第五十二話 「特異日」
「………」
本に囲まれた部屋の中央、デスクについた白衣のジャイアントパンダは、顔をひどく顰めて新聞を凝視していた。非常に面
倒臭い物を見つけた、という顔である。
「………………」
新聞を下ろし、目を瞑り、眉間を揉み、再び紙面に視線を遣れば、文字化けだらけでろくに読めない。
「………………………」
もう一度新聞から目を離し、卓上のマグカップを掴み、すっかりぬるくなったココアを一口啜り、改めて紙面に視線を遣れ
ば、ピンボケしたように派手に滲んで何が何だか判らない一面記事の写真。
「…毎年の事だが…」
ふぅ、とため息をついて卓上の黒電話から受話器を取ったミーミルは、しばしコールした後で…。
「私だ。進捗はどうだ?…そうか、まあそうだろうと思っていた。…何故?笑えるほどに紙面が読めないからな。笑ってはい
られないが。…それで、見通しは?…なるほど判った。…うん?いや、私も流石にそんな酷な事を言うほど冷徹ではないぞ。
何より合理的ではない。とはいえ、今夜ばかりは私も手が一杯になる。そこで…」
一度言葉を切ったジャイアントパンダは、一文字ずつ文字化けが解消されてゆく紙面を見遣った。
「お前は防衛に専念しろ。面倒とも言っていられない状況だ、攻めの手は私の方で何とかする。今更改めて念を押す話でもな
いが、このタワーディフェンスゲームの敗北は…、そのまま世界の崩壊に繋がる」
「駅まで徒歩三分の好立地」
「敷金礼金保証人必要無し」
「世界に反逆する好条件!」
そんなコピーで不動産情報誌に乗っているアパートが、ある国のある街のある駅近くにある。
ところにより三階建てで場所により五階建てのアパート群は全6棟。規模は大きいが老朽化が甚だしく、頻繁に無計画に増
築改築連結分離を繰り返した末に、何故か各棟が申し合わせたように空母のような外観になっているそのアパートは、「黄昏
荘」という。
その中の一棟…六号棟の廊下を、品の良さそうなコリーの少年がニコニコしながら歩いている。
手には大きな紙袋。中には包装されてリボンがかけられた箱。実家で両親から貰った一足早いプレゼントの中身は、精密な
出来栄えとギミックがウリの大型プラモデルである。
(開ける前にツナに電話しよう!)
足取りも軽くウキウキしているコリーの少年は、歩調を緩めて廊下の端に寄る。行く手から歩いて来る大柄な相手に道を譲
るために。
「どうも」
「あ、どうも」
会釈したコリーに挨拶を返したのは、ここの入居者ではない。が、頻繁に訪れているので良く顔を見る猪だった。
増築を重ねられて所により迷宮のように入り組んでいる黄昏荘は、入り口も複数あれば階段やエレベーターも複数個所ある。
コリーが帰ってきたルートは、逆側から入って来た猪のルートと交差していた。おまけにすれ違う位置は計画性の無いボイラ
ー管増設によって壁がせり出して廊下が狭くなっている場所。比較的小柄なコリーに対し、猪は大柄な上にデップリ太ってい
るので、道を譲られて恐縮する。
「プレゼント?」
猪が羽織っているダウンジャケットのポケットが膨らんでいる事に気付き、コリーが訊ねると、「あ、うん。実はそう」と、
大柄な猪は厳めしい顔をデレデレに緩ませた。
「そっちも?」
「両親から」
「デカいなぁ」
「中身はプラモ」
「へ~…。何個入りなのこれ?」
「一つ」
「え?一つ?一つでこの大きさ?」
そんな当たり障りの無い会話を少し交わして、どちらからともなく離れる。
猪はそこから少しだけ歩き、通い慣れた部屋のチャイムを鳴らす。と…。
「待ってたよタイキ!」
ドアが勢い良く開けられて、中から飛び出してきたレッサーパンダが、猪の胸にボフンと飛び込んだ。
「おっとっと!」と笑いながら抱き止めた猪は、レッサーパンダの両脇に手を入れて高い高いするように一度持ち上げると、
「ん~…、チュッ!」
輝くような笑顔のレッサーパンダと軽くキスを交わす。
「お待たせナル!ゴメンな遅くなって…。父ちゃんがついてくるってきかなくてさ」
「お互い様だよ。御父様もクリスマスパーティー家でやるから帰ってきなさいって、電話しつこくて…」
「父ちゃんが子煩悩過ぎだよな、お互い」
「だよね。うふふ!」
床に降ろされたレッサーパンダは、猪のポケットの目立つ膨らみに気付く。
「もしかして…」
「おっとヤバい!箱潰れてないよな!?」
慌ててポケットに手を入れた猪は、ラッピングされた小箱を取り出し、へこみなどが無い事を確認してホッと表情を緩める
と、尻尾を立てて目を大きくしたレッサーパンダに手渡した。
「プレゼント!中身は開けてみてのお楽しみだ!」
「わぁ、有り難う!」
「って、待って待って待ってここで開けないで中入ろう!慌てるなって…」
「あ、そうだねゴメン!うふふ!」
「今夜雨だって?」
「うん。残念だね。出かけられないね」
「残念そうな顔してないじゃんナル?」
「だって、出かけられなくても…」
二頭が連れ立って部屋に入り、ドアが閉じる様を、廊下のコリーは少し離れた位置から振り返って見ていた。
(相変わらずのラブラブボンバー…。羨ましい…。ツナはこういうトコ鈍感だし雑だもんな…)
微苦笑したコリーが部屋へ向かうその時…。
「気合が足りんし!な~にが「今日は、特別な日!愛が、育まれる日!カップル、誕生の日!というわけで華麗なる彼女ゲッ
トをお見せするので明日をお楽しみにグッバイ皆の衆!」だし!弛んどるし!稽古優先すべきだし!オコだし!すなわちプン
スカピー!」
黄昏荘脇の道路の歩道を、過剰なまでの防寒装備で真ん丸くなっているレッサーパンダがプリプリしながら歩いていた。
「稽古終わってからグダグダ言っても仕方ねぇだろう」
その隣を大股にスローテンポで歩くジャイアントパンダの巨漢が、常々不機嫌そうな顔を全く変えないまま応じる。
「何でそう冷静で居られるんかなー!?リンリンも一言あって然るべきだし叱るべきなんだし!副が何も言わんからつけ上が
るんだし!際限無く!駄目な限界突破!言うなればリミットオーバー!」
チョコマカと周りを歩き回って訴えるレッサーパンダだが、ジャイアントパンダは三白眼を真っ直ぐ前に向けたままである。
「休みも息抜きも必要だ」
「そういうトコだかんなー!?リンリン物分り良過ぎるんだし!」
「結構頑固だぜ?」
「そこは判っとるし。結構どころかメチャ頑固だし。つまりハードガンコ」
「ウシダテみてぇに、試合当日に起き上がれなくなるまで前の日に稽古する方が問題だ」
(あれは完璧に、リンリンの稽古見ながら同じペースで無茶やって自分の強度的な物を見失ってたせいだかんなー…。まっと
うな生き物が耐えられる稽古量じゃないかんなー…)
「それに、アカシはやる時はやる男だ」
「何なんだしその謎の信頼感?………前々からちょっと気になっとったんだけど、オイラが言っとるアカシとリンリンが言っ
とるアカシって同じアカシかなー…?」
「同じだろそりゃあ。…そうだ」
ジャイアントパンダが何か思い出した様子で鼻先を上げる。
「スーパー寄ってくぜ」
「何でだし?あ!ケーキかなー!?ケーキだしー!?かーっ!判っとらんなーリンリンは!」
衛星のように周回していたレッサーパンダは、憤慨した様子で正面に回ると、ジャイアントパンダの太鼓腹をボインボイン
とパンチする。委細構わず前進するジャイアンチパンダに合わせて後ろ向きに歩きながら。
「そういうのはスーパーじゃないし!ケーキ屋さんがマストだし!そもそも予約しとくべきだし!当日になって慌ててケーキ
買いにスーパー行くとかバッド!悪手!シェイクハンドならぬバッドハンド!バッドハンドにも程があるし!」
「ケーキは配達頼んだ」
「…?じゃあ何でだし?」
その質問に、ジャイアントパンダは質問を返す。
「何が食いてぇ?」
表情一つ変えない巨漢の顔を、後ろ歩きしながら見上げて目を丸くしたレッサーパンダは…。
「…ハヤシライス…」
クルリと向き直り、ジャイアントパンダに背を向け、尻尾をポフンと膨らませて、恥じらいながらソワソワと身を揺すり、
小声で応じた。
「おう」
「そ、そうと決まったら急ぐし!善は急げ、急がば回れ、時は金なりタイムイズマネースピニンググッド!ぼやぼやしてたら
置いてくかんなー!」
不自然なほどの早歩きになってチョコチョコ進んでゆくレッサーパンダの後を、
「おう」
僅かに目を細めて口角を上げたジャイアントパンダが、本来の歩調に戻って追いかけたその時…。
「待たせたね」
「いえ!」
五号棟の廊下では、のっそりと部屋から出てきたグレートピレニーズを、緊張気味のアメリカンショートヘアーが、それで
も嬉しそうに顔を綻ばせて迎えていた。
「少し急ごうか。バスの時間が近い」
「はい!」
並んで歩き去る、大兵肥満のグレートピレニーズと華奢なアメリカンショートヘアーを、そこから二つ隣の部屋のドアの隙
間から窺い…。
「もしかしたらとは思ったが…。君の堅物兄さんも、ついにデートか」
屈強な体躯の竜人が意外そうな顔をする。
「いや、デートって本人達は思ってるでしょうけどね…」
靴を履きながら真っ黒いポメラニアンが微妙な表情で述べるには…。
「映画観に行くそうですよ、アレ…」
「…初々…しい…な…」
きちんと言葉を選ぶ大人のデカルド。
「今時の高校生のが進んでますよまったく!いや中学生でももう少しこう、ああもう!」
不満げなスコル。別に自分が困る事では無いのだが、世俗に疎い所がある兄と奥手過ぎるアメショの進展の遅さは、見てい
てヤキモキするのである。
「それはそうと、レストランに電話してボトルを入れておいた。この間美味いと言っていた…」
「マジですか!?ヒュー!太っ腹!」
言葉を遮ったスコルがデカルドに抱きついて、顔にキスの雨を降らせたその時…。
「お?来たか、待ってたぜグフフフフ!」
四号棟の管理人室で、鯱の巨漢がドアを開けて口の端を吊り上げる。
「待たせたよ。はいこれお土産」
ドアの前に立っていた訪問者は、丸々と太った大柄な狸。
「おォ!?何処のだァ?」
「マーシャル諸島だよ。何でか我流無(がるむ)さんちの末っ子と会ったよ」
「…アイツ何であっちに行ってんだァ?」
「予約してた旅客船が整備不良で出航できなくて代替の船に乗船したら嵐に遭って沈没して乗り込んだ救命ボートの空気が抜
けて沈んでしがみ付いて漂流して漁船に拾われて近くの港で下ろされたらマーシャルだったそうだよ」
「相変わらずのトラブル巻き込まれ体質とサバイバル力だなァあの野郎…。で、何で帰って来てねェんだ?」
「世話になった島の猛獣駆除を手伝ってるそうだよ。あ、一番上のお兄さんにはナイショって事だったよ」
「あァ、心配して吹っ飛んでくだろうからなァ。万年金欠だから銀行強盗でもして旅費を用意しそうだァ」
「あははは!流石にそこまではしないよ!」
「グフフフ!そうだなァ!」
などと応じた鯱の巨漢は、しかしあの長男の事なので、末っ子の状況を話してしまったら案外笑い話では終わらないかもし
れないなと考えている。
「現地の家族の家に間借りしててネ、楽しそうだったよ。それはともかく、立ち話もなんだよ?」
「おっと悪ィ悪ィグフフフフ!」
引っ込んで通り道を空けた鯱は、「お邪魔しますよ」と狸が玄関に入ってドアが閉じるなり…。
「んっ…」
抱え込むように背中から片腕を回し、胸を起こさせて上から唇を重ねた。
塞がれた口から「んっ…」と声を漏らすタヌキ。ジャンバーとトレーナー越しにも判る豊満な胸を、鯱のゴツい手がなまめ
かしく揉みしだく。
「…っぷは!酒臭いよ?もう飲んでたナ?」
「グフフフフ!まァなァ!」
やがて、唇を離したシャチは、とぼけた表情で視線を上に向ける。
「爺ちゃんギックリが悪化してなァ、入院中だァ。つまり今夜は水入らずで二人きりって訳だァ。どんなに声上げたって平気
だぜェ?グフフフフ!」
顔を火照らせた狸が、「相変わらず品が無いよ」と眉根を寄せて…。
「でも、そういう所も好きなんだけどナ」
「んっ!?」
今度は逆に、素早く不意打ちでキスをした。
鯱の目が驚きで真ん丸になったその時…。
「済まぬ!今!すぐ!出る!」
五号棟の北出入り口から砂煙を猛然と上げて、携帯片手にシベリアンハスキーが駆け出してゆく。
「出た!そして門も出た!到着まで概算二十五分前後!済まぬ!誠に済まぬ!だがしかし上映開始には確実に間に合わせる!」
彼女に平謝りしながら動画を四倍送りしているような速度で歩道を駆けてゆくハスキーは、
「…ところで大蛇退治だが昨夜の内に観賞させて貰った何だあのヌルヌル動くアニメーションは当時の技術でどれだけの手間
をかければ可能となる鳥肌が立ったぞあの空中戦はスタッフの努力と愛という根幹部分も強く影響しているだろうが陣頭指揮
を執った作画監督の調整があってこそ均一な品質が保たれ…」
マニア特有の早口になりながらも舌を噛むことなく高速疾走してゆくハスキーが、待ち合わせ場所へ到着するまでの間もガー
ルフレンドにして戦友であるアニメーターを退屈させずに会話をもたせ、並んで歩く兄とアメリカンショートヘアーにドップ
ラー効果入りの声を聞かせながら追い抜いて行ったその時…。
「デートだそうですよ。ふふ」
黄昏荘のどこかの棟のどこかの部屋。真紅の絨毯が敷かれ、コタツに装いを変えた円卓が中央に置かれ、壁と卓上の燭台だ
けが灯りになる暗い部屋で、灰色の髪の小さい方の管理人はミカンをムキムキしながら呟いた。
関係者にしか所在が明かされていない、悪のアジトっぽさクオリティがやけに高い黄昏荘秘密の議場。円卓を埋める影は二
つのみ。
「そういう日だ。…とはいえ、そうか…。タケシ君もついに…」
赤い虎の偉丈夫が、ミルクココアを入念に吹いて冷ましながら応じる。出自を考えれば冗談のような猫舌である。
薄暗い壁に掲げられた大家手書きのスローガンは、「ご近所に優しく。外敵に厳しく。火は全てを焼き尽くす寒い時期こそ
用心すべし」。…書いた人物の素性を考えるとスローガンの三つ目がやたら重たい内容である。
「黄昏荘を出てからというもの、あまり顔を見せなくなりましたが…。ふふふ。父には筒抜けですよタケシ。貴方の彼女の友
人のエイルさんはとても正確な情報をお持ちでしてね…。ふふふ…。キムチスナックと交換で貴方の動向は手に取るように判
ります…」
若作りにも程がある若々しさで小学生にしか見えない管理人がほくそ笑む。
「ところで地獄(へる)女史から聞きましたが、「第二十一回、秋もムスペルヘイム!神々すら焼き尽くせ、焦熱の芋煮会」
の清算報告で計上された余剰金2万円、神代のご当主からの心付けを寄付金歳入に加え忘れていたのが原因と判明したそうで
す。近日中に清算書を作り直すとの事でした」
「それは良かった。足りなくて困るのは当然ながら、原因不明の繰越金過剰も大問題だ。不二(ふじ)さんも随分と気にして
いた事、決着を見て何より…」
冷ましまくったココアを啜る赤虎が遠い目になると…、
「それで?」
灰色の髪の小さい方の管理人が、話を切り替えるような問いを発した。
「それで、とは?」
視線を向けた赤い虎は、
「今夜はおひとりですか?」
「…不流(ふりゅう)さんと出かけるそうだ…。何でも、大事な話があるとかで…、紹介したいひとが居ると言われたとかで…」
答えながら、やや気落ちした様子で耳を伏せる。
「おやおや。あちらもいよいよ、ですか?」
「保護者のような立場である以上、そういった話への同席は仕方がない…。優先すべきだ…」
ズズッとココアを啜った赤い虎が、切なそうに溜息をついたその時…。
「度し難いカップルども!浮かれポンチども!死すべし死すべし!」
ジャカジャンッと節電のためアンプにつないでいないギターを奏で、やや灰色よりの白狼…我流無得(がるむうる)は即興
の呪い歌を熱唱していた。
「I bash you a
merry Christmas!I bash you a
merry Christmas!」
そう。今日はクリスマスイブ。例年のように発作を起こしたウルは、その滾る嫉妬と憎悪を演奏に叩き付ける。
「もしもーし」
「I bash you a
merry Christmas!?」
殺気立った顔で振り返ったウルの視線の先には、ハンサムな白い狼。
「せっかくライブねークリスマスなんだ。今日ぐらいギター置いたら?」
「ノックも無しに入って来るなハレルヤ!」
怒鳴るウルの手元はエアギターで抗議のトレモロ。ただし音は出ない。
「ノックしたしチャイムも鳴らしたし声もかけたんだぜ?」
「何の用だ!?この!クリスマス!イブに!嘲笑いに来たか汝持てる者よ!」
「そんなに暇じゃないって」
「だが出かけるのだろう!?彼氏と!クリスマス!デートだろう!爆ぜよ!」
「もち、ハニーとウメちゃんと三人で出かけるけど。やっぱ今日は鳥だろ鳥!焼き鳥パーティー!」
「焼き鳥屋など!いつもと同じではないか!代わり映えしないなハレルヤ!底が見えるようだ!」
などと言いつつワナワナ震えながらギリギリ歯を噛むウル。羨ましさで血管切れそう。
「そもそも、デートというのに三人でというのが既におかしい!」
「ハニーは図体デカ過ぎて手に余るんだよ。ハグすんのも背中洗うのも酒の相手も、俺とウメちゃんの二人がかりで丁度いい」
「な~にが「ウメちゃん」だ!そこに独占欲は無いのか!?このシェア魔め!」
「う~ん、独占欲とかはねーかな?別に。独りじゃ食べ切れねーケーキとかさ、分けんのがベターじゃん?それで皆ハッピー
ならオッケーってなもんで」
「貴様のハニーはケーキレベルか!弟のように可愛がっている二号に寝取られてしまうがいい!呪われよ汝持てる者!」
「ああそうそう、忘れるトコだった…」
敵意満面で噛み付きそうな表情のウルに、ハンサムな狼はポケットから取り出したチケットを差し出す。
「何だ!?」
「クリプレ。交換期限今日までの牛丼無料クーポン。使えなくなんのも勿体ねーじゃん?」
ウルの目が丸くなり手が止まる。
「…この聖夜に…、施しの神か…!?」
「んじゃ、メリクリアデュー!」
スチャッと手を上げて別れを告げ、颯爽と帰ってゆくハンサムな狼を、両手でクーポンを捧げ持ったウルは跪いて見送った。
呪いの即興歌を叫ぶほどの機嫌は、牛丼一杯ですっかり直っていた。
クリスマスイブ。
多くのカップルが商店街へ繰り出し、あるいは自宅に落ち着き、一夜を越す日。
特別な一日という意味では同じだが、しかしこの日の訪れを手放しに歓迎できない存在もある。
むっつりと黙りこくったジャイアントパンダは、ポケットに両手を突っ込み、白衣をはためかせ、咥えタバコの紫煙を風に
流させながら、空を見上げていた。
雑居ビルの屋上。貯水槽の上。本来ならば点検業者程度しか立ち入れないそこに、ミーミルはいつもの面倒臭そうな顔をし
て立っている。視線は空…今にも雪が降り出しそうな白い雲へと固定されていた。
「…足りない、か…」
ポソリと小声で呟くや否や、ミーミルは顔を下げて頭をガシガシ雑に掻く。
「気は進まないが、今回はアイツと私だけでは少々厳しい。四の五の言ってもいられないな…」
直後、空間にノイズが走り、その姿は忽然と消え去った。
ドアの内側にかけられた、窓から見える札が裏返されてclosedの表記に切り替わると、カシャンと施錠の音が響く。
店じまいした惣菜店で、金色の熊はせっせと片付けに勤しんだ。
店内のクリスマスデコレーションも今日まで。とはいえその片付けは明日の開店前にするとして、調理場の片付けと火の元
のチェックを急いで終わらせる。
(あど40分…)
調理器具を洗いながら壁時計を確認したユウトは、短い尻尾をピコピコと振った。
今夜はタケシに誘われており、仕事が終わった後で一緒に食事する事になっている。着替えもロッカーに準備してあるし、
小さな小箱も一緒にしまってある。
ドキドキする。緊張する。気が急いて手がせかせか動く。
(遅刻だげはしねぇようにしねげねがすと?)
そう自分に言い聞かせ、洗って拭って綺麗にした調理器具をテキパキと片付け、ガスの元栓を再確認するユウトは…、
「済まない。邪魔する」
かけられた声で顔を上げ、キッチンから店内を覗いて目を丸くした。
そこに、白衣を羽織ったジャイアントパンダが立っている。
「あれ?ミーミル先生?なじょしたのすか?」
入店を知らせるドアの鐘は鳴らなかった。そもそも施錠したはずだった。が、そこに違和感を覚えるよりも早くユウトはカ
ウンターに出る。今夜用の食事を買い逃したのだとすれば、急いで何か拵えてあげなければ、と。しかし…。
「…済まない。本当に…。他に手があればそうしたのだが…」
歩み寄り、カウンター越しにユウトと向き合ったミーミルは、耳を倒して遺憾の表情。首を傾げる金色の熊。
「先生?何か困りごど…」
すっと伸ばされたミーミルの手が、ユウトの顔の前で広げられた。
きょとんと開かれた碧眼に、走査線のような光が映り込む。そして…。
「…ああ」
青い目が半眼になり、理解の色を灯した。
「そういう事…。理解できたよ」
雰囲気が変わり、口調からも訛りが消えたユウトを前に、ミーミルは耳を倒したまま軽く頷きかける。
「記録情報のダウンロードと同期は上手く行ったようだな?」
「うん。状況含めてだいたい判った」
顎を引いた金熊に、小さくため息をついてミーミルは言った。
「繰り返しになるが、済まない。こちらだけで対処するつもりだったのだが、今年はどうにも手が足りなくなった。我が護衛
者だけでは二進も三進も行かず、時間に僅かばかり空きがある者に片っ端からオーダーを…」
「いいよいいよ!普段から守って貰ってるんだからね!」
目を細めて手をパタパタ振ったユウトの体をノイズが覆い、割烹着が瞬時に戦闘服へと変化した。黒色のジャケットにパン
ツ、足元は素足。闇夜に溶け込む戦闘服に装いを変えたユウトに「その格好で良いのか?」とジャイアントパンダが確認する。
「うん。今日はこれでいい」
素足になった両足の具合を、その場で軽くを足踏みして確かめたユウトが頷く。
「そんな顔しないで、大丈夫だよ!」
指を組み合わせて掌を前に向け、腕を伸ばして関節をほぐしながら、ユウトはウインクして見せた。
「40分以内にケリをつけて、約束にも遅刻しない。そう難しい事じゃないよ!」
「頼もしいな。…では」
「うん!」
金色の熊はガツンと胸の前で両拳を打ち合わせ、不敵な笑みを浮かべた。
「任された!」
走る。ビルからビルへと跳躍するその軌跡は、闇を切り裂く黒と金のアーチ。
まるでエクストリームパルクール。目も眩む高所を高速移動するユウトは、比喩ではなく宙を駆けている。
踏み出し移動するその先へ力場を発生させ、それを足場にして疾走、跳躍する。戦闘服を纏いながらもあえて素足になって
いるのは、その足裏に展開する緩衝材としての力場が履物を吹き飛ばしてしまうため。
ミーミルから指示された数箇所のマーキングを目指すユウトは、その一つ目を程なく視認した。
(あれだ!)
家族連れなどの団体で賑わう街角。人々の頭上2メートル程の位置を、暗灰色の塊が浮遊していた。皆の視界には入ってい
るのだが、人々はソレを認識する事ができない。
(何て言うか…、手抜きデザインのゲームエネミーみたいだね…)
一抱え程の大きさの三角錐。暗灰色の表面には亀裂のように、あるいは血管のように、無数の赤い筋が不規則に走っている。
だが、その表面の枝分かれする赤い筋は、立体的に浮き上がって空間に根を張り、侵食していた。まだその根は地上を歩く人
々に届いてはいないが…。
その侵食を放置すれば、根に引っかかった者が「停止」する。
ミーミルの説明を思い出しつつ、地上30メートルから降下し、「魔王」神代熊斗は拳を固める。そして…。
「ふん!」
落下速度と全体重をかけ、燐光を纏わせた右拳の一撃で、コンクリート程の強度があるソレを木っ端微塵に粉砕した。
破片になって飛び散ったソレは、宙に張っていた根のような筋ごと黒い塵になって消滅する。が…。
(うわ…!本当に「影」の一種じゃないコイツ!気持ち悪…!)
ユウトは気付いた。空間に張られた毛細血管の如き根の、無数の先端が、五指を備えた「ひとの手」の形をしていた事に。
そしてその五指が伸び、腕になり、また五指を備え…。そうやって延々と伸びて増え続ける。幾億幾兆の手となって世界を
捕らえ尽くすために。
かつて「影」と呼ばれたソレは、「修正者」とその協闘者達の手で根絶された。故に、記憶をダウンロードされたユウトに
はすぐさま同類であると実感できた。かつて協闘者のひとりとして「修正戦」へ挑んだが故に。
(とにかく、まずは一体目!)
ドズンとアスファルトに着地したユウトは、素足で地面を踏み締め、身を起こす。行き交う人々も車も、臨時修正者に任命
された金熊を認識する事はない。
(ボクのノルマはあと九つ!さぁ、バリバリ行こうか!)
ダウンロードされた記憶情報は一部分。この世界が構築されるに至った「修正戦」をミーミルや「あのひと」に助力して戦
い抜いた記憶はあれど、分岐元となった世界で自分がどんな選択をし、どんな末路を辿ったのかは判らない。
だが、それでもやるべき事は判っている。
想い人が共に生きる世界がここにある。想い人と共に生きる街がここにある。ひとりでも多くの者が幸せに在るようにと、
望まれて生まれた歴史がここにある。
自分の力がそれを守る一助となるならば、闘わない理由は無い。
銀光が、煌びやかなライトアップに輝く。
巨大なクリスマスツリーが出現した駅前広場、待ち合わせ場所でありデートスポットでもあるそこで、一抱えほどの三角錐
が三つ、細い線に絡め取られた。
「3、4、5…」
雪中迷彩のコンバットスーツを纏う逞しい白狼は、そのグローブから伸びた極細の鋼線で対象を捕縛すると同時に、結合し
つつ周囲に伸び始めていたそれらの根を寸断している。
ウルは広い空間の中心部、クリスマスツリーの頂点間際の空中に留まっているが、その足場はブーツから伸びた無数の鋼線
で形成されていた。
「侵食域の切断完了。拡大の停止を確認。これより分解する」
機械的な口調で宣言したウルが、スッと指揮者のように腕を振るった直後、鋼線に絡め取られていた三角錐はキンッ…と澄
んだ音を立てて1立方センチ単位に解体される。さらにウルが両腕を広げ、下ろし、下から回して中央で交差させつつ振り上
げると、複雑に編まれた鋼線が破片となった対象をミリ単位まで細かに切り刻み、塵に返す。
「5体の解体を完了。並びに…」
記憶のインストールを受け、「黄昏の楽師」に一時立ち戻ったウルは、視線をチラリと路上に向けた。
そこに、黒い狼獣人が居る。スマートでハンサムなその男の傍らには、ゴツくて逞しい竜人が立っている。
自分の存在を知覚出来ないまま、美しいクリスマスツリーを見上げている黒い狼の幸せそうに細められた目を数秒見つめた
ウルは、膝を曲げて鋼線の張力を利用し、大きく跳躍した。
「駅周辺の安全確保完了。これより索敵移動に移行する」
今日は年に一度の「特異日」。世界の綻びが最も大きくなる日。
「この世界」に存在しないはずの物がこの日は大量に湧く。「分岐元」の名残…複写と再構築の過程において処理し切れず
に残された、いわゆる「削除データの影」のような物が。
商店街を人々が行き交う。
無数の笑顔。無数の幸福。無数の縁と無数の絆。
「さて、それはそれとして」
歩行者天国中央、人々が無意識に左右へ割れ、道を開けるそこに、ソレは立っていた。
灰色の髪に灰色のローブの灰色ずくめ。外見は十歳前後の男の子に見える。
「なかなか興味をそそる対象ですね」
灰色の目が見上げる先には、こちらに先端を向ける三角錐、その数3体。
「丁度いい数です」
薄く笑うロキ。三角錐は空中をゆっくりと浮遊移動しながら、常に先端を向けて来る。包囲するように三方へ展開するその
動きには、明らかな攻撃準備の様子が見て取れた。
「しかし…。一瞬期待しましたが、「こう」ですか…」
薄笑いを消し、至極つまらなそうに「魔人」ロキは言った。
単調だった。単調で単純だった。「修復戦」後期において確認された複雑な行動や、思考を窺わせる様子は見られない。今
目にしているそれらは、至極単純な動作命令を実行する原始的な機械と変わらない。
「制限時間もありますから、さっさと済ませましょう」
ポケットに手を入れたままの男の子の周囲には、先程から百科事典のような大きさの石版が三つ浮かんでいた。ふわふわと
周回しているそれは、一見するとそうは見えないが、一つ一つがこの男の武器である。
「丁度三つ。面倒な工夫は必要ありませんね」
石版がひたりと止まる。それぞれが三角錐と正対する位置で。
直後、三角錐が揃って前進した。真っ直ぐに、素早く、その尖った躯体をもってロキを三方向から突き刺し、押し潰そうと。
しかし…。
「トリスメギストス、同調なさい」
ロキの宣告と同時に、普段は一枚しか使わない武装が、三方向にジボッと光を吐き出す。
それは、一種の火炎放射である。ただしプラズマ化した燃焼現象だが。
実った稲穂のような光が一瞬だけ空間に焼き付けられた後には、気持ちばかり残された塵が吹き散らされて漂うのみ。
「そろそろノルマは終わりますが、さて…」
石版を周囲に滞空させたまま、ロキは黄昏荘を見遣る。
「世界の守護者とその護衛役の観測は難しいですが、あちらは今からでも観測できるでしょう」
世界が綻ぶ特異日。
毎年訪れる一年最大の仕事が、自身と護衛者のふたりだけでは手に負えないと判断した場合、この世界の守護者たるミーミ
ルは、選定した数名に協闘者としての記憶をダウンロードする。
それは、そのタイミングで正常な時の流れから転げ出ても問題ない者。
ひとと会う約束を履行する前までのユウトや、ひとりで牛丼屋に向かっていたウル、養子を尾行しようとしていたロキなど
が選ばれたのは、この条件に合致したからである。
その頃。黄昏荘の一号棟の屋上には、影が一つ。
(なるほど。今回の大元はあれか…)
空を見据える金色の瞳は、そこに暗い歪(ひずみ)を見い出す。
黒く滲んで見える何か。そこから十数秒に一つのペースで三角錐が吐き出されていた。
腕組みをして仁王立ちする赤い体躯の偉丈夫は、軍服を思わせるデザインの衣装に身を包み、寒風吹き荒ぶ屋上で、異物の
発信源を見定める。
空に浮かぶそれは、スルトの目には巨大な臓器のように映った。脈動する、暗灰色の心臓に。
(あの程度の高度ならば…、容易い仕事だ)
黄昏荘に住む者達には、入居者達もオーナー達も知らないが、一つ共通点がある。
強弱大小の差はあれど「世界の敵に成り得た可能性がある者」。それが黄昏荘に住む者達の共通点。そしてその共通点は、
大家もまた例外ではない。
スルトは組んでいた腕を解き、その右腕を横へ水平に伸ばすと、掌を後方に向け、握る。
そこに、在った。瞬き一つの間に現れたソレは、しかし元からそこに在った。
柄を握られた、スルトの身の丈ほどもある深紅の大剣は、この男の存在そのものに紐付けられた物。目に見えて存在せずと
も常に共に在る物。
「始動バーナー、起動」
くるりと手首を返し、正眼の位置で構え、目を閉じた赤虎が呟く。
「助燃バーナー、起動」
命に従い、深紅の大剣はその赤味を変化させ、刀身を明るくする。
「主燃バーナー、起動」
出力増加に伴い、大剣はまるで熱された鉄のように赤々と燃える。
「保持バーナー、起動」
そしてその赤みは、やがて明るく転じてオレンジに変化してゆく。
「非常バーナー、起動」
全ての動力が同時運転され、剣は光の塊のように眩く輝き出した。
「全バーナー並行励起。共振燃焼最大」
スルトが目を開ける。構えた大剣越しに空を睨む。
「偽装解除、刀身開放」
炎が揺らめくように大剣の姿が揺らぎ、歪んで見えたそのままに刀身を固定する。
直剣の形状だった刀身は、フランベルジュと称される刀剣のような姿に変化していた。すなわち、揺らぎ波打つ炎の形状に。
それは、スルトという存在に紐付けられた固有武装。ある世界を焼き尽くすべき者の手に握られる終焉の魔剣。すなわち、
如何なる世界線、如何なる時代にあろうと、逆説的に「「あの世界」と無関係でない存在であれば焼き払える」特効兵器。
その名はレヴァテイン。世界を炎にくべる剣。
半歩踏み出し、燃え盛る大剣を脇に寝せ、スルトは虚空の闇を睨み、
「灰燼残さず焼却せよ、レヴァテイン」
静かな囁きに次いで、その得物を下から振り上げた。
閃光が走り抜け、天上を貫き、長大な光芒が天地を繋ぐ。国一つを焦土に変え、海一つを干潟に変える熱量が、範囲外には
一切の破滅をもたらす事なく、直径20メートル程の熱閃として駆け抜けて…。
黄昏荘に住む者達には、入居者達もオーナー達も知らないが、一つ共通点がある。
強弱大小の差はあれど「世界の敵に成り得た可能性がある者」。それが黄昏荘に住む者達の共通点。
では、何故黄昏荘にそんな存在が集まっているのかと言うと…。
(…バベルは?)
駆け抜けた熱閃の行方も、暗黒の臓器が崩れ解けさり消滅したその結果も目で追わず、スルトは振り返った。
蜃気楼のように聳え立つ、象牙色の巨大なモノがそこにある。
枝分かれした巨木のような、あるいは無計画に枝を増やしたアンテナのような、もしくは引っくり返って天に伸びた植物の
根のようなソレこそが、この世界の要。
この世界に一柱だけ存在するバベルと、その管理者たるミーミル。成り立ちからして本来不安定なこの世界を支えているこ
れらを護る為に、黄昏荘はこの街に在るよう造られた。世界を滅ぼし得る彼らの武力をもって「世界の害」を除くべく。
時折、バベルの枝の先などでチカチカと光が瞬いているのは、歪の影響を受けたこの世界の運行を安定させようとミーミル
が踏ん張っている証拠。システム維持に注力している間は「影」の相手ができるほどの余裕は無い。
だが、時折バベルの表面でパッと黒く塵が舞うのは、ミーミルが孤立していない証。この世界にたった一柱のバベルと、こ
の世界にたった一柱のワールドセーバーを、今も護衛者が警護している証。
(後続も増援も断った。あちらもあの分なら心配無用。…ミーミルの依頼通り、此度の仕事はここまでだな)
スルトが託されたのは歪そのものを叩く事のみ。もうじき自分も元に戻る。
(さて、「元に戻る」のか、「元に戻っている状態が終わる」と言うのが正しいのか…)
軽く口角を上げたスルトは、今や「世界の害」を焼くための物となった大剣を担ぎ上げ、ポンポンと肩を叩いた。
「待たせたかな?」
バスターミナルの灯りがよく見える駅前商店街のドイツ居酒屋前で、長身の青年が足を止めた。
「ううん!今来たどご!」
時計を気にしながら待っていたユウトは、顔を輝かせて首を左右に振る。本人は知る由もないが、衣服は着替え用に準備し
ておいたロッカー内の物に交換されており、プレゼントも手元にある。物理的にもそうだが記憶の方もミーミルの仕込みで辻
褄合わせをされており、違和感の欠片も抱いていない。
「…今日は、誘いを受けてくれて有り難う」
「おらほごそ!お誘い頂ぎましてありがどうございます!」
頭を下げ合うふたり。交際が始まってしばらく経ってもこの辺りは相変わらずで、互いに顔を火照らせ少し話し難くなって
いる。そんなふたりの様子を…。
(ふふふ…。安心しなさいタケシ。この父が傍から見守っていますよ。それにしても…、居酒屋ですか。レストランではあり
ませんか。デートなのにですか。その辺りはこの父の教育もちょっと行き届いていませんでしたか。遺憾ですね)
ゴミ箱の陰から灰色のストーカー…もといタケシの養父が見ていた。
「え、えっと…。このお店、ネギタマ美味ぇらしいね!?」
「ああ、確かそんな評判を聞いた事が…」
何とか会話の糸口を探してきたユウトに応じるタケシは、何故ドイツ料理の店のメニューに牛丼があるのだろうか?と甚だ
疑問だったが、深く考えるのを辞めた。あの猪の店主の好物だとか、だいたいそんな理由なのだろう、と。
「テイクアウトで」
クーポンと引き換えに無料で牛丼を受け取ったウルは、ビニール袋を提げていそいそと帰路に着く。
マヨネーズをたっぷりかけて食すその瞬間を思い浮かべるだけで、口内でも脳内でも色んな液体がドバドバ出る。
「今年は祝福しようクリスマス!…ん?」
鼻先を横切った白い物を目で追って、ウルは足元に落ちたそれを見遣り、次いで空を見上げた。
子供の声が聞こえる。男女の溜息が聞こえる。はぁ、という感嘆の声は自分の口から出た物だった。
綿毛のように舞う雪が、風が殆ど無い空からふわりふわりと降りて来る。
「ホワイトクリスマスか…。マヨネーズは二倍かけよう!」
「戸締り確認完了」
契約している窓清掃業者が、日中に年内最後の作業に来ていたので、棟内の全ての窓のロックを再確認して回ったスルトは、
屋上が無人である事を確かめた上でドアを施錠すれば、チェックを全て終える。
受水槽清掃も浄化槽点検も窓清掃も終わり、年内に履行される黄昏荘の保守委託契約は今日の窓掃除が最後だった。新年を
気持ち良く迎えられると、縞々の尾を歩調にあわせて揺らし、スルトは無人の屋上の手すりに歩み寄って夜景を望む。
もう空に歪は無い。聳える塔ももはや見えない。自分が何を行ない何を為したか自覚しないまま、赤い虎は清々しい気分で
空を見遣る。
ふわふわと綿雪が下りてきた。
差し伸べた手の上に乗り、数秒の内に溶けて消える、美しく儚い一欠けら。
ふと、立てた耳で拾ったのは、何処からか流れてきたクリスマスソング。
「メリークリスマス…。今夜は独り鍋だが」
呟き、口の端を僅かに上げ、踵を返した赤い虎が床に落とす影は、名残のようにまだ大剣を担いでいた。
「…バテた…」
本棚に四方を囲まれた、天上が見えない部屋の中央で、ミーミルは椅子の背もたれに体重を預けて天を仰ぐ。
額にアイスノンを乗せて呻きながら、新聞を手にして顔の前に翳す。数時間前まで文字化けだらけの落丁だった新聞は、今
ではだいたい正常に読めるようになり、一面を飾る駅前のクリスマスツリーの写真も滲んでいた輪郭をはっきりさせていた。
注意深く見れば文字が抜けて空白になっている箇所や記号になってしまっている所もあるのだが、それらが眺めている内に直っ
てゆくのは、護衛役が掃除を続けているおかげ。
「影」も、もはや街には一体も居ない。
「もう一踏ん張りはしておくか…」
ミーミルは卓上に新聞を放り出し、目を閉じる。
事象 凍結
瞬間、世界が止まる。何もかもが動きを止める。ミーミルと、彼の護衛者を除いて。
音にならないはずの停止した時の中、ミーミルの声だけが響いて世界に指令を伝える。
事象 凍結解除
経過時間ゼロ。時がその流れを正常に戻したその時、護衛者は仕事を完遂し、新聞の文字化けは全て解消されていた。
ふぅ、とため息をついたジャイアントパンダは、目頭をつまむようにして押さえながら、もう片方の手をデスクの上の黒電
話に伸ばす。丁度ヂリリリリンと呼び出しのベルを鳴らし始めた、物理的には何処へも接続されていない電話から受話器を取
れば、予想通りの相手の声。
「ああ、こちらでも解消を確認できた。ご苦労だったな」
通話相手を労うと、ミーミルは立ち上がり、腰の後ろを握り拳の甲でトントン叩き始める。いかにもくたびれたといった様
子だが…、
「ドリアを作っておく。冷める前に帰って来い」
気を取り直した様子でそう付け加えると、通話相手から何を言われたのか、動きをピタリと止めて眉を上げ、微妙な間をあ
けてから顔を顰めて目を閉じた。
「………」
結局何も言い返さずに黒電話へ受話器を戻したミーミルは、気を紛らわすようにガシガシとうなじを掻きながら部屋を出て
行く。
「まったく…。他意も照れも無く好きな物を素直に好きと言えるお前の性根は、ある意味羨ましい物だ。まぁ、褒められて悪
い気はしないが…」
静かに夜が更けて、静かに夜が明ける。
雪は路面を薄く隠す程度で積もるのをやめ、下がった気温がそれらを形そのままに残す。
薄化粧の街並みの上で、静かに空が白み始めた頃、市街中心部にあるホテルの一室で、華奢なアメリカンショートヘアーは
薄く目を開けた。
柔らかい。暖かい。心地良い。
まどろみの中で感じる温もり。夢現のままぼやけた視界の白を眺め、そういえば昨夜は雪が降ったのだと思い出して…。
「………!」
パッと目が開いた。
白く見えたのはフカフカの長毛。暖かさは他人の温もり。自分が今どうしているのか理解したミオは硬直して呼吸を止める。
暖房が強くきいているホテルの部屋。体の左側を下にして横臥する格好のアメリカンショートヘアーは、白い巨漢に抱きつ
いていた。下着一枚、仰向けで寝ているグレートピレニーズに。
(かっ、かかかかかかか係長っ!?)
パニックを起こしかけたが、フワフワとカーテンのようになびく記憶の端を踏ん付けたのをきっかけに、ミオは昨夜の事を
思い出した。
昨夜はハティとふたりで、メディアで話題になっている人気SF映画を観に行って、そのまま夕食に出かけた。予定では食
事して帰るだけのはずだったのだが…。
居酒屋の半個室、観たばかりの映画を話題にした食事は、思っていた以上に話が盛り上がった。かなり長々と居座ってから
店を出たら雪が降っていて、タクシー乗り場には長い順番待ちの列ができていた。雪は止まなかったし、待つのも疲れるし、
何より寒いしで、ミオが小さくなった頃、不意にハティが手を引いて列から引っ張り出された。
歩いて帰るんですか?と、それもアリかもと思いながら訊ねたら、巨漢はしきりに空を見上げながら「いや、悪い予感がす
る」と、何かに耳をすませている様子で述べて…。
(それで…、ホテルに泊まったんだった…。屋内に入った方が良い気がするって言われて…)
しだいに記憶がはっきりしてきて、近場のホテルを三軒回った事、やっと空室があったと思ったらセミダブルの部屋しか空
いていなかった事などを思い出した。
だが、それだけだった。
交代でシャワーを浴びた後、ハティはミオをベッドに誘い、一緒に寝た。
そう。何事も無く、文字通りの意味で、隣に寝るよう誘って一緒に睡眠をとった「だけ」である。
もっとも、別に期待していた訳でもないミオは残念がってはいない。むしろ…。
(係長とくっついて寝ちゃった…)
ドキドキしながら、幸福な気分に浸る。
右腕は、ゆるやかに上下するふくよかな腹に乗っている。丁度ハティの右腋にすっぽりと左肩が収まる格好で、頭は肉付き
の良い肩を枕代わりにしていた。
いつまでこうしていて良いのだろう?そろそろ起きて離れた方が良いだろうか?そんな事を少し考えた後で、
(あ…、そうか…)
ミオは気がついた。おかしな事を考えていた、と。
(付き合ってるから、こうしてても良いんだ…)
ハティはまだ起きる気配が無い。普段から眠りが浅く、睡眠自体が短い体質なのに、完全に無防備で熟睡していた。
まだ朝も早いので、ミオは再び目を閉じる。
「さめやま」で遭難した時も味わったが、今日も少し奇妙に感じた。まるで、前々からこういう事をしてきたように「しっ
くり来る」と。
布団は腰のところまで捲れていたが、暖房が強いのか、それともそれ以外が理由なのか、ちっとも寒くなかった。
「普通に帰りましたね。アホですかねあの子は」
灰色の髪の男の子は、コタツに入ってミカンを剥きながらブツブツと文句を垂れていた。朝六時。無駄に早起きである。
「食事して、プレゼントを交換して、ではメリークリスマス…。アホですね。アホの子ですね。あれでは神代のお嬢さんも呆
れ返ってしまう…と思いきやまんざらでもなさそうですから始末に終えません」
昨夜、養子のデートをストーキングしたロキは、食事して談笑してプレゼントを渡しあって別れるという、デートの内容に
憤慨していた。
「と、いう訳で、ですよ」
視線を上げたロキの対面にはシャモン。こちらも遺憾の表情である。
「このままでは今世紀中に孫の顔が見られるかどうか定かではありませんので、どうか協力してください」
「ええ、お手伝い致します。私もタケシのあの態度を忸怩たる思いで見ていましたから…」
静かな声で応じたシャモンは、熱い緑茶を啜って一拍おき…。
「…力ずくでもくっつけましょう…」
とことんコワい微笑であった。