第三十九話 「今度は」
「駅まで徒歩三分の好立地」
「敷金礼金保証人必要無し」
「世界に反逆する好条件!」
そんなコピーで不動産情報誌に乗っているアパートが、ある国のある街のある駅近くにある。
ところにより三階建てで場所により五階建て、最近地下室が無断建造されたとかどうとかいう噂もあるアパート群は全6棟。
規模は大きいが老朽化が甚だしく、頻繁に無計画に増築改築連結分離を繰り返した末に、何故か各棟が申し合わせたように空
母のような外観になっているそのアパートは、「黄昏荘」という。
その六号棟の一室で…。
「俯きがちに歩く女の人は、角を曲がってもついてきた」
灯りを落とし、持ち込んだベッドランプを卓上に置いた部屋。丸顔を下から照らされている少年は、ひそひそと声を落とし
て語る。山岸望(やまぎしのぞむ)、何の種なのか判り難いほど太っているが、狐である。
ゴクリと鳴ったのは、その右隣に座って心持ち背中を丸めている少年の喉。耳はピンと立っているが、恰幅のいい極端に大
柄な体は縮こまりがちである。こちらのホッキョクグマはアルビオン・アレスグートゥ。両親が異国生まれなので名前はだい
ぶアレだが、中身は日本生まれ日本育ちこってこての日本熊である。
「おお、んで?」
先を促すのは狐の左隣に座ったイリエワニ…入江綱盛(いりえつなもり)。こちらもホッキョクグマと同等の大兵肥満。身
を乗り出して机に左腕を乗せ、狐の話を聞いている。
狐の正面に座っているのはコリーの少年。整った顔立ちに均整の取れた体つき、思慮深そうな眼差しが印象的。事執捨丸(
こととりすてまる)、この部屋の住人である。
夏休みの風物詩、友人で集まって泊まる夜の恒例といえば、ズバリ肝試し…今回は怪談である。残り少ない夏休み、親の邪
魔が入らないところでロボ的萌え語りやメカ的燃え語りやプラモデル作りを楽しもうという趣旨で集まった少年達は、作業の
息抜きと気分転換を兼ねて怪談披露をしていた。なお、晩飯の時に心霊特番を見た影響とノリも結構ある。七割くらい。
黄昏荘の一般的な各部屋は、居間やリビングに当たる場所もあまり広いとはいえない。コリーの少年が入居するここも畳敷
きの居間は六畳間である。そこで度を越した巨体のイリエワニとホッキョクグマ、そして身長はさほどでもないが鏡餅のよう
に丸い狐と、肉満載の肥えた影が三つもがテーブルを囲んでいるせいで、妙に空間が狭く見える。やたらと湿度も上がるので
エアコンはドライ運転中なのだが、湿気を処理し切れておらず、ジメッとした空気が室内を巡回している。
「いよいよおかしいぞと思って、男は道端にあった自販機の前で立ち止まった。薄気味悪いから先に行かせようと思って。け
れど…」
ブルルッと、ホッキョクグマが身震いする。ノゾムの声のトーンはいよいよ低くなった。
「自販機の灯りから目を離して、横目を後ろに向けた男は、女の姿を見失ってた。灯りから暗がりに目を向けたせいで、目が
慣れていなくて見えなかったのかとも思ったけど、いくら目を凝らしてもどこにも姿が無かった」
コリーが興味深そうに目を光らせる。
「途中で曲がる道もないのにおかしいなとは思ったけど、居なくなったならそれでいいかって、顔を前に向けたら…。自販機
の縁に、ボタンに届きそうなぐらい長い、マニキュアで真っ赤な爪を生やした指がかかっていたんだ」
「!!!!!!!」
ホッキョクグマの口がバコンと開いた。
「自販機の眩しい灯りの向こう、長い髪の割れ目に充血した目を覗かせて、女はじっと男を見てた」
「ぎゃああああああああああぁース!」
悲鳴を上げて仰け反るアル。
「うわぁああああビックリするぅっ!怖がり過ぎだよアル!」
声の大きさとリアクションの大きさで、ノゾムの方が驚かされる始末。
「そんなに体が大きくても、オバケは怖いものなの?」
ツナは平気な顔をしているのになぁと、ステが不思議がると…。
「だって幽霊って殴ってもすり抜けるんスよ!?たぶん切れないし刺せないんスよ!?おっかないじゃないっスか!」
(つまり怖い理由って、物理攻撃が効かなそうだから…?)
(そういえばアル君、機体には実体弾射撃装備と近接用実体武装を絶対に二種類以上搭載してる。主にグレネードとかショッ
トガンとか斧とか)
考え込む餅狐とコリー。怖い基準は攻撃が通用するかどうかなのか、と。そういえばゾンビ系は全く怖がっていなかった。
「じゃ、最後はツナだね」
時計回りにステから始まった怖い話は、最後となるツナにお鉢が回った。
「んじゃな。春先の話だ、おれの」
「お?先輩の実体験なんス…?」
早くも体を縮めるアル。
「晴れ間狙って、風がねぇ日な。ゼッツーさんの外装塗装終わらせた次の日だ」
「はい」
「ムラも見えねぇし良いと思ったんだよそれで。仕上げ入っても。でも夜更かししてて眠くてな。それでも、風が落ち着いて
るから今日中にやるぞって、気合い入れて頑張って…」
「うス」
「で、デカール貼ってたんだよ。擦ってな眠い目」
何だか話の流れ的に怖くなりそうな気配が無いぞと、皆が顔を見合わせた次の瞬間だった。
「流し込み接着剤塗ってた気が付いたら。間違えてなマークセッターと」
「ぎゃああああああああああぁース!」
「いやぁあああああああああああっ!」
ホッキョクグマと丸い狐が抱き付き合い、揃って悲鳴を上げた。
「でもって、慌てて立ち上がった時に、デカールのシート飛ばしててな。水入れた皿に入ってて、後で気付いたら全部浮いて
た。デカール」
「この世の地獄じゃないですか!」
「うひぃいいいいいい!へるズ!」
モデラー特攻、状況を想像するだけで怖い話である。ただし怪談ではない。
まともな怪談として最もウケが良かったのは、ステが語った「うばらげわ」的な謎の声で鳴く怪異の話だったが、何が一番
怖かったかというと、その話を何処で知ったのかステ本人も判らないという事。なにそれこわい。
「ツナ…。もしかして部品注文したのを待って完成させるって言ってたの…」
「おうそれ!うはははは!」
カラカラ笑ったツナは、立ち上がって壁のスイッチに触れ、灯りをつけた。
「じゃ、続けるか作業」
「うーっス!」
「先輩コーラ貰いますね。怖がったら喉渇いちゃった…」
作業机に向かうツナとアル。キッチンに向かったノゾムは…。
「あれ?コーラもう無い…」
「え?なくなった?」
ステが確認にゆくと、冷蔵庫を覗いているノゾムが振り返る。その手にはコーラが底にちょっぴり残っているだけの1.5
リットルボトル。
「アルがヤクルトみたいにグイグイ飲むから…」
「ホッキョクグマだからコーラ飲むのは宿業なんス!…げぇっぷ」
「何その理屈!?満足そうなゲップでイラっと来るんだけど!?」
「まぁまぁ…」
後輩達を宥めたステは…。
「買って来るよ。三人ともお夜食とか必要だろうし、お菓子も無くなりそうだしね」
「お?付き合うぜステ。おれも」
もう作業を再開していたツナが、ステの発言に反応してグリンと首を巡らせたが、コリーはやんわり首を振って断る。
「私はトップコートの乾燥待ちだから、ちょうど手持無沙汰。皆は進めておいて」
時間的にはまだそれほど遅くないし付き添いは要らない。ひとりで十分だからと、コンビニへ買出しにゆく事にしたステは、
「あ」
部屋を出たところで丁度、若い女性と顔を合わせた。
「こんばんは、フジさん」
「こんばんは、ステマル君」
出くわしたのは、ここ黄昏荘六号棟の管理人、不二沙門(ふじしゃもん)である。
「あ、もしかしてうるさかったでしょうか…?」
盛り上がった笑い声、あるいは怪談の悲鳴、それらが他の住人の部屋まで届いて苦情が出て、わざわざ様子を見に来たのだ
ろうかと心配したステだったが…。
「?いいえ、うるさくなんてなかったけれど…」
意外な事を言われた、という顔つきになった管理人の反応で、おや?とステは眉を上げる。部屋の防音はあまり良くないの
で、ホッとすると同時に少し妙にも思えた。
「実は、友達が遊びに来ていて、今日は泊まるので…」
「ああ、お泊り会なのね?良いなぁ夏休みのお泊り。学生の楽しみよね!」
朗らかな笑みを見せた管理人に、ステはペコンと頭を下げる。
「なるべくうるさくならないように気を付けます」
「そうね、そうして貰えると良いけれど…。息が詰まるほど気を付けなくてもいいのよ?楽しめる程度に、ね。だいたいお酒
を飲んで騒ぐ入居者も多いから、夜にうるさいのなんて割と日常茶飯事だし」
寛容な管理人の言葉に再びお辞儀で礼を伝え、ステは階段目指して通路を歩む。その途中、帰ろうとしている恰幅のいい大
猪の手をドアの前でギュッと掴んで、名残惜しそうに目を潤ませているレッサーパンダを見かけた。
「ナルぅ…。そろそろ…」
「判っているよ…」
「判ってない感じの握りの強さなんだけど、この手…」
まるで今生の別れの如きしんみり具合のレッサーパンダだが、猪は歩いて五分ほどの距離の自宅に帰るだけである。そして
明日も会う。
(相変わらずラブラブだなぁ…)
六号棟入居者の見た目も麗しいレッサーパンダは、厳めしい猪の親友にゾッコン。周囲が妬けるほど内心が判り易い。
視線を気にする猪と、全くお構いなしのレッサーパンダ。空気を読んだステは何も言わず、デコボコカップルの脇を会釈だ
けして通り過ぎる。
(ツナはまぁ、ああいう感じじゃないからね。のほほんとしていて大雑把、何て言うか…)
ああいうのを新鮮であると思わなくもないステだが、
(居るのが当たり前の雑さ、って言うか…)
羨ましいとは思わない。クスリと笑い、それが自分達だと再認する。
黄昏荘の敷地を出て、街路灯に照らされた夜道をコンビニへ。人通りはもう少なく、犬の散歩をしている人影や、自転車で
帰路を急ぐ勤め人を見る程度。
日中の熱がまだまだ残っているのだろう、吹く風は生ぬるく、少し湿っぽい。暗い色の雲がゆっくりと、月明りを遮りなが
ら流れてゆく。
不意に、コリーの耳がピクリと動いた。
ペタリ。スゾッ…。
そんな音が後ろからの風に乗って届く。
ペタ。ゾスリ。
足音のような、そして何かを引き摺るような音。
直前まで怖い話をしていたせいか、音から嫌な何かを想像してしまいそうになり、ステは足を速めた。
角を曲がってしばらくすると…。
ペソ。ズリュ。ペタ。
また音が、今度はさっきよりも近く聞こえた。
嫌な感じがする、と音を不快に思いながらも、ステは優男然とした見た目に反して肝が太いので、好奇心が徐々に大きくな
る。そして、行く手にコンビニが見えた途端、我慢しきれなくなって振り向いた。
そこに、影があった。
薄白い、濁った色の、闇に浮き上がる白い影。引き摺るような足取りが、ペタリと、ズリッと、アスファルトに音を擦り込
む。一歩踏み出す度に、項垂れた首が左右にフラフラ揺れている。
ゆっくりと揺れながら進んでくるソレに、
「…あの、具合悪いんですか、ウルさん?」
ステは声をかけ、毛艶がすこぶる悪くなった白狼がハッと顔を上げた。我流無得(がるむうる)。黄昏荘五号棟の住人(家
賃滞納中)である。
「いや、問題ない。ただのマヨ切れだ」(キリッ)
なんだただの禁断症状か。と納得したステは、一緒にコンビニへ入り、マヨネーズを直行でレジへ持ち込むウルを見送ると、
夜食や菓子や飲み物を籠に詰め始めた。
(結構重くなった…)
両手にズッシリ重たいビニールを下げ、帰り道を急ぐステは、おもむろに空を見上げた。
雲間に月が出ている。湿気で傘を被った満月を、コリーは何故か懐かしい気持ちで瞳に映す。
―ヘイロウは穴だ。ただしその物ではなく、屈折現象で空に映った一種の影と言える―
これは誰の言葉だっただろうか。この懐かしい気持ちは何故なのだろうか。立ち止まってぼんやりと月暈を眺めるステに…。
「夜の散歩かコトトリ君。いや、買出しといった様子だな」
かけられた声はすぐ後ろから。振り向いたコリーが見たのは、縦にも横にも面積が広い大柄な影。
それは、ライトブラウンのフリースのトレーナーの上にヨレヨレの白衣を羽織っている、でっぷり太った大柄なジャイアン
トパンダだった。咥えタバコの先端から、煙が湿った風の中へ薄く伸びている。
気怠そうな半眼と愛想のない顔だが、これは顔立ち自体が不愛想な形をしているためで、別に排他的でもなければ他者を拒
絶している訳でもない。
「ミーミル先生、こんばんは」
ニッコリと笑顔で会釈したコリーに、ジャイアントパンダは鷹揚に片手を上げて応じる。
大学の教授らしい…、という程度しか知らない。特に接点もなく、顔を合わせる機会も殆どないのだが、何故かステは、こ
のジャイアントパンダに対して昔からの知り合いのような親しみを覚えている。
「今夜は部屋に友達が来ていて…、みんなよく食べて飲むから、物資の補充に」
「そうか。お前はそういう気の回し方が上手かったな」
ステは気付かない。ジャイアントパンダが小声で続けた、「そんな所に皆が助けられた」という言葉には。
「しかし今夜は大人しくしていた方が良い」
ジャイアントパンダの言葉と視線で、ステは再び夜空を見上げた。湿気っぽいし、黒雲が空の三分の一を覆っている。
「降りますか?」
「そんなところだ。友人達と部屋の中で楽しく過ごす事を勧める。音漏れなども気にする必要はない。花火などはまぁ、また
の機会にすべきだが」
コンビニで買った花火セットが入っている袋をチラリと見遣ったジャイアントパンダの忠告に、コリーは素直に頷いた。
「では、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
お辞儀して、再び歩き出し、
「神座(さくら)」
ジャイアントパンダは、不意に思い立った様子で声をかけた。その呼び掛けに、どこがどうと具体的には指摘できない違和
感があったものの、ステは立ち止まって振り向く。
「まぁ、何だ…」
ジャイアントパンダは半眼になり、少し言い難そうに尋ねる。
「幸せか?」
一度きょとんとしたコリーは、やがて尻尾を振りながら微笑んだ。
「はい!」
そのはっきりした返答を聞いて、ジャイアントパンダは珍しく、笑みの形に目を細める。「なら良い」と。そこに、微かな
懐かしみと、ほんの僅かな寂しさが潜んでいる事には、この世の誰も気付けない。
そうして、コリーの後ろ姿が角を曲がって見えなくなると…。
「………」
ジャイアントパンダはおもむろに顔の高さまで手を上げ、「ずっと掴んでいた」ソレを見つめた。
今のステには認識できなかったソレは、一抱え程の大きさの三角錐。暗灰色の表面にはメロンの網目のように不規則な、無
数の赤い筋が走っている。その表面の枝分かれする赤い筋は、立体的に浮き上がっていた。まるで、空間に根を張ろうとする
ように。
毛細血管の如き根の無数の先端は、五指を備えたひとの手の形に似ている。その五指が伸び、腕になり、また五指を備え…、
そうやって延々と伸びて増え続ける。それはそういう存在だった。
ジャイアントパンダの手は、ソレの表面に指を食い込ませて捕らえていた。苦しみもがくように三角錐は根を伸ばしてジャ
イアントパンダの腕に這わせているが、彼の体を侵食する事は叶わない。
広大過ぎる海洋にスプーンを一匙入れた所で、総量に比すれば掬える量など誤差の範囲内。存在スケールが桁違いを遥かに
通り越した別次元のため、この一個体の浸食力では、経過を年単位で見守らなければ変化が計測できない。
やがて、面倒くさそうな顔で三角錐を見つめていたジャイアントパンダは、その手に軽く力を込める。パキリと音を立てて、
指が食い込んだ場所から亀裂が生じ、赤黒く明滅する三角錐の内側がひびの中から覗いた。
「今夜頼むのは、流石に無粋だな…」
パキン…。
そんな澄んだ音と共に、三角錐の全体に亀裂が入り、粉々に砕け散って塵になる。
咥えタバコの煙をくゆらせながら去るジャイアントパンダの後ろで、舞った塵はあっという間に溶けて消え失せた。その上
空で、黒雲の影に紛れるように、地上からでは芥子粒ほどにも見えない三角錐がいくつか、ゆっくりと街に降下していた。
そして、ジャイアントパンダが姿を消した路地から、まるで前もってセリフを決めていたかのように声が流れて来る。ほん
のちょっぴり決まり悪そうに。
「やあハティ君お疲れ様。今夜は帰って来られたようで何よりだ。いや済まない。激務で疲れていると重々承知の上で、本当
に済まないと言うしかない。…頼み事がある。「恐れ知らずのハティ・ガルム」」
「これ、自立しなくない?」
ホッキョクグマが処理を終えたパーツを仮組みし終えて、仰向けに寝かされている状態の、阿修羅の如き多腕型ロボを見下
ろしながら餅狐が呟く。
「ちゃんと立つっスよ?たぶん。…あーっ!」
起こして直立させようとしたアルは、仰向けに転倒しかけた六刀流多腕ザムを慌てて支えた。
「おかしいっスね…。乙女座はこれぐらいじゃ転ばないはず…」
「うん。誰の専用機イメージで作ったのか今判った」
「うはははは!いいだろ宇宙用って事でここは!」
和気藹々と製作途中のプラモを覗き見しあう三名に、「ただいまー」とステの声が届く。
『おかえりー』っス」
「はい、ツナにはバナナロックンロールお徳用サイズと、ノゾム君にはジャガリンボLLバター味、アル君はクソデカプリン
パフェね」
振り返った三人に歩み寄り、息抜き用のスイーツ類を渡してゆくコリー。なお、自分の甘味は杏仁豆腐。食べ物としての重
さがそのまま四人の体形の差である。
「あ、ノゾム君ももう仮組み?ダブルファンネル装備、それぞれ三本増しかぁ…。実質3セット…。頑張ったね」
「頑張ったっスね」
「頑張ったよな」
苦行という点で意見の一致をみる三名。無心の貌…というか瞑想にふける弥勒菩薩のような顔で、18セットもの同じ構造
のパーツ群を、延々とシャコシャコ面出し作業していた餅狐は、まるで研ぎ師か何かに見えた。、
「単調な作業も量がある作業も、そんなに嫌いじゃないんです…。ツナ先輩のは…。え?」
「え?どうなってるんスこれ?え?仕上がりじゃないんスこれで?」
成型の過程で出るヒケ等を処理するどころか、モールド類もあえて完全に埋め、分割されていたいくつかの装甲も接合して
滑らかにされ、各部の流線型を前面に押し出す格好で改造された機体は、スポーツカーの新車のように艶やか。まだ最終工程
に入っていないのだが、研ぎ出された表面には曲面に追従させたデカールの段差が全く見えず、最初からそうプリントされて
いるように見えて来る。深紅の機体は各所の金の装飾や曲面の反射も手伝い、非常にエレガントだった。
「何でトップコート前にこんだけ磨いてあるんスか…」
「薄気味悪いぐらいの作業工程の手間ですね…」
いくらでも誤魔化しも利くし補填もできる作業工程に全力投球。こういう姿勢が仕上がりにも影響するのかなと、後輩達は
青ざめる。
(ってか、本職相撲部っスよね…)
(両立できるのが凄い…)
「どんな塩梅だ仕上がり?ステの方は」
問われたコリーは作業机の端に向かい、上からカバーを被せていた箱を覗き込む。
中には、大半がグレー寄りの白、そして赤青黄色が少量見られる細かいパーツが、整然と並んでいる。それを目にしてまじ
まじと子細に確認し、三名は感嘆の息を長く漏らした。
「うん。トップコートも曇ってないし、組み上げはそのまま行けそう」
陰になる裏面を、自然光での陰影に近くなるよう青を加えた黒で塗り分け、米粒のようなパーツから複雑な凹凸がある物ま
で、丁寧に削り、盛り、彫り込んで整形したパーツ群。しかしそれらは、出来上がった際には製品そのままと殆ど変わらない
シルエットになる。
細部の工作を見た時には、その道の好事家であっても唸らざるを得ない、本筋を外れずアレンジを目立たせない改修が施さ
れた逸品…。そういった派手に見せかけない仕様で細やかに仕上げるセンスがステの特徴。仲間達が好む、馴染み深い物が精
密化された事で、解像度を数段上げて新鮮な驚きをくれる作品。
「来週のコンテストには全員間に合いそうだね?」
「間に合わせます!」
「間に合うっス!」
「うはははは!」
誰かは受賞できるだろうと、少年達は話に花を咲かせ、やがてアニメ本編の談議に移り…。
それから四時間ほどして、部屋は静まり返った。
作業して盛り上がって興奮して、疲れた四人はもう夢の中。四人一緒に寝るにはどの部屋も狭いので、アルとノゾムは居間
に布団を敷き、ステとツナは寝室で就寝。
クコース、クコース、と規則正しい寝息が聞こえる居間では…。
「ムニャムニャ…。フカフカで気持ちいいっス…」
寝返りからそうなったのか横向きに添い寝して、餅狐を抱き枕にしている、酷い寝相のホッキョクグマ。今日のパンツは紺
色の地に真っ赤なハートが飛び散るビビッドにも程がある色遣いである。
「う~ん…。う~ん…!」
ドリームキャッチされたノゾムは、暑苦しいのだろう、顔を顰めて唸っている。ランニングシャツにハーフパンツだが、何
せ抱き着いているモノの肉量熱量湿度が半端ではない。太い腕が胸に乗って、肉を乗せ気味に腹を押し付けられているので、
息苦しい上に怖い話の影響もあって嫌な夢を見てしまっている。
一方、寝室のふたりは横臥して向き合い、ぴったりとくっついていた。
コリーを両手両足と尻尾で包み込むように抱き、頭に顎を乗せる格好でイリエワニは眠っている。肌寒いほど冷房が利いた
寝室ですっぽり抱えられ、深く長い寝息と、それによる胸や腹の上下を感じながら、ステはうつらうつらと夢と現の狭間を行
き来する。
時折思い出したようにステの手が動き、ツナの脇腹を撫でる。それに反応して、太く長いワニの尾が先端をピクピクさせる。
幼い頃からずっと一緒で、幼稚園、小学校、中学校、高校と、離れた事などこれまで一度もない。なのにどういうわけか、
たまに、ツナはステが遠くへ行ってしまった事が、離れ離れになってしまった事が、いつだったかあったような気がする。
「今度」はずっと一緒に居られるのだと、ずっと一緒に居てよいのだと、それを確かめるように尾を巻き付け、何処へも行
かせないように強く抱き締める。
それは、ステも感じていた。
かつてツナと離れ離れになった事があったような…。二度と会えない別れを経験した事があったような…。
だからなのだろう、ふたりが一日一日を大切に、噛み締めるようにして共に過ごしているのは。
楽しかった昨日の記憶は、もっと楽しかった今日に埋もれ、迫る明日に臨む活力になる。
夏休みはまだある。プラモデルのコンテストが近付いている。その後はすぐに毎年恒例の祭りがある。
楽しい事は一杯ある。やる事は沢山ある。それらに見て、触れて、体験して、感じてゆく。
ずっと一緒に…。
「………ステ」
名を呼ばれ、コリーは目を開ける。
ツナは眠っていた。寝言で名を口にしただけだった。
コリーは幸せを噛み締める。夢の中でも一緒なのだと。
自分もツナと一緒に居る夢を見たい。そう願って目を閉じたステは…。
「…ツナ?」
イリエワニが自分を抱える手足と尻尾を解き、寝返りを打つように体を動かした事で目を開ける。
転げるように仰向けにされたステに、ツナは四つん這いになって覆い被さっていた。
「ステ」
顔が近い。暗いのに表情がよく見える。恥じらうような、照れているような、そして嬉しそうでもある微笑み。
自重でタプンと下がった柔らかくて大きな腹が、ステの上にノシっと乗っている。上下するそれが呼吸をダイレクトに伝え
てきた。
グッと顔を寄せたイリエワニの唇が、コリーの唇に押し付けられる。肉厚な舌が押し割って口内に入り込み、舌に絡み、次
いでもどかしげに激しくのたくり、口の中を舐め回す。
「んっ…!」
激しいディープキスに、思わず目を閉じた。
いつかこんな日が来るのではないかと、知識がついてきた数年前から考えたし、期待もした。だがツナはいつまでも子供っ
ぽくて、ベタベタとくっついてはいても「そちらの方」へ進展する気配は全くなくて、ツナはそうだから仕方ないかと考えて
もいて…。
だから驚いた。急に、突然、前触れもなく、こんなにも積極的に求めて来るとは想像もしていなかったから。
「ステ…。ステ…」
口を離すと、ツナはステの首を抱えるように、腕を下に入れて浮かせた。上になっているイリエワニの体が低くなって密着
し、ズッシリと、ムッチリと、重く柔らかな肉布団がコリーを下敷きにする。
少し圧迫感があり、しかし苦しくはない、絶妙な重さ加減…。存在を確かに感じる呼吸と体温と重み…。
「ツナ…」
腕を太い首に回して、ステも抱き締め返す。
「ステ…」
密着してなお足りないというように、上になったツナが擦り付けるように巨体を揺する。
「ステ…。さっき間違えてたぜ、セッターと接着剤」
「えっ!?」
ゾッとする一言を耳元で囁かれたステは、
「!!!」
目を見開き、暗い天井を凝視した。
ツナは体勢が変わっていて、横に転げて大の字。ステに腕枕するような格好になっている。
イリエワニに合わせた設定の冷房が利き過ぎているせいか、それとも夢の中で聞いた恐怖の一言のせいか、肌寒さに身震い
してしまった。
(ゆ、夢…!?)
夢に見るほど怖い話であった。
(ツナのせいで、いい所で目が覚めちゃった…)
幸せそうな顔で寝息を立てているイリエワニを恨みがましい目で見遣り、ランニングシャツがめくれて露になっている太鼓
腹を平手で軽く押す。ポヨン、タプン、と水が入った袋のように揺れた。
「うはは…。もっとぉ…」
くすぐったがるかと思いきや、気持ちよかったのか、寝言でせがむイリエワニ。
ポヨン、ポヨン、と揺れる腹を手で押してやりながら、クスクス笑うコリー。
(私達には、まだ早いか…!)
別にそれでもいいやと思った。
焦る事などない。急ぐ事などない。
今度はずっと一緒なのだから。