私立醒山学園男子寮三号棟の春の巣立ち

二月頭。まだ雪融けの遠い真っ白な山々に囲まれた道北の街。

全国的に見れば暖冬ではあったが、無論まだ春の足音は聞こえて来ず、二月の冷え込みで硬く締った雪に覆われ、地面の覗

いている箇所など街には全く無い。

そんな街の中心に聳える、私立醒山学園。

その裏手側にある寮の一つ、男子寮三号棟で、寮監である羆はむっくりした巨体を揺すりながら廊下を歩いていた。

浴衣に丹前をひっかけた2メートルを超える肥満体の大羆は、卒業を目前に控えた三年生で、名を大和直毅(やまとなおき)

という。

「スゴ~、居るなぁ?って、おわぁっ!?」

ドアを開けたヤマトは、驚きの声を発して半歩後退った。

「う~っス!お疲れっス!」

床の上にはぽっちゃり系スコティッシュフォールドが俯せに寝ており、その下には、

「あ…、お疲れ…さま…です…!」

仰向けの状態で体格の良いスゴの下敷きになり、何やら必死の形相をしているムクムク羊の姿。

「ご、ごごごごゴメン!邪魔する気は無かったんだよぉ!」

大慌てで部屋から出て行こうとしているヤマトに、何やら勘違いされている事に気付いたスゴが、床に手をついて身を起こ

しながら声をかけた。

「あ、ち、違うっスよぅ!格ゲーでやってた極め技の実技解説してただけっス!」

スゴの下でころっと寝返りを打って上体を起こしたアサガも、慌てた様子で声を発する。

「そうです寮監!その…、「そういう事」してたんじゃないですからっ!」

廊下に出てドアを閉めかけていたヤマトは、「へ?」と声を漏らして動きを止めると、決まり悪そうに頬を掻きながら振り

返る。

「そ、そか…。いや済まん…、てっきりイチャイチャモードに入ってたのかと…」

再び入り口を潜ったヤマトは、先走った勘違いをして恥ずかしいらしく、首を縮めながらシートにチェックを入れる。

「こっちこそ済みません…。もう点呼の時間になってる事、気付いてませんでした…」

「まぁ良いさ。でも、なるべくなら部屋に居てくれよ?特に寮監替わった後、しばらくは新任も大変だろうからさ」

「うっス…」

「はい、気を付けます」

揃って頭を掻いている二人が、恋人同士というよりは息のあった兄弟のようにも見えて、ヤマトは口元を綻ばせる。

「そういえば、新しい寮監はもう決まったんスかぁ?」

「いや、それがなぁ…。何人かに打診してるんだが、相変わらず良い返事が貰えなくて…」

興味深そうに垂れ耳と尻尾をピクピクさせているスゴに問われ、困り顔でため息を漏らすと、ヤマトは思い出したように口

を開いた。

「そうだ。スゴ、漫画好きだよな?俺の部屋のヤツ適当に持ってってくれ。なんなら全部でも良いぞ」

「へ?どうしたんスか急に?」

ビックリして垂れ耳をぴょこっと動かしたスゴに、ヤマトはニカッと笑って「処分市ってヤツだよ」と応じる。

「荷物がかさばらないようにさ、置いて行けるもんは置いて行くんだ。他じゃどうかは判らんが、醒山の寮生は卒業に際して、

卒業後に使わなくなるような私物は後輩に譲って行くんだ。置き土産にな」

「へぇ、経済的っスね」

「だはははは!まぁ、物は言いようってヤツさ。とどのつまり、かさばる不要な荷物を押し付けてくだけなんだよ」

ひとしきり笑った後、羆は羊を見遣って訊ねた。

「アサガは俺と同じゲーム機持ってたよな?要らなくなったソフトやるから、欲しいの適当に見繕ってくれ」

「え?良いんですか?」

「おう。…まぁ、やった事あるのばっかだろうけど…。その内二年の連中にも声かけて回るから、二人ともなるべく早い内に

頼むな?でないとめぼしいやつから持ってかれちまって、ろくなの残らないだろうから」

「最初に先輩方からじゃないんスか?」

首を捻ったスゴに、ヤマトは笑いながらパタパタと手を振って応じる。

「ははは!良いんだよ。二年の連中は去年もおこぼれに預かってるんだ。こういうのは下級生がおいしいトコ取りしなくちゃな」

ヤマトの言葉を受けて、スゴは嬉しそうに耳をピクピクさせながら頷き、アサガは申し訳なさそうに耳を伏せてはにかむ。

「それじゃあ、都合がついたら言ってくれな?」

口々に労い、礼を言う後輩達に見送られ、ヤマトは部屋を後にした。



「イイノ、居たな」

「はい。お疲れ様です寮監」

柔軟運動をしていたらしく、猪はジャージ姿で床に座り、脚を伸ばしてつま先を掴んでいる。

ぽっこりした腹が太ももに押し付けられてやや窮屈そうにも見えるが、太っている割に柔軟性は高い。

自分とは大違いだと思いつつ、ボードに挟んだ点呼用シートにチェックを入れたヤマトは、改めてイイノの部屋を見回した。

かつては前寮監の部屋であったここは、後から入ったイイノの好みに合わせて家具類が変えられ、綺麗に整頓されており、

かつての雑然とした部屋の面影はない。

「この部屋にハトリ先輩が居た頃は、まさか寮監になって点呼を取りに来るようになるとは思ってもいなかったなぁ…」

感慨深く呟いたヤマトは、イイノに視線を戻して訊ねてみる。

「年度替わりで売り出しとかあると思うけど、冷蔵庫買う予定とかあるのか?」

ストレッチを中断して立ち上がったイイノは、頬を掻きながら顔を顰めた。

実は、冷蔵庫の購入については前々から迷っているのである。

「う~ん…。どうしようかなぁって…。正直に言うとかなり欲しいですけど、仕送り受けてる身だし、あんまり贅沢も言って

られないかなぁって…」

部活がなければアルバイトで費用を稼ぐ事もできただろうが、イイノは柔道の特待生である。

バイトをする事で部活をおろそかにしてしまっては本末転倒なので、これまでは見合わせていた。

「持ってかないから俺の冷蔵庫やるよ。お前結構水物摂るし、あれば便利だろう?」

「え!?本当ですか!?」

ヤマトの申し出を驚きながらも喜ぶイイノ。

冷蔵庫を持っていないイイノは、乾燥機や洗濯機の置いてある共有スペースに設置された、各員に一つずつ割り振られてい

る冷蔵ロッカーを使用している。

ヤマトやオジマなど自前の冷蔵庫を用意している一部の寮生以外はそのロッカーをメインに利用しているのだが、これがお

せじにも大きいとは言えない。

500mlのボトルは立たないし、寝かせて詰め込んだところで八本も入れれば容量がいっぱいになってしまう。

イイノの場合はオジマの部屋の冷蔵庫の一部とロッカーを使っているが、

(俺と同じで汗っかきだし、ジュースやら茶やらがばがば飲むもんなぁこいつ…)

そんな事情から何かと不便だろうと考え、ヤマトは置きみやげの相手にイイノを選んだのである。

「でも、良いんですか?引っ越し先に持って行かなくて…」

「新天地での新生活、心機一転って事で新しい家具類に変えるからさ。正直、運ぶにもかさばるし…。そんな訳だから遠慮無

く貰ってくれよ」

嬉しそうに顔を輝かせたイイノは、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます!気持ち良く頂きますね!」

「おう、そうしてくれ!んじゃ、そろそろ行くな?」

「はい!ありがとうございました!」

何度もペコペコと頭を下げるイイノに見送られ、ヤマトは笑みを返しながら廊下に出た。



「チワダ~、居る~?」

「はぁい!」

座卓の上に雑誌を広げて読み耽っていたチワワは、顔を上げながらぴょこっと片手をあげて返事をした。

はたはたと尻尾を振っている小さな後輩の視線を受けながら、ヤマトは「ほい結構」と、チェックシートにマークを入れる。

そしておもむろに廊下に首を出し、左右をキョロキョロと確認してからドアをそっと閉め、声をひそめて話し始めた。

「あのさぁチワダ。荷物の処分するんだけど…」

「え?あ…」

一度首を傾げたチワダは、荷物を処分する理由に思い当たってピクンと体を震わせた。

「そんな顔するなよ。めでたい事なんだから」

くしゃっと顔を歪めたチワダに歩み寄り、ヤマトは横にどすんと腰を下ろす。

卒業まであと一ヶ月。めでたい門出ではあるものの、寂しい気持ちはもちろん皆が抱いている。だが、皆が皆、努めてそれ

を表には出さないようにしている。

チワダにはしかしそれができない。気持ちの切り替えが得意でなく、腹芸もできないチワワは、思い出す度に哀しげな顔を

する。

「す…、済みません…」

小さな体をさらに小さくし、しゅんとしょげた後輩の頭に、ヤマトは大きな手を優しく乗せて、慰めるようにくしゃくしゃっ

と軽く撫でた。

感極まって小さな体をフルフルと震わせたチワダは、縋りつくようにしてヤマトに抱きついた。

「…ボク…、凄く感謝してます…、寮監…。言葉で伝えきれないくらい、いっぱい、有り難うって…」

ヤマトのムッチリした胸に顔を埋め、チワダは肩を震わせながら、消え入りそうに小さな声で呟く。

「ボク、寮監と会えなかったら、本当の事言える相手も居なくて、きっとまだ一人ぼっちでした…。寮監と会えたから、皆と

仲良くなれて、恋人もできました…。この寮で楽しく過ごせてこられたの…、みんなみんな、寮監のおかげでした…!」

「なんか…、そう改まって言われるとくすぐったいなぁ…」

照れ臭そうに苦笑いを浮かべたヤマトは、フルフルしているチワダの背に太い腕を回し、ポンポンと軽く叩く。

「さ、湿っぽいのは無しだチワダ。それに、あと一ヶ月はあるんだからな?楽しい想い出作ってこう!」

「は、はい…!」

殊更に明るい口調で言ったヤマトに、顔を上げたチワダはグシグシと袖で目を拭いながら頷いた。

「…それで、話を戻して相談なんだけどな?荷物処分するから、もし要るなら例の雑誌、かなり溜まってるからやるけど…?」

「…え!?え、えぇと…」

恥ずかしそうに耳を伏せたチワダに、ヤマトは笑いかける。

ヤマトとチワダの愛読誌は、種類が種類なので人目に付くような方法での処分ができない。

段ボールに詰めて送るにしても、普通の雑誌の間に挟んで回収に出すにしても、こっそり捨てるにしても、できれば少しで

も数を減らしておきたかった。

「今度こっそり持って来るから、欲しい物が無いかざっと見てくれ。要らない物は俺が処分するからさ」

頷いたチワワから視線を外し、天井を見上げたヤマトは、

(さすがに、使用済みのオモチャまで押し付ける訳には行かないよなぁ…。あっちも何とかしないと…)

と、特大バイブやお徳用アナルパールの処分について頭を悩ませていた。



「アスカ~…」

「はいはい。ご苦労さん」

ドアを開けたヤマトを、線の細い人間の男子が笑顔で出迎える。

脇に畳んだタオルなどを置いて、座卓についている同級生の顔を見たヤマトは、顔を顰めて頬を掻いた。

「あ。悪い…。待たせたよな?」

ヤマトの点呼は、今日は寮生と様々な話をしながらおこなったせいで、いつもより少しばかり時間がかかっていた。

アスカが点呼終了を待って入浴しようとしていた事を悟ったヤマトは、耳を倒しながら詫びる。

「気にしないでいいよ。もう入試対策に急き立てられる事も無いんだし」

「ははは!やっと解放されたもんなぁ!」

アスカは昨日、志望大学の合格発表を見に行っている。結果は見事合格で、ヤマトも我が事のように喜んでいる。

「ヤマトの方は、まだ解放されないのかい?」

窺うような目になったアスカに問われると、羆は笑いを収めて困り顔になった。

「なかなかなぁ…。ま、もうちょっと余裕あるし、なんとかするさ」

「手伝える事があったら言っておくれよ?口添えぐらいしかできないけれど…」

「ああ。ありがとうよ」

気遣ってくれる親友に少し嬉しそうに笑みを返したヤマトは「いけね…」と呟いてチェックシートにペンを走らせる。

「悪い。また時間取らせちまったな。退散するから風呂行ってくれ」

「あ、うん。お疲れ様、おやすみヤマト」

「おう。おやすみ、アスカ!」

ヤマトは笑顔で応じ、アスカの部屋を出る。

胃に重い物でも入っているような落ち着かなさは、全く表に出さないまま。



点呼を終えて部屋に戻り、チェックシートに終了時刻と自分の名前を書き込んだヤマトは、ボードを散らかった座卓の上に

放り出し、冷蔵庫に歩み寄った。

取り出した1.5リットルボトルを直接口を付けて煽り、冷えたコーラをガブッと口に含むと、口の中を炭酸で炙った後に

一気に飲み下す。

冷たいコーラが胃に滑り込んで行くのを感じながら、羆は冷蔵庫に背を預け、どすんと座り込んだ。

皆の前ではいつも通りに振る舞っているものの、ヤマトは少々焦っていた。

醒山の寮の寮監は多くの場合、前任者が後任者を選び、引継ぎを行う。

そして、もしも期限までに後任が決まらなければ、学校側が寮生の誰かを新たな寮監に任命する。

ヤマトとしては、現寮監の最後の大仕事として、できれば自分で後任を決めて行きたいと思っているのだが、後任者が見つ

からないまま時間が過ぎてゆく。

タイムリミットとなる任命期限は、卒業式の二週間前まで。つまり、残すところ二週間程度しかない。

ヤマトは再びボトルを煽り、一気にガブガブとコーラを飲む。

胃の上辺りに感じている重苦しい物を、コーラで押し流そうとしているように。

しかし、ボトルが空になるまで一気に胃に流し込んでも、気分は全く晴れなかった。

なんとかして誰かに引き受けて貰いたいのだが、なかなか上手く行かない。

他ならぬヤマトの頼みである。普段であれば寮生達は快く引き受ける。

だが、今回ばかりは勝手が違った。声を掛けた者全員が、寮監になる事を断っているのである。

本人にその自覚は乏しいものの、ヤマトは他の寮の寮監と比べても、実に優秀な寮監であった。

寮監としての仕事のみならず、寮の設備のトラブルや、寮生同士の諍いなどまで解決し、寮生全員から慕われている。

そんなヤマト自身は、寮監として与えられている権限を行使する事は全くない。

寮監命令や文面での指導を行わない上に、教師への報告をほのめかす事もない。

他の寮監達が、好むと好まざるとに関わらず、寮生を纏めるために大なり小なり寮監の権限を行使している中、ヤマト一人

だけが例外であった。

オジマ曰く「北風と太陽」。ヤマトは寮生達を押さえつけようとはせず、自分を含めた寮生全員が居心地良く過ごせるよう

に心を砕いて来た。

決して縛るわけでも、強要する訳でもない。にも関わらず、ヤマトのお人好しでおおらかな人柄に触れて、寮生達の側に自

然と纏まりが生まれているのである。

前任のハトリは強力なリーダーシップで寮生を纏め上げていたが、タイプが異なるヤマトが寮監を引き継いでからも、この

男子寮三号棟の寮生が大きな問題を起こした事は一度も無い。

寮監としても先輩としても優秀と言えるヤマトだったが、今回の後任選定ではそれが裏目に出た。

声をかけられた寮生達はヤマトほど上手くやれる自信が持てず、尻込みしてしまっているのである。

自分が優秀であるという自覚が無いヤマトは、寮生達がプレッシャーを感じて後任を断っているとは露程も思わぬまま、引

き受けて貰えない事について、自分の側に問題点が無いかと思い悩み、焦りを感じていた。

「誰か、気持ち良く引き受けてくれないもんかなぁ…」

空になったボトルを床に転がし、コーラと炭酸で膨れた腹をさすりながら、ヤマトは途方に暮れたように呟いた。



そして、後任が決まらないままあっという間に一週間が過ぎた。

一向に後任が見つからず、焦りが募ったヤマトは一計を案じた。



談話室のベンチに座り、携帯ゲーム機を手にしたオジマは、ため息をついて項垂れた。

「…五連敗…。訓練と銘打ってありながら…、むしろ通常の物より難しいのは気のせいでしょうか…?」

「まぁなぁ…。得意な武器使えない訓練もあるし」

その隣に紙パックを片手に座り、ストローを咥えていちごオレをヂルヂル啜っていたヤマトがうんうん頷く。

それほど遅い時間ではないにもかかわらず、珍しい事に談話室には二人の他に寮生の姿はない。

「しかし…、にわかで終わると思ってたんだが、結構続いてるよなぁお前」

「…人付き合いが、どうにも苦手なもので…」

妙な返答に首を傾げたヤマトは、ゲーム機をケースにしまっているオジマを見遣る。

「こいつの事でなら後輩とも話ができる。アサガなどとは、これがきっかけにでもならなければ、未だに会話の無い間柄だっ

たでしょう」

「なるほどねぇ…」

ヤマトは口の端をほんの少し吊り上げ、面白がっているような微笑を浮かべた。

入寮当初はとことん排他的で、他の寮生と必要最低限のコミュニケーションしか取らなかったオジマが、今では後輩との接

し方にも気を配っている。

寡黙なのは相変わらずだが、あの頃と比べれば随分付き合いやすくなった事は、ずっと傍で見てきたヤマトにとっては喜ば

しい事であった。

「ところで、次の寮監は決まりましたか?」

オジマの問いに、ヤマトは大仰に肩を竦めて見せる。

「なかなか見つからないんだなぁこれが。どいつもこいつも荷が重いとかなんとか…。俺でもやれたんだからそう警戒しなく

て良いのになぁ」

「大変ですな」

他人事のようなオジマの返答に、「ああ。大変だ大変だ」と頷いたヤマトは、ニヘラ~ッと、緩んだ笑みをオジマに向けた。

「…って訳で…。お前が寮監引き継いでくれよ、オジマ」

「前にもお断りしたはずです」

即座に拒否する虎。しかし今回ばかりはヤマトも簡単には引き下がらない。

「良いだろ?減るもんじゃないし」

「減ります。柔道と狩りの鍛錬に費やす時間が」

「…狩りもかよ…」

「狩りもです」

呆れ顔で呟いた羆に、虎は真顔で頷く。困った事に大真面目である。

「そんな事言わないでやってくれよぉ。お前なら誰も逆らわないだろうし、柔道部の主将やってんだからリーダーシップもある」

「二つも面倒は見られません」

「お前が一番適任だと思うんだよ。機械に弱い事と、ぶっきらぼうな事と、強面な事と…、…寒さに弱い事と…、と、とにか

く!一部の事さえ除けばお前は寮監にピッタリなんだよ!」

言っている最中に不適合項目が結構多い事に気付いたヤマトだったが、自分を納得させるように拳を握って力説する。が、

「寮監を引き受ける余裕などはありません。最後の高体連がかかっていますので」

と、このようにオジマはつれない返答。

「そうつれない事言わないで…。な?な?この通りっ!」

「嫌な物は嫌です。お断りします」

拝むようにしてオジマに両手を合わせたヤマトだったが、けんもほろろに断られる。

丸二年も付き合ってきたヤマトには良く判っている。オジマが非常に頑固者であるという事は。

間違っていると認めればさらりと認識を改める柔軟さはあるものの、今回の件については正誤の話では無い。単に互いの主

張が衝突しているだけである。

こんな状況でのオジマは、滅多な事では態度を変えない。

しばし考えた後、言葉での説得は無理だと再確認したヤマトは、立ててきた作戦を実行に移すべく、すっと手を上げた。

「んじゃ、勝負だオジマ。俺が勝ったら寮監を引き受ける。お前が勝ったら…、何でも言う事聞いてやる」

羆の太い指が示した方向を見遣ったオジマは、不快げに顔を顰めつつも、卓球台を見ながら頷いた。

「良いでしょう。…しかし勝負事で決めようとするとは強引な…、寮監らしくもない…」

そのオジマの呟きで心のどこかに引っかかりを感じたものの、ヤマトはしめしめとほくそ笑んだ。

「男に二言は無いな?」

「無論です」

念を押すヤマトと頷いたオジマは、ベンチから腰を浮かせて歩き出し、それぞれ違う場所で足を止めた。

オジマはラケットとボールが出ている卓球台の前。ヤマトの方は上に何もない丸テーブルの前。

「寮監?」

胡乱げな視線を向けた後輩に、ヤマトは丹前を脱いだ上で浴衣も片肌脱ぎ、タンクトップを纏った上半身と右腕を晒しつつ、

ニヤリと笑いかけた。

「さぁ、勝負だオジマ!腕相撲でなっ!」

ポカンと口をあけたオジマは、次いで目を吊り上げた。

「き、汚いっ!てっきり卓球だとばかり…!」

「え~?俺そんな事一言も言ってないけどぉ?…男に二言は無い…だよなオジマ?」

「…ぬぅ…!…無論ありませんっ!」

冷静になればいくらでも反論できるところだが、熱くなりやすい性格につけ込まれたオジマは、まんまとヤマトの作戦には

まり、勝負に乗ってしまった。

丸テーブルを挟んで向き合ったオジマは、「ハンデだ。右でやってやるよ」とのヤマトの言葉を受け、テーブルに腰を寄せ

て不機嫌そうにドンと右肘をついた。

オジマは右利きだが、ヤマトの元々の利き腕は左である。

幼い頃に苦労して練習し、箸もペンも右手で使うようになったが、今でも筋力は左腕の方が強い。

ここで有利な左手での勝負に持ち込まなかったのは、ハメて勝負に持ち込んだ事に多少の負い目を感じての譲歩であった。

テーブルの中央で手を握りあうよう、ヤマトは出っ張った腹をテーブルの縁に乗せるようにして身を乗り出し、右肘をついた。

そして二人はそれぞれ左手でテーブルの縁を掴み、互いの右手をガッシリと握る。

ヤマトのむっちりしたぶ厚い手を握ったオジマは、闘志を剥き出しにして縞々の尻尾をヒュンヒュンと左右に揺らす。

極度の肥満体であるヤマトだが、羆特有の馬力に加え、その分厚い脂肪層の下には、日頃からその巨体を動かしている事で

自ずと発達した筋肉を備えている。

スタミナこそ無い物の、単純な力比べであれば鍛えこんでいるオジマをも上回っている。

他の勝負ならともかく、腕相撲ではヤマトの方に分がある。事実、これまでに一度も勝てた試しがない。

だが、ある事が非常に面白くなかったオジマは、正面からヤマトをねじふせてやるつもりになっていた。

「んじゃ、レディ~…Go!」

ヤマトのゴーサインと同時に二人の腕に力が籠もり、台にされた円形のテーブルがギシッと大きく軋みを上げる。

瞬時に緊張し、膨張した筋肉で盛り上がった二人の腕が、込められた力で小刻みに震える。

スタート直後、瞬発力のあるオジマの腕が二割以上も太いヤマトの腕を少し傾かせたが、そのまま押し切る事は叶わなかった。

スタートで押されたものの、羆の右腕はじりじりと押し返し、短時間で中央まで盛り返す。

手の位置が完全に中央に戻り、勝負が拮抗すると、まだ余裕のあるヤマトが不敵な笑みを浮かべた。

「素直に…引き受けてくれよ…!なぁオジマぁ…!」

対して必死の形相になっているオジマは、食い縛った歯の隙間から声を漏らした。

「嫌と言ったら…、嫌です…!こんな真似まで…されたら…、なおさら、引き受けてたまるかっ…!」

直後、ヤマトの顔から余裕の表情が消えた。オジマが口にした言葉が、怒気すら孕んでいる事に気付いて。

「なおさら…って…、何でだ…?」

「…俺が…、敬愛してきた寮監は…、力ずくで…、言う事…聞かせるような…、男じゃ、ない…!」

力を振り絞るオジマが途切れ途切れに言葉を吐き出してゆく内に、ヤマトの目が大きく見開かれていった。

勝負に負けたら寮監を引き受けろと持ちかけた際、オジマが見せた不快げな表情。

そして、次いで口にしていたヤマトらしくないという言葉。

和を好み、いつでも話し合いで事を運んできたヤマトが、自分に対して勝負事で言う事を聞かせようとした。

相手の意思を尊重し、話し合いで物事の解決を図るというヤマトの姿勢に敬意と好感を抱いてきたオジマには、それが面白

くなかった。

オジマの返答を耳にしたヤマトは、やっと気が付いた。

後任を見つけられずに焦る余り、危うく重大なミスを犯してしまう所だったという事に。

こんな方法で無理矢理寮監を引き受けさせられた者が、はたして、やり甲斐を感じながら寮監を務める事などできるだろう

か?ヤマトはそう自問する。

あの好き勝手やってばかりいたハトリですらも、今思えば無理矢理任命する事だけは避けていた。

しつこく、そして押しつけがましく勧めては来たものの、何故か実力行使には出ず、結局はヤマト自身に決断させた。

自分がやっている事は間違いだ。そう悟ったヤマトの腕の緊張が緩む。

ゆっくり、ゆっくりと、オジマの手がヤマトの手を押し込み、やがてどしっと、テーブルに手の甲を押し付けた。

少し息を乱したオジマが手を除けると、ヤマトは手首をほぐすようにしてプラプラと右手を振る。

二人とも、短いながらも緊迫した勝負で、手の平にじっとりと汗をかいていた。

「あ~…。結構自信あったんだけど、ついに負けちまったなぁ…。やっぱ真面目に鍛えてるヤツにゃあ敵わないか」

苦笑いしているヤマトを、しかし勝者のオジマはしかめ面で見つめている。

「何故、途中で手を抜いたのですか?寮監…」

疑っている様子のオジマに、ヤマトは苦笑いを浮かべたまま応じた。

「知ってるだろ?俺にスタミナない事。あれがいっぱいいっぱいだ。…お~…、腕の筋が突っ張ってるぅ~…」

ひとまずは納得したのか、オジマはそれ以上追求しようとはせず、ヤマトは胸の内でほっと息をついた。

オジマの事である。手を抜いたなどと知ったら快く思わず、激怒してやり直しを要求するのは目に見えている。

「腕相撲でも負けるなんて…。別の勝負にしときゃよかったなぁ…」

「どんな勝負です?」

「大食い競争とか、早食い競争とか」

訊ねるオジマに、ヤマトはしれっと応じる。

「…それらだと勝ち目が全くありませんな…」

かぶりをふったオジマに、ヤマトは軽く頭を下げた。

「…悪かった…、目ぇ醒めたよ…。俺らしくない、か…。言われてみれば確かにそうだよな…。例え勝てたとしても、こうい

うので決めるのは良く無いもんな…」

眉尻を下げて耳を寝せ、心から詫びたヤマトから視線を逸らし、オジマは傍のベンチに歩み寄ってどすっと腰を下ろした。

ベンチに腰掛けた虎から視線を向けられた羆は、座れと促されている事を察し、隣にどすんと腰を下ろす。

「…三年近く前…、中学の頃の話です。ある事で部活の後輩ともめて、こうして勝負で白黒つけようとした事がありました」

座るなり唐突にそんな事を言われたヤマトは、きょとんとした顔をしながら横目でオジマを見遣った。

「俺が三年だった頃、後輩二人が稽古中にふざけあっていました。片方は一年、もう片方はその年から途中入部した二年です。

ふざけて稽古をすれば怪我をする事もある。だから俺は、二度と繰り返さないよう、いささか乱暴に一年を指導しました」

オジマ自身が乱暴と言う程では、それはそれは相当な事をしたのだろうと考え、ヤマトは顔を引き攣らせながら頬を掻く。

「その時一緒に居た二年生の方が俺に反発しました。その時は、経験者の一年に二年の素人を預けていたような格好でして…。

…弁解抜きに、一年の方はどう見てもふざけていたのですが…」

ヤマトは口を挟まず、オジマが語る昔の話に、静かに耳を傾ける。

「今思えば、柔道を囓り始めたばかりの二年の方には、それが解っていなかった。真面目に稽古をしていたと思い込んでいた

んでしょうな。…今でこそ解っているが、仲間想いなヤツでして…、俺が一年を締め上げた事は腹に据えかねたようです。柔

道ド素人のそいつは俺に勝負を持ちかけました」

当時の事を思い出してか、微かに苦笑しながらオジマは続ける。

「自分が勝ったらその一年生に謝れ。そのかわり、自分が負けた場合は先輩の言うことを何でも聞く。自分を退部させるなり

なんなり好きなようにしろ。…と、喧嘩腰で啖呵を切って来ました」

「お前にか!?肝が太いなぁソイツ…!」

ヤマトが驚いて目を丸くすると、オジマはくっくっと、楽しげに小さく笑った。

「大したヤツですよ。今では選手としても、ひととしても認めています。…ですが、当時の俺はソイツの事が気に食わなかった」

先を聞きたそうに自分を見つめる寮監に、オジマは肩を竦めて見せた。

「いろいろと噂が絶えない男でした。校内でも校外でも喧嘩で何人か病院送りにしていまして。…まぁ、大半が巻き込まれた

物と正当防衛だった訳ですが、本人も一切弁解しないもので、当時は俺も噂を鵜呑みにしてしまいまして…」

「つまりその…、不良だったのか?」

「実際には違います。が、そこに正当な理由があればキレる。そしてキレたら歯止めがきかない。愚直な男です。そして…、

俺も当時はあいつの事を安っぽい理由で暴力を振るう不良だと考えていまして…、問題児だとハナから決めてかかっていまし

た。…あの出来事があってからかもしれません。俺がいくらかでも柔軟に物事を考えるようになったのは…」

決まり悪そうにガシガシと頭を掻くオジマを見ながら、ヤマトは納得する。

以前のオジマは今以上に頑固であったとイイノから聞いている。この話はおそらくその頃の事なのだろうと。

「話を戻しますが、そんな経緯からそいつと柔道で勝負しました。先にも言いましたが、当時のそいつは受け身の取り方も知

らない素人。俺が絶対的に有利な勝負です」

自分が持ちかけた勝負も似たような物だと感じながら、ヤマトは居心地悪そうに身じろぎする。

「寝技のみという条件下での勝負でしたが、結果は痛み分け…というより、負傷した俺にあいつが勝ちを譲った格好でした」

「負傷!?お前に柔道で怪我させたのか!?素人が!?」

思わず声を大きくしながら聞き返したヤマトに、オジマは苦笑いしながら頷く。

「最初は退部させてやる気でいましたが、その勝負で目が醒めました。こいつはどうも俺が思っていたようなヤツではなさそ

うだと…。結局、勝った時の約束通りに俺があいつに一つ言うことをきかせられたので、柔道部を続けさせる事にしまして…。

以来、俺はそいつを後輩として、そいつは俺を先輩として認めるようになりました」

丸く収まった話の結末を頷いて聞きながら、しかしヤマトは解らなくなった。

てっきり勝負事に関して大失敗を経験し、それでオジマは今回の事にもいい顔を見せなかったのだろうと考えたのだが、話

を聞く限りはむしろ上手く行っているように思える。

「…ですが、馬鹿な勝負を受けてしまったと、後々まで後悔しました」

首を傾げていたヤマトは、そう続いたオジマの言葉で驚きの表情を浮かべた。

「何でだ?それでわだかまりがとけたんじゃないのか?」

「確執については確かに。ですが、その勝負を受けてしまった事で、逆に意固地になってしまい…、俺は後輩達に謝れなくなっ

てしまったのです」

目を伏せたオジマの横顔を見遣るヤマトは、顔中に疑問符を張り付けている。

「本当は…、その勝負で素人同然の二年が善戦した時点で、お前達がやって来た事は効果があった。お遊びは言い過ぎだった。

そう言ってやりたかった…。なのに、あんな勝負を受けた事で、俺はそれができなくなってしまった…」

「素直に言ってやれば良かったんじゃ…」

「真剣勝負でした!」

控えめに発したヤマトの声は、オジマの鋭い言葉で断ち切られる。

「あいつが自分の退部までかけた真剣勝負でした!そこまでして俺に言わせたかった言葉を、負けた上に聞かされるのはどん

な気持ちです?俺が容易く言ってしまったなら、あいつの覚悟が、あの勝負が、どれだけ安っぽい物になってしまうか…!」

拳を握り締め、悔やむような表情を浮かべたオジマは、やがて小さくため息を吐き出し、肩の力を抜いた。

「後々、そいつと再戦して負けるまで、俺はその言葉を口に出来ませんでした…。あの勝負を受けてしまったばかりにです…。

ジュースを奢るなど、軽い約束ならばいい…。だが、本当に大事な物は、勝負事などで決めるべきではない…」

ヤマトは俯き、指先でコリコリと額を掻く。

オジマの捉え方は少々硬すぎる気もしたが、こうまで真剣な姿勢を示されると、安易な気持ちで解決手段を勝負事に委ねよ

うとした自分が恥ずかしくなった。

二人ともしばし黙り込み、広い談話室に静寂が満ちる。

ややあってその沈黙を破ったのは、オジマの方であった。

「後に…、イイノに言われました…」

横目で見つめて来るヤマトの視線を感じながら、オジマは続ける。

「大事なことほど、余計な物は挟まず、過度に飾らず、素直に真っ直ぐさらりと伝えるべきなのだと…。俺が告白した時のよ…

ゴホン!」

うっかりいらぬ事まで口を滑らせそうになり、慌てて咳払いで誤魔化したオジマの横で、

「悪かった…。お前の言う事ももっともだよ」

ヤマトはいささか気恥ずかしそうな苦笑を浮かべ、首を縮めながら頭を掻く。

「焦ってたんだろうなぁ…。いくら親しい相手だっていっても、確かに俺らしくないやり方だった…。仕方ない。これまで通

りに皆に頼み込み続けるか」

「申し訳無いですが、それでお願いします」

口の端を微かに吊り上げて応じるオジマに笑い返したヤマトは、ふとある事に気付いて眉根を寄せた。

「素直に真っ直ぐ伝えるべきって…。お前さ、俺が素直に真っ直ぐ頼んだけど断ったじゃないか?」

「「そう伝えるべきだ」と言う話であり、「そう伝えれば断られない」と言う話ではありません。嫌な物は嫌なので」

「…そぉ…」

何やら上手く丸め込まれてしまったような気がしたヤマトは、釈然としない様子で頷いた。

「ところで寮監」

「ん~?」

右腕の肘上辺りを揉み解しながらオジマを見遣ったヤマトは、

「何でも言う事を聞く…、との約束でしたが…」

「うっ!?」

真っ直ぐに向けて来るその視線を受け、射竦められたかのようにビクッと硬くなる。

勝負を放棄する際にはすっかり念頭から抜けており、今の今まですっかり忘れていたが、勝負前には確かにそういう約束を

交わしていた事を思い出して。

「男に二言は…」

「ああもう!無いっ!二言は無い!何でも言えこんちくしょう!」

ヤマトの返答を聞いたオジマは、口の端を微かに吊り上げて笑う。

「まぁ、今の所は頼み事も思いつきません。後でじっくり考えます」

ひとまずホッとしたヤマトは、「よっこらせっ…」とおっくうそうに尻を上げ、大きく伸びをした。

「さぁて、誰から再アタックしてみるかなぁ…」



それから数日後の夜、点呼を終えて自室に戻ったヤマトは、点呼用ボードを床にペタンと落とし、ふらふらとベッドに向った。

ばふっと俯せに布団に倒れ込んだヤマトは、枕に顔を押し付けたまま、深々とため息をつく。

日にちは過ぎてついに期限前日。後任者を推薦する場合は、明日の放課後までに学校へ届け出なければならない。

だが、結局後任が決まらないまま、今に至ってしまった。

「…俺…、思ってた以上に人望無いのかなぁ…」

弱々しく呟いたヤマトは、ごろりと寝返りを打って横向きになった。

ベッドの上から見渡す部屋は、私物がだいぶ片付き、以前の散らかり具合が嘘のように整頓されている。

(…まぁ…、仕方ないよなもう…。寮の事ぐらい寮内で決めたかったけどさ…、後は学校側に任せるしか…)



その頃、寮内のとある一室では、座卓に向かって正座しているずんぐりした猪が、メモ用紙にペンを走らせながら、携帯を

耳に当てて熱心に頷いていた。

「はい。はい。有り難う御座います!助かりました先輩!」

相手には見えないにもかかわらず、何度もペコペコと頭を下げたイイノは、携帯を恋人に返し、殴り書きしたメモを纏め始

める。

その横であぐらをかいている虎が、携帯を耳にあて、やはり相手には見えないが会釈する。

「手間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。先輩」

『なーに、気にすんな。…で、ホントに決まってねーのか?明日までだって?』

「ええ、まぁ…」

オジマはやや決まり悪そうに頬を掻くと、正直に打ち明けた。

「実は俺も頼まれたのですが、個人的な事情があり、断りました」

『そっか~…。ま、おめぇにゃおめぇの事情があるわな。もう部外者のおれがどうこう言うこっちゃねーや。けどちっと意外

だな?おめぇがヤマトの頼みを断るなんてよ』

「もちろん、他のことならば喜んで引き受けます。が、今回ばかりは…」

断りはしたものの、ヤマトに済まないと思っているオジマは、耳を倒して眉を八の字にする。

『いや、お前を責めてる訳じゃねーんだぜ?ヤマトの野郎、相変わらず甘ったるい事やってんだろうなーって思っただけでよ』

「甘い、ですか」

『おう、甘いも甘い。大甘だ。だらだら馴れ合いなんぞしてるから後輩共に舐められんだよ』

オジマの言葉に、通話相手は声を大きくして応じた。

「寮監は舐められてなど…」

『いいや舐められてるね。だから見ろよ?大事な時に大事な頼み事しても、こんな風に引き受けて貰えねーんだ。なまぬりぃ

甘ちゃんって見られてんだよ。やり方が手ぬる過ぎんだよアイツは。だから、頼られるだけ頼られて、肝心な時にはないがし

ろだ』

「それは違います!寮監は皆から好かれているし、尊敬もされている!舐められてなどいないし、甘く見られてもいない!確

かに先輩とはまたやり方が違いますが、それも間違っているとは俺には思えません!」

オジマが急に声を荒げて反論し、メモを纏めていたイイノはびっくりして顔を上げる。

何事かと横顔を窺うイイノの視線を受けながら、オジマは訝しげに眉根を寄せた。

受話器の向こうから聞こえて来る、小さな含み笑いを耳にして。

「先輩…?」

『いや、なんでもねーよ。それだけ聞けりゃ満足だ』

笑い混じりの声を聞き、オジマは悟る。

相手は自分の反応を見るために、わざとヤマトを軽く見ているような発言をしたのだという事に。

『そこまで思っててもなお断るんだから、それなりの事情なんだろ。もう何も言わねーよ。かまかけるような真似して悪かっ

たな』

「…いいえ…」

まんまとひっかけられたオジマは、軽く顔を顰めながら、ふと思いついた。

しっかり調べたつもりだったが、念の為に確認しておいた方が良いかもしれない、と。

「…つかぬ事を窺いますが………の場合………ですか?例えば………などは?」

『おう。細かいとこはもう覚えてねーし、手元に資料ねーから詳しくは説明できねーけど、そりゃあ出来るぜ』

「そうですか…」

訝しげに眉根を寄せてじっと自分を見ていたイイノにちらりと視線を向けたオジマは、しばし黙り込んだ後、ゆっくり大き

く頷いた。

「ありがとうございました。ハトリ先輩」

『なーに気にすんな。たまにゃかけて来い』

「はい」

深々と頭を下げて通話を終えたオジマは、ずっと自分を見ていたイイノに向き直る。

「決めたぞ。マサ」



通話を終え、携帯をテーブルの上に置いたゴールデンレトリーバーは、組んだ足をゆらしながらニヤニヤする。

革張りのソファーに尻を沈めたハトリは、高級そうな黒いスーツに身を包んでいる。

毛足の長いフカフカの絨毯が敷かれた部屋は、天井も壁も象牙色で、大きなシャンデリアが頭上に吊られている。

ソファーもテーブルもその他の家具も、シックな装いの高級品で統一された、高級ホテルのロイヤルスイート。

その部屋に、黒いスーツを着こなしたハトリは見事に溶け込んでいた。

フサフサした鮮やかな金色の被毛と、鍛えられた筋肉を纏う体は完璧なプロポーション。

その内面はともかく、黙ってさえ居れば部屋に相応しい美丈夫である。

しばしテーブルの上に置いた携帯を見つめていたハトリは、背後のドアが開く気配に反応して耳を動かし、首を巡らせた。

黒地に金の装飾が施されたドアを後ろ手に閉めて部屋に入って来たのは、小柄な割に異様にボリュームのある、ボールのよ

うな体つきの男である。

丸々とした体にピンク色のバスローブを纏った暗灰色の狸獣人は、薄桃色のタオルで湿った頭をクシクシ拭いながらハトリ

に視線を向けた。

「あ。上がったよキンちゃん。電話は終わったの?」

少し鼻にかかった高めの声が狸の口から漏れると、ハトリは片手を上げて「おう。今しがたな」と返事をする。

「珍しいね?キミが長電話なんて」

柔和な笑みを浮べた狸がテポテポと歩み寄ると、

「寮の後輩からだったんだ。…久々だったから話し込んじまったな」

ハトリはソファーの表面の黒革、自分の隣をポンポンと手の平で叩き、座るように促す。

「よいしょ…」

回り込んだ狸は声を漏らしながらソファーを軋ませて座り、ハトリはその肩に腕を回してローブの間から手を入れる。

「ちょっとキンちゃん?明日の予定の話がまだ…」

困ったような顔をした狸は、異様に脂肪がついたタップリした胸を軽く掴まれ、目を閉じて「んっ…」と声を漏らす。

「10時から五橋重工の工場見学。11時30分から同重工代表取締役と会食。終わり次第ヘリで移動。14時から千年支社

で新年度の体制見直しについての打ち合わせ。後休憩。19時から伊賀沢電工のお偉いさん方と食事。おおまかには以上」

メモも見ずにすらすらと口にしたハトリは、その間にも胸を揉みしだく手を止めなかった。

「すっかり板についてきたねぇ、キンちゃん」

感心したように言った狸に、ハトリはニ~ッと笑って見せる。

「だろ?って訳で、心置きなくいぢられろ」

「ちょ、ちょっと待って!その前に…」

胸をぎゅうっと掴むハトリの手にむっちりした手を重ね、狸はレトリーバーの肩にぷっくり膨れた頬を寄せた。

「また、キンちゃんの後輩君達の話を聞かせてよ?」

ねだるように鼻を鳴らした狸の瞳を見返し、ハトリは手を止めて苦笑いした。

「何が面白いんだか…。物好きだよなーキヌタは」



ベッドに横になったまま微睡んでいたヤマトは、僅かに顔を顰めて低く唸った。

ノックの音に反応した丸い耳がピクピク動き、瞼がゆっくり薄く開く。

自分がいつの間にか寝てしまっていたことに気付き、のそっと身を起こしたヤマトは、欠伸を噛み殺してベッドの縁に座った。

「開いてるからどうぞぉ」

ヤマトの返事と同時にノックが止まり、ドアが開けられる。

『失礼します』

声を揃えて会釈しつつ部屋に入って来た二人を、ヤマトは目を擦りながら眺めた。

先に入った虎が「遅くに申し訳ありません」と断り、猪が静かにドアを閉める。

「失礼な時間とは思ったものの、大事な相談があり、おじゃまさせて頂きました」

オジマの言葉に常とは違う物を感じ、ヤマトは小首を傾げる。

「どうしたオジマ?改まって…。それにイイノまで」

いつも表情に乏しいオジマだが、ヤマトにはその微細な変化が判る。

真面目な顔つきで自分を見ている後輩に、腰を据えて話した方が良さそうだと判断したヤマトは、座るように二人を促して

ベッドから離れた。

だいぶ片付いた部屋の床に、並んで座ったオジマとイイノと向き合う形であぐらをかくと、ヤマトは「で、どうした?」と、

話すように促す。

「はい。では、オレからお話しさせて貰いますけど…」

てっきりオジマが話すのだろうと思って、そちらの顔を見ていたヤマトは、口を開いたイイノを少し意外そうに見遣った。

「次の寮監、見つかりましたか?」

「…いや、だめだった…。先生方からの任命って形になるな」

残念そうに言ったヤマトは、小さく頷いたイイノが隣のオジマに視線を向け、オジマがそれに応じて小さく頷く様子を見な

がら、少し不思議そうな顔になる。

イイノはヤマトに視線を戻すと、その目を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。

「単刀直入に言います。寮監、オレにやらせて貰えませんか?」

「ん?」

首を捻ったヤマトは、一瞬後に目をまん丸にした。

「へ!?寮監、やるって…、え!?お前が!?」

驚いて身を乗り出したヤマトに、イイノは真剣な顔で頷いた。

「他の寮では以前、その年度の二年生が寮監を務めたケースもあったって聞きました。最上級生が務める事が慣例になっては

いるものの、寮監を務める条件に学年は関係ないっていう事も。オレでも寮監になれるんですよね?」

「い、いや…、確かにその通りだけど…」

予想だにしていなかった申し出に面食らっていたヤマトは、かぶりをふって頭を切り換える。

「…良いかイイノ?確かに駄目じゃないし前例はある。けどな、本当に稀なケースなんだぞそれは?自分の先輩達を寮監とし

て纏めなくちゃならない。それがどのくらい負担になるか…」

「それを承知の上でお願いに上がりました」

イイノはヤマトの言葉を遮り、依然として真っ直ぐな視線を向けたまま言葉を続けた。

「先輩方を分不相応にも後輩が纏める…。出過ぎた真似だとは思いますし、他の寮でだったらオレだってこんな事考えません

でした。でもこの寮の先輩方なら、オレが寮監になっても協力してくれます。絶対に!」

きっぱりと言ったイイノに、ヤマトはなおも「しかしなぁ…」と、顔を曇らせて難色を示す。

確かに、この寮の上級生ならばイイノが寮監になったとしても軽んじる事はしないだろうと思えたが、ヤマトはどうにも気

が進まなかった。

その気が進まぬ理由が、実はヤマト自身にもよく判らないので、諭そうにも上手い言葉が出てこない。

「先輩。オレなんかじゃ寮監は務まりませんか?」

「いや、そういう事じゃなくてだな…」

「でも、二年生の先輩方には声を掛けて、オレ達一年には声を掛けないまま先生方にお任せする事にしたのは、寮監を任せる

には不足だと思うから…、ですよね?」

眉尻を下げて少し寂しそうに言ったイイノの顔を、ヤマトは目を大きく見開いて見つめた。

イイノに、一年生に声をかけなかった理由。

そこに大変だろうからと言う気遣い以外の物が混じっていた事に、ヤマトは今初めて気が付いた。

「オジマ先輩が寮監を受けられない今、不足かもしれませんがオレが引き受けたいんです」

イイノの目を見つめながら、ヤマトは恥じ入って頭を掻く。

一人前と認めているつもりでいながらも、結局の所自分は、一年生達を軽く見ていたのだ、と。

確かに寮監は最上級生から選ぶのが通例ではあったものの、候補からは初めから除外していた。

自発的に寮監を買ってでようとしている猪の目には、若干不安そうな光が見られる。

それでもイイノは、責任を担う覚悟を決めて申し出ていた。

卒業間際になって実に様々な事を後輩達から教えられていると気付き、こそばゆさと恥かしさを感じる。

そして同時に、後輩達がしっかりしている事を再確認し、少し嬉しくなった。

「オジマの代わりに、か…」

ヤマトの言葉に、一拍の間を置いてイイノは頷いた。

「背中を押してやるのも、女房の務めですから」

大まじめな顔でそんな事を言ったイイノの横で、オジマが困ったような顔でもぞっと身じろぎすると、ヤマトは苦笑を浮か

べた。

「良い後輩を持ったな…。俺もオジマも…」

ヤマトの呟きに、オジマは相変わらず無言のまま大きく頷いた。

腕組みをして目を閉じたヤマトは、しばしの間黙り込む。

そして、自分を納得させるように顎を引いて小さく頷くと、目を開いてイイノを見つめた。

「本当に、頼んで良いんだな?イイノ…」

ヤマトの顔を真っ直ぐに見返し、イイノはしっかりと頷いた。

「判った…。ならお前を後任に推薦させて貰う。…ありがとう…、イイノ…!」

胡坐をかいた膝の上に両手を乗せ、背中を丸めて深々と頭を下げたヤマトに、イイノは慌てた様子で腰を浮かせた。

「そ、そんな先輩!頭なんて下げないで下さいよ!話はまだ半分です!」

顔を上げたヤマトが「半分?」と訝しげに尋ねると、イイノは頷いて肩の高さに上げた右手を上げ、ピッと人差し指を立てる。

「一つ確認しておきたいんです。寮監交代の規定について…」

羆はきょとんとした表情で猪が立てた指を、次いでその顔を見遣って頷く。

「当人同士の承諾があって、学校から認められる場合、年度途中でも寮監交代は認められる。…ですよね?」

「え?あぁ。確かにそういう決まりもあるが…」

「その規則を利用し、部活引退後は俺が寮監を引き継ぎます」

それまで黙していた虎が唐突に口を開き、ヤマトは「へ?」と目を丸くする。

オジマは決まり悪そうにそっぽを向くと、ガリガリと頭を掻いた。

「…俺が後任をお断りした理由は、部活に打ち込む為です。引退後は、寮監をやらないでいる理由も無くなる訳で…」

「お、オジマ…」

あれだけ頑なに断り続けていたオジマの急な変わりように、ヤマトは呆気に取られて二の句が告げなくなった。

「…だから勝負事など嫌だったのです…。勝ったは良くとも、後々話が切り出し難くなる…!」

苛立たしげにボソボソと言ったオジマの言葉で、ヤマトは先日の事を思い出し、「あぁ…!?」と呻いた。

「オジマ…?もしかしてお前…!?」

もしやオジマは、後任が見つからなかった場合、条件付きで引き受けるつもりだったのではないか?

初めからそのつもりだった所にあんな勝負を挟んでしまった事で、オジマにとっては言い出し辛い状況を作ってしまったの

ではないか?

オジマはそっぽを向いて答えなかったが、ヤマトはその態度で後輩の真意を悟り、同時に、あの時の自分の失敗が予想以上

に大きかった事を知り、耳を伏せてしょぼくれた。

「済まなかった…。オジマ…」

「…さて、何の事でしょうか?」

そっぽを向いたままとぼけたオジマの横で、イイノが小さく笑った。

「お硬い上に強情だから、結構面倒臭いんですよねぇ。こういう時のオジマ先輩って」

「…悪かったな…」

ムスッとしながら呟いたオジマと、面白がっているようなイイノに、ヤマトは深々と頭を下げた。

「ありがとうなぁ…、二人とも…!」



その翌日、イイノを寮監として推薦した日の夜から、ヤマトは寮監の引継ぎを始めた。

イイノは熱心にメモを取り、細かな疑問なども放置せず、逐一ヤマトに訊ねた。

中学時代に学級委員を経験した事はあるが、今回は比較にならない立場である。

学舎の中でではなく、寝泊まりする「家」で皆を纏める立場。時間も中身も濃く、責任は段違いに重い。

同級生どころか先輩まで束ねなければならない。そのプレッシャーは学び取る姿勢の真摯さにも現れていた。

かつてハトリから同じように寮監を引き継いだヤマトには、イイノのそんな内心の不安も良く判った。

だからこそ、丁寧かつ判りやすく、決して不安を与えないように説明し、「そんなに難しい事じゃない」と励ます。

寮内の各設備、各機器のトラブルがあった場合の対処方法。異常発生時の連絡手順。週と月毎の報告の纏め方。消耗品類の

使用と備品の持ち出し許可。関係者以外の寮の立入の管理と来寮者名簿の纏め方。そして毎晩の点呼等々…。

イイノが思っていた以上に、寮監の仕事は多岐に渡っていた。

大変だったでしょう?と労ったイイノに、ヤマトは笑いながら応じる。

「確かに種類は多いが、件数自体はそうでもないからな。俺を見てて判ると思うけど、それほど忙しくもなかったんだよ」

そうした引継ぎの一環で、点呼に付き従って手順を確認したイイノは、ある事を思いついた。

それは、ちょっとした思いつきであったが、よくよく考えてみると、任期を終える寮監を送るのに相応しい事のようにも思えた。

「じゃあ続きの説明はまた明日な」

「はい。ありがとうございました。お休みなさい先輩」

「おう、お疲れ!」

ヤマトの部屋から笑みで送り出されたイイノは、そのまま自室には戻らず、ヤマトには気付かれぬようこっそりと、隣のア

スカの部屋に向かった。



それから瞬く間に日にちが過ぎ、男子寮三号棟は卒業式の前夜を迎えた。

「いよいよ明日で卒業か…」

そう呟いたアスカと座卓を挟んで向き合っていたヤマトは、「そうだなぁ…」と応じながら、これまでの事を振り返って目

を細める。

夕食後、アスカに誘われて部屋に招き入れられたヤマトは、菓子と茶をご馳走になりながら思い出話に花を咲かせていた。

いつも片付いていたアスカの部屋は、私物の撤去が済んだ後も、あまり以前と変わっていない。

だが、本棚の中身や机の上の物が無くなった事で、巣立ち直前の空気は他の三年生の部屋同様に漂っている。

「楽しかった…よな?」

「うん。楽しい三年間だった」

笑みを交わした二人は、テーブルの上のウーロン茶が入ったコップを同時に手に取り、アスカはちびっと、ヤマトはガブッ

と一口飲む。

高校生活を振り返り、しばしの沈黙した後、アスカはおもむろに口を開いた。

「埼魂県かぁ…。遠いね…」

「まぁなぁ…」

入試で赴いた際、ヤマトは新たな住み処の候補となるアパートをいくつか見て来た。

いずれも家賃を重視して調べた物で、部屋数も広さも並以下だが、部屋が広いと逆に落ち着かないヤマトには居心地が良さ

そうに思えた。

もっとも、体格の都合により、出入り口や通路は広くないと困る訳だが…。

「休みになったら、目一杯日にち使って遊びに行くからさ。都会の街並みを案内してよ?」

「バーカ!休みになったら、最優先でエンドウと過ごさなきゃだめだろっ?」

身を乗り出した大きな羆のゲンコツでコツンと軽く頭を叩かれたアスカは、ペロッと舌を出して笑った。

「…さて、そろそろ時間だな」

おもむろに「どっこいしょ…」と腰を上げたヤマトは、笑みを浮かべつつ揃えて指先を伸ばした手を額に当て、敬礼した。

「んじゃっ!そろそろ準備して、最後の点呼、行って来るな!」

「うん!行ってらっしゃい!」

立ち上がり、笑みを浮かべて敬礼を返したアスカは、ヤマトが出て行くと、そっと、しかし急いでドアに歩み寄った。

開けたドアから廊下を窺い、羆が自室に戻った事を確認したアスカは、

「さて、急がなきゃ急がなきゃ…」

小声で呟きながら、急ぎ足で廊下を歩き出した。



部屋を出た羆は、それまでいつもそうして来たように、チェックシートを挟んだボードを片手に、最後の点呼に向かった。

階段を下り、一年生の部屋が並ぶ廊下に出たところで、ヤマトは驚いたように目を見開いて足を止める。

ヤマトがいつも点呼を開始するそのフロアに、寮生全員が集合していた。

左右の壁に背を向けて寄り、向き合うようにして中央をあけ、ずらりと整列した寮生達を、目を皿のようにして眺めるヤマト。

「な、何だ?何かあったのかみんな?」

「あはは!違うんだヤマト!」

右列の最後尾に立っていた人間の男子がすっと一歩進み出て、驚いているヤマトに笑いかけた。

「最後の点呼だろう?だからさ、最後ぐらい訪問を待つんじゃなく、こっちから点呼受けに来ようって。これ、イイノの発案

なんだ」

皆が気付かれずに集合する為にも、ヤマトと語らって部屋に引き留めていたアスカは、次期寮監となる猪に視線を向ける。

親友の説明を受けて、列の前の方に立って照れ臭そうな笑みを浮かべているイイノに視線を向け、ヤマトは実感した。

点呼は今夜で最後…。この寮で過ごす夜も、いよいよ今夜が最後なのだと。

ボードを左手で支え、ペンをノックしてペン先を出したヤマトは、軽く目を閉じて一つ大きく深呼吸すると、寮監としての

最後の仕事に取りかかった。

「相沢友和」

「はい」

「阿部文男」

「うっす」

「飯野正行」

「はいっ!」

今回は部屋順ではなく、廊下に並んだ順番にあわせて、常とは違い寮生一人一人の名前をフルネームで読み上げてゆくヤマト。

「新妻健二」

「あい!」

「渥美順」

「はい」

「数河公康」

「うス!」

ヤマトはチェックボードにペンを走らせながら、一歩ずつ踏み締め前に進む。

「麻賀洋」

「はい!」

「米沢隆平」

「はいっ」

「千葉秀一」

「おっす!」

ゆっくり、ゆっくり進むヤマトの左右で、名を呼ばれた寮生達が次々に返事をする。

「大森秀雄」

「はいっ」

「山木真人」

「う~っす!」

「千和田良」

「はぁい!」

感極まって涙が込み上げ、ヤマトの声が少し掠れ、震え始めた。

シートに印字された寮生達の名前がぼやけて見え、浴衣の袖でぐいっと目を擦る。

「早川隆俊」

「はい」

「篠原駿」

「はい!」

「木村晴義」

「あいっ!」

大きく鼻を啜り上げ、点呼を続けるヤマトの左右で、何人かの寮生は目を擦って涙を拭った。

「瀬川昭範」

「はい!」

「尾嶋勇哉」

「おす…!」

「保原勘一」

「はい」

ヤマトの目から零れた涙がシートに落ち、黒いインクで記された文字が滲む。

点呼は進み、やがて最後の一人、最後尾に立っていた隣室の親友の前で、ヤマトはリストの最後の名を読み上げた。

「飛鳥…典行…」

「ん…」

アスカの前を歩き過ぎ、自分を除く寮生三十六名の点呼を終えたヤマトは、腕時計で時刻を確認し、チェックシートの最下

段、確認者名を記載する空欄にペン先を近付けた。

「三月二日午後九時七分、点呼終了。全寮生の在寮を確認。点呼者は…、寮監、大和直毅…!」

最後に、いつもならば自室に戻ってからしていた署名を、その場で声に出して読み上げながらおこなったヤマトは、ズビッ

と鼻をすすり上げてボールペンをノックし、ペン先を収めてボードに挟む。

『お疲れ様でした!』

寮生全員の労いの言葉を背に受けて、羆は振り返る。

ある者は寂しげな笑みを浮かべ、ある者は目に涙を浮かべ、一様に自分を見つめている寮生達の顔を眺め回し、ヤマトは涙

でぐしょぐしょになった顔を歪めた。

「こんな事…されたら…、泣きたくっ…なるじゃんかよぉ…」

グシッと袖で目を拭ったヤマトは、

「ちくしょお…!お前ら…!お前らなぁっ…!ちくしょおっ!お前ら大好きだぁあああああああっ!」

天を仰ぎ、声を張り上げておいおいと泣き出した。

涙を堪えていた三年生達が、ある者はそっと目頭を押さえ、ある者は啜り泣き、ある者はヤマト同様人目も憚らず泣き始める。

家族同様に過ごした仲間達との別れを目前に控え、声を上げて号泣するヤマトの前に、鼻をすすり上げたイイノが、列を離

れて進み出た。

「…イイノぉ…」

目に涙をいっぱいに溜め、黙って頷いたイイノに、ヤマトは使用済みのシートを抜いたボードを差し出す。

「明日からは…、お前の仕事になるんだからなぁ…!よろしく…頼むぞっ…!」

「はい…。はいっ…!」

点呼用ボードが現寮監から新寮監へと手渡され、寮生達から拍手が湧き起こる。

男子寮三号棟初の、最上級生ではない寮監。

部活引退後はオジマが寮監を引き継ぐとはいえ、イイノが抱えた不安は大きいはずである。

そのプレッシャーをおもんばかり、ヤマトは後輩の猪の両肩に分厚い手をポンと置き、励ますように口を開いた。

「判んない事あったら…、いつでもメールか電話寄越せよなぁ?講義中でも何でも、すぐ返事するから…!」

「はい…!頑張り…ます…!」

潤んだ目で見上げ、泣き笑いの表情でコクリと頷いて見せたイイノに、ヤマトもまた、ニィ~っと歯を見せて泣き笑いを返す。

イイノの肩から手を離したヤマトは、列の中から自分達をじっと見つめていたオジマと目をあわせ、大きく頷いた。

無言で頷き返したオジマの顔に、いささか申し訳なさそうな表情が浮かんでいる事を見て取ると、ヤマトは歯を見せて笑み

を浮かべた。

もう気にするな。と、そんなメッセージを込めて。

「さぁて!明日は門出の日だ!夜更かしして寝坊したりするなよぉ?特に獣人連中!体中寝癖だらけで式に出席しないように!

ただでさえウチの寮は身なりに無頓着なヤツらが多いんだからな!」

「ヤマトも、首周りとか後頭部とか、寝癖でいつももっさもさじゃない?」

横合いからアスカにちゃちゃを入れられたヤマトは、むすっとした顔を作って言い返す。

「俺の首周りはくせっ毛なの!」

「後頭部も?」

「そっちは寝癖」

「やっぱり寝癖じゃないか」

「あ~、うん。寝癖だなぁ」

アスカとヤマトの軽妙なやりとりに、周囲から小さく笑いが起こる。

「っと、はいはい解散っ!くれぐれも寝坊厳禁な!」

パンパンと手を叩き、ヤマトは寮生達に解散を促す。

湿っぽい別れはしたくないと思いながらも、涙腺のコントロールが上手くないヤマトには、やはり涙無しでのお別れは無理

だった。

(絶対泣くと思ってお別れ会企画しなかったんだが…。ハトリ先輩みたいには行かないもんだなぁ…)

三々五々散ってゆく寮生達を見送りながら、ヤマトは胸の内で呟く。

格好悪い所を見せてしまったが、それはそれで良いではないかとも思えた。

元より格好良くきめて来られた訳ではない。最後ばかりはと思っていたが、考えてみればらしくなかった。

ハトリのようにスマートには行かなかったが、これはこれで自分らしいのかもしれない、と。

自分も引き上げるべく踵を返したヤマトは、「寮監」と呼び止められて足を止めた。

「何だオジマ?」

振り向いた羆の顔を、すぐ後ろから呼び止めた虎が見上げる。

「風呂は済みましたか?」

「ん?いや、まだだが…」

ひょっとして、最後になるから一緒に入ろうとでも言うのだろうかと考えたヤマトは、

「では、入浴後にお邪魔したいのですが、宜しいでしょうか?」

とのオジマの言葉に首を傾げる。

「ああ。良いけど…、急ぎなら先に来るか?」

「いいえ。風呂の後で結構です」

「そうか。じゃあ、う~ん…。何時頃が良いかな?」

「十時ではどうでしょうか?」

「判った。その時間には上がっておく」

ペコリと一礼するなり、スタスタと自分の横を歩き抜けて行ったオジマの背を、ヤマトは訝しげな面持ちで見送った。



寮での最後の入浴を終え、部屋に戻ったヤマトは、ガランとした室内を改めて見回し、感心したように呟く。

「しっかし…、片付くもんだなぁ…」

明日別れを告げる部屋からは、備え付けの家具以外は全て撤去が済んでいる。

取りかかる前からさぞ大変だろうと考えていた部屋の片付けは、予想以上に難航した。

片付けなければならない私物の量からではなく、品物を手に取ると、時にこの三年間の事が思い出され、度々手が止まって

しまう事で。

手間取った片付けも今は完全に終わり、衣類や他の私物、パソコンやゲーム機等も既に自宅へ送ってある為、残されている

のは部屋の備品である座卓と勉強机、本棚とベッド、造り付けのクローゼットだけ。

「こんな広い部屋だったっけ…」

呟いたヤマトは替えた下着類をビニールに詰め、座卓脇の大きな旅行鞄に突っ込み、濡れたタオルを壁際の鏡の前に干し、

歯ブラシ類をその脇の棚に置く。

明日の朝は歯ブラシもコップもタオルも、忘れずに持って行かなければならない。

最初は小ぢんまりとした部屋だと感じたが、三年も過ごして慣れたせいか、それとも常に散らかしてなおさら狭くしていた

せいか、今夜は随分と広く感じている。

いつもの習慣で冷蔵庫のある位置へ足を向けたヤマトの、一瞬遅れて進路に向けられた視線は、いつもそこにあった四角い

物体の姿を刹那の間求め、それから脳が不在の理由を理解する。

冷蔵庫は既にイイノの部屋に置いてきた事を思い出したヤマトは、ほとんど何も考えずにいつもと同じ行動を取ろうとした

自分が可笑しくて、小さく笑った。

(…そうだ。オジマも来るんだし、飲み物ぐらいは買ってきておくかな)

バッグから財布を取り出したヤマトは、座卓の上に置いていた携帯を手に取り、小窓を見遣ってから困り顔になった。

21:58…。表示された時刻は、約束の時間まで間がない事を知らせる。

(仕方ない。オジマを部屋に入れてから買いに行くか)

ヤマトがそう考えた途端、コンコンッと、ドアがノックされた。

「おう。開いてるぞぉ」

開けたドアから「お邪魔します」と部屋に入り込んだのは、ジャージ姿のオジマである。

「土産です」

「おっ!?気が利くなぁ!」

虎が付きだした右手に握られている1.5リットルボトルのコーラを目にし、羆が笑みを見せる。

ヤマトに勧められて座卓を挟んで座り、卓上にボトルを置いたオジマは、持参した紙コップ二つに冷えたコーラを静かに注ぐ。

「…一年間。…いや、三年間か…。お疲れ様でした」

「ははは!ありがとよ」

差し出された紙コップを受け取り、零さないように軽く合わせて乾杯した二人は、申し合わせたように揃って一気に飲み干した。

座卓の上に戻った空の紙コップにお代わりを注ぎながら、オジマは僅かに視線を上げてヤマトを見る。

「寮監。先日の約束の事は覚えていますか?」

「うん?」

再びコーラで満たされた紙コップに手を伸ばしたヤマトは、オジマと交わした「約束」の事を思い出し、「あ~…!」と苦

笑いした。

先日の腕相撲で負けた時に交わした「何でも言うことをきく」という約束。

オジマが決めかねていたのでその場では一旦保留したのだが、その後卒業の支度や寮監の引継ぎに忙殺されたせいで、今の

今まですっかり忘れてしまっていた。

「たははぁ~…!済まん。忘れたまま卒業するとこだったなぁ…」

苦笑したヤマトは、頭を掻きながらオジマに訊ねた。

「決まったんだな?」

「ええ。決まりました」

堅物なオジマの事、実現不可能な無茶は言わないだろうと安心しきっていたヤマトに、後輩は告げた。

「今夜一晩。俺の相手をして貰う事にします」

オジマの言葉が、ガランとした静かな部屋に染み入った。

「…へ…?」

しばしの間を開けて首を傾げたヤマトは、徐々にその表情を強ばらせてゆく。

「…オジマ…。それ…、何の相手をしろって…?」

「皆まで…、言わせるつもりですか…?」

目を伏せて仏頂面で呟いたオジマを前に、ヤマトは悟った。

どうやら、「相手をする」というのは、自分が思い浮かべた通りの意味らしい、と。

「ま、ままま待て!待て待てオジマ!さすがにそれは…」

「何でも言う事をきく…」

ヤマトの言葉を遮り、オジマは言った。

「男に二言は…」

「うっ!?」

切り返せずに呻いたヤマトの顔を、オジマは伏せていた目を上げて見つめた。

「イイノは良くとも俺は嫌ですか?」

「そ、そういう訳じゃあ…」

モゴモゴと口ごもったヤマトに、オジマは「あ」と思い出したように声を漏らしてから続けた。

「ご心配には及びません。イイノには今晩限りと告げてきちんと了解を得ました」

「そこを問題にしてる訳じゃあ…」

真顔で告げたオジマに、ヤマトはため息混じりに応じる。

「イイノとは良くとも俺とは駄目…。それでは不公平ではないですか?」

「公平とか不公平とか、そういう問題じゃ…」

ふてくされたようにそっぽを向いて言ったオジマに、反論しかけたヤマトは、ふと口を閉じた。

そして少し考え、次いで眉根を寄せる。

「…ひょっとして…やきもちやいてたのか?」

「馬鹿を言わんで下さい」

ブスッとした顔で応じたオジマだったが、その尻尾が動揺するようにヒクッと動いた事は、ヤマトにはバレている。

「…もしかして、最後だからって、俺に気をつかって?」

「深読みし過ぎですな」

ヤマトの問いに、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに顔を顰めるオジマ。

しかしその後ろでは、蛇のように鎌首をもたげて落ち着かなげに揺れていた縞々の尻尾が再びヒクッと動いている。

思わず苦笑したヤマトは、そっぽを向いたままのオジマに問い掛ける。

「俺はストライクゾーンに入らないんだろ?」

「まぁ、かなりのボール球ですな」

「無理する事はない。やめとこう。な?オジマ…」

諭すように言ったヤマトに視線を戻すと、オジマはのそっと腰を上げ、四つん這いでテーブルを回り込んだ。

「上手い事を言って、約束をうやむやにしようというのですな?」

恐ろしく低い声で言いつつ、獲物ににじり寄る虎さながらに低い姿勢になるオジマ。

「い、いやそういう訳じゃなっ…のわぁっ!?」

筋肉の塊のような体躯が驚くべき俊敏さを見せ、低い姿勢からヤマトに飛びかかる。

肩口を掴まれ、上体をぐっと押されて仰向けに転げたヤマトに、オジマは素早くのしかかった。

オジマはもがくヤマトの上で下半身を横へ流し、体の向きを変えると、横から覆い被さる形で羆の体を押さえ込みにかかる。

オジマは右腕をヤマトの股の間から尻の後ろへ、左腕を左肩の上から背中の下へ、流れるような動作で素早く突っ込んだ。

なおも必死にもがくヤマトだったが、オジマの横四方固めであっさり抑え込まれてしまっている。

高校全国レベルの柔道家の抑え込みである。いかに体格で上回っていようと、柔道どころかスポーツ自体に打ち込んだ経験のないヤマトではどうにもならない。

「よ、よせオジマっ!もっと他の事で言うことを…ひぎゅ!?」

股ぐらにはまっている、オジマの太い筋肉質な右腕がぐぐっと曲がり、股間を締められたヤマトが妙な声を上げた。

逸物も睾丸も一緒くたに、肉厚の脂肪層の中に埋もれる程に圧迫され、苦しさから背中を丸めるようにして身を捩ったその

瞬間、オジマの右腕が緩み、股から引き抜かれ始める。

拘束が緩められるなり股を閉じようとしたヤマトだったが、オジマの腕は股から完全には離れず、股間のソレをギュッと鷲

掴みにした。

「んぐぁっ!?い、いでっ!お、オジマっ!やめ…!」

苦鳴を漏らしたヤマトの上で、押さえ込んでいるオジマは口元を微かに歪ませる。

ギュッと睾丸を掴んでいた手が緩まり、軽く揉みしだき始めると、

「んがっ!?ふ…、あ、や、やめっ…!」

ヤマトはモゾモゾと身じろぎしながら声を漏らす。

抵抗は相変わらず続いているものの、オジマの手の動きに合わせてヤマトは身を震わせ、手足を突っ張らせ、息を弾ませる。

(マサの言った通り、相当敏感なようだ)

事前に恋人から情報を仕入れていたオジマは、ヤマトの睾丸を弄びながら小声で囁く。

「抵抗はやめて身を任せた方が、気持ち良くなれると思いますが?」

「む、ぐぅう~…!」

「これこのとおり、逸物の方も硬くなって…」

睾丸から手を離したオジマは、むくむくと膨れ始めたヤマトの股間を、手をカップのようにしてぱふぱふと軽く叩いてやる。

そして、ヤマトの脚が反射的に閉じた次の瞬間、硬くなって突き出た肉棒を衣類越しに掴んだ。

「ひぅっ!?」

声とも呼気ともつかぬ音を喉から漏らしたヤマトは、指で挟まれた亀頭がぐりっと刺激されて身を強ばらせた。

「寮監…。お願いです…」

オジマはヤマトの肉棒を指先で摘んだまま、低い声で囁いた。

「マサだけじゃなく、俺にも…、想い出を残させて下さい…」

ひゅっと息を飲み込んだヤマトの動きが、一時止まった。

次いで、オジマの肩を掴んで離そうとしていた腕から力が抜ける。

オジマは少し身を起こすと、軽く息を弾ませているヤマトの顔を見遣った。

口を半開きにして自分の顔を見つめている羆の、同じく半開きにされた目を見返して、オジマは繰り返した。

「お願いです…」

しばしオジマの目を見つめていたヤマトは、横についっと目を逸らしながら、小さく、本当に小さく頷いた。

「…キスと本番は無しな…」

「判っています。…どちらもイイノに怒られますので…」

ヤマトが身を起こすと、オジマの手が丹前の間から覗く浴衣の紐にかかり、結び目を解く。

その間にヤマトの太い指がオジマのジャージの上にかかり、ジッパーを摘んで引き下ろした。

「…何だか、今更脱がせっこってのも妙な具合だよなぁ…」

困ったような恥ずかしそうな顔で呟いたヤマトに、オジマは口の端を少し上げながら頷いた。



程なく、全裸になったヤマトは、あぐらをかいた姿勢でもじっと身じろぎした。恥ずかしげな顔で少し俯いており、両手は

股間を隠している。

向き合うオジマは床に片膝をついた姿勢で、こちらは堂々と自慢の逸物を晒している。

オジマが身を乗り出して肩を掴むと、ヤマトはピクッと身を震わせた。

視線を合わせないように俯いたヤマトの視線の先には、オジマの股間にぶらさがる、羨ましいサイズの逸物。

玉が大きく陰茎は太く短い、タヌキを思わせるヤマトの逸物に対し、オジマのそれは太さは互角でも長さは倍。勃起してい

ない状態でも単純に倍近い体積を持っているのが察せられた。

肩に添えられた手がすっと動き、首筋から胸元へ、そしてたっぷりした胸へと被毛を撫でながら移動する。

観念したのか、応じるように手を伸ばしたヤマトの手が、オジマの胸板にそっと触れた。

自分とは正反対な、鍛え込まれて引き締まった筋肉質の胸。

きめ細かな虎の被毛の感触を指で確かめながら、ヤマトは「んっ…!」と、僅かに顔を顰めた。オジマの手が柔らかな胸を

掴み、強く揉みしだいたせいで。

被毛の間に分け入った親指に、円を描いて乳輪を擦られ、羆は「はふっ…!」と息を漏らす。

「敏感ですな、寮監」

低く笑ったオジマはしかし、直後に「ふぐっ!?」と呻き、背を反らしながら全身の毛を逆立てた。

「ひ、ひとの事…、言えんのかぁ…?」

顔を歪めながらも口の端を上げて笑みを浮かべたヤマトの両手は、オジマの両胸で乳首を摘んでいる。

「す、少なくとも…、寮監程では…!」

空いていた手をヤマトの股間に伸ばすオジマ。直後、既に刺激で興奮を覚えていたヤマトの逸物は、虎のゴツイ手に捕らえ

られる。

「あひっ!?ま、待てオジマ!そ、そそそこ、いきなりはっ…!」

「既にガチガチですが…。俺は好みでは無かったのでは?」

「そ、そんな事言ったってな!刺激されれば条件反射で大きく…おふっ!」

肉棒をギュウッと強く握られ、ヤマトは息を止めた。

オジマの手がゆっくりと力を込めて、人差し指から順に開き、再び締めるというウェイブ運動を開始する。

充血した肉棒が圧迫された苦しさと、芯まで響く刺激。加えて、根本から先端へと射精を促すようなウェイブマッサージは、

ヤマトには未体験の刺激であった。

普段からイイノにしてやっている為、オジマの手の動きはスムーズである。

オジマのゴツイ指の動きは力強く、しかし滑らかで、初体験となるヤマトの腰は逃げそうになる。

ヤマトは肥えた体をプルプルと震わせながら歯を食い縛り、震える両手をゆっくり下ろして、オジマの股間にぶらさがって

いる物をそっと包んだ。

「おぅっ!?」

仰け反ったオジマの股間で、まだ柔らかいソレを大きな両手で包んだヤマトは、

「へ、へへへ…!俺ばっかりじゃあずるいもんなぁ…。俺が、相手をする方なのにさ…。それに何より…、俺じゃ全く勃たな

いってのも癪だ…!」

刺激に耐えて顔を顰めながらも笑い、オジマのソレを両手の指全てを使って揉み始めた。

捏ねるようにして強く刺激されたオジマの逸物が、徐々に大きくなり、硬さを増す。

喘ぐような息を吐くオジマは、しかし負けてなるものかと、左手で胸を強く揉みつつ、右手の方はヤマトの逸物をギュウッ

と掴んでは緩めるマッサージに切り替えた。

「あぎっ!?お、オジマ!ストップ!ちょ…あん…!ストッ…プぅっ…!」

「もうイきそうですか寮監?耐性が低…んぐっ!」

余裕を見せようと口を開いたオジマは、言葉を途切れさせて口を真一文字に引き結んだ。

ヤマトの両手は、そのむっちり肉のついた手の平でオジマの亀頭を挟み、手でも洗うようにコシコシと擦り合わせ始めた。

「あ、あがっ…!あががががが…!」

刺激に耐えかねて声を漏らすオジマの背後で、ピンと立った縞々の尻尾がフルフル震える。

「りょ、寮監…!」

「なん…だ…?」

オジマとヤマトは顔を見合わせ、

「ひ、一息…入れませんか…?」

「賛…成…!」

停戦協定を結んで互いの急所から手を離した二人は、同時にほっと息を吐き、体から力を抜く。

「ふ…。敏感ですなぁ、寮監…」

「お、オジマこそ感度良すぎだろ?俺まだ余裕あったし」

「俺もまだまだ平気でしたが?」

少し弾んだ息の間から、どっちもどっちの二人が強がる。

が、汗で被毛を湿らせ、あまつさえ先走りで雄のシンボルをヌトヌトにしている互いの状態を確認した二人は、強がりの無

意味さを悟って苦笑いする。

「…いつもは、俺が先にイかされます…」

「イイノ、耐久力あるのか?」

「感度は良い方だと思うのですが…、奉仕すると称してアドバンテージを握られ、一方的に…」

「…なるほど…」

落ち着きを取り戻し始め、微苦笑しながら俯いて頭を掻いたヤマトの前で、オジマは目を細くした。

「寮監」

「うん?」

顔を上げたヤマトは、少しだけ目を大きくした。オジマの顔に浮かんでいる、珍しい表情を目にして。

「…本当は、言わないつもりでしたが…。この機を逃すと言えなくなりそうなので、今の内に言っておきます…」

照れているように耳を倒し、恥ずかしげな、しかし穏やかな笑みを浮かべたオジマは、頬をポリポリと指先で掻いた。

「…俺は…、寮監の事を…、勝手ながら兄のように思っていました…」

ボソボソと呟かれたオジマの言葉が、ヤマトの胸に染み入る。

「先輩としても、ここまで親しくなれた、慕うことができた相手はこれまで居ませんでした。…俺は、寮監に会って初めて兄

が欲しいと…、こんな兄が欲しいと…、思えました…」

照れ臭くなって俯き、尻尾の先で床をぱたんぱたんと叩くオジマを見ながら、

「…そか…。はは…!俺みたいな兄貴なぁ…。変わってるなぁお前。俺みたいなぐうたらでだらしない、頼り甲斐のない兄貴

が欲しいだなんて…!」

思いもかけないセリフは、ヤマトを驚かせ、そして喜ばせた。

嬉しくて恥ずかしくて泣きそうになって、ヤマトは天井を見上げる。

そんなヤマトの前で顔を上げたオジマは、恥ずかしさで顔を熱くしながら、慕っていた寮監を見遣る。

別れを前にしてこんな事は言うまい。そう決めていた事なのに、ついに言ってしまった。

気恥ずかしさを覚えつつも、言ったことですっきりししながら、オジマは腰を浮かせてヤマトに身を寄せた。

膝立ちになってヤマトの首に両腕を回したオジマは、耳元で囁くように礼を言う。

「…こんな俺に目をかけてくれて、ありがとうございました…」

天井を見上げたままオジマの腕で首を抱かれたヤマトは、その太い腕をオジマの背に回した。

「…俺の方こそ…、こんな俺を慕ってくれて、ありがとうだよ…」

しばしきつく抱き合った後、オジマは少し身を離し、ヤマトの腋の下に手を入れる。

ムッチリした背に手を回したオジマは、ヤマトをゆっくりと床に押し倒した。

されるがままに仰向けに寝転がったヤマトの、自重で潰れて左右に流れた豊満な胸を、オジマは左手でそっと掴んだ。

「…いつ出しても、構いませんので…」

無言のまま顎を引いて小さく頷いたヤマトは、直後に目を硬く瞑り、小さく呻いた。

オジマの左手が乳房を軽く揉みしだき、右手が丸々と張った腹を鳩尾から脇腹、そして臍下へと、円を描くように撫でる。

イイノにそうしてやるように愛撫しながら、オジマは少し心配そうにヤマトの顔を覗き込んだ。

そして、息を弾ませながらも不快に感じてはいない事を表情から見てとり、ほっと息を漏らす。

冷静に振る舞うよう心掛けてはいるものの、オジマは少々不安を抱えていた。

イイノ以外とはこういった事をした経験は無いので、恋人を愛撫するのと同じ方法でヤマトをヨロコばせる事ができるか不

安だったのである。

それ故に初めは強い刺激を与える事に拘り、強く胸を掴む、陰茎をしごきたてる等、強引にイかせるべく力技で責めたので

あるが、

(どうやら、マサにやるのと同じ愛撫でもヨロコんでくれそうだ…)

そう思い直し、指使いをソフトなものへと変えてみた。

ヤマトに覆い被さったオジマは、普段の様子からは想像もできない程の繊細で優しい指使いで、持て余す程に大きな体を愛

撫する。

優しく全身を撫でさすられ、マッサージされる心地よさに、ヤマトは表情をトロンと弛緩させながら、覆い被さっているオ

ジマの背に手を回した。

黄色い地に黒い縞模様がくっきりと浮いている、きめ細かな被毛に覆われた筋肉質の背中。

肩胛骨の周囲は鍛えられた筋肉で盛り上がり、柔らかな毛と極端に薄い皮下脂肪の下はみっしりと硬い。

どれほど鍛え込めばこんな体になるのだろう?柔道のためにはどんな苦労を厭わない、オジマのストイックな性格を現して

いるような無駄のない体を撫でさすりながら、ヤマトは頬を緩ませる。自分とは大違いだとつくづく思って。

やがてオジマは体を半分重ねるようにして、ヤマトと体を密着させた。

ヤマトの右肩に顎を乗せる格好で、互いの右半身を重ね合ったオジマは、柔らかなヤマトの体に自分の身体が沈み込む感覚

に、思わず笑みを浮かべる。

イイノとは比較にならない量の脂肪を毛皮の下に詰め込んだ羆の体は、軽く叩けば、まるで水の詰まった袋のようにタプン

と揺れた。

ヤマトは自分に覆い被さる138キロもある筋肉の塊のような立派な体を、重そうなそぶりも見せずに両腕で抱き締める。

ヤマトにとってのオジマは大事な後輩であり、気兼ねなく話が出来る友人でもあった。

最初こそとっつき難い男だったが、同類と判ってからは徐々に態度を軟化させて行き、慕ってくれるようになった。

強い信頼と好感を抱き合っていた仲だからこそ、互いに別れがたい気持ちは強い。

巣立つヤマトと留まるオジマ、そしてまた年が巡ったとしても、互いの歩む道は大きく異なる。

そして恐らく二度と、互いの道が深く交わる事は無い。

今ほど傍で過ごし、今ほど頻繁に顔をあわせる生活は、二度とやって来ない。

その事が判っているからこそ、二人は身を重ねたまま、互いの温もりと息遣いを胸に刻み込む。

恋愛感情ではない。ただの先輩後輩とも違う。友達より深く、家族にも近く、恋人ではない存在…。

互いに唯一無二の、「ヤマト」と「オジマ」という存在であり、それ以外には現しようのない存在…。

これから先の人生で、こんな間柄になれる相手が現れるかどうかは判らない。そんな特別な存在…。

一抹の寂しさを胸の奥に抱えたまま、ヤマトとオジマは同時にもぞっと動いた。

オジマの右手がヤマトの胸を撫で、腹を擦って下に向かい、股間にあてがわれる。

ヤマトの右手がオジマの体の下でもぞっと動き、同じく股間に潜り込む。

互いの急所に手をあてがい、オジマは「では…、そろそろ…」と囁き、ヤマトは「おう…」と頷いた。

オジマの手が弛緩していたヤマトの陰茎を、睾丸を鷲掴みにし、ゆっくり、ゆっくりと揉みしだき始める。

強い快感と僅かな苦しさを覚えながら、ヤマトは「あぁ…!」と声を漏らし、オジマのでかい逸物を握り、軽くしごき始めた。

互いに性的な好みのタイプではない。だが、その事を抜きにして、二人は強い想いを互いに寄せあっている。

恋とも違う、敬愛と好意と信頼と愛情が混じり合った、いわく言い難い感情。

最初こそは、兄弟で身を重ね合っているような、えもいわれぬ背徳感があった。

今夜だけは認めてくれているとはいえ、オジマにとっては恋人であり、ヤマトにとっては後輩であるイイノへの、申し訳な

さと後ろめたさがあった。

だが、互いの陰茎をしごきたて、脳をとろかすような快感が背骨を這い上がり、渇きにも似た快楽への欲求が下腹部を疼か

せ、刺激に耐えつつ興奮を募らせてゆく内に、二人の頭からは互いの事以外が抜け落ちてゆく。

「はぁ…、はぁ…!お…、オジマぁ…!」

「は…い…!ふぅ…、くっ…!」

勃起してさらに大きくなったオジマの肉棒を、その熱さを、脈動を右手に感じながら、ヤマトは後輩の背に腕を回し、強く

抱き締めた。

「ふぅ…!ありが…とう…!はっ…、二年間…、んくっ…!本当に、楽しかった…!ありがとう…なぁ…!」

もにゅっと、水袋のように柔らかで、縫いぐるみのように暖かなヤマトの体に、鍛えて盛り上がった胸と腹筋が割れた腹を

埋没させられながら、オジマは目を硬く瞑って呻く。

「んっ…!俺の…方こそ…!はぁ…!ありが…とう…、ですよ…!寮監…!寮監っ…!」

大量の先走りを迸らせる、寸詰まりで太いヤマトの陰茎を、オジマは自身に与えられる刺激に耐えながら、夢中になってしごく。

クチュクチュと、湿った音を立てて互いの性器を弄りあい、熱い吐息を絡ませながら、二人は登り詰めてゆく。

「お、オジ…マ…!くふぅっ…!お、俺、そろそろ…、んっく!だめ…そう…!あっ…!」

「寮…監…!はっ…、俺も、もう…!ふぅ…!限界…がっ…!」

荒らげた息を絡ませながら、二人は同時に背を反らした。

「あひっ!オジマぁ!も、もう、ででで、出るぅっ!」

「お、俺も、俺ももうっ、イっ…、んがぁっ!」

ドプッと、二人の逸物から全く同時に、白い体液が吐き出された。

肥えた体をブルルッと震わせるヤマトと、天を突くようにピンと立てた尾を小刻みに痙攣させるオジマ。

ビュクビュクと大量の精液を繰り返し亀頭から放ち、二人は重ねた身を震わせる。

やがて、射精を終えて力尽きたオジマとヤマトは、ぐったりと脱力する。

目を閉じ、はぁはぁと荒い息を漏らしていた二人は、しばらくして目を開けると、首を捻って互いの顔を間近で見つめ合った。

「どう…でしたか…?」

「ん…。良かった…。オジマは?」

「俺も…、その…、気持ち良かった…です…。そして…」

聞き返したヤマトにボソボソと応じたオジマは、精液まみれの手でヤマトの腹をパンっと叩いた。

「出し過ぎです。寮監」

「オジマだって…」

顔を顰めたヤマトは、オジマが吐き出し、床に溜まった精液が尻や背に染み込んで来ているのを感じながら応じる。

「…風呂、ボイラーは止まってるけど、この時間ならまだ温かいな…」

「…流しましょうか…。汗もかいた事ですし…」

ボソボソと囁き交わした二人は、しかしなかなか動かない。

身を離すのを惜しむように、行為の余韻に浸っている。

「好みからは…、少し外れますが…。寮監の体も、なかなか手触りが良い…。温かくて…、モサモサで…、プニプニで…」

オジマが微苦笑しながらタポタポした腹を撫で回すと、ヤマトは困っているような笑みを浮かべつつ、オジマの背に手を回

してさすった。

「オジマの体も…、良いもんだな…。がっしりしてて引き締まってて、重量感がある…。堪んないだろうなぁ好きなヤツは…。

ちょっと気持ちが判ったような気がする…」

尻尾の付け根を軽く掴み、そっと先端に向けて撫でてやると、オジマは僅かに身を震わせつつ口の端に笑みを乗せる。

「寮監。お相手して頂き、ありがとうございました…」

「いやいや…、俺の方こそ、良い思いさせて貰ってありがとうな…」

笑みを交わしたヤマトとオジマは、しばらくそのまま余韻に浸った後に一緒に風呂に向かった。



「オジマ!お前でかいんだから後ろ行け後ろ!チワダ、そこだと顔が半分隠れるぞ?イイノの前の方が良いぞ!」

寮の玄関前で、卒業証書が入った筒で肩をポンポンと叩きながら、羆が声を張り上げる。

三脚に載せたデジカメを覗きつつ角度とズームを微調整して、集合した寮生全員が写るよう、モニターの画像を入念に確認

しながら。

卒業式終了後、寮生達は卒業記念の集合写真を撮るために、寮の正面玄関前に集合していた。

「スゴ!もうちょっと寄れよぉ~!端っこのヤツがはみ出そうだから!アサガはちゃんと顔上げてな?毛で顔が隠れるぞ?ア

スカ、横もうちょっと開けててくれ!それだとちょっと狭いって。…それとも俺、もしかしてそこに収まるぐらいスリムに見

えたりしてるぅ!?」

あちらこちらに積まれた雪がこんもり残った寮の庭に、明るい笑声が弾けた。

別れの寂しさは皆が抱いていたが、それが顔には出さない。

めでたい門出に、送る側も、送られる側も、互いの胸に笑みだけを刻めるように。

「おっし良い感じ!良いか?十五秒だからな?動くなよぉ…?あと良い顔しろよぉみんなぁ…!ほいカウント開始!」

タイマーをセットして三脚から離れたヤマトは、大急ぎで列に向かった。

三列に並んだ寮生達の最前列中央。アスカの隣に開けられたスペースに駆け寄ったヤマトは、カメラを振り向いて屈み込む。

最前列は屈んで並んだ卒業生。後ろ二列には身長を考慮して旧一、二年生が混じって並んでいる。

のそっと前列中央についた大きなヤマトが、笑みを浮かべて声を上げた。

「準備良いな!?それじゃあ、3、2、1…!」

ヤマトのカウントに続き、二度のフラッシュとパシャッという音。

私立醒山学園男子寮三号棟、寮生三十七名。

卒業記念の集合写真には、皆が良い笑顔で写り込んでいた。

                                                                                    おまけ