第四十話 「恋人達と簀巻き駄犬」

 「駅まで徒歩三分の好立地」

 「敷金礼金保証人必要無し」

 「世界に反逆する好条件!」

 そんなコピーで不動産情報誌に乗っているアパートが、ある国のある街のある駅近くにある。

 ところにより三階建てで場所により五階建てのアパート群は全6棟。規模は大きいが老朽化が甚だしく、頻繁に無計画に増

築改築連結分離を繰り返した末に、どういう訳か各棟が申し合わせたように空母のような外観になっているそのアパートは、

「黄昏荘」という。

 その中の一棟、四号棟の駐車場で…。

「しっかりしろよォ爺ちゃん」

「ココココシ、コシコココシシッ…」

「年甲斐もなく張り切り過ぎだぜェまったくよォ」

 ぎっくり腰で動けなくなった老人を、巨漢の鯱がおぶってワゴン車へ連れて行く。

 その隣の五号棟の窓から、管理人が病院へ運ばれてゆく様を眺めながら、ハンサムな狼が口を開いた。

「ふっ…。夏祭りの神輿準備を張り切り過ぎたようだなご老体。担がれる側に回るとはご愁傷様。…それはそうと我が棟の管

理人もあのぐらい弱ってくれると助かるのだが…。あのような体たらくになって取り立てもままならなくなればいい。家賃の

取立てが数回滞るぐらいで丁度いい。いやむしろ無くなればいい。家賃」

 低俗かつ下衆なセリフを吐いて、電気代節約で音の出ないギターを気分的にジャカジャンッと鳴らすのは、背も高く、上腕

も太く、開襟シャツを通しても胸板の厚みが判るガッシリした筋肉質な体つきの狼獣人。なお、祭り準備の手伝いなど一切し

ていない。

「家賃ゼロ、マヨネーズ無料提供程度のサービスはあって良いのではないか?いやあるべきだ」

 整った顔も精悍で見た目は良いのだがとにかくいろいろ残念なこの男、名は我流無得(がるむうる)。この黄昏荘に住むガ

ルム兄弟の長男。やや灰色よりの白狼で、ポメラニアン種の弟からは「ごくつぶし」、違う棟に住むコリーのモデラー少年か

らは「灰色9号さん」と和色名で呼ばれている。マヨネーズをこよなく愛するインディーズバンドのリードボーカルで、作詞

作曲も担当しているぶっちゃけ売れていないミュージシャン。三十一話で民謡教室の臨時講師をクビになって以降、メインサ

ブ共に仕事での収入が殆ど無い状況が続き、弟からの借金で命とマヨネーズを繋いでいる。

「そろそろ家賃がまずい…。何か事件でもおきないものか…。壊れてしまえ平和。簡単に壊れるからこそ貴いのだろう平和。

むしろ飢餓商法的に貴重であれ平和」

 物騒な事をつらつらと述べながら窓の外を眺めるウルは…、

「来たか」

 五号棟正面口へ向かう大きな人影を確認すると、颯爽と腰を上げた。

「金蔓が」

 弟を金蔓呼ばわりする狼は、鳴らないギターをジャジャジャンッとエアプレイした。



「何故だ?」

 二十七時間ぶりに部屋に戻って来た弟を捕まえて、ウルは首を捻る。

 そこに、白く大きな背中があった。

 非常に恰幅が良い、骨太な太り肉。しかしワイシャツの生地が張る背中には、ネクタイを解くその動作だけでうねる筋肉が

窺えて、ただの肥満体ではない事が判る。

 大柄なウルより一回り体積がある、どっしりと重々しく逞しい巨漢は、我流無波堤(がるむはてぃ)。グレートピレニーズ

系獣人でガルム兄弟の次兄。不安定な職と性格の者が多い兄弟の中でただひとりのまともな勤め人で、常識もある。ただし勤

め先の愚礼不(ぐれいぶ)商事は明らかにブラック企業であり、労働時間と収入が全く吊り合っていない。不眠不休の二十四

時間労働を「珍しく早く上がれた」と評するほど黒に慣れ親しんでしまっている。

「何故だ?」

 繰り返すウルに、十八話で職場の新人部下から貰った青地にシルバーのストライプがネクタイを丁寧に吊るしながら、目も

向けずにハティは応じた。

「君に貸した金は返って来ないからな」

 帰宅するなり金の無心に来られて内心げんなりしているハティは、ベルトを外しながらそっけなく応じる。そこへ…。

「兄貴ゴメン!五千円貸して!来週までに必ず返します!」

 ドアを開けて焦りの顔を見せたのは、縫い包みのような外見の小柄な黒いポメラニアン。

 我流無守固留(がるむすこる)。体格が良い者ばかりの兄弟中、もっとも小柄で愛くるしいが、慇懃無礼に毒を吐く。特に

長兄には猛毒を吐く。

 務めたジムが最長八ヶ月ほどで潰れる薄幸のスポーツインストラクターで、頻繁に収入が断たれるので頻繁に財布が死ぬ。

紆余曲折あって(第三十二話参照)繰り返し同僚となっていた先輩インストラクターの出狩怒(でかるど)(♂)に思いの丈

を告げ、首尾よく交際に至ったのだが、ウルに貸した金が返って来ないので今日のお祭りデートが金銭的に大ピンチになって

いた。

「判った。…む。千円札も五千円札もないな。このまま持って行きたまえ。返済はその時でいい」

 札入れを取り出して中身を確認するなり、スコルに一万円札をすんなり預けるハティ。

「何故だ?」

 三度同じ言葉を吐くウル。

「何がだね?」

 脱衣作業に戻りながら聞き返すハティ。

「ハティよ。スコルには求められた以上に貸せる金があってわたしに金を貸せないというのは贔屓ではあるまいか?」

「そもそもスコルが私に金を借りに来ているのは、君が彼に借金を返さないからだ」

「こう、考えた事は無いか?君がスコルに金を渡す…、それで補填されてわたしの借金はチャラになる、と」

「生憎、考えた事は一度もない」

「そう考えるべきだ」

「拒否する。そもそも収入が無いのであればコンビニなどでアルバイトをしてみれば良いのでは?」

 ハンガークリップで留めたズボンをクローゼットにかけるハティへ、「わたしにもプライドがある」と、ウルは珍しく苦々

しい顔を見せた。

「音楽以外で飯の種を得るのは魂が死ぬから絶対に嫌だ」

 ようするに、希望の仕事以外では働きたくないでござる、という事。現実と折り合わないだけの困ったプライドである。

「では魂ごと死ねば良いのでは?」

 ハティの口調を真似て辛辣に吐き捨てるスコル。

「とにかく、恩に着るよ兄貴!必ず来週返すから!」

「厳しいようなら無理はしなくていい。楽しんできたまえ」

「…えへ!」

 ウインクしてスコルが立ち去ると、ランニングシャツとトランクス姿になったハティは台所へ向かい、コンロに鍋をかけて

インスタント麺の袋を破り始める。

「…まだ用事があるのかね?」

 台所までついてきて背後に立っているウルに、振り向きもせず問うハティ。内心面倒臭い事はフサフサの尻尾がげんなり垂

れている事からも察しがつく。

「スコルのように、デートであれば金を貸す…と解釈して良いのか?であれば恋人を作って来るが…」

「君の場合はそれ以前の問題だが、困っている時には援助する」

「わたしも困ってい…」

「君の場合はそれ以前の問題だが、と言った」

「例えば職場の新人のように困っている場合は、か?」

 淡々とインスタント麺の袋を破いていたハティの手が一瞬止まった。

 

 思い出すのは昨日の朝の事。疲労困憊で朦朧としている新人は、部屋の隅の白い大型キャビネットに「おはようございます

係長」と挨拶していた。

「ミオ君。それは私ではなくキャビネットだ」

「え?あ!す、済みません…!」

「大丈夫かね?」

「大丈夫です。キャビネットございます係長」

 明らかに大丈夫ではない事が窺える朝の挨拶だった。

 

「…本人が言うほど無能な訳ではない。少々自信がないせいか落ち込みやすく、動きが悪い部分は確かにあるがね。それに、

控え目に言っても容姿に恵まれている。探してみれば、いい仕事場もいいひとも見つかるはずだ」

「なるほど容姿か。セフレ等としてであれば需要もあると…」

 ウルの言葉を強制中断させたのは、唸りを上げて左頬にめり込んだ、大木槌のようなハティナッコォ。

 捻りを加えられた吹き飛び方で居間の角まで飛んで行ったウルは、すぐさますっくと立ち上がる。壁に鼻先から当たったの

で鼻血がタレッと垂れていたが。

「理由を聞こう。何故殴った?」

 効いていない…わけではない。立ったは良いがハティの方ではなくクローゼットに向かって喋っている。クローゼットござ

います。

「まさかとは思うが、理由を聞かねば判らないかね?」

 ならばもう一発見舞おうかと、指をポキポキ鳴らしながらゆらりと台所から出てくるグレートピレニーズ。世界の果ての大

雪原のように慈悲も容赦も無い冷たい目と声音である。

「正直済まなかった」

 即座に謝る長男。やはり弟の拳骨はこたえているようである。

 

 なおこの後、ハティからの借金を一旦諦めたウルは「スコルの要求金額五千円とハティが実際に渡した一万円の差である五

千円は必要とされていない可愛そうな五千円である」という独自の理屈に基き、自分がオーナーとなってやろうとポメラニア

ンの部屋へ押しかけたが、外出準備ついでに撃退準備も済ませていたスコルによって見事に迎撃され、跳び縄と毛布で簀巻き

にされた。




 一方その頃、弁当と惣菜も取り扱う、ご近所でも評判の精肉屋では…。

「らっしゃい!おや?」

 ドアの鐘がカラカランと鳴り、元気の良い声で客を迎えながら顔を上げたエプロン姿の金色の大熊は、厨房からカウンター

越しとなる視界に白黒の姿を認めた。

「まいどどうも先生!」

 ニッコリ笑顔を見せた金色の熊に、顎を引いて応じるのは気怠そうで愛想のない顔つきの、白衣を羽織ったジャイアントパ

ンダ。とはいえ、顔の造りは無愛想でも、その目には拒絶や排他の色は見られない。気持ちは別として元々こういう顔である。

 大学の教授。…と知ってはいるが、何処の大学のどんな研究をしている教授なのかユウトは知らない。そしてそれを気にし

た事は一度も無い。誰も。

「今日はひとりなのすか?珍しいごだ」

「ああ。アイツは用事で離れていてな。…新メニュー?」

 金色の熊の問いにも表情を動かさず応じたミーミルは、黒いボードに白いペンで手書きされた本日のオススメの下段、「焦

げ目カリカリトロトロチーズインハンバーグの特製バーガー」の表記を見つめる。

「んだよ!パンあんまねぇがら限定だども。名前なじょだべ?」

「判り易くて合理的だ。が、口に出して読み上げるには少々長いか」

「んで、カリトロバーガーぐれぇにしとぐべが?」

「合理的だ。早速だがそれを一つ」

「あいよぅ!」

 威勢の良い返事を残し、厨房の中で体の向きを変えた金色の熊は、大きな体をリズミカルに揺すりながらハンバーグを焼き、

友人のパン屋に焼いて貰ったバンズにレタスやトマト、ピクルスと共に挟み込む。平均的な成人男性の両手でも到底指先が回

りきらないサイズの分厚いハンバーガーが、見る間に重なって組みあがる。手も大きく指も太いのだが、金熊の手先は素早く

器用に働いていた。

 神代熊斗(くましろゆうと)。格闘術の大家である神代家の娘。…なのだが、類稀な武才はともかく、本人は格闘技よりも

料理が好き。理解ある兄に支えられて惣菜屋からスタートしたこの店は、客の要望を受け入れている内に弁当や軽食も提供す

るように変化し、地域でも評判の店の一つとなっていた。

「今日は早めに店じまいか」

「んです!アリスも姉ちゃんが預がって貰えっから、夜は祭りさ行ぐ約束してで…」

 半端に言葉を切ったユウトに、ミーミルは突っ込んだ事は訊かずに「そうか。それは楽しみだろう」とだけ応じた。

 昼時と夕方はとにかく込み合う人気店だが、今は開店直後の時間帯。しかも今日ばかりは皆の意識も祭りに向いているので、

数量限定品も売り切れていない。早めの店じまいが決まっている惣菜屋も、祭りのムードこそないが影響は受けている。

「はい!おまちどうさん!」

 ホカホカのバーガーが入った紙袋をニコニコ差し出したユウトは、ミーミルから代金を受け取るとコーラのボトルを渡す。

「こいづサービスね!」

「有り難う。では…」

「まだのご来店を~!」

 カランカランと鐘を鳴らしてドアが閉まる。ユウトは厨房に引っ込み、仕込みに戻るが…。

「らっしゃい!おや?」

 ドアの鐘がカランカランと鳴り、元気の良い声で客を迎えながら顔を上げたユウトは、厨房からカウンター越しになる視界

に再び白黒の姿を認めた。

「なじょしたのすか先生?」

 忘れ物かと首を捻るユウト。

「いや…」

 ミーミルはやや節目がちに視線を伏せて…。

「…もう5つばかり頼めるかな?」

「へ?」

 見れば、ミーミルの手には空になって丸められた紙袋と、飲みかけのコーラボトル。

「…もう食ったのすか!?」

 流石に目を剥くユウト。本格ディナーレベルのボリュームと過剰なカロリーは、1分程度でミーミルの腹に消えたらしい。

「いや、考えてみれば今日はそれなりの仕事だった。食事は確保しておこうかと…。無いなら諦めるが…」

 どうやら新作がツボに入ったらしいミーミルがモゴモゴと述べると、ユウトはニンマリ笑って「あいよう!」と応じた。

 気に入ってくれるのも沢山食べてくれるのも、作る側からすれば嬉しい物である。

 それから数分後。大量の野菜と麺を登山するような大型リュックに詰め込んで背負う、背の高いフサフサした生き物は、温

和そうな目を細めながら買い物メモを見直し、惣菜屋に近付いていた。

(ここで豚肉を、それから隠し味と焦げ目付け用の根生姜チューブを…)

 色男と呼べる、整っていながら優しげな目元が印象的な顔立ち。モデルや俳優にもなれそうな均整の取れた体つきのコリー

は、我流無鉢業(がるむはちごう)。ガルム兄弟の下から三番目で、料理人になるべく修行中。おっとり気質の平和主義者で、

ややうっかり者だが、兄弟の中ではハティ同様に常識人の部類に入る。のだが、致命的な欠陥を抱えている。「どんな料理で

も適量を作れない」という、料理人志望としてはかなり致命的な欠陥が。

 料理が好きなのは良いのだが、料理が楽し過ぎて調子に乗ってうっかり作り過ぎてしまう。しかもうっかり具合が半端では

なく、風呂桶に張れそうな量のクリームシチューを作るそのうっかり具合を、スコルからは「料理人志望の辞書から「匙加減」

と「適量」って言葉が元からねーのはどーなのかね」と評されている。が、収入が不安定だったり浪費したりする兄弟達を餓

死から救ったり、激務を激務と思わずこなし続ける兄弟のカロリーをややオーバーフロー気味に補ったりと、作り過ぎが役立っ

ている面もあったりする。もっとも、本人はその材料費にアルバイト収入の大半を持って行かれてしまうのだが。とはいえ、

今日はその欠点もあまり問題にならない。大量に作ってナンボの役回りなので。

(張り切って作りましょう!)

 今日の祭り、ハチゴウはその大量生産力を本名の字面が酷い地獄(へる)女史にかわれ、黄昏荘婦人会出店のヤキソバお好

み焼き屋台の手伝いをする事になっている。報酬は家賃一か月分の免除だが、そうでなくとも思う存分作れるので断る理由は

無い。

 ハンサムコリーはニコニコしながら、惣菜屋から出てきた人物と挨拶をかわしてすれ違う。だが、彼は会釈を返してきた相

手が顔見知りだと認識しながら、実は誰なのか把握できていなかった。

「こんにちは!」

「らっしゃい!」




「済みませーん!」

 ポメラニアンが豊かな被毛を弾ませながら走る先には、逞しい体つきの竜人の偉丈夫。

 ジムに通う利用者から羨望の眼差しを注がれるマッスル。贅肉の無い体特有の肌の張り。スコルからすればスポーツインス

トラクターの先輩であり恋人でもあるデカルドは、約束した噴水前に一見すれば泰然と立ちながら、しかしそれとなく腕時計

をチラチラ気にしていた。

「いや、今来たばかり…」

 ホッとしたように視線を向けたデカルドの言葉が途切れた理由に、急ぐスコルは気付かない。

「害虫退治に手間取って…!」

 息を切らせて駆け寄り、苦笑しつつ頭を掻くスコル。しかしデカルドはポメラニアンを見ておらず、視線はその遥か後方に

向けられている。

「ん?どうかしたんです?」

「害虫退治、し損ねたのか…」

 竜人が指差し、ハッと振り返るスコル。

 その視線の先…公園の幅広い石段の辺りで妙な動きが見られた。

 名曲、スリラーをBGMに、毛布で簀巻きにされて両手両脚をしっかり縛られたまま、妙にキレのいい動きでクネクネする

白狼が、弟の姿を探している。いろんな意味で他人のふりをしたい。しかもさらりとデカルドにまで害虫と評されてしまった。

「行きましょう」

「いや、その、あのままにしておいて良いのか?」

 関わりたくないが放置すれば迷惑がかかるのでは…、と心配するデカルドだったが、

「兄貴にチクります」

「なるほど」

 ポメラニアンが取り出した携帯を見ながら深く頷いた。回収部隊…もとい独りでも軍隊の次兄は、連絡すればすぐに飛んで

来て制圧、捕縛してくれるはずだった。

「さっさと行きましょう。見つかると面倒くせー事になりますから!」

 携帯を右手に、スコルは左手でデカルドの手を握る。スコル本人は意識しておらず、ウルから離れたいが故…つまり必要に

迫られ、焦りもあっての行動だったが…。

「あ、もしもし兄貴!?寝てた!?ごめんちょっとうちの愚兄がまたやらかして奇行をSNSとかで拡散されてんですけど…」

 電話で兄に告げ口するスコルに手を引かれるデカルドは、真っ赤な顔でキョロキョロと周囲を気にしていた。



 地域の子供会が各々の作品を持ち寄る、オリジナリティと元気溢れる子供神輿行列が終わると、いよいよ舞踊のパレードの

先触れとなる祭囃子が聞こえ始めた。

 交通安全課が他部署からの応援も伴い、総出で交通指導にあたっているため、妙に静かな警察署内では…。

「では、先に上がります」

 精悍な顔立ちの若い刑事が席を立つと、奥のデスクにふんぞり返って書類と睨めっこしていた白虎が「おう」と顔を上げる。

そして、やや品の無い笑みを浮かべ、からかうべく口を開こうとすると…。

「フワ君、今夜ぐらいは仕事を忘れて良いのよ?羽を伸ばしてらっしゃい」

 チーフデスクの隣の席から、灰色の猫女性がチーフの発言タイミングを見事に潰してやりながら微笑み、ウインクする。

「…はい…」

 珍しく歯切れの悪い返事をした若い刑事はそそくさと部屋を出る。同僚達は囃し立てたい気持ちを(ネネの目があるので)

グッと堪えて見送った。

 不破武士(ふわたけし)。署内でも評価の高い敏腕若手刑事だが、今夜の事はどうにも隠しきれていなかったようで、態度

の節々から皆にお察しされてしまっていた。足早に更衣室へ向かい、ロッカーから鞄を取った青年は、

「イヌイ先輩?」

 続いて部屋に入って来た犬の刑事と顔をあわせる。

「ああ、今日はフワ君も早上がりだったか」

「ええ。先輩は…、家族サービスですか」

「うん。ケントが「ダチんちも家族皆で出かけてんだぜ」とゴネてね。妻にも、たまには家族で行こうと言われてしまって…」

 照れ臭そうに、しかしまんざらでもなさそうに笑う先輩に、「それは良い事です」とタケシも目を細める。が、目の細まり

方の意味が一瞬で変わる。剣呑な方に。

「俺はたぶん、何かの間違いで父に誘われても断りますが」

「ブレないねフワ君は…」



「くしゅん!」

 黄昏荘の一室で、灰色の髪の小さい方の管理人がくしゃみをする。

「冷房が強すぎたかな?路帰(ろき)さん」

 どこかの棟のどこかの部屋。真紅の絨毯が敷かれ、円卓が中央に置かれ、壁と卓上の燭台だけが灯りになる暗い部屋。赤虎

の偉丈夫が重々しい声で問うと、

「いえ。きっと息子がこの父の話をしているのでしょう」

 灰色の髪の男の子…若作りにも限度がある若々しさで何も知らなければ小学生にしか見えない、養子から毛嫌いされている

タケシの養父は、練乳金時をギザギザスプーンでガシガシする作業に戻る。

「父の目の届かないところで父自慢…、何ともかわいい子です。ふふふ…。父は嬉しいですよタケシ。ふふふ…。帰ってきた

ら高い高いさせてあげましょう…。ふふふ…」

 その妙に自信たっぷりに自分が息子から好かれていると思っている所と思い込みが激し過ぎて一切の訂正を受け付けない辺

りが養子から嫌われる要因なのだが、ロキ本人はおそらく永久に気付かない。実際にかなり嫌われている事も含めて。

 一応リモコンを弄って念のため設定温度を1℃上げた守留人(すると)も、ロキと同じくいちごフロートをガシガシする作

業に戻る。いつものように「仲がよろしくて羨ましい限りだ」と、やはり勘違いしたまま返答して。

 関係者にしか所在が明かされていない、悪巧みの舞台っぽさクオリティがやけに高い黄昏荘秘密の議場。「ご近所に優しく。

外敵に厳しく。熱中症を甘く見ない!」の大家手書き夏用スローガンが掲げられたその部屋には、今は赤虎と灰髪の男の子し

か居ない。

「お盆に予定している夏休み地区巡回防犯パトロールは、今年も参加者が多い。入居者の防犯意識の高まりと地域愛が感じら

れて大変よろしい」

「それは結構です。ところで「第二十一回、夏もムスペルヘイム!神々すら焼き尽くせ、灼熱のバーベキューパーティー」で

すが、町内会河祖1~3班でも子供会育成会で合同参加したいという声が上がっていると、昨日いきいきエクササイズ教室で

一緒になった神代のご当主から聞きました。そう期間もありませんから、促しの意味も含めてこちらから正式に打診しても良

いかもしれませんね」

「それはこちらこそ大歓迎だ。入居者の子供とそうでない子供が、近所でありながら同じ楽しみを共有できないのは地域の大

人のひとりとして心苦しい。勿論、拒む理由などない」

「何にせよ、今日の祭りが終われば皆の手もあきます。…ただし振滑流具(ふれすべるぐ)さんにはなるべく無理をしないで

頂きたいところですが…」

「今日もギックリしたらしいな」

「今日もハッスルしたようです」

『…また年甲斐もなく張り切るから…』

 異口同音に発された声とため息に重なって、シャクシャクと二本のスプーンが音を立てる。

 地元貢献のため祭りに多数の住民と役員が参加しているので、警察署同様に黄昏荘もまた手薄になっていた。



 日が傾いて涼しくなると、交通規制により車両通行止めとなったメインストリートが打ち水で冷やされた。祭りのメインイ

ベントの一つがいよいよ開始されるとあって、沿道には人が波のように押し寄せる。

 この地域で一二を争う舞踊の大家、神ン野家と隠神家の当主が先導し、街路を躍り歩く「ヤバ踊り」は、この祭りの名物の

一つ。なお、ヤバ踊りのルーツはハッキリしているのに「ヤバ」の語源は不明。一説には、そのまんまを名乗ると色々ヤバい

から本家本場の踊りに気を使ったとかなんとか口伝であやふやに伝わっている。大丈夫か大家。

 なお、狸が広めたからなのか狸がカスタマイズしたからなのか、元になった踊りに加えて腹鼓の動作が入るため、コミカル

ではあるが微妙に踊り難い。そして皆でビシッと合わせる腹鼓のタイミングが命となる。

「おつっきょさんも出とぉ~!はんぎり噛んで踊り狂ってこぉ~!」

 でっぷりしている癖に背が低いせいで妙に真ん丸く見える狸が、空に浮かんだ白い月を見上げて鬨の声…というにはやや間

延びして緩んだ声を上げると、集った踊り手達がワッと声を上げて応じた。

 神ン野悪五郎(じんのあくごろう)。実年齢を知った者にはだいたい驚かれる童顔だが、舞踊の大家、神ン野家の当主であ

る。打出の小槌マークの団扇を腰後ろに挿し、神ン野家伝統のヤバ踊り衣装である、白殺しに空色の襟と帯が鮮やかな浴衣を

纏う…が、太り過ぎなせいで前合わせが帯上のところまで大きく開き、腹がヘソまで出てしまって、洒落ているというよりは

滑稽ないでたち。

 のほほ~んとした性格と外見、堅苦しさのない振る舞いと独特な訛りからとっつき易いので、初心者からの支持が高く、地

域の文化保存会の理事でもあり、小中学生中心に学校で踊りを教えたりもしている。今日はこれから生徒を率いた大一番なの

だが…。

「おいアクゴロウ」

 そこへ声をかけたのは熊と見紛う大兵肥満の大狸。肥り肉ではあるが逞しい大男で、襟や帯の黒を差し色にして引き締めた、

神ン野の物と対になる濃藍の祭り法被が良く似合っている。

 隠神彦左(いぬがみひこざ)。舞踊の大家、隠神家の当主。隠神の家は神ン野の分家であり、アクゴロウからすれば親類の

オジサンにあたるのだが、同じ狸なのに同血統とは思えないほど似ていない。普段から着物姿で、目つきも人相も悪く、よく

スジモノに間違われるのだが…、だいたい半分当たっている。数年前、このヤバ踊りが利権絡みでゴチャゴチャした際に、裏

から手を回して事態を収拾したのはこの男だという噂もある。

「悪太郎(あくたろう)どんはどうした?もうじきだってのに姿が見えねぇが…」

「いやぁ、それがぁ…」

 丸い狸は大狸の顔を見上げ、おもむろにパンと合わせると、手品のように取り出したスマートフォンを見せる。

「これ一分前に届いたメールでしてぇ~…」

 腰を折って覗きこんだヒコザは、「あの狸親父が…!」とスジモノそのものの物騒に剣呑な顔で吐き捨てた。

 アクゴロウの父からのメールは、「気が変わったから女はべらして花火見に回るわ」…。

 無茶苦茶無責任なドタキャンである。この自由人っぷりを見かねて、さっさとアクゴロウに家督を譲れ、と神ン野の先代に

迫ったのは他でもないヒコザなのだが、こうなると自分の判断がますます正しかった気がして来る。

「まぁいい…。アクゴロウ、ヘマぁするんじゃねぇぜ?」

 疲れたような顔でため息をつき、ポンと頭に左手を置いてガシガシと乱暴に撫でたヒコザに「まだ子供扱いするんえ~?」

とアクゴロウは頬を膨らませた。家督を継いで当主になろうと、ヒコザにとってのアクゴロウは「本家の坊主」のままである。

「大将!カチコミ準備、整っております!」

「大将じゃねぇ…。カチコミじゃねぇ…。トライチ、ヌシャぁ何しにここに来とるんだ?ええ…?」

 などと、踊りが始まれば各所に散ってペースメーカーとなる集団が、騒がしくも準備を終えようとしているその頃…。

「ききき緊張してきたっス…!」

 一般参加枠の集団の中で、大人顔負けの大柄な北極熊が身震いする。

「なるって何とか!うはははははは!」

 同じく子供には見えないイリエワニが、こちらは緊張感も全く無しでカラカラ笑う。

「と、トイレ行きたくなって来たっス…!」

「行った方が良いぞ今の内に。あ!ステー!ここだここ!アルとおれー!うはははは!」

 歩道の人ごみの中にコリーの家族を見つけ、大きく手を振るイリエワニ。その後方では…。

「オイラの華麗なステップで!はーとすちーる!だし!見てるしリンリン!」

「ヤバ踊りといえばヤバいほど俺って言うかヤバ踊りでも発散しちゃう格調の高さとミリキで女の子の瞳を独り占めしちゃい

そうでまったくギルティー深いな俺また夏が始まっちゃうな」

「黙るし」

「脛っ!?」

「ってかリンリンどこかな~?ちゃんとオイラの踊りを見られる位置に居るかな~?ブレイクダンスも華麗にこなすこのオイ

ラの機敏なステップイン&ステップアウト&ヒット&ランで…」

「あれリンリン今日午後からスゴと今話題の「踏ん張れるものなら踏ん張ってみな激流プール」行くって言っ…」

「何だし!?(何だと!?)」

「小指っ!?」

「踊ったらモフシェイク引き換え券貰えんだってさ、でへ~!」

「そーね…。それ絶対主将の嘘だろーね…」

「だはー!?うそー!?」

「ってか…、あのさ…、アイツの鮫柄浴衣って何なの?何処で売ってんの?あれ着てからずっとサメ映画観る時のテンション

になっててちょっと怖いんだけど…」

「…てっつぁんちでオーダーメイドしたって言ってたぜぃ…。はふぅ~…」

「なにそれこわい」

「ぅや」

「ふむ」

「ちょ、どこに手入れてるんですかやだー!」

「一向に踊りますが何か!?」

「踊るなら、楽しく舞おう、夏祭り」

「足腰だ!ヤバ踊りは足腰も鍛えられる!判ったなヤマト!?」

「うるさいし暑苦しいし大声は周りの迷惑になるぞハルオミ?」

「すみません。でもヤマ…」

「俺は悪くないだろ!?」

「ハナ、その法被…その…、もしかしてキツくない?」

「去年買って貰ったばかりだったのに…。ショック…」

 主に学生達がワイワイと並んでいた。

 程なく、踊り歩きが始まった。

 スピーカーから流れる音頭に合わせ、車道を埋め尽くす大人数で、愉快な踊りが披露される。

 観衆も合の手で参加し、打ち水と夕暮れの風で一度は涼んだ大通りが、再び一気に加熱される。

 夏の一夜。祭りの一夜。並ぶ提燈が非日常を、黄昏時に彩って…。



 賑やかな大行列による踊り歩きがメインストリートに端から駅まで移動したら、一時間ほどの間を空けてフィナーレの灯篭

流しと花火大会が始まる。

 パンパンパンと、音につられて空を見上げれば、高みに漂う煙の塊が数個。快晴だった一日の終わりに、予定通りの開始を

知らせている。

 実行委員長挨拶や来賓の祝辞アナウンスに続き、ぼんやりと灯る幻想的な流し灯篭が河を染め、土手の見物席に陣取った祭

り客達に見送られる。

 日が落ち切る寸前の、暗く染まった空を…。

「…今から?」

 ハティはその時、猿轡まで噛ませて縛り上げた長兄を床に転がして見張りつつ、自室の窓から見上げていた。

『は、はい…!そちらでお祭りだったと聞いて…!は、花火とか見られないかなって向かってるんですけど…』

「今からでは少し厳しいと思うが…、そうだな。少し離れた場所になるが、向江山神社辺りからならば遠目に見えるかもしれ

ない」

『そこはどう行けば…』

「私が案内しよう。待ち合わせの駅は…」

 部下の新人からの電話に応じつつ、ハティはシュッと荷造りロープを伸ばす。

「ふぁふぇはふぃ。ふぇはふぇふほはははほほほうほふをふぉいふぇいふぇ(訳・待てハティ。出かけるのならばこの拘束を

解いて行け)」

 そんな長兄の抗議をナチュラルにスルーして、束縛をより厳重な物にし、卓袱台と冷蔵庫とテレビ台から蜘蛛の巣のように

ピンと張ってしっかり固定するハティ。本人はまことに遺憾なのだが、物心ついた頃から繰り返してきた作業なのですっかり

手慣れている。

 セイギノミカタとして活動する際にも使用する、何処でも売っている荷造りロープや紐できっちり縛った後は…。

「!!!」

 ウルが目を剥く。ハティが紐の一つに、あるミュージシャンのベストアルバムを括りつける様を目にして。

 生ける伝説。世界最高峰のミュージシャン、ハウル・ダスティーワーカーのマイベスト(初回限定版)…。

 もしもウルが超能力…高周波振動を使用し、ロープ類を引き千切ろうとしたならば、そこに繋げられた憧れの大スターのア

ルバムまで巻き添えになり、無残にも四散する事だろう。

「ほへは…、あふふぁふふひはひはいははふぃ!?(訳・それは…、悪辣過ぎはしないかハティ!?)」

 ウルの抗議をまたまたスルーして、一仕事終えたハティはクローゼットへシャツを取りに向かった。

「…祭りの空気を少しは味わうのも悪くは無いだろう」

 本当はこの休日を体力回復に充てるつもりだったハティだが、何だかんだで新人には甘かった。



 灯篭が流れ去った後の川面を、花火打ち上げ用の船が走る。

 いよいよ打ち上げが迫った時刻、出番を終えた踊り手達や、祭りのフィナーレをより近くで観ようと押しかける人々で、土

手の桟敷席を中心とした一帯は蟻の這い出る隙間もない有様だった。

「ふふふ…!この空気、この人いきれこそ花火場よ!」

 土手の川下側にある無料開放スペースで、人ごみの中、無駄に不敵な声で名セリフを発しつつ力強く頷いたのは黒と白の精

悍なシベリアンハスキー。

 我流無真愛納(がるむまあな)。ガルム兄弟でも男前の部類に入る、上背もあり逞しい体躯の青年。ただし、クールな隈取

が厳めしいヴィジュアルに反し、礼儀正しいが言動が暑苦しくてややうざったい少しおバカなアニメオタクが高じた薄給アニ

メーター。その隣で「手の震えが止まりません」と名言で応じるのは、同僚の女流アニメーター紫野朝香(しのあさか)。相

変わらず中学生よりもだいぶソフトな清過ぎる交際が続いている二人は、仲睦まじく初々しく、花火見物に繰り出していた。

「お待だせしましたー!」

 普段ならドスドスと駆け寄るところを、シズシズ…もといノシノシと、急ぎたい気持ちを抑えて早歩きで戻った金色の熊は、

器から零れそうなフラッペ二つを手にしている。そして、待っていた若い警官はアメリカンドッグを二つ手にしている。

 祭りも佳境。花火を見るために客が足を止める時間帯になり、歩行者天国の屋台はかなり込み合っていた。売り切れた屋台

や子供をターゲットにしたクジ屋などは店を片付け始めているので、残る店になおさらひとが並ぶ状況、手分けして並ばない

と祭りの味わいすらなかなか買えない混雑である。

 座る場所も無いので歩道の端に寄り、ケチャップが申し訳程度にかかっただけのアメリカンドッグを齧り、見上げた空へ…。

「あ…」

 金色の熊の上気した顔を、パッと光が照らした。

 ドォンと、大きな音と共に一発目が上がり、大輪が夜空にくっきり咲いた。パチパチと微かな音を立てて降る火の粉が、枝

葉を広げた柳のように夜空を飾る。

「たーまやー、っと来らぁ!」

「たーまやー!」

 ふたりの近くで江戸っ子のような声を上げてからから笑ったのは、熊のような体格の耳が垂れた犬の少年と、可愛らしい童

顔のツメナシカワウソ。

「よし!もうちょい川岸の方まで行ってみるか」

「はい!」

 二頭が離れるのを見送ったタケシは、頭上の音に誘われるように視線を空へ戻した。立て続けに三つ、円が重なって広がり

夜を照らす。

 ふと見れば、隣のユウトは空の花に見とれて、スプーンをフラッペに挿し入れたまま手を止めていた。その頬を、追いかけ

て上がった花火が一瞬だけ明るく染める。

 ほんのりと笑みが浮かんだ嬉しそうな横顔に、タケシは一瞬見とれてしまう。

 何処に惹かれたのかは判らない。ただ、お互いに最初から意識していて、そのせいでギクシャクしていて、変にやり取りし

難い関係が気になって、気付けば頻繁に相手の事を考えるようになっていて…。

 警察署へ武道の手解きに招かれた当主、その妹という、本来ならば殆ど接点の無い間柄。偶然が引き合わせたとしか思えな

いこの関係に、運命を感じないと言えば嘘になる。だが、出会うべくして出会った…などと考えてしまうのは、せっかくの巡

り合わせに胡坐をかくようで、出会えた意味を探してしまう。

 案外、恋とはそういう物なのかもしれないと、タケシは何となしに考えた。きっと皆、出会えた事に意味を欲しがる物なの

だろう。特別な出会いだからこそ…。

 そんな物想いを中断させたのは、花火の合間に耳に届いた騒がしい声。

「先輩あそこ!店の間の路地抜ければもっと前に行けそうですよ!くふふっ!ラッキー!」

「おい。あそこは私有地なんじゃ…」

 見れば、小柄なポメラニアンが逞しい竜人の手を掴み、酒屋と郵便局の間にある隙間へ導いている。明らかに酒屋の庭先な

のだが…。

「ちょっと通るだけですよ、ごめんなさいね~って!」

「まったく…」

 ポメラニアンの強引さにげんなりしながら、しかし半分はまんざらでもない心地で、デカルドは手を引かれてゆく。引っ張

り回されて疲れ気味だが、バイタリティ溢れる子犬のようなスコルに付き合った祭りは楽しかった。

 ふたりがたこ焼き露店のテント脇を抜けて、ショートカットしようとする最中、打ち上がったスマイル花火が横向きになっ

て、観客からどっと笑い声が上がる。

「んふふふ!スマイルの向ぎがずれでっちゃ!」

 ユウトも可笑しくて笑っていた。

「あー!」

 女の子の声がした。幼稚園児か、それとももっと下か、小さな女の子は花火に夢中になって、買って貰った銀色のバルーン

が夜空へ飛んでゆく。

「ありゃりゃ…、花火さ夢中になり過ぎだんだね」

 気の毒そうに耳を倒したユウトが舞い上がるバルーンを見上げ、タケシは泣いている女の子を慰める父母を見遣り、

(…?)

 たこ焼き屋台の、簡易カウンターの向こうに目を移す。

 オレンジだった。それが電気的な灯の物ではないと気付いたのは、ゆらめきのせい。

(出火…しているのか?)

 ガスタンクのチューブが切れて、噴射されるガスが燃えている。それを消そうと店主が躍起になって、テント内が慌しいの

だが、周囲の多くの客は空に注意を奪われており、気付いていない。

 パッと炎が広がった。そう認識する直前に、タケシは上を向いているユウトの前に回り、力一杯押し倒した。

「え…」

 不意に押され、後ろ向きに倒れ込むユウト。その視線が地上へ戻る前に、綿菓子屋に、ポップコーン屋に、バルーン屋に、

回った炎が弾けた。

 直後、花火よりも大きな音と衝撃が、周囲を蹂躙した。




 背中が痛かった。

 鼻先がチリチリした。

 平手で叩かれたように体中の肌が痺れて、頭が揺れている。

 顔を激しい風が撫でる。いつのまにこんな強風になったのかと、夜空の真ん中で暴れながら急速に遠ざかってゆく銀色のバ

ルーンを見送りつつ、ユウトは疑問に思った。

(あれ?花火は?)

 自分が仰向けで空を見ている事に気付き、ユウトは数度瞬きした。

「いっづ…!」

 咳き込んだら耳の奥に激痛が走った。

 何か起きた。何か起こった。何か悪い事が。

 やっと意識がはっきりしてきて、ユウトは首を起こした。

 燃えていた。テントが。

 露店の天幕が吹き飛んで、ポールにへばりつくように残った一部がメラメラと燃えている。簡単には燃えないはずの材質が、

溶けて燃えてくすぶっている。

 倒れていた。ひとが。

 道を埋め尽くしていたはずの多くの人々が、一様に倒れ伏している。

 衣類が、皮膚が、毛が、皮が、革が、ビニールが、ナイロンが、一緒くたに燃えた異臭と、鼻を毒するような煙が立ち込め

ている。

(何…?)

 上体を起こそうとしながら、ユウトは困惑する。鼓膜がやられたのか、周囲の音ははっきり聞こえないのに、ゴウゴウとう

ねる様な熱い空気の動きだけが知覚され、耳の奥が酷く痛い。

 痺れもあって体がなかなか起こせない。苦しみながら視線を横へ向け、タケシの姿を探す。

(ガス爆発?花火が落って来た?フワさんは…!?)

 そして、ユウトは気付いた。体をなかなか起こせなかったのは、何かが胸まで覆いかぶさっていたからだと。

 視線を胸元に向けて、そこに、火のついた髪の毛を見る。

「…………」

 戸惑いながら、咄嗟に自分へ覆い被さってくれたのだろう相手の肩を掴む。

「あ、あああ…!」

 ピクリとも動かない体から、ダラダラと赤が流れ出て、自分の体に染みこんで来る。まるで、命を譲り渡すように。

「うそ…、フワさん…?フワさ…」

 起こそうとしたタケシの、胸の下に手を入れたユウトは、ヅクッと、掌に鋭い痛みを感じた。

「フワ…さ…」

 青年の背中の真ん中に、爆心地となった屋台から飛んできたパイプ椅子の残骸が突き刺さり、先端を僅かに覗かせて貫通し

ていた。

 即死だった。

 最後の最後まで緊張と警戒を絶やさなかったのだろう青年の顔は、煤にまみれたまま硬い表情を浮かべていた。

 声にならない絶叫。天を仰いだ金色の熊が、口を大きく開けて慟哭する。

 親と一緒になぎ倒されて、大人の体の下敷きになったおかげで助かったのだろう女の子が、ワンワンと声を上げて泣いてい

た。余所行きの服が焼け焦げて、母を揺り動かす手も皮膚が赤黒く焼け爛れていた。

 セットした髪も借りてきた浴衣も焼けてしまった婦人が、体の半面を焦がされて呻いている夫へ必死に呼びかけている。

「トライチ!火元を確認しろ!動ける連中はそこらからありったけの消火器借りて来て火消ししろ!ガス管に誘爆する可能性

もある!動かせる怪我人は一人でも多く逃がせ!いいか!一人でも多くだぜ!」

 大気の唸りに負けじと声を張り上げたのは大柄な狸。若い衆に指示を飛ばすヒコザは、何かが飛んできて胸に刺さったらし

い、意識のないアクゴロウの後ろ襟を右手で捕まえ、ずるずると引っ張って爆心地から遠ざけている。

 片腕で乱暴に引き摺っている理由は単純。それしか「無い」からだった。

 いち早く状況に対応し始めた大狸自身も重傷を負っている。爆ぜ飛んできたミニカウンターの鉄板が直撃し、左腕が二の腕

の中間でボヅンと、ギロチンにでもかけたかのように切断されていた。腰帯を解いて噛み締め、片側を固定しながら残った右

腕一本で左腕の付け根を縛って自前の止血を済ませる手際と胆力は、なるほどスジモノと噂されるだけの事はあるのだが、い

かんせんそう長く動ける傷ではない。煤と己が血で半身をどす黒く染め、ボタボタと地面を染めているヒコザ自身も、一刻も

早く手当てが必要な有様である。

「スコル!?スコル!?しっかりしろ!」

 被害が最も酷い、爆心地間際。屋台の出火に気付いて、デカルドを遠ざけようと押し遣ったポメラニアンは、盾になる格好

で全身に炎と爆風を浴びていた。

 その超能力により、店主の尋常ではない「焦り」を感じ取れた事で、ほんの一瞬だけ生まれた猶予を、スコルは自身が危機

を回避するためではなく、デカルドのために使った。

 距離が近過ぎた事が災いし、爆ぜたタンクの金属片が胸に突き刺さって、肺を貫いて背骨を損傷させ、背中まで貫通してい

たが…、

(近過ぎて、幸いだったかもな~…)

 眼球も焼き潰され、耳もやられたスコルは、デカルドが生きている事だけ確認できて、そう思った。

 小柄な自分では大柄なデカルドの盾にはなれない。デカルドを突き放し、自分が前に出た事で、ようやくこれだけの効果が

あった。

(あ~…、「今度」は何とか、守れたかなぁ~…。…「今度」って何だっけ…?まぁ、いいか…)

 自分はもうじき死ぬ。そう確信しながらもスコルは穏やかな気持ちだった。兄に返すと約束していた一万円だけ、どうした

物かなぁと、朦朧としながら悔やんだ。

 悲鳴が、風鳴りが、怒号が、呻き声が、空の花火に取って代わった祭りの一角。

 息をしていないタケシを必死に揺すって呼びかけながら、ユウトは視線を走らせた。

 助けてくれそうなひと。誰か。誰か。誰でもいいから…。

 その目が、ピタリと留まる。

 数度巡らせた視界に、唐突に、前触れもなく、翻る白衣が入った。

 すぐ隣に、果たしていつからなのか、白衣を羽織る太ったジャイアントパンダが立っている。

「少し遅刻したか…」

 咥え煙草で呟くジャイアントパンダを見上げながら、ユウトは思う。

(ええと…、このひと「誰だったっけ」…?)

 前触れもなく現れて惨状を見回すミーミルは、「だがまぁ、手遅れという訳でもない」と首を縮めると、小さく口元を動か

した。



 事象 凍結

 

 瞬間、世界が止まる。

 音も、光すらも動きを止めた無音真闇の中で、しかし世界の守護者は物を見る。

 

 事象 逆走

 

 ミーミルの口が再び小さく動き、音の無い中に声ならぬ宣告が響くと、世界の全てが巻き戻しを開始した。

 舞い上がっていた煙が降りてきながら集まり、消えた炎がもう一度生じて、吸い込まれるように爆心地へ戻ってゆく。

 爆風と共に撒き散らされた無数の破片もまた、炎と煙に紛れ込みながら元あった場所へと帰ってゆく。

 破片が抜き取られた人々の体に、流れた血が吸い込まれて傷も塞がり、焼け焦げた肌も元に戻ってゆく。

 

 事象 再凍結

 

 映像を逆再生するように巻き戻された上で、もう一度停止した時の中、ミーミルの周囲には花火を見上げて笑みを浮かべる

無数の、無傷の人々。

 

 …これは「事故」だな 何者の願いも孕まず 何者の思惑も絡まず 何者の意図も介在せず 何者にも望まれなかった事故

実現する可能性を摘み取って構わない ただの事故だ

 

 何かを確認するように、子細に爆心地中心を…、チューブが断裂したガスボンベと、それに気付いていないたこ焼き屋の店

主を検分しながら、ミーミルは結論付ける。

 これは誰かが望んで行なった事ではない。そこに善意であろうと悪意であろうと、ひとの意思や選択が関わっているのなら

ば尊重し、成り行きをひとの手と判断に委ねる所だが…。

 

 現実選定 開始

 

 ミーミルの口元が微かに動き、世界中の人々から半透明の像がすぅっと抜け、そこから先の動作をシミュレートする。何十、

何百、あるいは何千の像が、重なり合いながらも少しずつ違う動きを見せている。

 それは、それぞれが動く可能性を視覚化した像。誰かが何かに気付いたり、誰かが少しふらついたり、誰かがくしゃみをし

たり、誰かが忘れ物に気付いて急に振り返ったり…。
そうして生じる無数の動作とそれが波及する先で、例えば体がぶつかっ

た誰かが転んで怪我をすしたり、例えば気分を害してトラブルになったり…。
幾万幾億の可能性分岐を精査し、好ましくない

未来へ繋がる物を避け、世界の守護者が選ぶのは…。

 

 現実選定 完了

 

 この世界が辿れる可能性の中で、「もっとも優しい未来」へ繋がるもの。

 

 事象 接続承認

 

 最も平和な未来へ可能性が集約され、無数に出現していたシミュレートの像が全て消え失せると、ミーミルは爆心地となる

「可能性があった」たこ焼き屋を見遣った。ガスタンクから伸びるチューブが裂けた事にいち早く気付いた壮年の店主が、慌

ててコックを閉めている。

 止まった時の中、夜空へ写真のように固定された、正しい向きで笑うスマイル花火を見上げ、

 

 …こんな日に独りとは よくよく運が無い もっとも わざわざ人ごみに紛れに来るというのも合理的ではないが…

 

 面白くなさそうな顔をしたミーミルは、煙草をくゆらせながら周囲の人々の姿をしばし眺める。

 並んで花火を見上げるタケシとユウト。

 段差に躓いて転びかけたアクゴロウを引き止めるヒコザ。

 デカルドの手を引いて私有地を突っ切るつもりだったスコルは、嗜められて回り道する方向へ。

 停止している人ごみの中を縫うように歩いてゆきながら、ミーミルはおもむろに片手を上げて、宙に留まっている銀色のバ

ルーンの紐を摘むと、

 

 …まぁ 祭りの日だ これぐらいはサービスしよう

 

 手からすり抜けた事にまだ気付いていない女の子の手へ、紐をくるっと巻きつける格好で持たせてやる。

 そして、傍に居たポメラニアンを一瞥し、目を細めながらポンと、その頭を軽く撫でた。まるで親戚の子など、親しい相手

に向けるような笑みを浮かべて。

 

 「今度」こそ 幸せになるんだな

 

 そして、花火に背を向け人の少ない方へ、人垣の薄い方へと歩き去りながら、携帯灰皿に煙草の吸殻を収納したミーミルは、

 

 燃料多めの判断は正解だった

 

 と呟きつつ白衣の襟元に手を突っ込み、そこに入るはずがないサイズの、何故かホカホカ温かいままの特製ハンバーガーを

取り出してモシャリとかぶりつく。

 そうして、ジャイアントパンダがのっそりと、人ごみの向こうへ姿を消し…。

 

 事象 凍結解除



「あ!スマイルマークの花火!」

 声を上げたユウトの横で、タケシが頷きつつ疑問顔で口を開く。

「あれは、もしかして打ち上げの際にずれると、顔の向きがおかしな事になるのだろうか?星型やハート型は時折角度がずれ

る事もあるようだが…」

「あ~、そうなんのがもしゃねね?んでも一回見でみでぇがも?んふふ!」

「む?たこ焼き屋で何かトラブルか?」

 タケシが視線を向けた先には、予備のボンベを持ってくるようにと、若手に大声で指示を出している壮年店主の姿。

「ヒコザ様ー!?ヒコザ様、どちらにー!?」

 人ごみの頭上に響く、親とはぐれた迷子のような声を聞いて、大狸が舌打ちする。

「ええい、トライチめこんな場所で大声を…!ヌシも気をつけやがれアクゴロウ!花火を見上げたら足は止めときな、コケて

怪我でもしちゃあ楽しい祭りが台無しだぜ?」

「ふぁい…!」

 花火を見上げながら一歩前に出ようとして歩道の段差にしこたま爪先をぶつけ、涙目で説教されるアクゴロウ。

 そうして何事も無く、賑やかに、祭りは終わって…。




 商店街が後片付けに追われる、祭り翌日。

 窓も無い、天井は高過ぎて霞んで見えない、無数の本が並んだ本棚に四方を囲まれた部屋のデスクで、ホカホカのハンバー

ガーを五つ積み上げた皿を前に、ジャイアントパンダは新聞を広げて朝刊の記事を読んでいた。

 その朝刊に「何処の」という概念は無い。ミーミルが読みたい新聞の見たい記事がそこに記される。

 ジャイアントパンダの瞳に映るのは、大輪の花が咲いた夜空の写真。祭りは盛況だった事、人手は昨年比6パーセント増し

だった事などが、記事に纏められている。

「踊りの参加者は約一割の増か。広報担当者の頑張りと、ヤバ踊り普及委員会の働きかけの賜物だろう。喜ばしい事だ」

 どうやら気に入ったらしいカリトロバーガーを一つ掴み、モシャリと大きく齧り取ったミーミルは、ピクリと黒耳を動かし

て顔を上げ、開いたドアを見遣る。

「…おかえり」

 無愛想な顔と怠そうな目をして入室者に声をかけたミーミルは…。

「…何?別に怒ってなどいないし不機嫌でもない。邪推するな」

 一層不機嫌そうな顔になっていた。




 そして、その日の出社時刻…。

(どうしよう…)

 アメリカンショートヘアーは、職場のドアの前で立ち尽くしていた。

 昨日の夕刻は勇気を出して上司に電話をかけ、花火見物に同行して貰えた。

 それはいい。それは良いのだが…。

(僕、どうしたんだろう…)

 途中から記憶が無い。

 小高い山の上の神社の境内から、ハティと一緒に花火を眺めた。彼が途中で買った缶ビールを一緒に飲みながら。

(きっとアルコールのせいだ…)

 頭を抱えるミオ。

 元々あまり酒に強くないのだが、緊張していたからなのか、直前に長い坂道を登った後だったからなのか、アルコールの回

りが妙に早く、どうやら早々に酔っ払ってしまっていたらしい。

 朝は自分の部屋で、しっかりベッドの中で目覚めた。それがまた不可解で怖い。

(ひょっとしたら、係長に迷惑をかけちゃったんじゃ…!)

 心臓が痛いほど激しく鳴っている。目の前のドアが妙に遠く見える。否、立っているはずの自分が後ろへズズズッと後退し

てゆくような錯覚がある。

(どうしよう…。どうしよう…!)

 思い悩むミオは、なかなかドアを開けられなかった。


次回予告