あるカップルへの免罪符

 今ウチの店では、人気カードゲームのコーナーが拡大されて、低年齢の子供達の出入りが増えている。

 店長もこのカードゲームに夢中。売れ筋商品だからってだけじゃなく、個人的にも興味が大きいらしい。

 まぁ判るよ。俺は手を出さないけど、コレクション性とゲーム性、増え続けるカードや広がり続ける世界観にのめり込むひ

とも多いからなぁ…。

 そんな風に店長自身がノリノリなもんで、倉庫は空きスペース大きかったからって、改築で仕切ってプレイブースまで作ら

れたし、カードの買い取りやバラ売りまで始まった。

 さらには店長自ら公認ジャッジになっちゃって、店が公式戦の予選会場にまでなる始末…。

 …実は俺も公認ジャッジにさせられた…。

 テストに合格しなきゃなかったものの、そこはまぁ得意分野だし、それほど苦労はしなかった。…学生時代、真面目に学力

上げてて良かったかもなぁ…。

 そんなこんなで、子供らに付き纏われて賑やかに騒々しく喧しく一日を終えた俺は、シャッターを下ろしてホッとひと息…。

「お疲れ様ヤマト君」

 正面口のロックを確認して振り返った俺に、猫店長がニコニコ笑顔で声をかけて来た。

「あ、店長もお疲れ様です」

 ペコッとお辞儀した俺を、「毎日一生懸命頑張ってくれてるから、小さいお客さんもしょっちゅう来てくれるようになった

よ」と機嫌がいい店長が褒めてくれた。

「いやぁそんな、普通の事以外何も…。俺の頑張りとかじゃないですよ」

 くすぐったくて苦笑いし、照れ隠しに鼻を掻いていたら…。

「いやいやヤマト君のおかげだよ。子供に人気があるからね」

「へ?」

 きょとんとした俺に、店長はニコニコしながら言う。

「友達感覚で話しかけられてるじゃないか?」

「いやぁ、舐められてるだけですよソレは…」

 思わずまた苦笑いだ。

「それは…、まぁ少しはあるかもしれないけど…」

 店長…、否定はしないんだ…?あるかもしれないんだ…?いやまぁフォロー期待してこう言った訳じゃないが…。

「ほら、大きくて肥っ…大きいから、遊園地の着ぐるみみたいな印象があるんじゃないかな?それで子供達もヤマト君が好き

なんだよ」

 …今、何か言いかけて変な取り繕い方しましたよね店長?

「ヤマト君は、子供相手の商売が天職だったのかもね」

 天職…。

 思いがけない言葉に、返事もできなくなった俺は、

「バイトに来てくれてた頃は、あまりこう…、接客向きじゃないかなぁって思っていたんだけどねぇ。あの頃とはちょっと雰

囲気も変わったし…。何かあったのかな?気持ちの持ち方が変わったとか?」

「あー、まー、そのぉ…。気の持ちようは確かにちょっと変わったかも…」

 モゴモゴと返事をする俺。

「こうやって、お陰様で定職に就かせて貰えましたし、生活の安定が俺にも安心感をくれて、気持ちに余裕ができたっていう

のはあります。絶対」

 この返事に、店長は一度目を丸くしてから、「そうだったのかい…」と嬉しそうに笑って尻尾をユラユラさせた。

 何か、ご機嫌取りでもしたようで居心地悪いな…。

 言った事に嘘はない。でもまぁ、思い当たる原因を全部伝える訳にもいかないから、言い訳するように言った部分も確かに

あって…。

 …俺が変われたのは、ナカイ君の存在によるところが大きい…。

 初めてできた恋人の存在…。それだけじゃない、面倒を見なきゃって、しっかりしなきゃって、そう心のどこかで思ってる

内に変わって来たんだと思う。

 でも俺、元々はこんなだったのかもしれない。

 特に高校の頃は寮生仲間との共同生活で、後輩の面倒も見なきゃいけなかったし、あれこれ世話もやいたりしたし、三年生

の時なんか寮監として一応あそこのリーダーやってた訳で…。

 あの頃はマイペースにやってるようでも、毎日に張りがあったんだよな…。

 それが、大学に進んで、あんなに求めていたやりたい事も見つからなくて、見つからない状況に慣れてしまって、どんどん

やる気が失せて行って…。

 俺って、きっと誰かと一緒に居ないとダメなヤツだったんだろう。

 自分自身だらしないけど、それでも誰かの面倒を見たり、世話をやいたり、そうやって持ちつ持たれつで刺激を受けてない

と、人並みにシャッキリできないんだろう。

「お疲れーっス!異常なっし!」

 店の奥から、プレイブースで忘れ物なんかのチェックをしていた灰色のロップイヤーが顔を出す。

 こうしていつも通りに、俺の仕事は終わる。そして部屋に帰れば…。むふふっ!

 おっと!また申し遅れた。俺は大和直毅(やまとなおき)。毛並みが薄茶色の羆種で、ピッチピチの二十五歳。…本当だ。

サバ読んでねぇってば。

 無駄にデカい図体に加えて、全身くまなく丸い肥満。肉体労働向きじゃないから、この体格は宝の持ち腐れと言われたりも

する…。

 だが、こんな俺を好いてくれるんだ。できたばかりの恋人はっ…!



「ただいまー!」

 玄関を開けて帰宅した俺は、自分でも張りがあると判る声を出していた。

 それに反応して、奥からパタパタと足音が…。

「おかえりなさい!お疲れ様でしたヤマトさん!」

 台所から小走りで玄関まで出迎えに来てくれたのは、茶色の被毛の若い犬。

 中井雪之丞(なかいゆきのじょう)君、二十歳。

 この愛らしく整った顔に、ほっそりスレンダーなモデル体型の青年は…、何を隠そう、俺の恋人っ!しかもこの間から同棲

してる!

「ご飯の支度もうちょっとで済みますから」

「じゃあ着換えてくるね」

 靴を脱いでジャンバーから腕を抜きながら答える最中にも、ナカイ君は脱ぐのを手伝ってくれる。…これがまたくすぐった

い…。

「急いで済ませますから、少しコタツで待ってて下さいね」

「うん。焦んなくていいからね?」

 並んで居間に入り、ナカイ君は台所へ。俺はクローゼットがある寝室へ。

 軽く暖房を入れたのか、寝室の空気は冷たくなかった。帰る時間を見計らって色々と手を回してくれるのは、出張ホストと

して身に付けた気配りの賜物らしい。

 …もっとこう、適当でいいんだけどなぁ…。何だかこんなにもてなされるのは申し訳ないしくすぐったいんだけど…。

 ズボンとシャツを脱ぎ、パジャマに着替えて上からどてらを羽織り、洗濯物を脱衣場へ。携帯をチェックしながら居間のコ

タツへ…。

 はぁ〜…!足元から暖まるこの幸せ!ホッとするなぁ!

 …去年の今頃も、バイトが終わって部屋に帰って来ると、ホッとすると同時に気が楽になったもんだったよな…。あの頃は

いつだって、早く帰りたいって、働きながらもいつも思ってたよ…。

 でも、今は違う。

 仕事をするのは生活のため。俺とナカイくんが暮らしてくためだっていう目的意識が生まれたせいか、前は無かった働く意

欲がしっかりある。

 それに、ここに帰って来てホッとするのは同じでも、前とはちょっと質が違う。

 前のここは、逃げ込む場所。

 今のここは、まどろむ場所。

 何より大事な物がここにあるから、外で働いで、ここを守ろうって思えるんだ。

 そうして働いたら、守っているここで大切な相手とくつろいで、まどろんで、明日を迎える。

 働いてくって、暮らしてくって、生きてくって、こういう事だったのかなと今更ながらに感じている。

「おまたせしました!」

 ニコニコ笑顔のナカイ君が、御盆に料理を乗せて台所から顔を出した。

「あ、もうできた?」

 俺も腰を上げて、台所から茶碗類を運び込む。

 そうしている間にナカイ君は電子ジャーを開けていて、しゃもじを片手に、もう片手を俺に伸ばして…。

 その手に茶碗を渡して、湯気が上がる白米が乗せられるのを見守って…。

 ああ、幸せだ俺…!こんなに幸せで良いのか俺…!

「ヤマトさん?」

「うん?」

「どうしたんですか?何だか…、泣きそうな顔してますよ?」

「え!?そんな顔してんの俺!?いや何でもないよ?泣いたりはしないけど…」

 幸せのあまり、ってヤツか…!

「それじゃあ…」

「うん。いただきます!」

「いただきます!」

 コタツを挟んでふたりで食事に取り掛かる、最近やっと馴染んできた夕食風景。

 ナカイ君と出会うまでは、こんなのに憧れはしても、どうせ現実になる訳がないって、どっかで諦めてたんだよな…。

 ホッカホカの炊き立てご飯に、長ネギと鶏肉のシンプルな塩胡椒炒め。焼き立ての粕漬け鱈。酒の肴にもなるピリ辛キンピ

ラごぼうと白菜、蕪の漬物。汁物はシジミ汁!

「苺ムース作ってみましたから、食後に出しますね」

「うわ!今日デザート付き!?有り難う!」

「苺が安かったんです。鮮度落ちなんかの訳有りフルーツの特売してて、部分的にちょっと潰れたりしてピンクになってる苺

が…。それでふと思いついたんです。ムースにしちゃえば見た目の悪さも関係ないですし…」

「へー!本当、そういうの良く気が付くね?っていうか良く思いつくもんだ」

 料理が上手い上に安く済ませる事も得意なナカイ君は、贅沢を慎みながらも毎日凝った手料理を出してくれる。しかも俺を

飽きさせないようにだろう、和洋中に創作料理と、豊富なレパートリーを披露してくれる。

「…でさぁ、店長が言うんだよ。子供に好かれてるって」

「へぇ。でも、何となく判る気がします」

「え?何で?」

「ヤマトさん大きいから、着ぐるみのキャラクターみたいに思えるんじゃ…」

「あ〜…、あはは…!店長にも同じこと言われたよ…。でも好かれてるんじゃなくて、舐められてるんだよなー、実際はさ」

「舐めるっていうか…、どっちかって言うと子供達にあるのは安心なんじゃないですか?ヤマトさん優しいから、叱られない

し我儘言えると思って、気さくに接して来るんだと思います」

「そうかもなぁ…。いややっぱりそれ、舐められてるって事じゃない?」

「あれ?…あはは…。あ、お代わりよそいます」

「うん。有り難う」

 特別な事はこれといって何もなかった、ありふれたお互いの一日についての報告。でもこれがまた俺には幸せ…。

 そして食事とデザートが済んだら、台所にふたり並んで皿洗い。

 ナカイ君が洗って、俺が拭く。料理の時は居ても役に立たない…っていうか、ただでさえ狭い台所のスペースを図体で占拠

して邪魔になるだけだが、片付けの時はきちんと分担作業できるからな。

 他愛ない話をしながら、キュッキュキュッキュと皿を綺麗にする俺達。

 ナカイ君の尻尾は静かにフサフサ揺れている。俺の短い尻尾も、気付けばピコピコ小刻みに動いている。

「今日、キーを頑張ったら緊急が出ました」

 ナカイ君が、今日のゲームの進捗を口にする。

「おっ!?すっごい進んだじゃないか!しんどくなかった?」

「あはは!お薬が尽きそうです…」

「じゃあ早速緊急片付けて、サクッとランク上げようか。で、新エリア探索で素材集めしながら貯蓄だ」

 ナカイ君はゲームが嫌いじゃないから、共通の話題には苦労しない。…まぁ、時々度胆を抜くようなレトロかつマニアック

なゲームの話題出されて、俺が困惑したりもするんだけどさ…。逆に新しいゲームには疎いんだよなぁ…。



「捕獲行けるよ。どうする?」

 食後の一狩りも佳境。炬燵に下半身を突っ込んで、俯せに寝転がりながら携帯ゲーム機を操作する俺は、脇にちょこんと座っ

てヒーターの温風に当たっているナカイ君に話しかける。

「あ…、はい…。罠を…仕掛けます…」

 操作に集中してあまり余裕が無いナカイ君が、ポソポソと答える。

 妙に肩が力んでいるんだが…、この一生懸命な感じがまた可愛い…!

「あ!撥ねられっ!罠はつけたのに!」

「大丈夫。俺が捕獲するから」

「す、済みません…!」

「ドンマイドンマイー!」

「お?成功!」

「お疲れー!そして昇格おめでとう!」

「えへへ…!有り難うございます!」

「あ、落し物出てるから、忘れないで」

「あれ!?どこ!?あった!遠い!」

「20秒!20秒!」

「急いでYAMATOさん!」

「そのキャラにそう声掛けするのやめたげてぇ!」

 俺のゲーム機のモニター内を、右から左へ中折れ式大砲を担いだ丸い熊…ナカイ君のキャラがドタドタ駆け抜ける。

 そして数秒後、画面に小窓メッセージが出て操作受付終了…。

「取れました!」

 ナカイ君の声と同時に俺の画面内で、大太刀を背負った犬耳の操作キャラがガッツポーズを取って、そのシンクロ具合に小

さく吹き出した。

「お疲れさん。じゃあ一息入れて、報告とか荷物整理とかやっちゃって」

「はい。…あ」

 ナカイ君が何か思い出したように顔を上げる。

「お手紙届いてたから夕刊と一緒にしてたんですけど、もう見ました?」

「え?あ、まだ…。誰から?」

「クロスさんと…」

「じいさんと?…どっこいしょっと…!」

 言われて腕立てするような格好で上体を起こし、コタツを振り返って端に乗っている夕刊を見遣ると、その上には封筒が乗っ

ていた。

 モソモソ起き上がってそれを手に取って差出人を見ると…。

 …え?

「どうしました?」

「いや、その…」

 口ごもる俺。ナカイ君は顔を引き攣らせている理由が判らないようで、小首を傾げている。

「御家族か、親戚のひとですよね?」

「うん、まぁ…」

 差出人の名前で察しがついたんだろう。ナカイ君は相手がどんな素性なのか薄々判っているようだった。

 差出人の名前は、大和良毅(やまとよしき)。

 こいつはその…、俺の…家族のひとりで…。



「う〜ん…」

 唸る声が浴室に籠って反響する。

 脱衣場からは、先に上がったナカイ君が使っているドライヤーの音。

 湯船の縁に腕を乗せて湯に浸かりながら、俺は手紙の内容について頭を悩ませていた。

 ヨシキ…つまり俺の弟からの手紙には、週末にこっちへ来ると書いてあった。

 ちょっと前までなら悩んだりしなかったんだ。独り暮らしだったから。でも、今はナカイ君と同棲している訳で…。

 ヨシキ含め、家族は俺がホモだって事は知らない。恋人だなんて紹介できるはずもない。一体どう説明したら良いのか…。

 両手で湯を掬って、バシャッと顔にかけて擦る。

 名案って言える程のものは、どんなに考えても浮かばなかった…。



 二つ並べた布団の上で、暗い天井を見つめる。

 なかなか眠れない…。

 隣の布団で寝ているナカイ君にも、俺が寝付けないでいるのが判るようで、時々こっちを窺っていた。

「どんな弟さんなんですか?」

 そんな風に訊ねられたのは、布団に入ってから20分ほど経った頃だった。

「ん?えーと…」

 考える俺。ヨシキの特徴を挙げるなら、そうだなぁ…。

「俺と違ってスポーツマンでさ、サッカーやってた。子供の頃からずっとレギュラーで、名キーパーだよ。俺とは体型がかな

り違って、デブじゃないんだよなぁ。プロレスラーみたいにがっしりしてて、体格も良いし運動神経も良い。その反面、小さ

い頃から勉強は苦手だった。いや、嫌いだった…って言うべきかな。特に算数とか」

「へぇ〜!」

「だからまぁ、外面は全然似てない兄弟だよ。でも好みは似通っててさ、アニメもゲームも漫画も、お互いが気に入った物は

相手もほぼ確実に気に入るって感じで、いろいろ共有してた。…中学までは…」

「あ、高校から寮暮らしでしたもんね?オジマさん達と」

「そうそう。三つ下だから、俺がこっちに出て来た年に高校に入ってさ。そこでもやっぱりサッカーで大活躍!鼻が高かった

けど、どうしてこうまで違うのかって、皆に突っ込まれたよ…」

「性格はどうなんですか?ヤマトさんみたいな、朗らかで物腰が柔らかい感じでしょうか?」

「俺は単に小心で腰が低いだけだよ…。でも、一見するとお堅い感じになるかな?ハキハキ、キビキビ、そんな具合だから。

興味無い事にはかなり適当なんだけど…。あ、部屋は汚い。そういう所は質が似てる」

 クスッと、ナカイ君が笑った。横を見ると、笑いを堪えて声を押し殺してるようだ。

「あれ?どうかした?」

「いえ…!手紙を読んでから気分が浮かないみたいに見えてたんですけど、取り越し苦労だったなぁって…!」

「へ?何で?取り越し苦労?」

「だってヤマトさん、弟さんの事をこうして楽しそうに話してくれるじゃないですか?てっきり不仲なのかなぁって思っちゃっ

てたから、自分の心配がおかしくて…」

 …ああ…。

 俺は天井に目を向けて、無言で頷いた。

 そうだ。ナカイ君の言うとおりだ。

 気が乗らないっていうか、あんまり来てほしくないなぁとは思ったんだが、俺はヨシキが嫌いな訳じゃない。

 せっかく遊びに来るんだから、久々に兄弟で何処かに飯を食いに行ったり、近況報告し合ったり、やりたい事もあるんだ…。

 まずい。バレる。そんな風にばかり考えて、変な迎え方する所だったよ…。

「私、数日外に出ていましょうか?」

「え?」

「だって、弟さん泊まって行ったりするんじゃないですか?私の事は説明し難いんじゃ…」

 俺が頭を悩ませていた件には、ナカイ君も想像がついていたようだ。でも…。

「でもさ、行くっていっても何処に?」

 ナカイ君は父親に勘当されて家を出た身。実家に一時帰宅っていう訳にも行かないし…。

「トベさんにお願いして泊めて貰います」

「あ、そうか」

 黒スーツを着込んだ大柄な土佐犬の顔を思い浮かべて、その手があったかと納得した。トベさんはちょっと前までナカイ君

の保護者役だった。こんな時は頼っても良いかも…。

 それに、トベさん自身も喜ぶかもしれない。

 離婚して子供に会えなくなったトベさんは、ナカイ君を息子みたいに思っているところもあるし…。

「…トベさん、まだ起きてるかな?」

 夜光塗料で針が浮き上がる時計を見れば、12時50分だ。

「お店が午前二時までですから、起きてますよ」

「電話、かけても良いかな?」

「平日の夜はお客さん少ないはずだから、たぶん大丈夫です。早速お願いしてみますね」

「いや、俺がかけるよ」

 布団を押し上げて体を起こした俺は、充電器にセットしていた携帯を手に取った。

「俺の都合でお願いするんだから、俺が話さないと」

 電話帳を画面に呼び出しながらそう言うと、ナカイ君は「そうですか」と、何だかちょっと面白がっているような声を漏ら

した。

「あれ?何かおかしかった?」

「いえ。ちょっと…。前にトベさんが言ってた事を思い出したんです」

「え?」

「ヤマトさんの、そういう風にスジを通そうとする所が好きだって」

「ちょ!?ナカイ君やめてよぉ!今から電話するのに、そんなの聞いたら変にかしこまっちゃうだろー!?」

「あ。そうですか?…そうですね…。あー、済みませんでした」

 笑い混じりに謝るナカイ君。

 そして俺はくすぐったいような恐縮しているような気分でトベさんに電話をかけて、週末、ナカイ君を泊めて貰えるように

お願いした。



「お先しましたー!先輩もお昼どうぞ」

「おー、ありがと」

 スタッフルームから戻って来たロップイヤーに声をかけられ、俺はレジの時計を確認する。

 デジタル表示は13時。思い出したように腹が鳴った…。

 いそいそと店の奥に引っ込んで、スタッフルームに入る。俺が最後だから部屋には誰も居ない。

 真新しいロッカーに歩み寄って、中からナカイ君お手製の弁当を取り出す。空腹のせいで動きがやや速い。

 昨年ごろから店の売り上げは随分良いらしい。

 俺を含めてバイトで賄っていた分を正職員で固めたし、休憩室が改築されたばかりのこのスタッフルームは、冷暖房空気清

浄器湯沸かし器テレビ付き。ひとりひとりにロッカーだけでなく、そんなに使う事も無いのに大きなスチールデスクが用意さ

れた。

 その中の俺の席について、携帯を机の上に出し、弁当を広げる。ナカイ君がいつも手の込んだのを用意してくれるから、毎

日の昼食も楽しみの一つなんだよなぁ…!

 保温容器に入った白米は温かい。おかずは…、焼き鮭と、一口サイズに切り分けた厚切り豚ロースの生姜焼き、レタスとア

スパラとブロッコリー、大根とキュウリとニンジンのスティック、昆布の煮しめ、デザートのキウイ!

 腹も満足するボリュームに加えて、野菜類も豊富に入れてくれる所にナカイ君の優しさを感じる…!

 さて早速!有り難く頂きま〜…ん?携帯が…?

 片手で箸を持ったまま、着信表示がある携帯を手に取り、確認する。

 ナカイ君から着信と、メールが…。二時間前!?何だろう?急いで掛けないと…、いやまずメールか?

 えーと、なになに…?大至急?うわやべぇっ!何かあったのか!?

 慌ててメールをスクロールさせた俺は…。

「ほがぁーっ!?」

 珍妙な声を上げて、椅子も引かずに立ち上がりかけ、太腿をしたたかに机にぶつけてガタコン言わせて痛い目に遭った。



 まだ運転慣れしていないランドクルーザーのハンドルを握り、帰路を急ぐ俺の頭は、グルグルしていた。

 ナカイ君から来たメールを確認した直後、俺は痛みに呻きながらも電話をかけ、事実確認した。

 そのぐらい信じ難い内容だった…というより間違いであってほしい内容だった。

 そして俺は、急だったけど、店長にお願いして休みを貰って早退した

 右に、左に、曲がって止まって信号で苛々して、ふかし気味にアクセルを踏んでプラドを急がせた俺の目に、住み慣れた古

いアパートが映る。

 普段の倍ぐらいかかったような気がする帰路も終わり、ようやく駐車場に乗り入れて、真新しい「大和」って札が見えるス

ペースに、バックももどかしく鼻から入れる。

 大急ぎで車を降りて部屋へ向かう俺の脳裏を、ナカイ君からのメールの文面が過ぎった。

 

―弟さんがいらっしゃいました―

 

 ウソだろヨシキぃいいいいいっ!

 来るって手紙に書いてあった日にちは二日後だろぉーっ!?



「ただいま!」

 ドアを開けた俺の耳に、「お、来たか」と太い声が届いた。

 乱雑に靴を脱いでドタドタ居間に駆け込むと、そこではナカイ君と、肩幅が広くごっつい体躯をした羆の大男が、携帯ゲー

ム機を手にして向き合って座っていた。

 …あれ?

「お帰りなさ…い、ヤマ、トさん…」

 妙に力んでゲーム機を見つめながら操作しているナカイ君が、硬い口調で言う…。

「早かったな兄貴。わざわざ帰って来なくても良いのによ。…お、ナカイ君ナイス」

 ぶっとい指でカチカチとキーを弄る羆が、妙にどうでも良さそうな声で言う…。

「おいヨシ…」

「待ってろ兄貴。もうすぐ終わるから」

 かけようとした声すら遮られて、俺はやるせない気分になった。

 …いや、待ち構えられてても困るんだが…、こういう状況に、年次休暇まで使って帰って来た俺は、どんな顔をして臨めば

いいんだ…?

 しばらく所在なく立っていた俺が、コタツに入って左右の顔を見比べ、待つ事しばし、「お疲れ」「有り難うございました」

とふたりは声をかけ合い、狩りの終了が察せられた。が…。

「戦利品整理とかアイテム補給とか後にしろよ!ずっと待ってんだろ俺が!」

 羆がいつまでもカチカチキーを押しているから、いい加減腹が立って怒鳴る。

「おお」

 面倒臭そうに返事をして、ゲーム機を置いた羆は、「しばらく、兄貴」と俺に目を向けた。

 厳つい顔に大柄で筋肉質なゴツい体躯。俺と違ってデブって訳じゃなく、皮下脂が薄いプロレスラーみたいな体型。

 こいつが俺の弟のヨシキ。三つ下の二十二歳で、今年度で大学卒業…。

「しばらく…。お前な、手紙に書いて来た日にちと違うだろ!早いよ!」

 早速文句を言った俺に、

「抜き打ちで来ねぇと部屋片付けたり、いろいろ準備したりするんじゃねぇかと思ってな。ありのままの兄貴の生活を見に来

たって訳だ」

 ヨシキはしゃあしゃあと言う。この野郎…!

「お生憎様!もうちゃんと片付けてたよ!」

「らしいな」

 蛙の面に小便だ。まったく悪びれる様子が無い…。

 とにかく、ナカイ君の事はなんとか上手く誤魔化せているのは間違いない…。

 俺は行儀よく座っているナカイ君にちらりと視線を向けて、安堵した。

 これはメールにあった事だが、ナカイ君はスーパーへ買い物に出かける直前にチャイムがなり、訪ねて来たヨシキと鉢合わ

せたそうだ。

 何者なのか、どうしてこの部屋に居るのか、と訊かれたナカイ君は、俺の友人で、今夜の食事に呼ばれており、その準備が

てら訪ねて来たところなのだと、咄嗟に誤魔化していた。

 ちょうど外出用に上着を着て、玄関に行った所で会った事もあり、ヨシキはさらりとこれを信じたらしい…。

「まったく…。こっちの予定も考えろよ!夜に鍋する予定でナカイ君呼んで、準備を頼んでたのに!食材足りなくなるかもし

れないだろ!」

 嘘に乗っかる形で合わせた俺に、「そりゃ悪かったなぁ」とヨシキが首を縮めた。

「とにかく、元気そうで何よりだ。別に仕事休まなくたって良かったのによ」

「馬鹿言うな!ナカイ君にある事ない事吹き込まれたら溜まったもんじゃない!そもそも完全に留守だったらどうするつもり

だったんだ!?」

「どっかで時間つぶしたさ」

 堪えないヤツ…!

 そんな俺達のやりとりを見ていたナカイ君は、

「私一度おいとまします」

 と、傍に置いていたジャンバーを取りながら口を開いた。

「ちょっと買い物を…。お肉、足りなくなるかもしれないですから」

「あ、そうか!それじゃ俺が…」

「いえ、私が行ってきますから、ヤマトさんは弟さんとゆっくりしていて下さい」

 柔らかく微笑むナカイ君。俺は「じゃあやっておく事とかある?」と訊ねたが、「大丈夫ですよ」という答えが返ってきた。

「一時間ぐらいで戻りますから。…夕食、少し早めにしますか?」

 ナカイ君が思い出したようにそう付け加えたのは、結局弁当を食えなかった俺の腹が鳴ったせい…。

「そうだと有り難いな。俺達カップラーメンだったし」

「俺なんか食ってないんだぞヨシキ!」

 ナカイ君は俺達のやりとりで笑いながら、「すぐ戻りますね」と席を立った。

 そして、部屋にふたりきりになる俺とヨシキ…。

「あー、そのー、元気か?」

「まあ、元気だ」

「ふたりも?」

「親父とお袋は、絶対に俺達より長生きするって」

 たどたどしく近況を訊ねる俺に、ヨシキはゲーム機を手に取りながら応じる。

「お前ちょっとゲームやめ…」

「ながら、で良いだろ?別に居住まい正して真面目な話をしようって言うんでもねぇし」

 まぁ、その方が気もまぎれるし、間も持つかな…。

 そうして俺も、自分のゲーム機をとってきて通信プレイを始める。

「なあ兄貴」

「ん〜…?」

 ゲーム機の画面を見たまま、ヨシキが口を開く。

「帰って来る気はねぇのか?」

「…まぁ、今の所は…」

「そうか」

「………」

 気詰まりな沈黙が、俺達が挟んだコタツの上に乗った。

「家を継ぐのは、そんなに嫌だったのか?」

「…どうかな…」

「そうか」

「………」

 途切れ途切れの会話が、思い出したように空白を埋める…。

「兄貴」

「ん?」

「今、幸せか?」

「…まぁ、幸せだよ」

 この問いかけには、頷く事ができた。

「やっと定職につけたし、仕事も張り合いがある。こっちの友達も多いし、やる事も色々ある。暇はしない…」

「そうか」

 また、しばらく沈黙が続いた。

 ゲームの音が、間を取り持つように耳に流れ込む。

 そして一区切りついた所で、俺は沈黙に耐え兼ねて腰を上げた。

「ちょっとタバコ…」

「ああ」

 頷いたヨシキに背を向けてベランダへ。

 後ろ手に窓を閉めて、タバコの箱とライターを取り出す。屋外とはいえ日当たりが良くて、寒くはない。

 タバコを咥えて、火をつけて、ひと息吸い込んだ俺は、

「兄貴」

 後ろから聞こえた窓があく音と、ヨシキの声に振り向く。

「一本くれ」

「お前、吸うのか?」

 俺は意外に思って訊ねた。ヨシキはずっとサッカーをやってきた。大学に入ってからも。体力が落ちたら困るからと、二十

歳を過ぎてもタバコは避けていたんだが…。

「もう卒業だ。試してみても良いだろ?」

「…勧められたもんじゃないけどな…。美味くないぞ?」

 まぁ一本ぐらいは良いか、噎せて「なんだこりゃ?」って言うのがオチだろうし…。

 箱の尻を指でトントン叩いてタバコの吸い口を飛び出させ、そこから一本抜かせてから、

「咥えて。火をつけるから吸え。吸いながらじゃないとつかないんだ」

 そう説明しながら、手で覆いを作って風を防ぎ、ヨシキが咥えたタバコの先に火をつける。

 まるでストローのような持ち方をして、ジュースでも吸うように煙を吸ったヨシキは、

「うぇふっ!」

 予想通り早速咳き込んだ。

「な?美味いもんでもないだろ?今から始める事もないって」

 ケフケフ噎せるヨシキの背中をさすってやりながらそう言ったら、

「だな。どんなもんだろうって思ってたが、こういうのなら別に良い…!」

 ヨシキは目尻に涙を滲ませながら、改めてエフンエフンと咳払いした。

 その背中をさすってやりながら、俺はつくづく思う。

 何歳になったって、コイツのこういう妙に子供っぽい冒険心とかは、消えないもんだよなぁ…。



 ナカイ君は予告通り、だいたい一時間ぐらいで帰って来た。

 買い物袋を片手に腕捲りして「すぐできますからね!」と台所に入って行く様は、すっかり板についている。

「よく一緒に飯食うのか?」

 一緒にコタツに入ったまま見送ったヨシキの問いに、「ん、まぁ割と?そんなに頻繁じゃないけどな」と嘘をつく俺。

 ふぅん、と頷いたきりヨシキは黙って、ミカンを剥き始めた。

「兄貴が帰って来るまでいろいろ話したけど、良い子だよな」

「ああ、おお、い、良い子だよ!気が合うし話題も合うし…」

 いろいろ、という表現にちょっとビクつく俺…。でもナカイ君も慎重に振る舞って、ボロが出ないようにしているから心配

ないはず…。

 ミカンを口に放り込むヨシキは、ナカイ君が作ったチラシの皮入れを見遣る。いちいちドキドキしてしまう小心な俺…。

 ゲームしてないと間が持たないな…。ナカイ君の事が無ければ普通に接する事ができるんだろうが、俺、不自然な振る舞い

になってないか?

 ドキドキビクビクオドオドしながら待つ俺の耳に、「お待たせしました。持って行きますよ」と天使の声が響いたのは、し

ばらく居心地の悪い思いをした後の事だった。

 やった!これで救われる!

 最初にカセットコンロを持ってきてくれたナカイ君。俺はいそいそ腰を上げて、ガスコンロにかけてあった土鍋を運び込む。

 今日は鶏の水炊き。

 骨付きのブツ切りもも肉と白菜、長ネギなどの野菜がごろごろ入った、白濁鶏ガラスープ!

 初回分はもう煮えて、すぐ食べられるようにしてあるが、追加用の肉と野菜もたっぷりある。

 ナカイ君がトベさんから頂戴して来た純米大吟醸を出して徳利に注ぎ、御猪口と取り皿をそれぞれの前に置いて、ポン酢や

調味料を用意したら…。

『いただきます』

 三人分の声が重なって、少し早い夕餉が始まった。

 一手間加えて鶏ガラから作り起こしている鍋は絶品!湯気が上がる見てくれも食欲を増進!

「料理、上手いんだな」

 しばらく白菜やら鶏肉やら頬張っていたヨシキが、口の中が空になるのを待ったように、ポツリと漏らした。

「有り難うございます」

 耳を寝せて照れ笑いするナカイ君。

 …ナカイ君は気付かなかったみたいだが、俺はヨシキの声に違和感を覚えた。

 感心している…のもあるだろう。美味くて満足している…のもあると思う。

 だがそれだけじゃない。もっと何か、別の物が混じっているような…、そんな静かな声だった。

 …何かを、確認しているような…。

 表向きは平静を装って、ナカイ君とヨシキに話を振りながら、俺は弟の様子を観察し続けた。

 その最中での事だった。

「あ、ちょっと失礼します」

 携帯に着信があったナカイ君が、相手を確認して腰を上げたのは。

「ここで良いのに」

「でも職場からなので…」

 気を遣わなくていいから、と引き止めようとした俺に、ナカイ君はちょっと困ったような顔で言う。

「え!?呼び出し!?」

「ではないと思いたいんですけど…」

 そう言ってナカイ君は台所に入った。

 …職場…、つまり大人のおもちゃ屋さんからだな…。確かにここで変な事は言えないから、念のために部屋を移動した方が

良いだろう。

 閉められた台所の戸の向こうから、ナカイ君の声が聞こえ始める。くぐもっている上に鍋の音が近くで聞こえるから、内容

までは判らない。

 そしてはたと、会話が途切れた。

 ヨシキは取り皿から鍋の具を摘まんでいる。

 気付けば俺は、ナカイ君の事をヨシキに、ヨシキの事をナカイ君に話していただけで、ヨシキと俺の話はしていなかった。

…色々とバレないように、無意識に避けて…。

「なぁ、兄貴」

「ん?お、おお?何?」

 ちょっと舌がもつれる返事をした俺に、

「ナカイ君、良い子だよな。本当に」

 と、ヨシキは言った。

「ん、まぁ、そうだよ。良い子だ凄く」

「なぁ兄貴」

 話題を変えたい俺が何か思いつくよりも早く、ヨシキは続ける。

「ベランダに出てタバコ吸うようになったの、いつからだ」

「え?えぇと、いつから…かな…」

 妙な質問に面食らう。いつって…、ナカイ君と知り合ってから、部屋をタバコ臭くしないようにして…。思い出してみたら

つい最近だな。

 理由はともかく時期だけ答えようと思って、口を開きかけた俺に、

「ナカイ君、礼儀正しいのに「台所お借りします」って言わねぇんだな」

 ヨシキはそう言って、顔を上げて目を見つめてくる。

「それはほら、そんなに気を遣う事でもないし…」

「洗面所には、歯ブラシやコップなんかも二つずつあったな」

「っ!」

 ドクンと、胸の中で心臓が暴れた。

 ヨシキはじっと俺の目を見つめている。

 疑われている。ヨシキは俺とナカイ君の仲を…。

「あ、あれはその…、来客用で…」

 我ながら苦しい言い訳だ…。

 その「凝視」といってもいい視線を受け止めて正視するのは、苦痛だった。

「兄貴が履くには絶対に小せぇスリッパ、ありゃあ一体何だ?」

「………」

 バレた…!?

 応えられない俺に、ヨシキは言う。

「もう、良いだろ?」

 口の端を上げて、目を細めて、静かに…。

「隠さなくても良いんだよ。もう…」

「ヨシキ、あの…」

 口を開いた俺の声は、ヨシキに遮られた。

「ナカイ君、ここで暮らしてんだろ?友達じゃなく恋人なんだ。違うか?」

「………」

 誤魔化す言葉を必死に探す俺。

 ヨシキはハァ…とため息をついて、

「実はな、兄貴が「そう」だって事、気付いてたんだぜ?」

「え?」

 その言葉は、耳には入っても、一瞬頭に入り損ねた。

 少し間が空いて、その間に言葉の意味が、俺の脳に浸透して来る。

「俺も、親父もお袋も、兄貴が「そう」だって知ってる。しばらく前からな」

「な、なんっ…!」

「親と弟だぜ?それも、仲の悪くねぇ家族だ。昔っから薄々感じてたんだよ」

 言葉が出なくなった俺に、ヨシキは「だから」と続けた。

「兄貴、もう変に取り繕わなくたっていい。家の事も、もう心配しなくて良い」

 ヨシキはニカッと笑った。

 その笑顔は、何だか誰かに似ているように思えた。

 一拍おいて、ヨシキの笑い顔が、写真で見る俺の笑い顔にそっくりな事に気が付いた。

 俺が太っているから、輪郭含めて顔立ちは随分違うのに…。

「俺は、春から家で働く。跡継ぎには俺がなる」

 ヨシキは笑顔のままそう言った。

「兄貴は兄貴で、こっちで頑張ってけ。家の事は心配すんな」

「…良いのか?」

 俺は、ヨシキの目を真っ直ぐ見つめる。見辛かったが、それでも見つめる…。

「お前、それで良いのか?お前にもやりたい事あるんじゃないのか?嫌々後継ぎになるのは…」

「勝手に決め付けんでねぇ」

 子供の頃のような浜言葉に戻ったヨシキは、笑い顔のまま目を閉じて、ツンと鼻を上げた。

「おらのやりてぇごどっつぅのが、親父の後ば継ぐごどだ」

「ヨシキ…?」

 そのままその言葉を信用する事はできなかった。気を遣ってそう言っているだけなんじゃないかと。だが…。

「知ってたか兄貴?俺が店の手伝いを嫌がってなかった事?兄貴が戻って来ねぇ内に、仕事手伝ってお得意さん達にも顔覚え

て貰ってたんだぜ?」

「ヨシキ…」

 声を掠れさせた俺に、ヨシキは太い親指で自分の顔を指し示して見せた。

「魚屋の若旦那!俺にゃ結構似合ってるんじゃねぇか?」

「…かもな、俺よりも…」

 肯定する事で、胸の奥がチクンと痛んだ。

 似合ってるな。向いてるな。

 そんな感想を言ったら、ヨシキに家の事を押し付ける格好の口実に、自分が飛び付いたように見られるんじゃないかと思っ

た…。

「兄貴は、皆に好かれてたよな」

 ヨシキが言う。グツグツ言う鍋に目を向けて。

「自分の損も顧みねぇで、誰にでも親切にして、世話やいて骨折って、いつだってさ…。そんな兄貴だから思うんだよ」

 ヨシキは優しく細めた目を俺に向けて、諭すように言った。

「余所で骨折ってる分、家の事は多少ないがしろにしても良いだろう、ってな」

 コイツ、いつからこんな顔するようになったんだろうな…。

 俺はずっと家に帰らなかったから、ヨシキとも滅多に会わなくなっていたから、コイツがもう子供じゃないって事に、なか

なか気付けなかったんだな…。

「俺は親父の後を継ぎてぇ。兄貴は余所でやっていきてぇ。誰が損すんだよ?丸く収まって万々歳じゃねぇか?ははははは!」

 逞しい肩を揺すってカラカラと朗らかに笑うヨシキ。さっきまで口数が少なかったのが嘘のように…。

 いや、口数が多くなかったのは、ずっとこっちを窺って、考えていたからなんだろう。

「一つ、借りとくよヨシキ…」

 ずっと胸の中に居座ってた、故郷や家督の事が少しずつ解れて楽になって行くのを感じながら、俺は目を細めた。

「借りなら、俺の方に山ほどある」

「え?」

「ガキの頃から貯めに貯めた、兄貴への借りがさ」

 ふっと穏やかに笑うヨシキの顔に、俺はデジャヴを覚える。

 あれは…。



 確か…、雪がたっぷり降った冬の終わりだった。

 俺が高校に進学して、地元を離れる年の事…。

 玄関前の雪をザックザックと掘り返して、道に出るまでの足場を作りながら、

「兄貴」

 傍らのヨシキが、スコップを握る手を休めて口を開いた。

「おお、がおったが?ちこっと休憩入れっか?」

 俺も手を止めて振り返る。

 この時のヨシキはまだ小学六年生だったが、もう高校生並みに体格が良かった。

 一方俺も、この頃にはすっかり体が膨れ上がっていて、中学の時点で成人に間違われたりもしたっけ…。

 二か月後には、ヨシキは中学に進学し、俺は高校進学で醒山へ移った。

 舌に馴染んだ浜言葉を捨てて、頑張って発音から訛りを消して、言葉使いも標準に近い形に直して…。

「おらぁまだ平気だ」

 疲れていない、と腕を回してアピールするその仕草と、鼻をすすりあげる様子が、体の大きさはともかくまだまだ子供なん

だと感じさせる。

「兄貴は、高校の次、大学いぐのが?」

「ん〜、まぁ、んだな」

「大学の次は会社が?」

「そんな先、まだわがんねぇって…」

 応じた俺は…、そうだ。この頃にはもう地元に居たいと思わなくなっていて、賑やかで快適な場所へ出たいと思っていて…、

「いづこっちゃけぇって来んだ?」

「そりゃあ…、休みにへったら、けぇってくんべさ…」

 それを見透かされたような気がして、ヨシキにつっけんどんな返事をしたんだった…。

 そして俺は、作業に戻った。

 会話を打ち切りたくて、雪を見つめて手を動かした。 

 こっちとは違う、空気が凍りつきそうな冬だ。鼻は利かないし、フードを被った襟口では、吹き込む風が鳴って物音も良く

聞こえない。

 チェーンを巻いたトラックがキャタキャタキャタと、家の前の圧雪された道路を走って行く音が、時々耳に付いた。

 肥っていて汗っかきだから、動いて体温が上がって、ジャンバーの中で湿気が上がって、汗で湿った体がスースーし始めていた。

「兄貴」

「あー?」

 疲れていないならさっさと作業を終わらせよう。そんな気持ちもあって、ちょっと無愛想な返事をしながら振り向いた俺に、

「高校、楽しいどいいな」

 ヨシキはそう言って、目を細めて穏やかに笑いかけた。



 …そうだ。

 …そうだったんだ…。

 ヨシキは、子供だったくせに気付いていたんだ。

 小学生だったくせに、俺の気持ちを汲んでいた。

 頭はあまり良くないと思っていた。

 勉強は好きじゃなかったし…。

 実際成績もあまり良くなかったし…。

 なのにコイツは、ちゃんと俺の事に気付いて、察して、考えて…。

 …ああ、そうか…。

 何処かで侮っていた。軽く見ていた。

 コイツはいつまでも俺の弟だけど、いつまでも子供なわけじゃない…。俺はその事を「解った」気になって「判って」いな

かった…。

 恐縮。そう言えば良いだろうか?俺はヨシキに申し訳ない気分になった。

「ヨシキ…」

「ん?」

 弟の、何だ?と言いたげな、言うべき事を言ってすっきりした顔を見つめながら、俺は深々と頭を下げた。

「済まなかった。そして、有り難う…」

「な、何だよ急にしおらしくなって!よせやい改まってそんな風に言うの!」」

 驚いているような慌てているようなヨシキの声が、耳を倒して詫び、同時に感謝する俺の頭を撫でた。

「そ、それにしても遅いなぁナカイ君」

 取り成すようなヨシキの言葉で、俺も疑問に感じた。

 …あれ?やけに長い?電話の声ももう聞こえていないような…。

 なんて思ったら、カララッと戸が開いてナカイ君が顔を出した。

「あ、どうだった?緊急出勤?」

「いえ、明日のシフト交代できないかっていう話でした。明日は八時に出ますけど、今日は大丈夫ですよ」

 訊ねた俺に応じるナカイ君は…、…あー、えーと…、何だこの半端な笑顔?微妙に作り笑いっぽいけど…。

 いそいそとコタツに戻ったナカイ君に、

「グッと、あけてくれ」

 徳利を持ったヨシキが酒を勧めた。

「あ、有り難うございます…」

 半分ぐらい残っていたらしい御猪口をキュッとあけて、ナカイ君は手を差し出し、ヨシキの酒を受ける。

「あー、あのな。兄貴の事なんだが…」

 なみなみと注いで徳利を引っ込めながら、ヨシキはその視線を、手にした徳利と鍋と手元の取り皿の間で彷徨わせた。

「兄貴はだらしねぇし、どんくせぇし、デブだし、自分の事をほったらかして他人の世話ばっかやく馬鹿野郎だけど…」

「おいヨシ…」

 抗議しようとした俺の声は、遮られた。

「そんな兄貴だから!お願いします!」

 ガバッとナカイ君に頭を下げた、ヨシキの大きな声で。

「とんでもなくお人好しで、どうしようもなく優しい兄貴だから!周りの事ばっかりで、自分の事はさっぱりだから!だから!

傍で目ぇ光らせてて下さい!」

 それは、懇願だった。

 ナカイ君に、俺の事を頼み込んだ。

 ヨシキが、俺の事をよろしくって…。

 頭の中がグルグルして、胸の奥が熱くなって、目の奥がチリチリ疼いて、視界が歪んだ…。

「私は…」

 頭を下げたままのヨシキに、ナカイ君は少し間を置いてから頭を下げ返した。

「私は、助けて貰いました。優しくして貰いました。味方になって貰いました。ヨシキさんが言うように、とんでもなくお人

好しで、どうしようもなく優しいヤマトさんに…」

 ヨシキの改まった態度で全部悟ったのか、それともやっぱり台所で一部始終聞き耳を立てていたのか、ナカイ君は姿勢を正

して、とうとうと語り始めた。

 自分が家を出された経緯。

 彷徨い流れ着いたこの街。

 生きる為に縋り付いた職。

 偶然だった俺との出会い。

 そして、今日までの交際。

 理解できないだろうサンタの下りなんかははぶいて、それでも自分の事は包み隠さずに全部…。

 想像もしていなかっただろうナカイ君の身の上に、ヨシキは相当驚いていたようだったが、口は挟まず時折深く頷いて、熱

心に耳を傾けていた。

「…だから、私はヤマトさんに何でもします。何でもしてくれるヤマトさんに、せめて私は望まれる以上の事をしてあげたい

と思っています」

 そう話を締めくくったナカイ君は、スッと、深く、ヨシキに頭を下げた。

「こんな頼り無い私ですが、どうか、ヤマトさんの傍に居る事を許してください…」

 グジュッと、雰囲気を台無しにするような湿った音が、コトコト煮える鍋の呟きに混じった。

 それは、しゃくりあげた俺の鼻が鳴った音…。

「兄貴?」

「ヤマトさん?」

 ナカイ君とヨシキが目を向けても、俺は泣き顔を隠せなかった。

 やめろよ…。

 何でふたりとも、本人目の前にしてそんな話すんだよ…。

 そんな真似されたら、泣けてきてしょうがないだろ…!?

「おい!泣くなよ兄貴!」

「ヤ、ヤマトさん!はいティッシュ!」

 えっくえっくえづいてる俺を、ふたりが心配する。

 こんな情けない俺だけど、よろしくお願いします…!



「何かアレだな、親戚で集まって子供だけで寝た時の事、思い出すぜ」

 消灯して、淡い光源に薄く浮かんだ天井を見上げながら、ヨシキが言った。

「また随分昔の事…」

「ああいう時も、いつまでも寝ないって怒る大人に、兄貴が代表して謝ってたよなぁ、寝かすから、寝かすから、って」

「そうだったっけ?」

「そうだよ」

 面白がって鼻を鳴らすヨシキ。

「昔からそういうひとだったんですね」

 納得したようなナカイ君の声が、ヨシキとは反対隣から漏れた。

 二つしかない布団を敷いて、俺達は一緒に寝ている。

 俺の右側がナカイ君。左側がヨシキ。ナカイ君以外がデカい熊な上に順番もおかしいから、ちょっとバランスがおかしい川

の字だ。

「ナカイ君、そっちはみ出てない?」

「大丈夫です」

「ヨシキ、狭くないか?」

「平気だって」

「やっぱり俺コタツで寝…」

「いいって兄貴!しつけぇぞ!」

「そうですよ!もう気を遣わないで下さい!」

 …両側から怒られた…。

「だいたい、境目の兄貴が一番寒いんじゃねぇか?」

「そして一番窮屈なはずです」

「いやそんな事ないヨ?全然ちっとも」

「焦ってて嘘っぽいな」

「発音が嘘っぽいです」

 左右から突っ込んだヨシキとナカイ君は、ギュッと身を寄せて来た。

 …狭い。…でも、幸せかも…。

「今度は何か、土産持って来る」

「いいって別に」

 呟くヨシキと応じる俺。

「あ。渡せるようなお土産、何か…」

「いいって別に」

 呟くナカイ君と応じるヨシキ。

「兄弟ですね、やっぱり」

『え?』

 何か悟ったようにしみじみ言うナカイ君と、同時に疑問の声を漏らす俺とヨシキ。

「何で?」

「何でだ?」

「何ででも、です」

 追求したけど、ナカイ君はクスクス笑ってはぐらかした…。



「暇見てまた遊びに来る。今度はちゃんと、嘘じゃねぇ日付で先に連絡してからな」

「頼むぞホント!?今は正式に雇われてるから、有休取る関係で本当にキツいんだからさ…」

「そうする。何せもう、抜き打ち検査は必要ねぇからな」

 悪びれた様子もなくからから笑うヨシキ。…頼むぞ本当に…。

 朝八時。首都見物してから帰るというヨシキは、小さい旅行鞄一つを共に駅のホームに立った。

 出勤前に車でナカイ君を仕事場に、ヨシキを駅に送ってきた俺は…、せめて兄として…と小遣いを握らせはしたものの、充

分なもてなしもできなかったせいで不完全燃焼な気分…。

「ちゃんと兄貴の休みにぶつけるよ。そうしたらこの辺のどっか面白ぇトコ連れてってくれ」

「任せろ。…ただしあまり期待するなよ?」

「良いって。兄貴とナカイ君とダベりながらドライブでもできりゃ、それで良い」

「お手軽な弟だなぁ…」

「そりゃそうだ。誰の弟だと思ってんだよ?」

 可笑しくなって、声を上げて笑う俺とヨシキ。

 やがてアナウンスに次いで列車がホームに滑り込み、ヨシキは湿っぽい事も言わずに「じゃあな」とさっぱりした顔で手を

上げた。

「おお、またな」

 手を上げ返した俺は、ドアが閉じるまでヨシキと向き合って、笑みを交わした。

 そして電車が動き出す。

 乗降口の窓の向こうで、ヨシキは目を細めて、ちょっと寂しそうな笑顔を見せた。

 卒業旅行と、ヨシキは言った。

 家業を継いで生きると決めたヨシキにとって、それはたぶん、単に学業の卒業という以上の意味を持つんだろう。

 弟を乗せた列車は、緩くカーブを描いたレールの上を去って行った。

 海の蒸発霧に煙る故郷の景色を思い出させる、消えきらない朝もやでうっすら白い空気の向こうへ…。



「やっぱり何となく、ヤマトさんと似た雰囲気がありますね」

 その夜、ナカイ君は夕食時にそんな事を言った。

「えー?よく言われるけど、そんな似てな…」

 言葉を切った俺は、メカブを摘まむ手を止めて思い直した。

 あまりにも身近な相手だから意識した事はなかったが、言われてみればやっぱり似てるのか…?

「似てますよ」

 ナカイ君は微笑む。

「部屋の様子なんかで私達の事を洞察しちゃうところとか、気を回してくれるところとか、優しいところとか…、やっぱり兄

弟です」

「外見は出ないんだ?そこに…」

「目鼻立ちは似ている気もしますけれど、そこはむしろ、別人なんだなぁって感じました」

「輪郭で?体付きも含めて…」

「かも…しれません…」

 ちょっと言い難そうに、それでも肯定するナカイ君。正直でよろしい…。

 その話題を続けにくくなったのか、ナカイ君は「ところで…」と手紙収納ラックを見遣った。

 主に光熱水費及びインターネット料金など、各種払い込み通知が突っ込まれているラックだが…。

「ヨシキさんがいらっしゃるバタバタで聞きそびれちゃったんですけど、クロスさんのお手紙って、何だったんですか?」

「え?じいさんの?えーと…」

 思い出そうとして、俺ははたと気が付いた。

 思い出せる訳がねぇ!だって読んでねぇもん!

 大慌てで立ち上がり、手紙を取る俺。

「あ、未開封…」

 まさか開けてもいないとは思っていなかったらしいナカイ君の呟きが、チクンと後頭部に刺さった…!

「え、えぇと、何々…?」



―ホッホッホッ!メリークリスマスじゃナオキ君!!―

 いつまでクリスマス言ってるんだよじいさん…。

―プレゼントの自家用車には満足しとるかの?―

 お陰さまで、有り難く快適に使わせて貰ってるよ。

―たまにはドライブ好きなナカイ君を連れて遠出してやる事じゃ―

 そうだな、ナカイ君と旅行とか。車なら道中周りを気にしないで話もできるし…。

―さてここから本題じゃ。今後も活躍が見込まれるそのらんどくるぅざぁじゃが…―

 うん。

―1ヶ月点検と無料清掃サービスの手筈が整っとるので、お知らせじゃ―

 ほうほう…。そうか、定期的に検査とかあるんだよな、車って。

―担当者には話を通してある。彼あてのメモを同封したので、それを持って検査に行きなさい―

 お!有り難いなぁコレ!何せ俺は車の所持も初めてで、勝手が判らないからなぁ。

―それでは、またの―

 うん。有り難うじいいさん。

―なお、この手紙は読了後に…



「おうあっ!?」

 一瞬早く悟って手紙を放りだした俺の目の前で、じいさんが書いた手紙が青い炎を上げて燃え上がり、空中にある内に跡形

もなく消え去った。

 ま、またサンタマジックか…!

 熱くないし燃え移らないって説明はされても、とことん心臓に悪いんだよ!っていうかこの証拠隠滅に意味はあるのか!?

読み返して確認できなくなるからむしろ不便だろこの場合!?

「何だったんですか?」

 驚いた様子もなく訊いてくるナカイ君。…この子は元々あっち側所属でクリスマスの仕事をしているから、こういう事には

いちいち驚かないのか…。

「えぇと、車の無料点検と清掃のお知らせだった。連絡してあるから、このメモを持っていけって…」

 流石に燃えなかった担当者あてのメモを手に、俺はコタツに戻りながら説明して…。

「え?」

「え?」

 俺の疑問の声に、ナカイ君の疑問の声が続く…。

「日にちが…、指定してあって…」

「いつなんです?週末?」

「明日…。この日以外は駄目って…」

 これには、ナカイ君も絶句した。

 そして俺は、即座に店長に電話を入れて、平謝りしながら有給を取った…。


後半へ