大切な君

ベッドの上に横たわり、ぼくは天井を見上げていた。

…あれから、もう二週間か…。

今日病院に行って抜糸が済んだ後、もう包帯を外しても良いって言われて、ぼくの頭は久し振りに外気に触れてる。

左のこめかみにはまだガーゼと絆創膏が貼ってあるけれど、これまでと比べれば随分すっきりしてる。

あの事故で負った傷の縫合痕は、しばらくすればすっかり元に戻るそうだ。

…でも、ハナはもう戻らない…。

見えていた天井が、不意にじわっと滲んだ。

目から零れた涙が、仰向けのぼくの顔を左右に流れ落ちてく。

ピッチングの練習を始めて、ようやくコントロールが定まってきた頃、狙った所にボールが行った時、得意げに微笑んでい

たハナ…。

野球部に入部して、人数が思っていたよりずっと少なかった事にびっくりしながらも、これからこのメンバーと野球ができ

るんだと喜んでいたハナ…。

控えの控えの控えでも、定期戦のベンチに入れるって決まった時、満足そうな顔をしていたハナ…。

…けれど…。ぼくが幼馴染みのセントバーナードとバッテリーを組む事は、もう二度と無いんだ…。

溢れ出た涙は止めどなくこみ上げて来て、いつまでも流れ続けた。

事故を起こしたトラックは、地元の運送業者の物だった。

トラックに乗っていたドライバーは、ほぼ即死の状態だったらしい。

角を曲がらず直進して駐車場を横切り、事故を起こしたその原因は、居眠り運転じゃないかって見られてる。

不景気で、人数も少なくて、営業が厳しかったその小さな運送会社では、どのドライバーも満足に休まず長時間勤務と長距

離運転を繰り返さざるを得なかったらしい。

ぼくの脇を通り過ぎて、暴風のように大切なモノを奪って行った相手は…、ちょんと突けば傾いて潰れてしまうような…、

怒りの矛先にしようにも憎みきれない…、そんな弱者だった…。

誰が悪いの?

誰のせいなの?

誰に恨み言を言えば良いの?

…判ってる…。考えたって仕方がない事だって…。



幸いにも大した怪我をせずに済んだぼくは、あの事故に遭ってから、クラスや部活の皆から腫れ物にでも触るような扱いを

受けてる。

皆気遣って、優しく接してはくれるけど、決して深く関わろうとはしない…、そんな感じ。

「包帯、取れたんだな」

校舎裏の駐車場で牛乳を啜ってるぼくに、隣に座っている大きなグリズリーがぽつりと言った。

「うん。すっきりした!」

笑みを浮かべて顔を向けたぼくに、カイジマ君は厳つい顔に微笑を浮かべて見せた。

「体育や部活は、さすがにまだ駄目か」

「まぁねぇ」

ぼくは見学してたけど、昨日の体育の授業は長距離走だった。

皆からかなり遅れてゴールしたカイジマ君は、滝のような汗を流して息も絶え絶えになってたっけ…。

見た目通り、カイジマ君は走るのが苦手だそうだ。…というよりも運動自体があまり好きじゃないそうだけど…。

…ハナも…走るのは苦手で…、練習の走り込みじゃあ、いつもビリッケツだった…。

しばらく黙り込んだ後、ぼくは口を開いた。

「…野球部…。辞めようと思うんだ…」

ぼくの呟きを耳にしても、カイジマ君は何も言わなかった。

「ぼく一人だけで続けるのは…、ちょっと無理っぽい…」

ため息混じりにそう言って、ぼくはストローを咥える。

しばらく黙り込んでいたカイジマ君は、やがて、パンを口元に持っていきながら口を開いた。

「好きにしろよ。誰が何言ったって、決めるのはアカギ自身だからな」

ぽつりと囁かれたその言葉は、内容そのものは突き放すようだったけど、声音はとても優しかった。

やりたいならやれば良い。辛いなら無理に続けなくて良い。決めるのはぼく自身。どっちに決めたとしても、それに関して

自分は一切の反対をしない。そう、言外に含まれているような気がした。

カイジマ君がそんな態度を取るのはきっと、ぼくが本心では野球を好きなままでいる事が、続けたいって思ってる事が、バ

レちゃってるからだ…。

でも、ハナがあんな事になったのに、ぼくだけ続けるなんて…。

同級生の部員の一人に同じ事を零した時には、「チドはどう思うかな…」と呟かれた。

悪気は無かったんだろうけれど、かなり堪えた…。

もしかしたらカイジマ君もそう思っているのかもしれないけれど、ぼくの意志を尊重すると言ってくれているんだ。

「…カイジマ君は…優しいね…」

呟いたぼくの横で、大きな灰色熊はモゾッと身じろぎして、「俺は別に…そんな優しくは…」と、モゴモゴ呟きながらそっ

ぽを向いた。

…照れてる?



学校帰りに寄った病院を出たぼくは、あの事故があった丁字路のコンビニの前に立った。

休業中のコンビニの前面には、すっぽりブルーシートがかけられて、トラックが突っ込んだ大穴はすっかり覆い隠されてる。

ここからじゃ読めないけれど、閉じられたドアの張り紙には、休業時期についての説明が書かれてる。

…二週間が経った今でも、あの時の事ははっきりと思い出せる…。

フルフルと小刻みに体が震え出したぼくの耳に、

「また来ていたのか」

すぐ背後で発せられた、とても低い声が届いた。

振り返ったぼくの目に映ったのは、学ランと焦げ茶色の被毛を纏う、固太りした大柄な熊。

純血の羆らしい応援団長さんは、ハナよりは大きいけれど、カイジマ君より少し背が低い、丁度中間くらいの身長。

「お疲れ様です」

ペコッとお辞儀したぼくに頷き返すと、団長さんは目を細めてじっと頭を見て来た。

「ふむ。包帯は取れたのだな。順調そうで何より」

そう言って足を踏み出し、駐車場に入った団長さんは、

「時間があるなら、少し付き合わんか?」

と言いつつ、コンビニ脇の自販機に向かう。

…一応質問の形を取ってるけど…、断り辛い…。

おずおずと後ろに従ったぼくに、団長さんは「快気祝いには早かろうが…」と、希望を聞いてジュースを奢ってくれた。

お礼を言って受け取ったミルクティーを両手で持つぼくの顔を、団長さんは緑茶の缶をあけながら見下ろした。

「頭の傷は、もう痛まんのか?」

「あ、はい!もう平気です!時々ムズムズ痒くなるだけで…」

「それは結構」

いただきますを言ってミルクティーを啜ったぼくは、静かにお茶を飲んでいる団長さんの顔をちらりと窺う。

団長さんはあの日、コンビニの駐車場のすぐ外の歩道から、事故の瞬間を目撃したらしい。

あの場に居た他の客も気付いていなかったハナの行為を、後から来た団長さんが勇敢だと称えたのは、その瞬間を見ていた

から…。

あの時、落ち着いた対応で事故の報告をした団長さんは、その後も数時間足止めされて、警察から詳しい事情を聞かれたそ

うだ。外側から事故の様子を見た、唯一の目撃者として。

ぼくの方は、外傷こそ大した事は無かったけれど、精神的なショックを考慮されて、学校を一週間休ませられた。

その後登校が許されたぼくはカイジマ君にお願いして、団長さんに会わせて貰ったんだ。

応援団の練習前に時間を割いてくれた団長さんに、あの時のお礼を言って、傷を押さえる為に貸してくれたハンカチを返し

て、お礼のクッキー詰め合わせを手渡すと、

「あのコーギーといい…、今年の一年は何かと義理堅い…」

とか、ぼくには良く判らない事を呟いていたっけ…。

しばらく黙ってお茶を飲んでいた団長さんは、

「気に病むな。…というのもなかなか難しかろうが…」

そう呟いて、ため息を漏らすように小さく息をついた。

「周りから聞こえる心ない雑音は、全て聞き流せ」

「…はい…」

団長さんの耳にも、入ってるのか…。

…無事なのがぼくじゃなく、ハナだったら良かったのにって言うひと達もいる。

当然だよね?ハナは皆が期待するピッチャーだったのに、庇われて無事だったぼくは役立たずで…。

逆だったら良かったのにって、皆が思うのは当然だ…。

「…あの…。団長さんは…、皆みたいには思わないんですか?」

思わず口を突いて出た質問に眉をピクリと動かすと、団長さんは半眼にした目にぼくの顔を映す。

…一体何を訊いてるんだろう?ぼく…。

「まるで、責められる事を望んでいるかのような問い掛けだな?」

その低い声は淡々としていて、荒らげられている訳でもないのに、ぼくは何だか怒られているような気分になった。

「忌憚なく述べるならば、チドの事は儂も残念でならん。当然な。何せここ数年で川向こうに対抗できた唯一のピッチャーだ。

加えてあれだけの度胸を持った男…。あんな目に遭った事を残念に思わんはずがない」

団長さんはそこで一度言葉を切ると、俯き加減のぼくをじっと見ながら、「だが…」と先を続けた。

「同時に、良かったとも思っている。アカギが無事だった事は」

少し顔を上げたぼくに、団長さんは顎を引いて頷きかけた。

「毒にも薬にもならんような、無責任で下らん雑音になど耳を貸してやる必要も価値も無い」

団長さんが発する重低音の力強い声が、ぼくの胸に染み入って来る…。

「無事だった事をまず喜び、元気を出せ」

顔を上げたぼくに、団長さんは口の端を少しだけ上げて見せた。

初めて見る、厳めしい羆の顔に浮かぶ、微かな笑み…。

細められた目は常の厳しさを潜めて、ただただ優しく、慈愛に満ちてぼくを見つめていた。

伸ばされた大きな手がぼくの頭に軽く乗って、さわさわと優しく撫でた。

優しくされて、泣きそうになって、ぼくは顔を俯ける。

「…おっと…。男子の頭を軽々しく撫でるものではないな。これは失敬…」

そう呟いて手を引っ込めると、団長さんは拳を口元に当ててコホンと咳払いした。

団長さんからこれだけ励まされて…、嬉しいけど、でもぼくは、もう…。

「団長さん…。ぼく…、ぼく実は…」

ぼくは、野球部を辞めようと思っている事を、団長さんに打ち明けた。

けど、こんな事を話しても困らせちゃうだけだよね…。ぼくが野球をするかどうかなんて、団長さんにはあんまり関係無い

事だし…。

ぼくが話し終えると、団長さんは「そうか」と、顎を引いて頷いた。

「ハナがあんな事になっちゃったのに…、無事だったぼくだけ続けるのは…、何だか違う気がして…」

ぼくは俯いてぼそぼそと呟く。

「これって…、やっぱり「逃げ」なんですかね…?ぼく、間違ってますか?卑怯者…ですか…?」

問い掛けるその言葉は、けど団長さんには向いてない。どっちかって言うと、ぼくがぼく自身に確かめてる…。

「間違っとるのか、正しいのか、そんな事はまだ18年も生きとらん儂如きには、とうてい判らん」

そう言った団長さんは、「だが…」と続けた。

「逃げる事は必ずしも悪い事ではない。それを間違っとるのか?卑怯なのか?と訊いとるのであれば、それは否であろうとは

思う。本当に辛ければ、他に手が無いのならば…、時にはきっと逃げても良いのだ。潰れてしまうより、よほど良い」

言葉の内容を吟味しながらぼくが顔を上げると、団長さんは空を仰いで、低く、良く通る声で言う。

「彼の心意気に報いて続けるも、己の責と感じて辞めるも、自由に選べば良い。全ては君の決断次第だ。いわゆる部外者の儂

も、それに意見するほど出しゃばるべきではなかろうしな」

…ぼくの…決断次第…。

黙りこくったぼくに視線を向け、団長さんは「さて」と、口調を少し軽めに改めた。

「付き合わせて悪かったな。病み上がりなのだ、早めに帰宅せんと親御さんも心配するだろう」

そう促して歩き出した団長さんに従って、ぼくは駐車場から歩道に戻った。

顎を引いて「では」と言った団長さんに、ぼくはお礼を言う。

「ありがとうございました。さようなら、団長さん」

頷いて踵を返した団長さんの、遠ざかっていく大きな背中を眺めながら、ぼくは今になって気付いた。

…そういえば団長さんは、あの事故で初めて言葉を交わしたにもかかわらず、もちろんそれまでに名乗った事もなかったの

に、最初からぼくを「アカギ」って、名前で呼んでくれてた…?

それに、カイジマ君の話じゃ、団長さんの家ってこっちの方じゃないはずなのに、どうして最近はよく会うんだろう?

…もしかして、ぼくを気遣ってくれてる…?

「団長さん!」

呼び止めたぼくを、団長さんは足を止めて半身になって振り返った。

「あの…、ありがとうございます!…でも、どうしてここまで…、その…、ぼくに優しくしてくれるんですか?」

団長さんはぼくの問い掛けを耳にすると、片方の眉を少しだけ上げた。

「…応援団員たるもの、紳士たれ…」

団長さんは低い声で呟いて、ぼくは重ねて尋ねる。

「応援団の…、規則か何かですか?」

「いや、儂個人の理念だ。こうあるべきだろうという…な。義を見てせざるは男に非ず。おせっかいかもしれんが、まぁ、多

少煩わしかったなら勘弁してくれ」

「煩わしいだなんてそんな!その、す、凄く…嬉しいです…!」

慌てて言ったぼくに、団長さんは微かな笑みを口元に浮べた。

「そうか。ならば良かった」

大きな羆の後ろ姿が見えなくなるまで、感謝の気持を込めて見送ってから、ぼくは体の向きを変えて、家に向かって歩き出

した。



息を切らせて走っているぼくを、周りで蠢く黒い影が取り囲んだ。

ドロドロとして、輪郭がはっきりしないそれは、頭と肩を思わせるくびれやふくらみがあって、人影に見える。

全力で走っているぼくの横に、ぬるりと滑るように並んだ影が、口の辺りにぽっかりと、中が真っ赤な穴を空ける。

『お前が轢かれれば良かったのに…』

心を抉る言葉を投げかけられ、ぼくは身を固くして、目を硬く瞑って走る。

真っ黒な道が、前にずっと続いてる。

他には何もない真っ暗な中、走って行く先がどうなってるかは判らない。何処までも続く黒い道だけがある。

逆の隣、息が吹きかかるほど近くに、別の影がぬるっと滑って来た。

目を瞑ってるはずなのに、ぼくにはそれが判る。判ってしまう。

『ハナが無事だったら、皆喜んだのに…』

そんな事判ってる!判ってるよ!判ってるけど、どうすればいいんだよ!

足をさらに速めても、影達はぞろりと、ぼくの後を追いかけてくる。

『役立たず…』

『お前が轢かれれば…』

『要らない…』

『ハナが可哀相…』

重なり合ってくっついて、まるで壁のようになった影達が、追いかけて来ながら言葉を注いで来る。

耳を塞いで目を瞑り、必死に逃げるぼくの後ろに、ぴったりとくっついて。

足が疲れて、息が切れて、そして何より心が痛くて、ぼくは足を緩め、やがて立ち止まった。

耳を塞いでも聞こえてくる、影達がぼくを責める声…。

影達がぞろりとぼくににじり寄り、どろりとした手のような物を伸ばす。

打ちのめされて、すっかり竦み上がって、逃げる事もできずに立ち尽くしているぼくの背を、後ろから不意に伸びた大きな

手が、どんと突き飛ばした。

前に突き倒されたぼくが道に跪いて、顔を上げながら振り向くと、ぼくを突き飛ばしたセントバーナードが、黒い手にがん

じがらめにされている。

「ハナぁああああああああああああああっ!」

壁のように折り重なった影達の中に、ハナが引きずり込まれて行く。

体の左側を壁の中に飲み込まれてるハナは、怒っているように目を吊り上げて、大きく口を開けて何か言った。

でも、その口からは声が出てなくて、何を言ったのかが判らない。

ハナが右手を伸ばしてる。

助けを求めてるんだと思って、ぼくは伸ばした。

けれどその手は、ハナの手から何かを押し付けられ、払われた。

ぼくは払われた手をもう一度伸ばしたけれど、右手を捕まえる前に、ハナはそのまま黒い壁の中に飲み込まれてしまった…。



「ハナぁっ!」

声を上げたぼくは、見慣れた天井が視界いっぱいに入って、一瞬何がなんだか判らなくなった。

嫌な汗をびっしょりかいた体を、ぐったりと布団に横たえたまま、少しの間呆けたように天井を眺めて、自分が夢を見てい

た事を悟る。

…嫌な夢見ちゃった…。

灯りは付けっ放しで、天井の真ん中では二重の輪っかが煌々と光ってる。

お風呂から上がって、何をする気力も湧かなくて布団の上に横になったぼくは、そのままいつのまにか眠っちゃったらしい。

手をゆっくり上げて、顔の前に翳す。

…さっきの夢の中で…、あれは…、何を手渡されていたんだろう…?思い出せない…。

…ハナ…。

体を横向きにして、枕を両手で抱えてギュッと締め付ける。

何かに縋りたい気分だった…。



その報せは翌日、顧問の先生に退部届を出した日…、学校帰りに寄った病院で受けた。

売店前でばったり顔を合わせたおばさんに連れられて行った病室で、ぼくは幼馴染みの姿を久し振りに見た。

面会謝絶がようやく解けたものの、鼻にチューブをつけられて、いろんな機械から伸びる線に囲まれて、体を固定されて身

動き一つできないハナが、ベッドの上からぼくを見つめて来た。

「ハナ…!」

目が潤んで、涙が零れだした。

すっかり変わり果てた姿になって、それでもハナはあの緩んだ笑顔をぼくに向けてくれた。

左側の肋骨が全部折れちゃったから、まだあまり喋っちゃ駄目らしい。

買い物を後回しにして大急ぎで連れてきてくれたおばさんは、再び売店に買い出しに行った。

二人きりになった後、ぼくはハナのベッドの横に座って、少し細くなったような気がする右手を握って、いっぱい有り難う

を言った。

ハナは時々無理して喋ろうとして、何度も止めなくちゃいけなかった。

面会が許されるようにはなったけど、重傷な事には変わりない。

ハナは名残惜しそうにしていたし、ぼくもいつまでだって一緒に居たかったけれど、今日の所は三十分程度経った所でおい

とまする事にした。

「明日も来るからね?ハナ」

小さく頷いたハナは、嬉しそうに目を細くした。

布団の中で、たぶん股の間に伸ばしているんだろう尻尾が動いていたのか、衣擦れの音が微かにしていた。



次の日から、ぼくは学校帰りに必ずハナの所に顔を出すようになった。

ハナはあまり喋れないし、お菓子なんかも食べられない。

体に障るから長くも面会できなかったけれど、それでもぼくは授業の終了が待ち遠しくて仕方なかった。

部やクラスの友人達もお見舞いに来てくれて、折り紙の鶴とか菓子の詰め合わせとか、ハナの病室には色んな物が溢れた。

お見舞いされるようになってからのハナの回復は、お医者さんもびっくりするぐらい順調だったらしい。

十日以上も意識が戻らなくて、生死の境を彷徨っていたハナは、まるでお見舞いに来た皆から元気を貰っているように、ど

んどん快復に向かって行った。

日に日に元気になって行くハナに、ぼくも日毎に長い時間付き添うようになった。

右手を取って両手で包み、退屈しているハナにせがまれて色んな話をした。

学校や…退部した事はまだ話してないけれど…部活や野球の話なんかも。

…けれど…ハナはもう…。



それから一ヶ月後…。

「おじゃまします」

ノックして個室に入ったぼくに、ハナは笑顔を向けた。

「おかえりマーちゃん!」

ぼくはハナの手元に視線を向ける。

電動リクライニングのベッドの背を起こして、体を起こしたまま長時間座ったままでいられるようになったハナは、ぼくが

無いよりマシ程度の気持ちで一応持ってきてみた小説を読んでいた。

それは、父さんが土産って言って持ってきた、映画化された小説。サイン入りのヤツ。

ハナってば、ぼくと同じで小説なんて読まなかったのに、やっぱり暇なんだろうなぁ…。

「面白い?字ばっかりの本…」

「ん、面白い。それに思ってたより難しくなくて、結構すらすら読める。マーちゃんも読んでみなって。ハマるぞきっと」

よほど気に入ったんだろうか?ハナは楽しげな口調でぼくに勧めて来た。

「気が向いたらね…」

ぼくは適当に相づちをうって、鞄を下ろして椅子に腰掛けた。

片手でしおりを挟もうと苦戦しているハナの手から本を取り上げて、厚紙のしおりを挟んでパタンと閉じて返す。

「ありがと」

恥ずかしそうに言ったハナに「どういたしまして」と笑みで応じつつ、ぼくはこそっとハナの左腕に視線を向けた。

肘のすぐ下から先がなくなってしまった、ハナの利き腕に…。

気にしているそぶりを見せるとハナが気を遣うから、ぼくは悟られないようにさりげなく見るだけに留める。

あの日、ぼくを庇ってトラックと壁に挟まれたハナは、体の左半分に重大な傷を負った。

セントバーナード特有のがっしりした頑丈な体でなかったら…、例えばぼくだったら、おそらくは助からなかっただろう重

傷…。

体中至る所の裂傷と打撲に加えて、左側の鎖骨と肋骨が残らず折れて、肩胛骨も割れていた。

脛と甲で数ヶ所骨折した左足は、何とか元通りになったけれど…。

左腕の…、肘のすぐ下から先は…、ハナと一緒に押し潰されたコンビニの棚とトラックのバンパーに挟まれて、千切れてし

まったそうだ…。

あの日、ハナの体の下にじわじわと広がっていた血は、左腕の切断面から漏れていた物だった…。

肩の所で圧迫されていたせいで、救助されるまでに失血死する事はなかったけれど…。

もしもあの時、団長さんに止められず、ぼくが強引に引っ張ったり、無理に動かしたりしていたら、出血はあんな物じゃ済

まなかった…。

ヒヤッとすると同時に、改めて団長さんへの感謝の気持ちが込み上げて来る。

千切れた腕の接合はできなかった。切断面は押し潰されたようになっていて、損傷が激しすぎたんだって…。

一命は取り留めたけれど、利き腕を失ったハナは、現在右手を使って生活できるように訓練中。

お箸は無理だけれど、スプーンやフォークはぎこちないながらも使えるようになった。

現在難航しているのは文字を書く事。ひらがなの練習用ドリルを使って、右手での書き取りに取り組んでる。

気を取り直して、最近は真面目に取ってるノートを見せながら授業の進み具合について説明しようとしたぼくは、ハナが何

だかモゾモゾと落ち着き無い事に気付いた。

「どうしたの?」

「ん。いや…、別に何も…」

ちょっと顔を伏せたハナを見て、首を傾げたぼくは、ふとその事に思い至った。

ベッドサイドのテレビ台脇、物が置けるようになっているスペースには、さっきまで飲んでて、今はもう空になったお茶の

1リットルペットボトル。

ベッドサイドに吊られた溲瓶を見ると、どうやらこっちも空っぽらしい。

…つまり、お茶を1リットル飲んだ後、出してない訳で…。

視線をハナに戻したぼくはハナに訊ねてみた。

「もしかして、おしっこ我慢してない?」

ピクッと身を震わせたハナは、少し間をあけてから、恥ずかしそうにモジモジ小さく頷いた。

左足を数箇所骨折してるハナは、足にまだギブスを填めていて、勝手に歩き回っちゃ駄目って言われてる。

だから、この個室に備わってるトイレに行く時にさえ看護婦さんの付き添いが必要で、おしっこの方は溲瓶を使ってるらし

い。…使ってるとこは見た事ないけど…。

おまけに、今日はおばさんが居ない。ハナが言うには用事があるらしくて、夕方六時過ぎまで来ないそうだ。

それで、ナースコールをしようにもちょっと恥かしくて、実はさっきから我慢していたんだって…。

「遠慮しないで、そうならそうって言ってくれれば良かったのに…」

ぼくが溲瓶を手に取ると、ハナは慌ててブンブンと首を振った。

「い、いいって!大丈夫だよ!まだ我慢できるから!」

「そんな事言ったって、今もモゾモゾしてるじゃない?」

まるで腰の落ち着きが悪いみたいに、こまめにお尻の位置を直しているハナは、それでも「まだ平気だから!」と遠慮する。

「そう気を遣わないの。今更そういうトコ恥ずかしがるような仲でもないでしょ?」

足にかけられていたタオルケットをはぎ取ると、ハナは「はひゃ〜っ!」と、妙な声を出して股間を押さえる。

両手で隠そうとしたんだろうけど、添えられたのは右手だけ…。

体の前に伸ばした患者衣の、手が覗いていない左袖を見たら、ぼくの胸がズキンと痛んだ…。

「さあ、無駄な抵抗は止めて、人質を解放しなさい!」

務めて何も無かったように、ぼくは明るい口調を心掛け、冗談めかして言う。

演技は上手く行ったらしく、ぼくの動揺に気付いた様子もないハナは、恥ずかしそうにモジモジしていたけれど、やがて諦

めたようで、浴衣みたいな水色の患者衣の裾に右手をかけた。

手伝って裾を持ち上げると、ハナはトランクスの前のボタンをおずおずと外す。

空いた隙間からてろんと出たハナのソレを、ぼくはかなり久し振りに目にした。

ハナは手に取った溲瓶をそこに当てたけど…。

「…あれ?出ないの?」

「そ、そりゃあ…。そんなじっと見られてたらさ…」

ハナが恥ずかしそうに言って、ぼくはやっと気付いた。

…そっか…。じっと見られてたら、しにくいよね…。

ぼくは頭を掻きながら「ごめん」と舌を出して、ハナに背を向けて窓の外に視線を向けた。

だいぶ日が傾いた、暗いオレンジ色の空。

遠慮してるようなちょろちょろという控えめな音は、なかなか途切れなかった。

しばらくしてから、「ふぅ…」という小さな吐息を耳にしたぼくは振り返る。

「溲瓶貸して。捨ててきて良いんだよね?」

「う、うん…。ごめん…」

ハナは恥ずかしそうに俯きながら言い、ぼくは溲瓶を手に取った。…タポンと重くなってる…。

溲瓶を持ち上げたぼくは、あらわになったハナのチンチンを見て眉根を寄せた。

…ちょっとおっきくなって、半分勃ってる…?

ハナはぼくの視線に気付くと、慌てた様子で右手を股間に被せて、ソレを覆い隠した。

何で勃っちゃってるのかは判らないけど、ぼくはその事に思い至った。

つまり入院中のハナは、…その…、しばらく出してなかった…?

いつも左手でしてたし…、見回りもあるだろうし…、出来なかったのかもしれない…。

ずっとお見舞いに来ていながら、ぼくはやっとその事に気付けた。

「…ハナ…。溜まってるんじゃ…?」

その問いには、しかしハナは無言のまま答えなかった。

でも、俯いて股間を押さえたまま、ピクンと体を震わせたその反応で、ぼくは自分の予想が正しかった事を悟る。

ハナは俯いたまま黙りこくって、ぼくも口を閉じて、個室はしばらくいやに静かになった。

「…ハナ…」

「ん、んんっ!?」

しばしの沈黙の後に声をかけると、ハナは妙な声を上げた。

「…その…やってあげる」

ビックリしたように顔を上げるハナ。

ぼくは身を乗り出して、未だに股間を押さえてるハナの右手にそっと触れた。

「だ、だだ駄目だよ!看護師さん見回りに来るかもしんないだろう!?」

「カーテン引けるし、おしっこしてたって言えば良いよ。証拠品もあるし…」

「で、でででもおれっ!お風呂入ってないしっ!体拭ってるだけだしっ!だ、だからアソコも、あ、洗って無くて汚いしっ!

今シッコしたばっかだしっ!」

ぼくはハナの手を握ったまま、俯き加減の顔を下から覗き込んだ。

「気にならないよ、そんなの…。やってあげる、ね?」

重ねて訴えると、ハナは口を引き結んで黙り込んだ。

言葉は無かったけど、股間を押さえた手から少しだけ力が抜けてる。

ぼくは一度ベッド脇から離れて、入り口側からベッドが見えないようにカーテンを引っ張った。

窓のカーテンも閉めてから振り向いたぼくは、ベッドの脇に立って、上半身を被せるようにして身を乗り出した。

起こしたベッドの背によりかかり、ギブスで固定されてる左足は伸ばしたままで、右足はあぐらをかくように曲げた半端な

座り格好のハナは、恥ずかしそうに俯いている。

ちょっと体を硬くしていたけど、太ももの内側に手を掛けて軽く引くと、ハナは大人しく足を広げた。

右の太ももにだって傷はある。抜糸は済んでるけど、まだ毛も生え揃ってない。

縫い跡が消えてない脚が痛まないように、ぼくは広げられた足の間に手をついた。

めくり上げた患者衣の下、トランクスの開けられた前から顔を覗かせてるチンチンが、触れる前から大きくなり始めてる。

そっと指先でソレに触れると、ハナが身を震わせて、同時にチンチンも震えた。

久々のせい?今日はかなり敏感になってる?

ティッシュを数枚抜いて用意して、軽くチンチンを握って、最初はゆっくりとしごき始めた。

いつにも増して丁寧に、ハナが気持ちよくなれるように気をつけながら。

それほど経たない内に、ハナの息が上がり始めた。

けど、ぼくはその息の乱れが、気持ちよさから来てるんじゃない事に、少ししてから気が付いた。

ちょっと視線を上げて見たハナは、なんだか辛そうな顔をしていて、右手でシーツをギュウッと握り込んでる。

「は、ハナ?もしかして、痛い?傷に響いてる?」

やっとその事に気付いて、慌てて手を止めたぼくに、ハナは「う、ううん…。平気…」と、やっぱり辛そうな声で応じる…。

バカバカ…!ぼくのバカ…!重傷だったんだから、ハナの体にキツいかもって事ぐらい、すぐに気付けなきゃいけなかった

のに…!

中断したぼくは、ハナの顔を上目遣いに見て、小さく「ごめん…」と謝った。

ハナは首をふるふる横に振ったけど、…こんな中途半端にされたら、かえってキツいじゃないか…。

気を利かせたつもりになって、余計な事して…、ぼくのバカ…。

申し訳なくて気まずくて、顔を伏せたぼくは、ハナの股間でちょっとずつ縮んでくソレを見つめて…、

「あ」

ある事を思いついて、小さく声を漏らした。

知ってるってだけで、これまでも試した事は無かったけど…。

身を乗り出して上体を下げ、ハナの股間にそろそろと顔を近付ける。

「…マーちゃん?」

訝しげな声を漏らしたハナの顔を見上げ、ぼくは口を開いた。

「痛くないように、やってみる…。ちょっとだけ我慢してね?」

首を傾げたハナから視線を外して、ぼくはチンチンをそっと握り、顔を近付けた。

ちょっとドキドキするし、不安だけど…。

まずは縮んじゃったハナのチンチンの皮を押し下げて、先っぽを出した。

小さく「んっ」と声を漏らしたハナのソレを、ぼくは意を決して口で咥える。

「あっ!?ま、マーちゃん!何してっ!?だ、だだだだめっ!そんなっ!そこ汚いよぉっ!」

お風呂にもしばらく入ってないハナのチンチンは、しょっぱくてちょっと臭った。

入浴できないから拭ってるだけの股の被毛は、汗を吸ってるせいかちょっと脂っぽくて、チンチンを咥えたぼくの鼻先にま

とわりつく。

けど、不快だとか、気持ち悪いとか、そういった風には感じなかった。

大切な、大好きなハナのソレは、皮はふにゃふにゃと柔らかくて、弾力があった。

たぶんぼくの口の中と同じくらいの温度。口で咥えてみると、手で触ってる時以上に大きく感じた。

「だ、だめ!やめてマーちゃん!汚いって!ずっと洗ってないんだから!そんなもの口に入れたら病気になるって!」

大慌てのハナの手が、ぼくの頭にかけられた。

けど、ちょっと剥いたチンチンの先っぽを舌でゆっくり舐めたら、「はぁん!」と声を漏らして仰け反り、抵抗は中断する。

押し退けようとしたハナの手は、震えてちょっと力が抜ける。

愛おしい。そう思った。

それはまぁ…、おしっこする所だし、したばっかりだし、しばらくお風呂も入ってないし、清潔じゃないって事は判ってる

し、ちょっとは気になる…。

けど、ハナのだもん…。他の誰のでもない、ハナのだもん…。

ぼくは一度チンチンを口から出して、ハナの顔を見上げた。

「平気だよ。痛くしないように気をつけるからね…」

ちょっと不安そうなハナは、「けど…」と、まだ戸惑っていた。

「大丈夫だから…。ぼくに任せて?ね?」

そう言って、ぼくは返事を待たずにハナのチンチンに舌を這わせた。

ぼくの唾液で塗れてテラテラ光ってるソレを、今度は下の方…、タマタマが付いてる根本に舌先で触れて、裏筋から先端ま

でをソロッと舐める。

「ふっ…!う…」

くすぐったそうに身震いしたハナが、息遣いと声の中間のような音を口から漏らした。

次いで、皮を剥いて少し出したさきっぽをチロチロと軽く舐めただけで、「あぁっ!」と大きな声が上がる。

目を堅く閉じて歯をギチッと食い縛り、声を押し殺すハナ…。

…そんなになるくらい、感じてるんだ?

ぼくはちょっとドキドキしながら口を開いた。

効果有り…。手でしごかなくたって、口でそろそろと上手くやれば、傷に響かないはず…。

えっと…、確か歯を立てちゃダメなんだよね?うん…。

慎重に、顔を被せるようにしてハナのチンチンを咥え込んだぼくは、アイスを舐めるようにしてソレを舌で舐める。

剥いたチンチンの先が上顎に当たって擦れたら、ハナが「ふぁっ…」と声を漏らした。

チンチン全体を、上から下まで、前も後ろも丁寧に舌で舐めて、口をすぼめて吸う。

「ま、マーちゃん…。くすぐったい…、気持ち…、いぃ…」

ハナは少し息を弾ませながら、震える恥かしげな声を漏らす。

そのぽってりした大きな右手が、ぼくの背中に添えられた。

お返しのつもりなんだろう。こういう事をしていた時にいつもそうしていたように、ハナの手はぼくの背中をゆっくり、や

さしく擦る。

けれど、首の後ろを、肩甲骨の間を、ワイシャツ越しに撫でるハナの手は小刻みに震えてる…。

…震えが出るくらい感じてるんだ…。

ちゅぷ…ちゅぷ…と音を立てて舐めている内に、ハナのチンチンはムクムクと大きくなった。

硬く、熱くなったそれの先端が、口の奥まで届いて、ぼくは少しだけウェッとなる。

「ま、マーちゃん…?む、無理しないで良いんだから…」

心配そうな声を漏らしたハナに、ぼくはチンチンを咥えたまま「むぐぅ…」と返事をした。

チンチンの先が奥の方を突いてエッとなっただけで、この行為自体は気持ち悪く感じない。

ぼくの唾液で濡れたハナのチンチンは、さっきよりも生臭くてしょっぱいけど、不快じゃないどころか、やっぱりちっとも

気にならない。

ぼく、やっと判った。

ぼくのせいでこんな目に遭ったハナに、ぼくはきっと、こんな形ででもお礼をしたかったんだ…。

ごめんって思う。有り難うって思う。

勝手な嫉妬心を抱いて、臍を曲げて、大事なハナに辛く当たって…、仲直りできたと思えば直後にあんな事故…。

何もかもぼくが原因で、ハナには悪い所なんて無かったのに、結果として酷い目に遭ったのはハナの方…。

大事に、大事に、愛おしさを込めてハナのソレを舐めてしゃぶるぼくは、ある言葉の意味がなんとなく解った。

…愛撫って、こういう事を言うのかも…。

ハナの息が弾み、チンチンがトクトク脈打ってる。

口から零れる喘ぐような息と声が、上下する少し出たお腹が、背中に当てられた大きな手が、ヒクヒクしてるチンチンが、

それら全部が愛おしくて仕方無い…。

ハナ…。大好きだよ…。

ハナ…。ごめんね…。

「ま、マーちゃ…ん…!お、おれ…おれもぉ…、でちゃい・・・そ…!そ、そろそろ、ティッシュ…」

ぼくの背から離した手をティッシュボックスに伸ばすハナ。

けど、ぼくはそれを待たずに、ハナのチンチンを強く吸った。

「あ…、あっ!ま、マーちゃん!だめっ!もうだめっ!そんなしたら、で、出ちゃっ…!」

ハナの慌てた声を聞きながらも、ぼくは愛撫を止めなかった。

このまま出して、良いんだよハナ…。

ぼくは顔を前後に振って、口全体を使ってハナのチンチンをしごく。

ジュプッ、ジュプッと、唾液に塗れたソレを、音を立ててしゃぶる。

「あぁっ!マーちゃ…んっ…!だ…、んだめへえぇっ!そっ…、んあふっ…!そんっ…んあ!されたらっ!お、おれぇっ…!

おれもぉおっ…!」

フルフルと震えていたハナのチンチンが、ググッと一層大きく、硬くなった。

直後、ぼくの口の中にドプッと、熱いものが放出される。

ビュクッ、ビュクッと溢れるハナの精液は、上顎の裏をピタピタと叩いて、ぼくの口の中で跳ね回った。

零さないように唇をすぼめている口の中に臭気が溢れて、鼻から出て行く。

ブルルッと身体をゆすりながら、「あ…、あ…!」とか細い声を漏らすハナは、何度も何度もぼくの口の中に精液を注ぎこ

んだ。

よっぽどたまってたのか、それとも不慣れな刺激の作用なのか、量は前と比べてもかなり多い。

またウェッと噎せそうになって、苦しくなって目が涙で滲む。

「ぐぷぅっ…」

ハナの痙攣が治まって、射精が終わったのを見計らい、ぼくはチンチンから口を離した。

たっぷりと注ぎ込まれた精液を零さないように、しっかりと唇を閉じたまま。

ちょっと迷った後、ぼくは…。

「ま、マーちゃん…?」

ごくりと音を鳴らして精液を飲み込んだぼくを、ハナはびっくりしたように目を丸くして見つめた。

しばらくお風呂で洗ってないせいなのか、ハナのそれはひどく生臭かったけど、ぼくはなんとか飲み下した。

苦くてしょっぱい、独特の味…。ソレはまるで抵抗するように喉に絡みつきながら、ゆっくりと食道を落ちて行った。

口の中がどろどろで、喉や口内から鼻を通って、生臭い匂いが昇って来て、抜けてく。

何でだろう?吐き出しても良かったのに、どういう訳か飲んでみたいって思ったんだ。

「だ、だだ大丈夫なのマーちゃん?それ…、精液なんか飲んでも…?」

ビクビクしながら訊ねて来たハナは、どうやら害があるものかもしれないと不安がっているみたい。

「平気だよ。普通に体で作られてる物だもん。…成分は確かタンパク質だって話だし…、たぶん…。それに、こういうプレイ

もあるらしいから」

それを聞いたハナは、心配そうな顔をほっとしたように緩めた。

「そ、そうなんだ?物知りだなぁマーちゃんは…」

「…こういう事で物知りっていうのもどうかと思うけど…」

苦笑いしたぼくは、溲瓶を手にとってベッドから離れた。

ハナはティッシュでチンチンを綺麗にしながら、顔を俯けたままポツリと言う。

「…あ、ありがと…、マーちゃん…」

「ん」

微苦笑してトイレに向かったぼくの耳に、ハナの続けた呟きが届いた。

「…おれ…、やっぱり、生きてて良かった…」

嬉しそうな、ほっとしたような、そんな声…。

こんな目に遭ったのに、何て欲がないんだろう…。

庇われて五体満足だった自分が、酷く恥ずかしかった…。

けど、こんなんじゃ足りない。

ぼくはこれからもっともっと、ハナに良いことをしてあげる。

亡くしてしまった左腕の代わりにはなれないだろうけど、ずっとずっと傍にいて、笑わせてあげる…。

もう二度と、ハナの顔を曇らせるような事はしない。

幼馴染みで、親友で、そして…。

トイレのドアを閉めたぼくは、溲瓶を手にしたまま立ち尽くした。

ぼくとハナは…、何なんだろうか?

…判らない。ぼくはハナの事が好きだ。誰よりも大切だ。あの事故の後つくづく感じた。ハナの居ない日常なんて考えられ

ないって。

…けれど、ハナはどうなんだろう?こういう事をする秘密の仲だけど、ハナがぼくをどう思ってるのか、良く判らない。

これまでに言葉で確かめた事はなかったから…。

ひょっとしたら、やっぱりただの幼馴染み?ああいう事をしあうけれど、普通の友達感覚?

…訊いてみるだけの勇気は、今のぼくにはまだ出せそうになかった…。



七月前半のある日、ハナは週の真ん中に退院して帰ってきた。

まだ運動はしちゃだめだし、通院もしなくちゃいけない。学校に通えるのは来週からになるけど。

勉強の遅れもあるけれど、何より病院生活にうんざりしていたんだろうハナは、早く退院したくて仕方なかったらしく、入

院生活後半なんかは、口を開けば出たい出たいって、とにかくうるさかった。…体はおっきいのに子供みたい…。

ハナの左腕には、右腕と全く同じ柄の毛が植えられた義手が装着された。

手は力を抜いた自然体の形のまま動かないけれど、パッと見ても義手だって事は判らない。

触ってみれば毛の下の硬い感触でさすがに判るけれど、肘の装着部を隠してると、全く元通りになったように見える。

バランスを取りやすいように重さも右腕にあわせてあるらしくて、ちょっと持たせて貰ったら、ずっしりと重かった。

その重さが、ハナがぼくの命と引き替えにして亡くした量なんだなぁと考えたら、一層、感謝の気持ちが強くなった…。

ハナの退院祝いは、ぼくと母さん、姉さんもお呼ばれして、お寿司での食事会になった。

寿司桶には幾丸寿司の文字。この街の老舗お寿司屋さんだ。

ぼくを庇ってハナがあんな事になったのに、相変わらずおばさんはぼくを責めない。

清潔感が足りないとか、暑苦しいとか、身なりにだらしないとか、ハナを見る度口うるさくしてた姉さんも、最近はハナへ

の「口撃」をソフトな物に変えてる。

いつまでも幼いと思っていた幼馴染みが、身を挺してぼくを庇う勇敢な行動を見せた事で、すっかり見直したらしい。

長らく病院食がメインだったハナは、豪勢なお寿司で大満足の様子だ。イカエビウニトロアナゴにホタテと乱れ食い。

これでもかと胃袋に詰め込んで、膨れたおなかをさすりながら、

「うぇ〜っぷ…!退院する度こんなごちそうなら…、風邪引いた時も入院させて貰おっかな…」

盛大にゲップをしつつハナはそう言い、皆に「いや普通入院しないから風邪じゃ」と一斉に突っ込まれた。

お寿司を食べ終えて少しくつろいだら、ハナはおばさんに「疲れたでしょうから今日は早めに休みなさい」と、釘を刺され

てた。

「えぇ〜?おれ病院でずっと休んでたのに…」

「わがまま言わないの。体調崩して病院に逆戻りなんて嫌ですからね?」

不満げだったハナはしぶしぶながらもおばさんに従い、ぼくらもおいとまする事になった。

まだ日が完全には落ちていないけど、確かに、環境が変わったばかりで、ハナが体調を崩しても大変だしね。

「じゃあ、また明日なマーちゃん」

「うん。お休みハナ」

母さんと姉さんと一緒に玄関を出て、茜に染まった空を見上げてぼくは考える。

…なかなか言い出せなくて、皆にも口止めしてたけど…、学校に来るようになったらさすがに誤魔化しきれない…。

その内ハナにも…、ぼくが野球部を辞めた事を話さないと…。



家に戻って早めのお風呂を済ませた後、ぼくは部屋で勉強机につき、重ねた本の一冊を手に取った。

お見舞いにハナにあげた小説なんだけど、面白いから読めって勧められたんだ。

…なんか、パララッと捲ってみたら、案の定どのページも字がびっしりだし…。これだけで読む気失せるなぁ…。

読むのを諦めて本を放り出したぼくは、立ち上がって背伸びしつつ窓際に歩み寄って、網戸越しに外を眺めた。

ぼくの部屋の窓からは、お隣さん家の裏庭が見える。

ハナの家の縁側に面したそこを見下ろしたぼくは、そこに立つ人影に気付いて目を丸くした。

プレハブの物置と、ぼくとハナがお年玉を注ぎ込んで買った箱形四面ネットに占領されてあまり広くもないそこに、セント

バーナードが立っていた。

高さ3メートルの箱形ネットの中に、ボールを投げ込む投球練習用ネットが立てられている。

それから適度に距離を取ったハナの背中側が、部屋の窓から見下ろすぼくの目に映っていた。

右手にボールを握って、しばらくじっとネットを見つめていたハナは、胸の前に上げた右手に左手の義手を被せた。

まさか?と思っている内に、ハナはおもむろに体を捻って左足を上げる。

体全体を大きく捻ったそれは、ぎこちない…トルネードのフォーム…。

腕を引っ張るようにぶるんっと戻った体は、バランスを崩してすってんころりんと転げた。

リリースのタイミングが早かったらしく、ボールはネットの右上隅辺りに、弱々しい放物線を描いて当たり、落ちていった。

右肩から地面にぶつかるようにして転んだハナは、身を起こしつつ顔を顰めて左手を上げる。

その直後、ハナは凍り付いたように動きを止めた。

ぶつけた箇所をさするはずの手がそこに無かった。

転んだ拍子に反射的に腕をつこうとした際に、左腕にはまっていた義手は外れてしまっていた。

傍らに転げた、元の腕そっくりな義手を見下ろすハナ。

そうしてしばらく固まっていたハナは、肘の下から先が亡くなってしまった左腕を、背を丸めて抱え込んだ。

「…えふっ…」

まるで小さく咳き込むような…、そんな声が、網戸を通る風と一緒に耳へ届いた。

「え…、えぅ…、えふっ…、う…!」

地面にへたり込んで、背を丸めて左腕を抱え込んだハナは、声と体を震わせる。

「えぅあっ…!あ、あぐっ…!う…、うふぅうううううううっ!うあっ…、あっ…、うあぁああああああああん!」

外れてしまった腕を前に、ハナは天を仰いで悲痛な泣き声を上げた。

泣き声に気付いたおばさんが、裏庭に面した部屋の大窓を開けて顔を出した。

おばさんはビックリしたように我が子を見つめると、サンダルをつっかけて裏庭に降りた。

そして、小さな子供みたいにわんわん声を上げて泣くハナを立たせて、その背中をさすりながら家の中に入って行く。

一言も声をかけられなかったぼくは、裏庭に転がっているハナが放ったボールを、呆然としながら見つめていた。

日が傾いて急激に暗くなって行く裏庭で、転がっているボールの白さが、取り残されたようにいつまでも残る。

ハナがもう野球が出来なくなってしまった事は、理解していたつもりだった。

ハナの左手が亡くなっちゃった事は、理解していたつもりだった。

けど、ハナがいつも明るかったから、気にしてないようなそぶりを見せていたから、その優しさに甘えて、溺れていたぼく

は…、本当の意味で理解してはいなかったんだ…。

ハナはもう、前のようにボールを投げられない…。

転んでぶつけた肩を押さえる事すらもできない…。

しばらく呆然と立ち竦んでいたぼくは、のろのろと手を動かして、静かに窓を閉めた。

そして、タオルケットを被って、雷に怯える子供のように、布団の上で丸まった。

かたく目を閉じても、両手で耳を塞いでも、…ハナの悲痛な声は、いつまでも…、いつまでも…、ぼくの耳から離れなかっ

た…。



退院から二日が経った、土曜日の午後。ぼくはハナと一緒に外に散歩に出る事になった。

家にばっかり閉じこもっていたら気が滅入るという、ハナの強い要望があっての事。

一人で出歩いちゃダメって言われたそうだけど、おばさんと一緒に出かけるのは保護者同伴みたいで嫌なんだってさ。

近くの本屋に行って雑誌を買いつつ、道すがら自販機でジュースを買って、あとは真っ直ぐ帰るっていう短い散歩予定なん

だけど、お出かけに餓えていたらしいセントバーナードはとにかくご機嫌だった。

本当は、雑誌も飲み物も一度に揃うから、先月末から営業を再開したあのコンビニに行くのが一番手っ取り早かったんだけ

れど、ハナの事を考えてそれは止めた。

「長い事ろくに動いて無かったしさぁ、これ以上こんな生活が続いたらまた太るよぉ…」

「どうかなぁ?もう手遅れだったり…」

意地悪く笑いつつ、二ヶ月弱でだいぶ皮下脂肪がついちゃった脇腹をつついてやったら、ハナはくすぐったそうに身じろぎ

して、

「うえ〜?そこフォローするトコだろ〜?」

と、顔を顰めて苦笑いした。

明るく話すハナを見ていると、先日の裏庭での出来事が、まるで幻だったように思えて来る…。

こうして普通に話をしながら歩いてると、義手にも全然違和感がなくて、すっかり事故前と同じ状態に戻ったように錯覚し

ちゃう…。

けれど、本屋に入ったらそんな甘い錯覚は消え失せた。

雑誌に興味を覚えて、まず最初に反応して伸びる義手になった方の左手が…、ハッとして代わりに伸ばされた右手のぎこち

ない手付きが…、ぼくに、ハナに、その事を再認識させる。

押し黙ったぼくに気を遣ってるんだろう。

入院中に差し入れられた雑誌で、新しくお気に入りの漫画ができたとか、それまで読んでなかった漫画にも目を通すように

なったとか、ハナはあれこれ話しかけて来た。

ハナは、こんなにいい子なのに…。その振る舞いが、見ているぼくには辛い…。

でも、止めてとも言えない…。ハナはぼくに気遣わせないように、頑張って元気を出してるんだから…。

無理しないで良いんだよって言ってあげたいけれど…、そう言ったら、ハナが悲しそうな顔をしそうで怖い…。

だからぼくは、ハナに付き合って笑みを浮べる。ハナの気遣いを無駄にしないように…。

月刊の漫画雑誌を買ってお店を出たぼくとハナは、最短の帰り道からは外れて、太い二車線道路沿いに出て自販機に寄った。

「あれからさ、骨に良いとかで乳製品ばっかり飲まされるようになってさぁ…。かあちゃんが、炭酸は骨を溶かすからダメと

か言うんだよ。炭酸のジュース飲むと骨がフニャフニャになるって…」

「信じてるんだ…おばさん…。まぁ乳製品の方が勿論体に良いけど」

自販機のボタンを押しながら、おばさんなら有り得そうだと納得したぼくは、落ちてきたコーラをハナに手渡す。

「サンキュー!あ〜…、コーラ飲むの久し振り〜!」

ミルクティーを買ったぼくがプルタブを起こすのを待って、ハナもプシュッと缶を開ける。

それぞれ飲み物を口にしながら道沿いを歩き出して、少しした頃だった。

低いエンジン音と重々しい走行音が、ぼくの耳に届いて来たのは。

ぼくらの行く手側、工事用現場から来たのか、土砂を満載した大型ダンプが空いている二車線道路をドドドッと走って来た。

あの事故以来、大きな車を見ると何となく体が強張っちゃう…。

少し首を竦めたぼくは、隣のハナが足を止めた事に気付いた。

同じく立ち止まって、ハナの顔を見上げる。

「…ハナ?どうかした?」

声をかけたぼくは、急に心配になった。ハナの顔からは、ちょっと前までの楽しげな笑顔が消えている。

…ぼくと同じで、やっぱりトラックとかダンプとかの音を聞くと、ちょっと嫌な気になるのかな?

目を大きく見開いてダンプを凝視してるハナの表情は、はっきり判るぐらい強張ってた。

「あ…、あれ…?」

掠れた、少し震えてる小さな声を漏らしたハナは、ダンプから視線を外して、顔を下に向けた。

同時にぼくも気が付いた。…ハナの体…、小刻みに震えてる…?

プルプルと、最初は小さかったハナの震えは、徐々に大きくなって、やがて全身がカタカタと大きく震え出した。

「あ、あれ?あれっ!?お、おれ…、おれどうしたんだろ?」

ハナは震える自分の体を見下ろしながら、困惑したような声を漏らす。

「な、何か変だな…?おれ、何で震えて…?あれ?と、止まらない…!?どうしたんだろ?何だコレ?」

最初は小さかった震えはどんどん大きくなって、今ではもう、ハナの体はガタガタ震えてる。

動く右手で自分の肩を抱えるようにして、何とか震えを治めようとしてるハナの歯が、カチカチと音を立ててる。

「は、ハナ!?どうしたの?何処か痛い?具合悪い!?」

焦って声をかけたぼくに、ハナも困惑顔でフルフルと首を横に振る。

「わ、判んない…!なんか、勝手に体が震えて…!寒くも無いのに、と、止まんなくて…!」

ハッとして振り返ったぼくは、近くまで迫ったダンプを目にする。

…もしかして…、ハナはダンプの音に…?

不意に、ガコンっと、硬い音がした。

転がる音に目をやれば、足元を転がるコーラの缶から。コポコポと黒ずんだ液体が零れて、歩道に沁みてく…。

「ハナっ!?」

向き直ったぼくは、その場にしゃがみこんで自分の体を抱き締めるようにしているハナを目にした。

右手で左肩を掴み、左の義手を抱え込むようにして屈み込んでいるハナは、目を大きく見開いて、歯をガチガチ鳴らしてた。

ダンプがぼくらの横を走り抜ける。ハナは「ふ…!」と声を漏らしつつ、目をぎちっと瞑って歯を食い縛った。

ダンプが通り過ぎてもなおガタガタと震えているハナの前で、ぼくは屈み込んでその肩を掴む。

ハナの体の強い震えが、ぼくの手に伝わって来た。

「は、ハナ?大丈夫?ハナっ!?」

ぼくが肩を揺すぶって声をかけても、返事もできないらしいハナは震えたままで…、やがて…。

「う…、うぶっ…!うぇおっ!えぼろろろっ!えうっ!うぇ…!げぼぼっ!」

その場で顔を俯け、足元に嘔吐し始めた。

少し飲んだばかりのコーラが、未消化の食事が、ハナの足元にぶちまけられてシューズを汚した。

「ハナっ!?ハナ、しっかりして!」

ガタガタと震えたまま、ハナは自分がもどした吐しゃ物の中に手と膝をついて、いつまでもえずいていた。

ぼくと同じなんて生易しい物じゃなかった。

心的外傷に由来する発作。それが、この日からハナの体に起こり始めた。

事故がハナの心…、その奥深くに刻んだ心的外傷は…、ぼくなんかと比べ物にならない程に根深くて、深刻な物だった…。

大きなエンジン音や、タイヤの音、ブレーキの音…。

事故を思い出させる物に反応して、ハナはあの瞬間の強烈な恐怖心を呼び起こされてしまうらしい。

来週から予定されていたハナの学校復帰は、少し様子を見る事になった…。



「…退部した事…、言えて無いんだ…。まだ…」

空になった牛乳のパックを小さく折り畳みながら、ぼくは呟いた。

最近いつも昼食を摂ってる駐車場では、隣にやっぱりカイジマ君が居る。

ハナの後遺症が発覚してから一週間が経った。

もうじき一学期が終わる…。今学期中の復帰は、ちょっと無理そう…。

他の誰にも話していないけど、カイジマ君と団長さんだけには、ハナがまだ学校に来られない理由を話している。

おばさんから連絡が行っている担任の先生も、他の生徒には話していない。

だから生徒でハナの状態を知っているのは、ぼくとカイジマ君、団長さんだけだ。

「けど、いつまでも隠しておけるもんじゃないだろう?チドだってもうじき学校へ出て来るんだろうし…。心的外傷の治療だっ

て、すぐ効果が出るケースも多いらしい。案外チドも…」

カイジマ君は意気地の無いぼくを責めるでもなく、ハナの件について励ましながら話題を変えた。

「…ハナがあんな事になったのに、一人だけ野球をするなんてとんでもない…。そう思って退部したのに…、本人には言えな

いなんて…」

ハナは未だに、ぼくが野球部を続けてると思ってる。

ぼくは不自然にならないように少し学校に残ったり、寄り道したりしてから帰るから、今のところは気付いてないみたい…。

ウチの親やおばさんには口止めしてるからハナには伝わらないけど…。いつまで隠しておけるか…。

カイジマ君には、ぼくがハナに退部の件を隠している事も、かなり前に告げてある。

ぼくとハナの問題だから、他には口外しないって言ってくれた。

「…ありきたりの事しか言えないけど…、そろそろ元気出せよ。チドはきっと、すぐに良くなる。また一緒に学校で昼飯食え

るようになるさ」

カイジマ君の暖かな励ましに、ぼくは小さく頷いた。

「元気になって学校に来られるようになったら、ここに二人で食べに来ても良い?」

訊ねたぼくに、グリズリーは苦笑いを返す。

「前にも言ったろう?ここは俺の場所って訳じゃない。アカギとチドが好きなようにすれば良いさ。…ただ…」

カイジマ君は言葉を切って、パンの袋をビリッと開けた。

「チドが元気になったら、アカギはあいつと一緒に、皆で食堂とかで食え。チドは賑やかなのも嫌いじゃないだろう?」

「…でも、皆はぼくなんかと一緒でも楽しくないと思…」

「またそれか」

カイジマ君は呆れたような声を漏らして、ぼくの言葉を遮った。

「そうやって近付きもしない内は、楽しいか楽しくないかなんて判らないだろう?まず試してみれば良いさ。きっとすぐに皆

と打ち解けられるだろうし」

「…そういうもの?」

「そういうもんだ。…たぶん」

「…最後の一言が加わったら、凄く曖昧に聞こえるようになったんだけど…」

呟いたぼくに、カイジマ君は歯を剥いてにぃっと苦笑いして見せた。



その日の下校時、夕暮れまで図書館で時間を潰したぼくは、スポーツ新聞と飲み物を買う為に、営業を再開したあのコンビ

ニに寄った。

飲み物は、ハナが喜びそうなグレープ味の炭酸飲料をペットボトルで。…ついでだからポテトのスナックも買って行ってあ

げようっと。

体を絞ろうとやっきになってた頃は涙を飲んで我慢してたけど、ハナったら今じゃもう全く気をつけなくなって…。

…良いよね…もう…。ハナは大好きな野球ができなくなっちゃったんだから…。もう、他の事を我慢なんてしなくても、良

いよね…?

「浮かん顔だな?」

それは当然じゃない?だって…。

…ん…?

ポテトスナックの筒を片手に立ち尽くしていたぼくは、横からかけられた声に首を巡らせた。

学ラン姿の大きな羆が、緑茶のボトルを大量に入れたカゴを片手に立っていた。

今日の応援団の練習は、どうやら終わったらしい。

「あ、お疲れ様です。団長さん」

ぼくが向けている疑問の視線に気付いたのか、団長さんは一度視線を落として、カゴをぐっと持ち上げて見せた。

「今週からキャンペーン期間でな。ストラップがついて来るのだ」

見れば確かに、お茶のボトルの口には販売促進用のオマケが入った小袋がくっついてる。

確かこのお茶って、パンダがマスコットだったっけ?

「通常のストラップ十二種に加えて、シークレット一種というラインナップなのだが、今回はレア物がなかなか出てくれんの

だ…。…おのれ…、儂を水太りさせるつもりか…?」

団長さんは少し肩を落として嘆息する。

…こういうの集めるんだ?この団長さんが…。何だかちょっと意外…。

団長さんに続いてレジを済ませ、コンビニを出たぼくは、足を止めて店を振り返った羆に倣って、同じように店の外装を見

上げる。

「すっかり元通り…か…」

呟いた団長さんが何を思っているのかは、ぼくにも判った。

建物は壊れても直る。けど、ハナの腕は治らない。

コンビニは元通りになって、多くの人達はあの事故を忘れてく…。けれど、ぼくらは絶対に忘れられない…。

「それで、君は何故浮かぬ顔をしとったのだ?何か困り事でもあるならば、儂で良ければ話してみんか?」

「え?い、いや…!特に何か困ってるって訳じゃないんです!ちょっと授業の事を…、ははっ!ぼく、あんまり成績良く無い

んで…」

咄嗟に笑ってごまかしたものの、団長さんはぼくの顔をじっと見つめていた。

「…そうか。ならば良い」

疑ってるのかとも思ったんだけれど、団長さんはそれ以上突っ込んで尋ねては来なかった。

恩人に隠し事をしてしまったぼくは、何となく落ち着かない気持ちになりながら、団長さんと別れて家路に着いた…。



飽きっぱなしのドアをノックして、ぼくはその部屋の中を覗き込んだ。

「お邪魔します。スクラップブックとスポーツ新聞、持って来たよ?あとジュースとお菓子も」

「あ〜!ありがとマーちゃん!」

部屋の奥に据えられたベッドに俯せに寝転がり、漫画雑誌を読んでいたハナは、顔を上げつつ尻尾をバタタタッと盛大に振っ

た。

ハナってばトランクス一枚の半裸だよ…。自分の部屋とはいえ実にだらしない格好…。いや確かに今日は暑いけどさ…。

義手はしていない。ベッドの枕元に無造作に置いてある。

放置された義手と、肘のすぐ先までになっちゃったハナの左腕を目にしたら、胸がズキンと痛んだ…。

義手をして、袖で結合部が隠れてると錯覚しちゃうけれど、こうやってハナの左腕を見ると、思い知らされる…。

ぼくの表情の変化に気付いたのか、ハナは慌てた様子で義手の脇に置いてあった布を掴んだ。

それは、義手をつける左腕にはめて、直接擦れて痛くないようにする、靴下みたいな布キャップ。

「あ、いいよ?暑いから、つけたくなかったんでしょ?」

ぼくがそう言うと、ハナはチラッと窺うような視線を投げてよこした。

ぼくを気遣ってる目だった。「本当に平気か?」って、そう確認してる目だった。

結局ハナは義手をつけないまま、キャップを元の位置に置いた。

…ぼくの方が逆に気を遣われてたら、世話ないよね…。

ハナが普通に振舞おうとしてるのに、ぼくがこんなんで、気まずくしちゃってたらダメじゃないか…。

のそっと身を起こしたハナは、…あれ?ちょっと待って、なんだか…。

「…ハナ…。ちょっと太った?」

ベッドの上にあぐらをかいたハナは、「え?」と声を漏らして目を丸くし、体を見下ろした。

そして、しばらく無言でじっと見下ろした後、右手をお腹に当ててモニョッと掴み、「…かな…?」と、困ったような顔で

呟く。

…まぁ、元々太りやすい体質だし…、入院中は動けなくてじっとしてたし…、退院してからは病院の健康的なバランス食で

うんざりしていた舌を満足させるようにお菓子なんか色々食べてたし…、あれだけ色んな要因が重なれば、無理もないか…。

…ぼくがこうしてお菓子やジュースを買って来てあげてるのも、要因の一つなんだろうけれど…。

しばらく黙ったまま、深刻な顔でお腹をムニムニしていたハナは、

「…ま、いっか」

普通の顔に戻って、何でもないように呟いた。

…さらっと受け入れちゃったよ…。

あれ以来、ハナは外出を避けるようになった。

隣り合うぼくの家に来るにも、ビクビクしながら通りを窺って、車の音を避けて小走りにやって来る。

実際に発作と呼べるような震えや嘔吐感が出るのは、大きなエンジン音なんかに対してだけなんだけれど、あの一度の経験

で神経が過敏になっちゃって、普通の車の音を聞くのも苦痛らしい…。

だから、ぼくの方がハナの部屋に来るようになった。ハナにはもう、なるべく嫌な思いをさせたくないから…。

「…ちゃん。…マーちゃん?」

「うんっ?」

「どうしたんだ?難しい顔して?あと、マネキンみたいに固まっちゃって?」

「あ?え?あ〜、うん…。何でもない…」

考え事に没頭しちゃってたみたい…。

ハナは頭を掻いているぼくを見ながらニマ〜っと笑う。

そして自分の隣、ベッドの上をポンポン右手で叩いて、座るように促した。

ベッドに乗ったぼくは、ハナにも見えるようにスクラップブックを開いて、あれこれと話をする。

喜んでいるハナの隣で、笑顔で相槌を打ちながらも、ぼくは…、本当は辛かった…。

ハナはもう野球ができないのに、スクラップブックを前と変わらず楽しそうに見て…。

…いつまで、ぼくはハナにウソをつき続ければ良いの?…いつまで…、誤魔化していけるの…?

…言おう…。いつまでも隠しておけないし、言わなくちゃいけないんだから…。

「ねぇ、ハナ?あのね…?」

「んん?」

ハナはニコニコしながら顔をあげ、ぼくを見た。

「…いや、な、何だっけ…。忘れちゃった…」

「へ?…むふっ!何ソレ!?」

「やだなぁ、ど忘れだ…」

苦笑いで誤魔化したぼくは、可笑しそうに笑ってるハナの顔を見ながら、心の中でため息をついた。

…ハナの笑ってる顔を見たら…。その笑顔を、曇らせたくなくて…。

ぼくは今日も、自分がもうとっくに退部している事を言い出せなかった…。



翌日の放課後。ぼくは他のクラスメート何人かと一緒に、先生に頼まれて大量のプリントを三つ折りにする作業をした。

ようやく解放されて昇降口から出たぼくは、傾きかけた日に染まる校庭を見遣りながら、少しだけ寂しい気分になった。

いつもはこの時間になっても響いてるはずの、練習している応援団のエールや太鼓の音が、今日は聞こえて来ない。

…今日は練習休みなのか…。

思えば、野球部の練習中も応援団のエールは聞こえてた。

あっちも練習なんだけど、エールが聞こえると励まされてるような気になって、さぁ頑張るぞっ!って気分になったっけ…。

「お。来たな」

呟く声を耳にして首を巡らせると、昇降口を出たすぐ脇の壁に寄りかかる、コーラの缶を片手にした大きな灰色熊の姿があっ

た。

「カイジマ君?あれ?練習休みなんじゃ…?」

「ああ。今日は休みだ。よく知ってるな?」

「知ってた訳じゃないよ。エールが聞こえないから、そうかなぁって思ってただけ」

ぼくが答えると、カイジマ君は「なるほど」と頷いて、壁から背を離した。

どうしたんだろう?何だかぼくを待ってたみたいだけど…。

ぼくの疑問の視線を受けて、灰色熊は答えるように小さく頷いた。

「団長から伝言を預かった。話があるから、裏門で待ってろってさ」

「団長さんが?話?裏門?」

「そう。じゃあ、確かに伝えたぞ?」

「う、うん…。判った、ありがとう。…何の話?」

「直接聞いてくれ、俺はアカギに必ず伝えろって言われただけだ」

広い肩を竦めたカイジマ君に、ぼくはある事に気付いて眉を上げた。

「もしかして…、伝言のためにぼくをずっと待ってたの?」

「ああ。…あ。気にするな。練習無い日は俺もヒマだし、吹奏楽部の練習曲聴いてたから、全然苦じゃなかったしな」

「そうなんだ?吹奏楽、好きなの?」

何気なく発したぼくの問いかけに、灰色熊は目を大きくした。

「い、いや!曲な!?きょ、曲の方な好きなのはっ!?」

「え?う、うん…。そのつもりで訊いたんだけど…」

…何で動揺してるの?

カイジマ君はコホンと、取り繕うように咳払いすると、

「…前はそんなでもなかったけどな…。団に入ってから、応援の時に良く聞く曲は好きになったかな…」

そう呟いてから、残ったコーラをグビグビッと一気に飲み干して、グシャッと缶を握り潰した。

「…アカギ…」

「うん?」

カイジマ君はぼくの顔を見下ろして、神妙な顔で口を開く。

「アカギが前に、野球辞めるって言った時…、俺、「誰が何言ったって、決めるのはアカギだ」って、言ったよな?確か…」

「え?う、うん…」

思い出しながら頷いたぼくに、灰色熊は静かに続けた。

「けどな、考えてみたら、お前の決断に口出しする権利があるヤツが一人だけ居る。そいつの言う事だけは、聞き届けてやれ

よな?」

「え?」

「…まぁ、これも俺が口を挟む事じゃあ無いな…」

カイジマ君は踵を返してぼくに背中を向け、片手を上げて見せた。

「帰る。裏門、ちゃんと行ってくれよ?」

「あ…、う、うん…。バイバイ…」

肩の高さに手を上げて小さく振ったぼくは、遠ざかる灰色熊の後ろ姿を眺めながら首を捻った。

どういう意味だったんだろう?

ぼくの決断に口出しする権利があるひと…。カイジマ君は…、何を言いたかったんだろう…?



カイジマ君に言われたとおり、ぼくは裏門に回って団長さんを待った。

太陽は刻々と傾いて、夏の空はもう真っ赤に染まってる。

裏門の両脇にある石の柱によりかかって、ぼくは茜の空を見上げた。

…来ないなぁ団長さん…。

もしかして、ぼくが来る前に来たけれども、居なかったから帰ったとか…。

いや、だったらカイジマ君に何か言ってくはずだし…。それは無いか…。

そもそも、話って何だろう?

どういう訳か、団長さんはぼくの事を気にかけてくれてるみたいだから、もしかしたら昨日のコンビニでの様子を気にして、

改めて話をしようと思ったとか?

あれこれ考えながら待っていたぼくは、「済まん。待たせた」という低い声を耳にして振り返った。

裏門のすぐ外に、大きな羆が立っていた。そして、その隣には…、

「は…、ハナ…?」

柱に片手をつき、顔を俯けて、苦しげに肩で息をしているセントバーナードの姿…。

「練習が休みだったので見舞いに行ったのだが…」

団長さんは良く通る低い声で、ぼくに話しかけてきた。

「チドはどうやら、君が退部していた事を知らなかったようだな?」

その言葉で、ぼくは理解した。

隠し続けてきた退部の件が、団長さんからハナに伝わってしまったという事を…。

「…マーちゃん…」

掠れた低い声が耳に届いて、ぼくは幼馴染へ視線を向ける。

ゆっくり顔を上げたハナの両目は、血走っていた。

おまけに、目の周りの毛は湿っていて、着ているティーシャツは喉元からお腹、ジーパンの股間の辺りまで、染みができて

黒々と変色してる。

…この酸っぱい匂い…。ハナ、発作を起こして嘔吐したんだ…。

小刻みに震えてるハナの全身は、大量に汗をかいたのか、毛が湿って寝たり跳ねたりしてる…。

ハナの家から学校に来るまでは、どう避けても、太い道路を何本か跨がなくちゃいけない。

きっと、来るまでに大きな車とでくわしたんだ…!

「マーちゃん…、野球部辞めてたって…、ホントか…?」

訊ねるハナの声は低くて、そして震えていた。

少し間をあけた後、黙って小さく頷いたぼくを見て、ハナは目を吊り上げた。

「なんで…、黙ってたんだ…?おれには、部活続けてるみたいにずっと言ってきて…、何で…」

ゆっくりとぼくに歩み寄るハナは、怒っていた。

滅多に怒る事のなかったセントバーナードは、目の前に立った今、目を吊り上げて唇を捲り上げ、物凄い形相でぼくを睨ん

でいた…。

「だ、だって…、ハナは野球の話をすると喜ぶし…、けど…、ぼくだけで野球を続ける訳には…」

「だから?野球ができなくなったおれに同情して、イヤイヤ付き合ってたのか?嘘までついて…!」

「だって…、だって…!これ以上ハナに辛そうな顔して欲しくなかったから…!だから…、言ったらきっと、嫌な顔をすると

思ったから…!だ、だからぼく…!ぼ、ぼくだけ野球続けるなんて…!ハナはできなくなったのに…!だから、だから…!」

必死に説明しようとするのに、ぼくの言葉は上手く纏まらない。

「そうだ!おれはもう野球ができない!マーちゃんと違って!」

言葉を遮って発されたハナの大声で、ぼくは身を竦ませた。

「死んでもおかしくない事故だった!」

ハナは目を吊り上げたまま、叫ぶように言った。

そして、左の義手を胸の前に上げ、右手でバシッと叩く。

「左腕一本…!」

睨むような目をぼくに向けたまま、ハナは続けた。

「おれはあの事故で左腕を死なせた!けど、マーちゃんは大した怪我もしなかった!良かったじゃないか!」

…ああ…。

ぼくはやっと理解した。

本当は、やっぱりハナはぼくを恨んでいたんだ…。

そしてぼくは、ハナに責められる事を、ずっと望んでいたんだ…。

責められる事を望んでいるようだと、団長さんがいつか口にしたあの言葉は、自覚がなかったぼくの本心を言い当てていた

んだ…。

「判るかマーちゃん!?おれがどんな気持ちでマーちゃんの元気な姿を見てたのか…、判るか!?」

ハナはぼくの目を真っ直ぐに見つめたまま言い募る。

「おれの左腕は無駄死にじゃなかったって…!腕一本で大切なものが守れたんだって…!マーちゃんが無事だったからそれで

良かったって…!そう納得できてたんだ!」

ぼくは、ひゅっと小さく吸い込んで、息を止めていた。

…ハ…ナ…?

「腕一本だ!おれの腕一本駄目になっただけで、代わりに世界で一番大切なひとが無事だったんだ!そう考えたら安いもんじゃ

ないか!マーちゃんが元気だったから、おれはちっとも悔やんでない!」

ハナは依然として怒り顔のまま、頭を殴られたようなショックを受けているぼくに向かって叫び続けた。

「マーちゃんがそれを気に病んでて元気出せないなら…!責任に感じて野球部辞めるなら…!おれは…!納得できなくなるだ

ろっ!?」

吠えるようなセントバーナードの声が、ぼくの体と心を揺さぶりながら突き抜けて行く。

「…野球…、辞めるなよ…!マーちゃんにはまだ、夢を掴むための腕が二本ともある…!その両腕で、おれの分まで…!いっ

ぱい野球楽しんでくれよ…!」

吊り上がっていたハナの目が潤んで、目尻が下がって泣き顔になる。

「勝手言ってるのは判ってる…。けど…、おれ、マーちゃんには野球続けて欲しい…。野球やってるマーちゃんと、前と同じ

ようにあれこれ話したい…。こんな事で辞めて欲しくないよ…。お願い…だよぉ…」

ハナはそう言うとボロボロと大粒の涙を零し始め、右腕で顔を隠して、嗚咽を漏らしながらグイグイ擦り始めた。

何も言えず、ただ立ち尽くしているぼくに、黙って一部始終を見ていた団長さんが顔を向ける。

「…他者が…、「チドの為にも頑張れ」などと君に告げる事は、どんな想いがあるにせよ許されんし、何より粋ではない。だ

がアカギ、どうだ?チド本人が吐き出した偽らざるこの本音を、君はどう受け止める?」

「ぼ…ぼくは…」

答えようと口を開いたけれど、ぼくはそれっきり言葉が継げなくなった。

喉の奥からしゃっくりが込み上げてきて…。目が熱くなって視界がうるんで…。

許してくれるの?ハナ…。ぼく、野球を続けても良いの…?

そんな言葉やお礼やお詫びは、ひっくひっくと鳴る喉からは、頑張っても出せなかった。

団長さんは、まるでぼくの声にならない答えを聞いたかのように、「ふむ…」と、どこか満足げに頷いた。

そして、泣きじゃくるハナと啜り泣くぼくに歩み寄って間に立ち、ハナの義手になった左手と、ぼくの右手を掴み、そっと

重ね合わせた。

「野球を続ける為に許可が必要だと言うならば、なぁチド?君がこうして与えている」

団長さんの言葉に、ハナは顔をグシグシ擦りながらウンウンと頷いた。

「どうだアカギ?チドがこう言ってもなお、君は野球をやってはいかんのかな?」

ぼくは団長さんの顔を見上げ、それからハナの顔へ視線を移した。

ハナは、涙でグショグショになった顔に、何かを期待するような表情を浮かべた。

「…ハナ…。ありが…とう…!」

全く答えになっていないぼくの答えで、ハナは嬉しそうに目をギュッと瞑って笑い顔を作り、大きく頷いた。

あの夢の中で、ハナがぼくの手に握らせた物が何だったのか、ぼくは今思い出した。

…あれは…。真っ白なボールだった…。

「さて…、二人ともそろそろ顔を拭え。こんな所を誰かに見られでもしたら、儂が虐めたと誤解されかねん」

ぼくらの腕を離した団長さんは、おどけているように片眉をあげて、珍しく冗談めかしてそんな事を言った。

そして、あの事故の時に貸してくれたものと同じ、真っ白なハンカチを二枚、ぼくらに差し出した。

おずおずと受け取ったぼくらが涙を拭っている様子を見ながら、団長さんは口を開いた。

「今日のところは二人とも帰れ。…アカギ、今後の事については、今は問わんでおく。…が、チドが心の苦痛に耐え、ここま

で足を運んで伝えた言葉…、じっくり考えてやってはくれんか?」

しゃくりあげながら小さく頷いたぼくに、団長さんは微笑んだ。

目を細めて口の両端を上げている、いつもの厳しさが消えた、とても優しくなった顔で…。

「では、二人とも、家まで送ろう。チド、辛かろうが、もう一度辛抱だ」

「あ…あいっ…!」

鼻を啜り上げて頷いたハナは、少し驚いたように団長さんの顔から視線を離した。

そして、ぼくがそっと掴んだ右の手首を見下ろして、照れ臭そうに笑う。

笑みを交わした僕達は、ハナの右手に握られているハンカチを見て気付いた。…どっちも…、涙でグショグショ…。

「す…、済みません!ま、また、洗って返しますからっ!」

「済んませんっ!おおお、おれもっ、綺麗にして来ます!」

慌てて謝ったぼく達に、団長さんは「ふむ…」と片眉を上げた。

「そう気にせんで良いぞ?同じ物を何枚も持っとるんでな」

団長さんの言葉に、ぼくとハナは揃って首を傾げた。

…何で同じのを何枚も…?



帰り道に団長さんから聞いたんだけれど、いくつも持っていた白いハンカチは、応援団全員が所持を義務付けられている物

らしい。

ハチマキやタスキを忘れた時、ハンカチを繋いで代用するんだって。

黒い制服に白のアクセントは、応援の際に信号になる応援団員にとって必須の物らしいから。

ついでに、前から気になってた事も訊いてみた。

何でぼくやハナの名前を、あの事故で知り合う前から知っていたのかって。

団長さんは当然のようにこう言った。

「応援すべき相手の名だ。君らの名も定期戦のオーダー表で覚えとる」

何でも、各部の応援に行った時に名前を間違えたりしないように、参加選手の名前は補欠も含めて全員、フルネームで覚え

てるんだって。

…応援団って、思ってたよりずっと大変そう…。

ハナの発作は、大丈夫だった。

帰り道で二度、大型トラックが傍を走って行った。

でも、緊張して身を強張らせたハナは、トラック通過後に首を傾げて、ぼくと団長さんも眉根を寄せて、発作が起きなかっ

た事を訝った。

不思議なことに、ハナの発作はこの日の帰り以降、二度と起こる事はなかった。

原因は良く判らない。けれど、何度も発作を起こしながらも、団長さんに励まされて頑張り、学校まで来たおかげじゃない

かって、ぼくやハナは思ってる。

ハナ自身が強く願った通りに、発作を起こしても引き返そうとせず、団長さんが学校まで連れて行ってくれたおかげで、きっ

とショック療法みたいな物になったんだって…。



「では、またな」

ぼくの家の前まで送ってくれた団長さんに、二人で頭を下げる。

「はい、ありがとうございました!」

「お世話んなりました。団長!」

ぼくらに片手を上げ、団長さんはクルリと向きを変えた。

大きな羆の姿が、暗い夜道に消えるまで見送ってから、ぼくとハナは顔を見合わせた。

「…おれ…、臭うよな…?」

「ぼくの鼻は慣れちゃったけど…、たぶん相当だと思う…」

ハナは派手な染みがついてるティーシャツを摘んで、クンクン匂いをかいでから顔を顰めた。

「…話したい事あったけど…、まず風呂だ…」

「なら、お風呂で話そう?」

ハナは「へ?」と声を漏らしながら、ぼくの顔を見下ろす。

「だからぁ、お風呂で話そう?ウチ寄ってきなよ。洗ってあげるから」

「で、でもおれゲロ臭いし…!やっぱウチで入ってからにするって!」

「いいのいいの!…ハナがウチに来れば、久し振りだから、母さんや姉さんもビックリして喜ぶ!」

ぼくがそう言うと、ハナは一度キョトンとした顔になってから、「あ…」と声を漏らした。

「…そういえば…、家から出るの久し振りだ…。こんなに長い事マーちゃんちに行かなかったの、初めてかもな…」

呟いたハナの手を握ったぼくは、微笑みながら引っ張った。

「ね?寄ってってよ?」

ハナはまだ少し躊躇ってたけど、はにかむような笑みを浮かべて頷いてくれた。



「…明日…。野球部に復帰させてくださいって、先生に頼んでみる…」

お湯を浴びて毛がぺしゃっと寝たハナの後ろで、広い左肩に手をかけて、吐瀉物で汚れちゃった首元から胸にかけて入念に

流してあげながら、ぼくは口を開いた。

「うん…。そうしてくれると、おれも嬉しい…」

そう答えたハナの右手が、左肩にかけていたぼくの手に、そっと重なって来た。

大きな、ぷにっと肉付きの良い手…。

一生懸命練習した成果なのか、ハナの右手は前ほどぎこちない感じがしない。

「おれ、頑張って学校行く。でもって、マネージャーやらせてくださいって、先生に頼んでみる」

意外な事を言い出したハナは、驚いて手を止めたぼくを振り返った。

「実は、しばらく前から考えてたんだ。自分じゃやれなくなっちゃったけど、おれ、やっぱりまだ野球が好きだし、近くで見

てたい。関わってたい」

ハナはそこで言葉を切ると、顔を前に戻しつつ少し俯いて、垂れ耳をピクピクさせた。

「そう、勝手に考えてたんだ…。マーちゃんが野球部辞めてるなんて思ってもみなかったから…、選手としては無理だけど、

マネージャーやって支えてあげられれば、喜んでくれるかなぁって…。先走りすぎ?」

再び振り返ったハナは、「わっ!?」と声を上げた。

ぼくが、言葉もかけずに後ろからいきなり抱き付いたから。

「あり…がと…!ハナっ…!」

ハナの健気さが、優しさが、気遣いが嬉しくて、ぼくはまた泣き出してしまった…。

幼馴染みの肩に顎を乗せて、ぼくは震える声でありがとうを繰り返した。

野球を辞めるって決断は、たぶん「勇気ある決断」じゃなかった。

ハナに義理立てするっていう表向きの理由とは別に、ハナがああなったのにぼくだけ続けているって、他人から責められる

のが嫌だったんだ。

だからぼくは、改めて「決断」する。本当の、勇気ある決断を…。

ハナが望んでくれるなら、周りからどう見られたって、どう言われたって、野球を続ける。ハナができない分まで、精一杯

頑張る。

ハナが見せてくれた飛びっきりの勇気に比べればちっぽけな物だけど、ぼくも勇気を出してみる。それが、今回の決断。

泣き続けるぼくから身を離して、ハナは向き直った。

そしてその太い両腕で、キュッと、優しく、柔らかく、ぼくを抱き締めてくれた。

ぼくの頭に顎を乗せて、柔らかな体で包み込むようにして…。

あれからだいぶ肉がついちゃったハナの胸に顔を埋め、シャワーで湿った毛に頬を擦りつけながら、ぼくは小さなしゃっく

りを繰り返す。

背中に回ったハナの右手が、ゆっくりと上下に撫でさすってくれた。

肘の先から欠けてしまった腕が、それでもぼくの体をしっかりと抱き寄せていた。

「ハナ…。ありがとう…」

「んん…」

胸に頬を寄せたまま呟いたぼくに、ハナは喉を鳴らして応じた。

「ねぇ…、ハナ…。ずっと、ずっとずっと、言いたかった事があるんだ…」

照れ臭くて、恥ずかしくて、これまで言えなかった言葉…。

「ハナ…、ぼくね…。ハナに、恋を…しちゃったみたい…」

つっかえつっかえぼくが言うと、ハナは驚いたようにヒュッと喉を鳴らして、小さく息を吸い込んだ。

「…先…、言われちゃった…」

ぼそっと呟いたハナの声が、なんだかちょっと悔しそうで、ぼくはクスクスと笑いながらハナの胸に頬ずりした。

そんなぼくを、ハナはギュッと、力を込めて強く抱き締めてくれた。

「おれも…、マーちゃんに恋してる…。ずっとずっと、ず〜っと前から…」

…自惚れじゃなかった…。やっぱりハナも、ぼくの事好いててくれたんだ…。

嬉しくて、胸の奥がじわっと温かくなったぼくに、ハナは「けど…」と先を続けた。

「…おれなんかで、良いのか?おれ、男だし…、腕もかたっぽになっちゃったし…」

「良いの…。ハナだから良いの…。他の誰でもないハナだから…。ずっと一緒に居たいハナだから…」

ぼくは少しだけ身を離して、ハナの顔を見上げた。

「友達よりも…、幼馴染みよりも…、恋人として付き合いたい…」

ハナは目を大きく、そしてまん丸にする。

…ぼくの告白…、ひょっとして大胆過ぎた…?

まん丸にした目でぼくの顔を見つめていたハナは、やがて嬉しそうな笑顔になって、大きく二回頷いた。

「ハナ…、大好き…」

短い言葉に正直な想いを乗せたぼくに、ハナははにかんだような笑みを浮かべて応じる。

「おれも…、マーちゃんが大好きだ…」

涙を拭って微笑んだぼくと、にぃ〜っと緩んだ笑みを浮かべたハナは、ゆっくりと顔を近付けた。

恥じらいながら交わした口付けは、お互いの前歯をぶつける、ぎこちない物になった…。








「じゃあ、行ってきます、おばさん!」

「気をつけて、頑張ってらっしゃい」

おばさんに頭を下げてから玄関を潜り、外に出たぼくは、待っていてくれた恋人に歩み寄った。

「お待たせっ!」

目の上にひさしを作って空を見上げていたセントバーナードは、

「去年もこんな天気だったよな?またかんかん照りかなぁ…」

と、眩しそうに目を細めながら言う。

「今年は丁度命日に重なったなぁ…、父ちゃんが応援してくれるかも?」

「ぼくの事も?」

「当然!だって父ちゃん、おれもマーちゃんも区別無く遊んでくれたし」

訊ねたぼくに、ハナは自信満々に応じた。

今年の定期戦は、ぼくらが小学校に上がる前に亡くなった、ハナのお父さんの命日と重なった。

偶然に過ぎないんだけれど、改めてハナにこんな事を言われたら、なんだか見守って貰えているような気がしてくる。

「おじさんの写真、だんだんハナに似てきたね?」

「何かそれおかしくないか?逆だろ?おれが父ちゃんに似て来たって言わない?普通…」

「あ?そ、そうだよね?あはは…!」

照れて笑ったぼくの顔を見下ろして、ハナは歯を剥いて笑顔を返した。

あれから一年。願いが叶ったのか、牛乳のご利益が出たのか、ぼくの身長はちゃんと伸びて160センチになった。

けれど、ハナもまた少し背が伸びて182センチになってるから、身長差はちょっと縮んだだけ。

「さぁ!相手はあの星陵だ!」

「うん!思いっきりやってみる!」

ハナが上げた左の義手に、ぼくは右腕をトンと合わせた。

あれから右手中心の生活に切り替えたハナは、筆記も食事も握手も、何かを指し示す時も、みんな右手でやるようになった。

見た目は精巧だけど、触れると感触でそうと判る左の義手は、あまり他人に触らせない。

けれど、ぼくにはこうして昔通りに左腕で触れて来る。

不思議な事に、こうして腕を合わせると、ハナから力を分けて貰ってるような気になる。

さぁ、頑張って行こう!おじさんだけじゃない。ハナがベンチから見守ってくれる!

ぼくは頑張る。思いっきり野球をする。ハナなら届いたかもしれない全国を目指して。

何も無ければハナが立っていたかもしれない大舞台へ、二人で一緒に行って見せる!

君に支えられて…、君を引っ張って…、大舞台へきっと…!

…世界で一番、大切な君と…!

「しまってこーぜぇー!」

「おーっ!」

声を上げながら青空目掛けて右腕を突き上げたハナの横で、ぼくも空に向かって右拳を突き出した。

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