまったんだよ!」
アサガがヤマトの部屋を訪れ、告白した三時間後。点呼を終えたヤマトは、オジマの部屋を訪れていた。
何をしようとしていたのか、半裸だったオジマとイイノは、突然の来訪者を迎え入れ、事の次第を聞いている。
「好みではない、と?」
オジマの問いに、ヤマトは首を横に振る。
「判らないんだソコが…。惚れたって感じはあまりしないんだが、毛でモフモフでああいうフォルムだけど、細身だし、嫌い
なタイプじゃあ絶対にない。…言っちゃなんだが、この間まではずっと、避けられてるようで気を遣ってたから…、そういう
目で見た事はなかったんだよ…」
虎と猪は顔を見合わせ、途方に暮れたようにため息をついている羆に目を向ける。
「まず、ためしに付き合ってみれば良いじゃないですか?嫌いじゃないんですよね?」
「うむ。応えてみるのも一つかと思いますが?」
嫌いなタイプでないのなら、付き合っている内に好きになって行くのではないだろうか?
ましてや惚れっぽいヤマトの事、先にカップルにさえなってしまえば…。
そんな事を考えながら勧めた二人に、半ば覚悟を決めたヤマトは頷いて見せた。
「…だな。付き合って、みる、かな…?嫌いなタイプじゃあ、絶対にないし…」
ボソボソと呟きながらも、ヤマトの顔は次第に弛んでゆく。
ヤマト自身が何度も繰り返しているように、アサガは嫌いなタイプではない。
少々引っ込み思案が過ぎるきらいがあるが、大人しく、礼儀正しく、好感が持てる。
(恋人…かぁ…)
俯き、少し恥かしそうな笑みを浮かべているヤマトを、イイノはニコニコしながら見つめていた。
同じく、口の端を微かに吊り上げて寮監を眺めていたオジマは、耳をピクリと動かし、ドアへと視線を移した。
「………」
無言でドアを見つめているオジマには気付かず、ヤマトは照れ隠しなのか、頭を掻きながら腰を上げた。
「話を聞いてくれてありがとな、二人とも。気が楽になった!邪魔して悪かったな?」
ニヤっと笑ったヤマトの背後で、ドアが微かな音を立て、イイノが、ヤマトが、ドアに視線を向けた。
「…誰か居たのか…?」
「いえ、問題ありません」
緊張を帯びた顔つきになり、ドアに歩み寄ったヤマトに、じっとドアを見つめていたオジマが声をかける。
ドアを開けたヤマトは左右を見回したが、廊下に人影は無かった。
「気のせいか…。じゃあ、済まなかったな。おやすみ二人とも」
「はい、おやすみなさい先輩」
会釈するイイノと、黙したまま頷くように頭を下げたオジマを残し、ヤマトは部屋を出て行った。
「今度こそ、先輩にも春が来るかもね、ユウヤ?」
笑みを浮かべながら言ったイイノの横で、しかしオジマは返事をせずに立ち上がる。
「マサ。悪いが少し外す」
「え?どうしたの急に?」
訝しげに自分を見上げるイイノに、目を細めたオジマが首を左右に振る。
「野暮用を思い出した…。済まんが、事情は後で話す」
詳しい説明が無い。つまり、まだ話すべきではないと判断した何かを、オジマは隠している。
その事を察しながらも、イイノは異論を挟む事無く頷いた。
口数がさして多くない恋人だが、必要な事は自分に全て話してくれる。
オジマの事を完全に信頼しているからこそ、言われれば大人しく引き下がる。
立てるべき時に立ててくれるこういう所もまた、オジマがイイノを気に入っている所の一つである。
「判ったよ、ユウヤ。それじゃあ、後でね?」
ジャージの上を来て、部屋を出る支度をしたオジマの頬に、イイノは軽い口付けをした。
「少々時間を食うかもしれん。待たずに寝てくれ」
オジマは自分のベッドを目で示すと、イイノの頭にそっと乗せた手で、こわい毛をクシャっと撫でる。
「済まんな、マサ…」
申し訳無さそうな表情で、最後に一言発した虎は、猪を残して足早に部屋を出て行った。
「うっス?」
ベッドに突っ伏していたスゴは、ノックに返事をしつつ、慌てて身を起こす。
「遅くに済まん、オジマだ。良いか?」
ドア越しのくぐもった声を耳にしたスゴはビクンと身を震わせると、そっとベッドから降りて、ドアに向かう。
「ど、どうしたんスか?先輩…」
ドアを開けたスゴは、虎の顔を見上げ、やや硬い笑みを浮かべながら尋ねる。
「さっきの話、聞いていたな?」
単刀直入に一言発したオジマを前に、スゴは息を飲み込んだ。
「…バレてたんスか…。いや、悪いなぁとは、思ったんスけど…。部屋にお邪魔しようとしたら、話し声が聞こえて…、つい…」
モゴモゴと応じたスゴに頷くと、オジマは部屋の中に視線を向けた。
「ここではなんだ…。中で話しても構わんか?」
戸惑いながらも頷いたスゴに部屋に招き入れられると、オジマは座卓を挟んでスゴと向き合い、腰を降ろした。
緊張しているのか、キチっと正座したスゴの顔を真っ直ぐに見つめつつ、虎が口を開く。
「どっちだ?」
「へ?」
言葉の意味が判らず聞き返したスゴに、オジマは軽く目を瞑って続けた。
「ゲームに興じる皆を見ている時、お前はただ羨ましがるのとは違う表情を浮かべていたな?」
気付いていなかったスゴは、少し驚いたように息を吸い込んだ。
「あの視線が向けられていたのは、寮監か?それとも…」
言葉を切ったオジマは、目を開け、スゴの瞳を見つめた。
「…中学の時に、惚れた相手が居ると言っていたな…。それはアサガの事か?」
大きく目を見開き、無言のまま固まっているスゴ。その目に浮かぶ狼狽の色を見て取り、虎は軽くため息をついた。
「だ、だったら…、何スか?」
硬い笑みを浮かべ、スゴは口を開いた。
「や、やだなぁ先輩!おれ、結局言えなかったんスよ?そこに来て、ヨウがヤマト先輩の事好きになっちゃったんなら、スパっ
と諦めもつくってもんスよぉ!」
オジマは口を開きかけ、そして思い直して閉ざす。
アサガも同類だと判った。ならば、今からなら告白できるのではないか?
そう言おうとしたオジマだったが、ヤマトとアサガの事を思うと、それを口にする事はできなかった。
そもそも、初めはスゴが気にしているのが、ヤマトなのか、アサガなのか解らなかった。
スゴがヤマトに好意を寄せているならばよし、ヤマトがアサガに返事をする前に言ってみろ、と促すつもりでいた。
だが、もしやと案じていたとおり、アサガに気があったのだと知ってしまった今となっては、スゴの背を押してやる事はで
きない。
今年出会ったばかりの後輩と、世話になり、信頼を寄せている先輩。
これが全く関係の無い第三者に向けられる好意であれば、オジマもスゴの側に立つ。だが、今回はそれができない。
仮にスゴがヤマトに好意を寄せているのであれば、アサガとスゴの二者を、平等に応援したはずである。
(俺はやはり…、寮監のようにはなれんな…)
両者を天秤にかける自分に嫌気がさしながらも、オジマは、スゴの味方はできないと考えた。
(本人も諦めると言っている。ならば何も言うまい…。スゴには悪いが、今回は寮監に…)
そう思いながらも、オジマは我慢できなくなり、口を開いた。
「…諦められるのか?」
何を言っているのだ、自分は?そう思いながらも、虎は口を閉ざす事ができなかった。
「本当に、後腐れ無く身を引く事ができるのか?それで満足できるのか?」
オジマの声を受けたスゴは、「へへ…」と力無く笑いながら、頭を掻いた。
「だって、仕方ないじゃないっスか…?ヤマト先輩、凄く良い人で、大人だし…、ヨウが惚れるのも解るっスよ。おれなんか
じゃ勝ち目は無いし、アサガが他の誰かじゃなく、先輩に惚れたんなら、諦め…、あ、あれ…?」
ポロポロ、ポロポロと零れ、正座した腿の上に落ちる涙を、スゴは不思議そうな顔で見下ろす。
「あ、あれ?あれれ?な、なんスかね?はは…、何でおれ…、泣いちゃってるんスかね…?ご、ごめんなさい先輩!大丈夫っ
スよ!おれ、平気っスから!あ、あれ?なんでだろ?と、止まらな…」
零れ落ちた涙を困惑したように見つめ、ゴシゴシと両目を擦るスゴを前に、オジマは目を細め、口を引き結び、ギリリと歯
を食い縛った。
罪悪感と、己への憤り。幼馴染と先輩のために、自分の気持ちを殺そうとするスゴのいじらしさ。
スゴの内面でうねる感情を、何よりも雄弁に物語るその涙を目にしたオジマは、腰を浮かせてスゴの前に近付くと、無言の
まま、ポチャネコを抱き締めた。
「…せ、せん…ぱい…?」
大柄な虎に抱き締められたスコティッシュフォールドは、戸惑いながら声を漏らす。
「だ、大丈夫っスよ?ホント平気なんスからおれ!だ、だから、そんな…」
スゴの言葉は、「ヒクっ!」としゃくり上げる音で途切れた。
「そ、そんな…、事…されたら…、か、かえっ…て…おれ…!」
続け様に二度しゃっくりをすると、スゴはオジマの体に腕を回し、ヒックヒックと泣き始めた。
「し、仕方ぁ…無いんスよぉ…!ヒック…!おれ、ヨウの事好きだけど…、好きだから…、本当に好きなひとと一緒になって
欲しいし…!お、おれ一人…、えぐっ!が、我慢すれば、良いならぁ…!そ、その方が良いに決まって…るんスからぁ…!」
自分に縋り付いて嗚咽を漏らし、むせび泣きながらも幼馴染の幸せを願うスゴを、オジマはギュウっと、強く抱き締めた。
その柔らかな被毛と脂肪に包まれた、どこか頼りないポッチャリした体をしっかりと抱き締めたまま、
(済まんな…。済まん、スゴ…。俺は…、俺はどうしても、今回、お前の味方をしてやる事はできん…!)
ヤマトを優先し、スゴをその後にする、そう決めた自分の選択を身勝手なものだとし、オジマは己を責め、心の中で詫びた。
そして、しゃくりあげるスゴの背をゆっくりと、優しく撫でてやる。
泣いている相手を慰めるのは、かつて、付き合い始める前にイイノを慰めた、たった一度の経験しかない。
それでも、寡黙な虎の逞しい腕は、これ以上ないほどに優しく、慈しみを込めて、スゴの背を、頭を撫でた。
しばらくそうしてスゴを抱き締めてやっていたオジマは、不意にピクリと耳を動かし、首を巡らせてドアを見た。
スゴも気付いたのか、続いてドアを見遣る。
「い、今…、ため息みたいなの…、聞こえなかったっスか…?」
最後に頭を一撫でしてスゴを放し、無言で立ち上がったオジマは、素早くドアに歩み寄る。
勢い良くドアを開け、廊下を見渡すオジマの目に、階段への曲がり角へ姿を消す、スリッパをつっかけた大きな右足が映った。
「…ふぅ…」
目を閉じてため息をつくと、オジマはスゴを振り返る。
「誰も居なかった。気のせいだったようだな」
涙でグショグショになった泣き顔に、胡乱げな表情を浮かべているスゴに、オジマは静かに続けた。
「突然押しかけておいて済まんが、用事を思い出した。また後日、ゆっくり話を聞かせてくれ。俺で良ければ何でも相談に乗る」
「え?う、うっス…」
戸惑いながら頷いたスゴに片手を上げると、オジマはそのまま廊下に出た。
そしてギリリと歯を食い縛り、両の拳を痛いほどに握り込む。
(何でも相談に乗る、か…。まったく調子のいい…!)
スゴにかけた言葉は、偽りのない本心であった。
だが、身を引けと言うつもりだった自分がそんな言葉を口にするのは、偽善に他ならないとオジマは断じる。
自分の顔を思い切り殴りたい程の、自虐的な感情が湧き上がるが、虎はそれを堪えた。
今はまだ行かなければならない場所がある。スゴとの会話に聞き耳を立てていた者の事が気になった。
己を責めるのは後回しにして、虎は足早に廊下を歩みだした。
「何だオジマ?言い忘れた事でもあったか?」
突然部屋を訪れた後輩を、寮監は笑みを浮かべて出迎えた。
その顔をじっと見つめたオジマは、無言のまま部屋の中に視線を向ける。
「話があります」
短く言葉を発したきり、射抜くような視線で自分を見つめ始めたオジマを前に、ヤマトは観念したように軽くため息をついた。
「…判った…。スゴのようには行かないなぁ。俺、足遅いから…」
「そもそも、寮監の場合は足音まででかいですから」
言葉の外で聞き耳を立てていた事を認めたヤマトは、オジマを部屋に入れると、廊下を見渡してからドアを閉め、鍵をかけた。
座卓を挟んで座った二人は、今度こそ、外に誰かが居ても聞かれる事の無いよう、低い声で話をした。
ほんの五分ほど話をした後、ヤマトは静かに息を吐き、軽く目を閉じる。
その寮監を前に、目つきを鋭くしたオジマは、バガンッと、腕を振り下ろして座卓を叩いた。
その衝撃で、座卓の上に置かれていた雑誌が横滑りし、床に落ちる。
「…阿呆か、あんたは…!」
苦々しい口調で呟いたオジマに、ヤマトは歯を見せて笑った。
「俺は小心者なんだよ。他に気を遣いながらなんて…、俺にとっちゃ針のむしろだ」
ギリっと歯を食い縛ったオジマは、射抜くような鋭い視線で羆の目を見据えた。
「…それで良いのか…、寮監…?」
ゆっくりと頷いたヤマトの前で、オジマは無言のまま立ち上がった。
「…勝手にしろ…!」
踵を返してドアに歩み寄り、鍵を外した虎の背に、
「オジマ…」
ヤマトは静かに声をかけた。
「済まないな…」
振り返りもせず、ただ無言のままに顎を引き、微かに頷くような仕草を見せたオジマは、結局、ヤマトに顔を向ける事なく
部屋を出て行った。
一人になったヤマトは、天井を見上げて「ふぅ…」と息を吐き出す。
オジマの苛立ったあの態度にも、ヤマトは腹を立てはしなかった。
自分を案じてくれるが故に、自分の決断に対してあれだけ怒ってくれたのだと、申し訳無さと有り難ささえ感じている。
「…仕方ないさ…。ヘタレの俺には無理だ…」
苦笑混じりに呟いた羆は、顔つきを改めると、ゆっくりと立ち上がった。
「…先輩?」
部屋を訪れたヤマトを、アサガは戸惑いながらも部屋に迎え入れた。
午後十一時、もちろん消灯時刻は過ぎている。
この頃になって誰かが訪れるなど珍しい。しかもそれが寮監なのだから、アサガの驚きはかなりの物であった。
「アサガ。夕方の話だけどな…」
ヤマトは部屋に足を踏み入れるなり、そう口を開き、後ろ手に閉めたドアに鍵をかけた。
喉をゴクリと鳴らして頷いた羊の肩を、唐突に伸びた羆の手ががっしりと掴む。
「え?わっ!?」
グイっと引っ張られたアサガは、ドアの脇の壁に、ドスンと、かなり乱暴に押し付けられた。
「けほっ!…せ、先輩?何を…」
背中を強く打って軽く噎せ、ヤマトの顔を見上げたアサガは、ハッと息を飲んだ。
この気の良い羆がいつも浮かべている、あの穏やかで気楽そうな表情は、そこには無かった。
軽く乱れた息を吐くヤマトの顔には、常には無い、何かコワい物が潜んでいる。
「せ、先ぱ…、ひっ!」
恐る恐る声を発したアサガは、唐突に股間を鷲掴みにされ、高い声を上げた。
羆の大きな手が、薄いパジャマの生地越しにアサガの逸物を鷲掴みにし、強く握る。
「ひっ!やっ!や、やめてっ!せ、先輩っ…!何を…!?」
アサガにとって、迫られるなど初めての経験である。
しかも自分の三倍近い体重を誇る羆に押さえ付けられ、まともに動けない状況。
あまりのショックに混乱を来たしたアサガは、もがいて逃げようとするが、体格差でそれもままならない。
掴まれた右腕が引っ張り上げられ、頭の上で壁に押し付けられる。
その上ぐっと身を寄せたヤマトの体と壁に挟まれ、自由を奪われたその状態で、アサガの顔に、表情を消したヤマトの顔が
近付けられる。
「あ、あぁ…!」
自分はこれから何をされるのだろうか?恐怖を感じたアサガは、硬く目を閉じた。
「………?」
が、しばらく経っても、何も起こらない。それどころか、股間から手がのけられ、右腕をきつく押さえ付けていた手が弛む。
恐る恐る薄く目を開けたアサガは、目の前にある羆の顔を見て、目を大きく見開いた。
「どうだ?」
ヤマトはいつもと同じような笑みを浮かべ、鼻がくっつくほどの近距離から、アサガの顔を見つめていた。
「怖かったか?アサガ」
まだショックから立ち直り切っておらず、答えられないアサガから、ヤマトは静かに身を離す。
「なぁ…、今俺に迫られて感じた事を忘れないで、良く考えてみてくれよ?」
そして、屈み込んで目線を落とし、少し下から羊の顔を見上げるようにして続けた。
「アサガはたぶん…、俺を好きになったと、勘違いしてるだけなんだ」
「…勘…違い…?」
掠れた声を漏らすアサガに、ヤマトは大きく頷く。
「言ってたろう?最初は俺の事が怖かったって…。きっとその反動なんだ。それまで嫌だと思ってたものが、実はそうでもな
かった。おまけにそれまで疎遠だったのが急に親しくなったりしたもんだから、ちょっとした錯覚を覚えたんだろう。現に、
さっきはどう感じた?」
口ごもり、答えられないアサガに、ヤマトは微笑みかける。
答えは聞けなくとも、気まずそうにそっと視線を逸らしたアサガの仕草だけで、ヤマトには十分だった。
「試すような真似してごめんな…。でも、ちょっとぐらい乱暴にやらないと、効果は無いんじゃないかと思って…」
謝りつつも、ヤマトは心の内で呟いた。
(怖がらせるには効果抜群だったなぁ…。先輩にやられた経験が、まさかこんなトコで役に立つとは…)
掠れた声で、窺うような目でアサガはヤマトに問いかける。
「でも…、この胸の感じは…?先輩の事を考えると、疼くようなこれは、恋じゃないんですか…?」
後輩の問いを受けて、ヤマトはニィっと笑って見せた。
「生まれかけの親愛の情…、ってトコじゃないかなぁ?ようやっと、俺の事をそれなりに頼れる先輩だと思えるようになって
来たんだろう?」
戸惑いの表情を浮かべているアサガの両肩に、ヤマトはその大きな両手をポンと置いた。
「十分だ…。恋心じゃなくても、俺にはそれだけで十分有り難いよ、アサガ…」
微笑みかけながらも、ヤマトは重苦しい感覚を抱えていた。
アサガを動揺させ、その状況下で煙に巻いて言いくるめる。そうして、自分への想いは錯覚だったのだと言い聞かせる。
詭弁を並べ立てて騙す。自分がその手段を選んだ事に憤りを、アサガを騙した事に罪悪感を覚える。
「なぁアサガ?焦る事なんて無いんだ。ゆっくり周りを見回してみろ。きっと、本当に好きな相手は別に見つかるさ」
ヤマトは優しく声をかけて立ち上がると、まだショックが抜けていないのか、呆然としているアサガに、ガバっと頭を下げた。
「いきなりあんな真似して、悪かった。カンベンしてくれ…」
下げられた羆の頭を、しばらく呆けたように見つめていたアサガは、ハッと我に返ると、慌てて声を上げた。
「せ、先輩!顔を上げて下さい!だって、先輩はぼくのために、あんな事をしてくれたんでしょう?」
ウソを並べ立てた自覚があるヤマトには、アサガのその慌てた声が堪えた。
が、それを表情には出さずに顔を上げると、ニィっと笑って見せる。
「他に良いアイディアが浮かばなくてなぁ…。ホント、悪かった…!今度何か埋め合わせさせてくれよな?」
何となく釈然としていない様子でもあるが、それでもアサガは自分の言葉を無視しないだろう。
これで良かったのだと心の内で自分に語りかけ、ヤマトは笑みを浮かべたまま、アサガの頭を少し乱暴に撫でた。
午前零時。
ヤマトの部屋を訪れたイイノは、事の詳細を聞かされると、口をポカンとあけ、たっぷり十秒ほど沈黙してから…、
「バカじゃないですか!?」
と、怒っているような大声を上げた。
部屋に戻って来たオジマの口から、イイノは簡単に事情を説明された。
それを聞いて居ても経ってもいられなくなったイイノは、オジマを強引に引っ張り、人目を忍んでヤマトの部屋を訪れたの
である。
部屋の主である羆は、二人が来た時には夜食の最中であった。
インスタントのたぬきそばをハフハフ言いながら啜っているヤマトを軽く睨み、イイノは不機嫌そうに鼻息を荒くした。
「スゴの為に身を引いたんですか?お人好しを通り越してバカですよ!今からでも遅くないです!アサガの所に行って…」
声を大きくしたイイノは、しかしヤマトの様子を見て、呆れたようにため息をついた。
「ズルズルズルズルやってないで、真面目に話を聞いて下さい!何杯食ってるんですかこんな時間に!」
黙っていたオジマは、座卓の上に置かれたカップ麺と、その脇に重ねられた空容器を見遣る。
空容器、その数五つ…。つまり、今ヤマトが啜っているカップ麺は、六つめという事になる。
イイノに怒鳴られたヤマトは、食べ終わったカップの汁を飲み干すと、手と口を休めて、困ったような苦笑いを浮かべた。
「スゴの為に身を引いたってのは、まぁ建前だなぁ…」
言いながらも座卓の上のカレーヌードルに手を伸ばし、ベリっと半分蓋を剥すと、電子ポットから湯を注ぐヤマト。
「まだ食うんですかっ!?いい加減にしないと腹に悪いですよ?」
イイノの警告をさらりと流し、ヤマトは話を続ける。
「付き合ってるヤツの事を、昔からずっと想ってたヤツが身近に居る…。それが判ってて、そいつに気を遣いながら付き合う
なんて、小心者の俺にはできないってのが、正直なトコだな」
何かを言いかけ口を開いたイイノは、しかしオジマが自分に向けてくる視線に気付き、口を閉ざした。
「お邪魔しました。寮監」
腰を上げたオジマに続き、イイノもまたしぶしぶと腰を上げる。
恋人の虎に続いて部屋を出ようとしたイイノは、廊下に出る一歩前で立ち止まり、ヤマトを振り返った。
「…先輩。これで、本当に良かったんですか?満足なんですか?」
立ち去り際に、我慢できずに発したイイノの問いに、時計を眺めてカップ麺の出来上がりまでの時間を確認していたヤマト
は、苦笑いを浮かべた顔を向けた。
「…どうだろな?」
ヤマトが浮かべる、困ったようなその苦笑いは、イイノには、泣き笑いの表情にも見えた。
静かにドアを閉じ、廊下に出たイイノは、先に出ていたオジマに視線を向ける。
「悔やんでないのかな?先輩…。せっかく恋人ができる所だったのに…」
大きくため息をついてから尋ねたイイノに、腕組みをしてドアに目を向けたオジマは、低く押し殺した声で応じる。
「悔やんでいる。だからやけ食いしている」
「やけ食い?」
「ああ。前に失恋した時もこういう事が…」
オジマの言葉を遮り、室内からズビィーっ!と、盛大に鼻をかむ音が漏れてきた。
それを聞いてドアに視線を向けたイイノは、再び深々とため息を吐き出す。
「鼻水が出るくらい悔やむなら、受け入れれば良かったのに…」
「後から悔やむ事になるのが判っていてなお、悔やむのを覚悟で行動できる。自分の事はさておいて、な…。寮監はそういう
ひとだ」
「…ユウヤは、先輩の肩を持つような言い方だね…。でも、オレは賛同しかねるな…」
「俺も全面的に支持してはいないがな…。今回は、何をしようとしているのか聞かされた際に、思わず怒鳴ってしまった」
仏頂面にばつが悪そうな表情を微かに浮かべると、オジマはドアとイイノに背を向け、廊下を歩き出した。
「俺は幸せ者だ。お前に受け入れて貰えた上、誰とも奪い合わずに済んだ。だがな、皆が皆、そう報われる訳でもない」
オジマの後について歩きながら、イイノは唇を引き結んだ。
(…オレも、幸せなんだよね…。ユウヤから告白されて、殆ど何の障害も無くやって来られた…。皆それぞれ苦労して来てい
るっていうのに…)
心の中で呟いた猪は、僅かに俯く。初恋が実らなかった後輩の事を思い出して。
「ユウヤの気持ち…、凄く良く解った…」
立ち止まり、小声でぽそっと呟いたイイノを、同じく足を止めて振り返ったオジマが見つめる。
「寮監みたいな、バカが付くほどのお人好しにこそ…、幸せになって貰いたいな…」
「…だな…」
口の端を吊り上げ、笑みを浮かべたオジマに、イイノは大きく頷いて見せた。
「決めたよ、ユウヤ。スゴとアサガが上手く行くように、働きかけてみる。あの二人が上手く行かなきゃ、先輩が身を引いた
意味が無い…。良いかな?」
「………」
しばし無言で猪の顔を見つめていた虎は、踵を返して歩き出しながら応じた。
「反対はせん。お前のやりたいようにしろ」
イイノに顔は見せず、微かな笑みを浮かべるオジマ。
(もう一度スゴと話をしてみるつもりだったが…、マサに任せるか。こういう事には俺よりも向いているだろう)
恋人もまた自分と同じ事を考える。オジマにはそれが少々おかしく、そして嬉しい事に思えた。
「うん。絶対行ける!自信を持って!」
翌朝、通学路でスゴと並び、何やら力説しているイイノの姿を、かなり離れた後方から眺めながら、
「どうしたんだアレ?」
羆は隣を歩く虎の顔を見た。大柄なオジマも、ヤマトと並べば見下ろされる側である。
「寮監の自己犠牲を無駄にしないそうです」
「…自己犠牲ってなぁ…、俺は俺の良いようにしただけで…」
イイノにあれこれ言われながら、神妙な顔でうんうん頷いているスゴの後ろ姿を見遣り、ヤマトは口元を綻ばせた。
「…お前にだから言うが…、やけ食いして、一晩悶々と悔やんで、落ち込んで、考えて…、それでな?やっぱりあれで良かっ
たんだと思えたんだ。俺にとってはアサガも、スゴも、どっちも大切な後輩だ。付き合ってギスギスするより、二人が仲良く
しているのを見ていた方がよっぽど良い」
オジマはそう語ったヤマトの顔を横目で見遣り、それから前に視線を戻して口を開く。
「優しいのは結構ですが…、寮監は優し過ぎます」
「そりゃあ違うなぁ。臆病なだけだって」
苦笑いしながら応じたヤマトは、イイノに後押しされているスゴの背を見ながら、心の内でエールを贈った。
その夜、イイノは食後にアサガを誘い、談話室にやって来た。
先に来て、他の寮生とゲームの通信プレイを楽しんでいたヤマトは、二人が来た事に気付き、軽く手を上げる。
「よ。今日も一緒にやるか?」
「もちろんです」
笑みを浮かべて頷いたイイノと、少し気まずそうにモジモジしながらも頷いたアサガを伴ったヤマトは、それまで参加して
いた集団とは少し離れた椅子に向かった。
そして腰を下ろそうとしたその時、新たに談話室に入って来た二人の姿を認め、足を止める。
「ありゃ?」
大きくした羆の目に映るのは、歩み寄った二人がそれぞれ突き出して見せた、シルバーとブラックの真新しい携帯ゲーム機。
「小遣いはたいて買って来たっス。皆がやってるあのゲームも!」
「まぁ、なんだ…。付き合いで…」
ニシシっと笑ったスゴと、照れているのか、ボソボソと言うオジマ。
二人が手にしているピカピカのゲーム機を、意外そうな顔で見つめていた三人は、一様に顔を綻ばせた。
(確かに助言はしたけれど…。思い切ったなぁスゴ)
可笑しそうに笑いながら、イイノは心の内で呟く。
ヤマトはアサガの告白を断った。
スゴには理由をぼかしてその事を伝えたイイノは、アサガも同類なのだから、積極的にアタックしてみろと告げた。
少なくとも、自分はそうされて、オジマに惚れたのだから、と。
「それにしても…」
呟きながら恋人の顔を見る猪。その視線を受け、仏頂面で「何だ?」と尋ねたオジマに、イイノは「何でもないです」と、
苦笑混じりに応じた。
(まさかユウヤまで買ってくるなんて思わなかったな。スゴに誘われたのかもしれないけれど、本当はやっぱり、混じれない
のがつまらなかったんだろうなぁ…)
機械オンチの恋人が、こっそりやきもちをやいていた事が可笑しくて、イイノは少し俯きながら小さく笑う。
「説明書にはざっと目を通して来たっス!たぶん大丈夫!」
何やら張り切っているスゴがそう言うと、イイノはハッとしたようにオジマを見遣った。
「オジマ先輩は?ちゃんと説明書読みました?」
尋ねたイイノに、オジマは黒いゲーム機を裏返しつつ、反対側の手に持ったソフトを差し出した。
「入れ方が解らん」
「…本体の説明書すら読んでないんですね…。…もう…」
ため息をつきながら本体とソフトを受け取り、セットしてやるイイノを横目に、ヤマトは笑みを深くしながら口を開く。
「ははは!初心者さんいらっしゃい、だ!それも一気に二人。…まずキャラメイクからだなぁ。とりあえず横から説明しなが
ら基礎やったら良いだろう。アサガはスゴを頼むな?イイノ、オジマの方見てやれよ」
「あ、はい。解りました」
アサガはモジモジと、はにかんだような笑みを浮かべてヤマトに頷き、
「はい。って、先輩は?」
イイノは返事をした後、首を傾げる。
「丁度四人だからなぁ…。俺はいい、他に混じるから。一通りやったら軽く通信でもしてみたらどうだ?雰囲気掴めるように」
四人で遊ぶように促し、辺りを見回したヤマトは、丁度良く混ざれるようなところもない事を見て取ると、談話室の出口に
向かって歩き出した。
「Rボタンとは…、どこだ?」
「上にある…、そうそれ、右側のです」
「ヨウ、これ勝手に動いてんだけど?わっ!?何か出た!デカイの出た!」
「ふふ!オープニングデモだから、何もしないで見てて大丈夫だよ」
四人の声を背中越しに聞き、口元に微かな笑みを浮かべながら、ヤマトは廊下に出て、後ろ手にドアを閉めた。
そして、天井を見上げて軽く息をつくと、「喉乾いたな…」と言いつつ、食堂傍の自販機に向かって歩き出す。
浴衣の胸元に手を突っ込み、モサモサした毛に覆われた胸を掻きながら、
「…そう言えば…、誰かに面と向かって好きだなんて言われたのは、初めてだったな…」
そう呟いたヤマトは、目を細め、嬉しそうな、そして少しばかり寂しそうな笑みを浮かべる。
いつも気楽そうに笑って過ごしている寮監が見せた、大きくも寂しげな背中を見る寮生は、しかし誰も居ない。
談話室での話し声が微かに漏れて聞こえて来る、誰も居ない静かな廊下を、羆は一人、静かな笑みを湛えたまま、ゆっくり
と歩いて行く。
一人ひとり形の違う心、個性。
人付き合いという物は、積み木細工のような物だと、ヤマトは考えている。
求める物が違う事もあり、同じである事もまたある。意見が合うこともあれば、合わない事ももちろんある。
一人ひとり形が違うからこそ、ピッタリとはまる事ばかりではない。
だからこそ、足りない所は伸ばして、はみ出た所は我慢して引っ込め、自分が皆に合わせてやろう。そうヤマトは思っている。
自分は小心者だから衝突が嫌なのだ。だから周りに合わせた方が気楽なのだと。
果たしてそれは正しいのか?と問われれば、ヤマト自身、即答もできなければ、気の利いた答えも出せない。
だから「俺はヘタレだからなぁ」と、ただ苦笑いするだけである。
求め続ける事、手を伸ばせば届くものを諦める事、どちらが辛く、どちらが困難なのか、人それぞれではあるものの、ヤマ
トはいつも、自分が我慢する方を選ぶ。
その判断の根っこにあるのはきっと、臆病さだけではないという事を、周囲は知っていても本人は気付いていない。
物思いに耽っていたヤマトは、自販機の前に立つと、硬貨を入れて自分のコーヒーを、そして後輩達の飲み物を四本選び、
胸に抱えるようにして引き返した。
その顔には、自分の事ではなく、誰かの幸せに期待する笑み。
「さぁて…、今年度二組目のカップル誕生なるか!?ま、たぶん大丈夫だろうけどな」
本州ではまだ梅雨があけていないこの日、ヤマトの心はそれでも、星の瞬きが満ちた醒山の夜空のように晴れ渡っていた。