唯我独尊

 昼休み。僕はもそもそと弁当を食べ終え、携帯を開く。

 いつものように廊下側最後列の席から動く事なく…。

 周囲では二人組み、あるいは四、五人くらいのグループがいくつもできていて、テレビの話題だとか、教師の悪口だとか、

映画の話だとか、様々な話題がガヤガヤとごちゃ混ぜになって渦巻いている。

 けれど僕はそんなグループに混じらない。独りで携帯を弄っているだけ。

 僕は小長井要(こながいかなめ)。色が暗めのキジトラ猫。

 小さくも長くもないのにコナガイなのかって、時々言われる。言われ続けてもうじき十七年だけれど。

 そう、長くもないし小さくもない。背丈は普通。体型も普通。中肉中背と言っていいだろう特徴がない体付き。

 強いて言うなら、小さい頃から中学に入る直前までスイミングスクールに通わされていたせいで、少し締っているくらい。

ちなみに小学校の時は水泳部に入っていたけれど、伸びもしなかったから中学に上がるときに辞めた。

 顔立ちにも特徴はない。トラネコらしいM字が額にあるのまで標準。あえて言うなら他人より覇気がない目と表情が特徴…

かな? 

 成績は…まぁ中の上。得意もスポーツは特にない。ひとよりちょっと泳げるくらい。

 ついでに言うと趣味もない。暇さえあれば携帯を弄っているし、他には音楽を聴くくらいしか。ただ、音楽にだって詳しい

訳じゃない。気に入ったアーティストの物を中心に、狭い範囲で聴くだけ。

 普通で、特技もなくて、目立たない。クラスに一人や二人は居る、居ても居なくても変わらないヤツ…、それが僕。

 友達は居ない。…昔は居たし、幼馴染も居るけれど、小学校、中学校と上がるにつれてそれぞれが部活に打ち込んだり、別

の仲が良いグループとつるみ始めたら、中学半ばには疎遠になってしまった。

 そうなるとそれぞれのグループで仲を深めていくから、一旦離れた僕とは関係が戻らない。自分で言うのもなんだけれど、

つまんないヤツだから、僕は。

 …いや、自分がつまんないヤツだって自覚できたのはここ数年の事で、中学時代半ばまでは判っていなかったんだ。何とな

く「合わない」「取り残されてる」って感じるくらいで…。

 趣味でも作ればいくらか話題はできるんだろうけれど、あれこれ手を伸ばすのも面倒くさいし疲れるし…。

 最近じゃもう開き直って、独りでいる気楽さを満喫している。誰が作ったか判らない流行に乗せられて、騒がれてるアイド

ルに熱を上げて、お笑い芸人の真似をする連中の騒がしさに、内心でうんざりし、馬鹿にしながら。

 …ま、ようするにボッチ気味ってヤツかな?まるっきり一人じゃないからちょっと違う気もするけれど。

 ため息を一つついて、愛用のネックバンド型ヘッドホンに手を掛け、はめる。

 軽やかに踊る指を連想させるピアノの前奏に続いて、シェリル・ウォーカーのハーモニーがベースを引き連れて伸び上がる。


 手を伸ばすのは疲れる事で

 背伸びし続ける事は大変で

 だからつい 忘れてしまう

 「辛い事ばかりじゃなかった」

 そんな大切で 当たり前の事を


 『Reaching the sky』。歌姫の曲の中ではマイナーな方だけれど、僕はこの曲が好きだ。気分が盛り上がるとかそういうんじゃ

なく、落ち着けるって意味で。

 僕はこうして騒がしさを無視する。雑音をシャットアウトする。皆と同じ教室に居ながら独りの世界に浸り込む。

 手にした携帯のモニターには、ツイッターのログ画面。フォローしているお気に入りさんのツイート履歴を確認すると、見

慣れた『唯我独尊!』の呟き…。僕もキーを押して呟いていく。

『皆昼休み騒ぎ過ぎ。それはともかく午後の授業だるいんですけどー』

 そんな僕の呟きに、すぐ反応があった。

『おつカレンダー。見ろ、夏休みは近い!』

 お馴染みの相手からの早い反応で、僕は表情を変えないままゆっくり尻尾を揺らす。

『あと二週間。長い?短い?』

『気の持ちよう!保たせよう!』

 このひとは文末に「!」を頻繁につけるせいで、どうも「呟いて」いる雰囲気がしない。叫んでいる感じ?

 ハンドルネームは「アイロン」。アイコンはワイシャツに乗ったアイロンの絵だ。…そのまんま…。取っ手の両端には犬や

猫を思わせる三角耳が生えていて、周囲に湯気が出ている。

 なお、以前『スチーム式?』と訊いたら、『その通り。熱いヤツなのさ!』という答えがあった。さらに『スチームじゃな

くてもアイロンは熱いんじゃない?』と返したら、『盲点!なかなか鋭い!』と返事が…。

 まぁ、ちょっと変わってて面白いひとなんだ、アイロン。さむい駄洒落やオヤジギャグまで面白く感じられる。

 …というのも、機知を利かせた受け答えや、呟きの中に垣間見える博識さから、相当頭が良くて物知りな人物だと判るから、

おどけてわざとそういう事をしているんだという事が窺える。だから、流行の芸人の真似事をして中身のない笑いを取ってい

るクラスメートなんかより、ずっと面白く感じられる。

 僕とアイロンが知り合ったのは、昨年の春頃の事だった。

 それまで何の繋がりも無かったのにアイロンがフォローしてくれて、ちょくちょく呟き交わしている内にやり取りが頻繁に

なっていった。今じゃ僕からすれば一番親しい友人。

 もっとも、どんな人物なのかは判らない。人間なのか獣人なのかといった事も含めて、個人情報は殆ど無い。…まぁ、『カ

キ氷はブルーハワイに限る!』などなど、好みに関する呟きはあるから、ちょっとは知っているけれど。

 返事をしたり呟きを読んだりしている内に、休み時間はあっという間に終わる。

 もうじき鐘が鳴るという所で、乾電池入れ替え式の充電器に携帯を繋いで机の中へ。

 次いで曲の再生を止めてヘッドホンを外すと、途端に教室内のざわめきが近くなり、途絶えていた外界との繋がりが戻る。

 うんざり…。乱れが無いミュージックに耳を預けていた所から、一転してこの喧騒の中に放り込まれると、雑然さで落ち着

かなくなりそう…。

 またため息を漏らしていると、僕の後ろでガララッと勢い良く戸が開いて、靴底を床に擦り付ける、不快で耳障りな足音が

教室に入って来た。

 僕は少しだけ、身を硬くする。

 後ろを通って窓際最後尾の机に向かうそれが誰なのかは、見なくても判る。

 ソイツはこげ茶色の和犬で、名前は狛沢孝徳(こまざわたかのり)。

 背丈は並より少しある程度だけれど、肩幅も厚みもあるやけにガッシリした骨太の体付きで、筋肉の上に脂肪が乗り、少し

腹が出た体型…、いわゆる堅肥り。

 ごつ目の顔に、世の中全部にいちゃもんをつけるような、とことん目つきが悪いつり目。

 特筆すべきは、頭の天辺から後頭部にかけて被毛を赤く染めている事。鶏のトサカみたいな色に…。

 噂ではモヒカンに憧れたそうだけれど、頭毛が伸びるタイプでもなく、毛の長さは変わらないからモヒカンにできなかった

とかどうとか…。

 もう一つ特記事項がある。…まぁ、風貌で判るかもしれないけれど、コマザワは不良だ。フダつきの。

 地元はこの辺りじゃないから僕もまた聞きなんだけれど、中学時代からブイブイ言わせていたらしい。

 なお、当時のあだ名は「闘犬」。滅法喧嘩が強くて、何処で喧嘩をしただの、誰をやっつけただの、バイオレンスな噂も頻

繁に色々聞こえて来る。

 コマザワは椅子をけたたましく鳴らして引き、どっかと尻を落とすと、大あくびしてから机に頬杖をついた。

 なお、この男は授業中はいつも寝ている。ずっと見ている訳じゃないけれど、少なくとも僕が目を向けた時はほぼ寝ている。

 ウチはそれなりに良いランクの進学校なのに、そこへ何でコマザワみたいな勉強もしない不良が入学できたのかが不思議だ。

まぁ、ここを選んだ動機の方は、結構有名だから知っているけれど…。

 実は僕、コイツが苦手だ。嫌いといってもいい。

 …けれど…、借りを作ってしまった…。

 チャイムが鳴り、廊下で喋っていた生徒達がせわしなく教室に入り、授業が始まる。

 教師の声を聞きながら黒板を眺め、ノートを取りながら、僕は途切れ途切れにその時の事を思い出す…。

 それは春…、シェリル・ウォーカーのニューアルバムが発売された時の事…。

 初回生産特典が欲しくて、授業が終わるなりミュージックショップへ急いだ僕は、ガラの悪い学生に絡まれた。

 かつ上げだった。…狙っていたんだろうな、あれって…。

 学校から最寄のミュージックショップへ行くには、大通りの信号待ちを考えれば、あの細い路地を通るのが一番早い。張っ

ておけば金を持った学生がポロポロ通る訳で…。

 実は、ここらは結構治安が悪い。ウチの学校はともかく、周りの二校は偏差値が低くて、周辺地域から不良がなだれ込むと

いう図式が出来上がっている。…いやまぁ、ウチにも少数ながら居るけどさ、不良…。

 そして実際、その時絡んできた相手は、なんとウチの学生だった。しかも一年生。つまり新入生。だから後輩。

 けれど同じ学校でも、後輩先輩でも、かつ上げは行なわれる。初めて知ったけれど。…まぁ、考えてもみれば、同じ学校で

仲間意識が働くならイジメも校内暴力も無いのかも…。

 とてもとても残念な事に、僕は弱い。というか喧嘩の経験も無い。度胸も無い。時々流し読みする漫画雑誌の主人公みたい

に必殺技や超能力でもあれば良いんだけれど、そんな物があったら普通に学生なんかやっていない。つまり、やっぱり僕には

何も無い訳で…。

 一つ下の同じ学校の後輩達に絡まれて、囲まれて、「金貸せよ」と凄まれた僕は、動揺しながら何か口走ってしまった。

 …何を言ったかは覚えていないんだけれど、それで連中が怒ってしまって、胸倉を掴まれて壁にゴスンとぶつけられて…。



 後頭部にガツンときて、背中にドシンときて、首にかけていた愛用のヘッドホンが跳ね、僕は噎せ返った。

 頭に走った最初の痛みは衝撃に近い感じだったけれど、それが少ししたら内に篭もるような鈍痛に変わった。

 背中を強く打って肺が圧迫されて、空気が喉から飛び出して噎せ、小学校のときに跳び箱から転げ落ちた際の記憶が蘇った。

 僕を壁に押し付けている犬の他に、不良は三人。四人に囲まれている僕は俊足というわけでもなく…、つまり逃げようも逃

げ場もない。

「おちょくってんのか?あっ!?」

 僕の胸倉を掴んだまま、ミックス犬のシェパードが牙を剥き出しにする。反射的に口から出た事が機嫌を損ねたんだと判っ

たけど、何を言ったのか思い出せない。そう大した事は言っていないはずなのに…。

「ブルってんぜ?」

「ぎゃははは!」

「痛ぇ目見してやれ!」

 はやし立てる周囲のイタチ、キツネ、黒ブチの猫…。仲間へのアピールもあってか、これ見よがしに腕を上げて拳を握るシェ

パード。

 ぶん殴られる!

 初体験となるそれがどんな痛みか想像もできず、僕は身を強張らせて、反射的に歯を食い縛って…。

「いい加減にしやがれ一年坊!」

 前触れもなく野太い声が響いたのは、僕らの横手からだった。

 正面しか見る余裕がなかった僕と、僕に視線を集中していた連中は、声の主が近付いていた事に気付けなかった。

 同時に視線を向けた僕らの目に、同じデザインの制服を、前をはだけて着込んだ骨太の和犬が映り込む。

 コマザワはマズルの上に皺を寄せ、獰猛な表情を作る。

 低く唸るコマザワがズンズン歩いて来た。かと思えば、僕の胸倉を掴んでいた不良に至近距離からメンチを切る。他の三人

には目もくれず…。

「新顔が…。誰のシマ荒らしてやがんだ…?あぁん…!?」

「あ?誰って…」

 乱入者に戸惑い気味のシェパードが、僕の襟から手を離す。その直後、メヂョッ…、と嫌な音がした。

 僕の目の前で、ゴツい拳骨がシェパードの鼻を正面から潰していた。激突音が鈍い打撃音に変わったのは、鼻が潰れる湿っ

た音の直後。二つの音が一つながりになって、メゴッという音になって耳に残る。

 問答無用の先制攻撃。マズルが縮んだんじゃないかと思うほどの強烈なパンチが、シェパードの顔を物凄い勢いで後ろに吹

き飛ばし、顔が天を仰ぐ…。

 上半身は仰け反る格好、下半身は地面を踏み損ねて踊り、シェパードは背中から倒れ込む。

 まるでボクサーのフィニッシュブローのようだった。脇を締めて左腕を胸元に引き付け、上半身を捻って右腕を捻り込む、

綺麗なワンパンチを見せたコマザワは、のたうつシェパードには目もくれず、次いで三人めがけて地面を蹴る。

「うおらぁあああああああっ!!!」

 雄叫びを上げて突進するコマザワを、一瞬怯んだ三人が、それでも迎え撃った。

 そこから先は、一対三の乱闘になった。

 殴りかかったキツネのパンチを顔を傾けてかわしつつ、肩口を殴って体勢を崩させたコマザワは、イタチに太腿の外側を蹴

られてぐらついた。

 次いで反対側から黒ブチ猫がやくざキック。コマザワは腰の横を蹴られたけれど、体をずらしたのか、蹴った足がずりっと

滑って抜ける。

 蹴った足がズリッと抜けてバランスを崩した黒ブチ猫に、コマザワは体を捻りながら反撃の左パンチをフック気味にお見舞

いして、頬をへこませて唾液をまき散らさせる。

 しかし、直後に掴みかかったキツネが、伸びたコマザワの左腕を取り、動きが止められたのを見計らったイタチがボディブ

ローを入れる。

「げぶっ!?」

 コマザワの出っ張った腹に手首までイタチの拳がめり込んで、口から反吐とも唾ともつかない物が、呻きと一緒に吐き出さ

れた。しかし体をくの字に折られたコマザワは、それでも倒れなかった。腹にパンチを入れたイタチの腕を抱えて引っ張り、

逃がさないようにしてゴヅンッと頭突きを入れる。

 鼻血を飛ばして顔を押さえ、もんどり打ったイタチには目もくれず、コマザワは左腕を掴んでいるキツネの肩口で制服を掴

んだ。

「うらぁっ!」

 腹に響く怒声と共に、相手の足を横から思い切り蹴飛ばすコマザワ。ガスンと足がずれて、キツネの体が掴まれた肩を支点

に斜めになる。その直後、コマザワはバランスを崩したソイツを、力任せに地面へ叩きつけた。

 ドジャッと地面へ叩き落とされた音と、キツネの肩の所で制服が裂けたビリッという音が重なった。

「へっ…!手応えねぇぜ、モヤシどもが!」

 息を乱しながら強がったコマザワは、騒ぎに気付いて路地を覗いた通行人が驚いて声を上げると、「うお!?やっべ…!」

と呻いて踵を返す。そして、呆然と立ち竦んだまま一部始終を見ていた僕に駆け寄り、グイッと手を引いた。

「さっさとばっくれんぜ!来い!」

 返答も待たずにコマザワは駆け出した。僕は引き摺られるように前のめりになって走りながら、自分の手首を掴むコマザワ

の手を見つめていた。

 ひとを殴った手が自分を捕まえているのに、不思議と怖くなかった。

 それまでずっと頭が悪い不良だと思って、心の中でコマザワを蔑んでいた僕は、一発で彼を見直した…んだけれど…。



 鐘が鳴り、授業が終わる。

 コマザワはさっさと教室を出て行き、僕は携帯を取り出し、皆はまたグループに分かれてガヤガヤ騒ぎ出す。

 14分前にツイート…、授業中にもアイロンが『唯我独尊!』と口癖のような呟きを発していた。すぐ後に発された物も一

つある。

『ビールとウニとエビは生に限る!』

 やっぱり社会人なんだろうなぁ…。って、真昼間から酒を飲んでいるのかな?

『ビールって美味しいの?』

『いつか判る日が来るさ!様々な不思議体験を経て!ボーイズビーアンビリーバボー!』







 帰宅して自室のベッドに倒れ込み、携帯を充電器に繋ぐ。

 部活をしているでもないのに毎日疲れ切っている僕は、ひょっとして虚弱体質なんだろうか?…水泳を辞めて正解だったか

もしれない。これで部活なんかしていたら衰弱死していたかも…。

 携帯が充分な元気を溜め込むまで、ベッドの上で仰向けになったままヘッドホンをはめ、シェリル・ウォーカーの歌声を耳

から吸い込んで待つ。

 ぼんやりしている僕の頭に浮かぶのは、あの日、コマザワに連れられて逃げた後の事…。



 かなり走って、ショッピングモール傍のコインランドリーに辿り着いた後、コマザワはやっと足を緩めた。

 息を切らせて後ろを確認し、「オマワリ来てねぇな?」と呟いたアイツは、僕の手を離して向き直った。

「危ねぇトコだったじゃねぇか?」

 そう言ったコマザワの顔が笑みの形になる。歯を見せて笑うと割と普通の笑顔になるんだなぁと、妙な所で驚いてしまった。

「あの…、有り難う…」

 まさか不良に絡まれるとも、助けられるとも思っていなかった僕は、驚きと恐怖も冷めやらないまま、ドキドキしつつ礼を

言った。

 戸惑っていたし混乱もしていた。だけど少し落ち着いてきたおかげで、彼が助けてくれた理由に思い至った。

 ウチの学校には番長がいる。…いや、番長とかそういう時代錯誤な存在がずっと居る訳じゃなく…、番長とあだ名されてい

る生徒が居る。

 校内だけじゃなく他校の不良も避けて通る、正に無敵の番長だけれど…、実は、不良でありながら「正義の味方」なんだ。

いやもう、こう言ってしまうと不良の定義が判らなくなりそうなんだけれどもさ…。

 近寄り難いし話しかけようとも思わないけれど、とにかく番長は、不良が一般の生徒に手を出す事を許さない。不良同士の

喧嘩はよくても、一般の生徒を巻き込むような事も許さない。

 しかもその行動は学校内に留まらず、街中での万引きの牽制、ひったくり犯の撃退、他校生との小競り合いなども解決して

いる。…大半は武力解決だと聞いたけれど…。

 コマザワは、その番長の弟分だ。専門用語では「シャテー」というらしいけれど…。

 だから、番長の縄張りであるこの街で、在校の不良が勝手をする事を見過ごさなかったのかもしれない。誰のシマを荒らし

ているんだ?というあの言葉は、番長の膝元で勝手な真似をするなという事だったんだろう。僕はそう考え、一人納得した。

 ところが、だ。

 コマザワはしばし僕の顔を眺めまわした後、笑みを深めてこう言った。

「助かったよな?感謝してるよな?俺はお前の恩人だよな?」

「え?う、うん…」

 戸惑いながら頷いた僕に、コマザワは声を潜めて続けた。

「一つ貸しだ。その内に返して貰うぜ?」

 コマザワの目は、意味ありげに光っていた。

「忘れんなよ?」

 念を押すコマザワ。その顔に浮かぶ笑みは、とたんに少し前の物とは様変わりして見えた。

 卑しい、欲にまみれた笑みに見えた…。



 うつらうつらしていた僕は、ヘッドホン越しに階下から母が呼ぶ声を聞いて、目を覚ました。

 もう夕飯の時間か…。結構長い事眠りこけていたみたいだな…。

 携帯の充電は終わっていた。早速確認すると、アイロンが『夏はブルーハワイに限る!』と呟いていた。好きだなぁブルー

ハワイ…。

 ポケットに携帯を押し込み、部屋を出て階段を下りる。

 コマザワは、あれっきり僕に何も言って来ない。話しかけても来ない。そもそも翌日にはもう何事もなかったように僕を無

視していた。

 あの時の事を忘れてしまった…なら良いんだが、そう楽観的に見て大丈夫だろうか…。

 ややボッチ気味な僕には、こういう事を相談できる相手がいない…。流石にアイロンにもこんな話は持ちかけられないし…。







 学校を出て、いつものように帰路を一人歩む僕は、ヘッドホンを付けて外界の音を遮断し、携帯の画面を眺めてアイロンの

ツイートを確認する。

 やっぱり彼お気に入りの言葉、『唯我独尊!』があった。一日に五、六回は呟いているような気がする。

『冷シャブを考えたひとは素晴らしい!シャブシャブのイメージを根底から覆し、かつ美味い!偉大な発見だ!』

『それは凄いの?』

『凄い!こういう試みは大概失敗するから、なお凄い!』

『普通に失敗しようがないと思うけど?冷シャブは…』

『発見されて広まると普通の事になってしまう。だが最初に思いつき、実行に移した事が素晴らしい!』

『そういう物?』

『開拓者は、正当に評価されない事も多い!』

『開拓者か…。ちょっと難しいかも…』

『最初の一歩を踏み出すのは困難なのだ!そして上手く行った事だけ真似るのは簡単!』

『あ!そう言われたら何となくわかったかも!』

 ちょっと笑みを零した僕は、携帯を覗き込んで下向きになっている視界に誰かの足が入り、立ち止まって顔を上げた。

「よう」

 息を飲んだボクの前で、行く手を阻むように立ったコマザワが口の端を上げる。けど目が笑っていない…。

 僕はヘッドホンを外して、緊張に身を固くしながらコマザワの顔を見返した。

「今度の日曜、空いてっか?」

「え?」

「貸し、忘れてねぇよな?」

 ゴクッと唾を飲み込む。…コマザワは、やっぱり覚えていた…。

「空いてんのか?空いてねぇのか?」

 ずいっと一歩詰め寄ったコマザワに、僕は慌てて頷く。

「だ、大丈夫…」

 気圧される格好で返事をする僕。コマザワは「よしよし」と顎を引くと、声を潜めて囁いた。

「日曜、顔貸せよ」

 それから僕は、

「プール行こうぜ?」

 コマザワに告げられたその言葉で、目を点にした…。

「…ぷ…?」

「ああ。プール」

「…ぷぇ?」

「ぷぇ、じゃねぇよ。プール行こうぜっつってんだ。良いよな?」

「な…何でプール…?」

 戸惑う…どころか混乱している僕に、コマザワはブスッとした顔になって言った。

「泳ぎ方教えろよ。泳げねぇんだよ、俺…」







 それから数日経った日曜日、僕は駅前で携帯を開き、ツイートを確認する。気を落ち着かせようと、いつも通りの行動を心

がけて。

『唯我独尊!本日晴天!大安吉日!』

 アイロンはいつも通りに呟いている。

 今日…大安なのか…。

『ペンは剣より強し!今の時代、携帯はペンより強し!』

 まぁ、情報発信源としてはペンより強いかな?こうしてリアルタイムにツイートなんかで情報発信できるから、書いて広め

るよりもスピードは速いかも?…内容や正確さは書き手によるけどさ…。

 ところで、文豪なんかがツイッターしたら名言がたっぷり流れるんじゃないかな?そんな事をアイロンに言おうとした僕は、

「よう」

 傍らから声を掛けられてビクッとする。

 首を巡らせると、真っ白いランニングシャツを着て、ベージュ色のハーフパンツを穿き、ビーチサンダルをつっかけたコマ

ザワの姿。

「悪ぃな。早速行こうぜ?」

 二カッと歯を剥いて笑うコマザワ。あの時と同じ、ちょっと卑しそうな笑みで…。

 …あれ?もしかして、この品の無い笑みはデフォルト?特に何の含みも無いのにこんな顔になってしまうだけ?

「う、うん…」

 他意がないらしい、それでも独特な笑みに戸惑い、曖昧に頷いた僕は、促されるまま駅に入り、コマザワと一緒に電車へ乗

り込む。

 快速で片道45分。目的地は街をいくつも越えた先。電車は程よくすいていて、僕とコマザワは席に座る事ができたから、

道のりは苦じゃない。

 コマザワは体育の授業をサボりがちだから気付かなかったけど、犬かきレベルで何とかアップアップ泳げる程度らしい。そ

れでも特に不自由は感じなかったけど、今度先輩達と海に行く事になって、いよいよ頑張る気になったとか…。

 何でも、去年も一度一緒に行ったものの泳げないからろくに混じれなくて、さらには気を遣われて、居心地の悪さを味わっ

たそうな…。

「俺が泳ぎに行かねぇもんだから、兄貴に気ぃ遣われちまってよ…。ずっと海に入んねぇで付き合ってくれたんだ」

 耳を倒すコマザワ。情けなかったし申し訳なかったから、今年はなんとかしたかったらしい。でも授業でプールに入って泳

げない事を皆に知られるのは嫌だったとか…。

 どうした物かと考えていたら、春にたまたま僕に貸しを作れた。そこでチャンスだと思ったそうだ。サボって校内からプー

ルを眺めていて、僕がそこそこ泳げる事を知っていたから、皆に知られないようにこっそり教えて貰えないかなぁ、と…。

 遠くのプールに行く理由について訊いたら、近場のプールなんかで学校の誰かと鉢合わせて、練習中のみっともない姿を見

られるのは嫌だから、だって…。

 面倒臭いけど判らないでもない。厳つい顔の不良でもそんな気持ちになるのかと、ちょっと微笑ましく感じた。

「どんぐれぇかかると思う?」

「え?えぇと、個人差があるだろうから、どうとも…」

 唐突に訊ねられ、僕は曖昧に応じた。

「お前はどうだったんだよ?」

「僕は…あんまり引っかかる事もなかったからな…」

「マジか?良いよな、できるヤツは」

「え?できるヤツじゃないけど?僕は…」

「あん?できるじゃねぇかよ、色々」

 僕はきょとんとする。コマザワもきょとんとしている。

「え?」

「できてんだろ?勉強だって運動だって、そこそこ」

「それはまぁ、そこそこは…」

「だろ?やっぱりできるヤツじゃねぇか」

 …どうやら、コマザワと僕の中での「できる」はかなり違うらしい…。

「困ったな…。もしかしたらすっげぇかかったりすんのか?」

「えっと…、月並みだけど、努力次第?」

「努力かよ…」

「あと根性とか…」

「お?根性ならちっと自信あるぜ?」

 コマザワがニィッと笑う。ちょっと慣れたかも、この笑顔…。

 不思議だ。不良のコマザワと、どうしてこんなに普通なやりとりができるんだろう?

 喋ってみたら割と普通だったし、家族以外の誰かとこうして喋るのなんて久しぶりだから、ちょっと新鮮だった…。



「ただ動かすんじゃなく、水を押すように蹴る感じ」

「お、押すように蹴るってのが、まずどんなだ!?」

 50メートルプールを後ろ向きに歩く僕に、前に出した両手を引かれる格好でバタ足しながら、コマザワが息を切らせて聞

き返してくる。

「足の甲で水を下に跳ねるように蹴るんだ。爪先立てたまま蹴っちゃ駄目

「む、難しいぜ畜生…!」

 無駄に力んでいるコマザワは、バタ足しながらも下半身が沈んでいる。緊張し過ぎだって、腰が硬い硬い…。

「もっと力を抜いて!リラックスリラックス!」

「ち、力抜いたら沈むじゃねぇか!」

「いや、脱力した方が浮力が働くんだから。手は持ってるんだし、蹴り足以外は楽にして!」

 高校生が二人、バタ足の練習中…。ちょっとシュールな光景は結構目立つけど、コマザワの人相が悪いせいか、あからさま

に視線を向け続けるひとは居ない。

「そろそろちょっと休憩しない?」

「お、おうっ!望むところだ!」

 何故ここで勇ましい返事なんだろう?

 プールサイドに上がると、コマザワは「うえぇ…!」と舌を出して呻き、苦しげに腹をさすった。

「水と空気飲み過ぎちまった…。腹が張って気持ち悪ぃ…」

「慌て過ぎだってば」

 僕はおかしくなって笑う。そしてふと、こんな事で笑ったら気分を損ねるんじゃないかと不安を覚えた。

 けれど、コマザワは怒る事もなく、注ぐ日光で熱く焼けたプールサイドを歩きながら、情けなさそうに耳を倒して「だって

よぉ…」と子供のように顔を顰める。

「水はぶん殴っても勝てねぇだろ?手も足も出ねぇまま手の上で泳がされてんだろ?お前らみてぇに平気の平左な連中の肝っ

玉のがどうかしてんぜ…」

 何でそう、水まで殴り倒す対象に見ているんだろうコイツ…?

「あ〜…。えっとさ、たぶんそういう敵対心みたいなのが上達を妨げてると思うな、僕は…」

 プールサイドに設置されたテーブルとセットのパラソルの陰に入り、僕達は向き合う格好でアームチェアに腰を下ろす。

「あん?何で?」

「だって、それで無駄に力んでいるんだろうから…」

 とにかく適度に脱力すべし、と繰り返した僕に、椅子にふんぞり返ったコマザワは「気のもちよう…ってか…」と、腹をさ

すりながら応じ、盛大にゲップをして飲み込んだ空気を吐き出した。

 それから長めの休憩をはさみ、体がまた熱くなってきた頃に再度プールへ。

 今度は意図して力を抜くようになったコマザワは、いくらか腰が柔らかくなって、背中の張りも緩んだ。

「良い調子!そうそう!」

「ほ、ほんとか?こんな具合か!?」

 調子が良い事は自分でも判るんだろう。コマザワは耳をピクピクさせて、僅かに顔を綻ばせた。

 一度コツを掴んだら、コマザワはすぐに順応した。

 それはまぁ、喧嘩であんな物凄い動きをするくらいだから、運動は本来得意なんだろう。

 元々犬かきはできていた事もあって、夕方まで粘ったら、不格好ながらバタ足と平泳ぎの合成泳法で25メートルをチャプ

チャプ泳げるくらいになった。

「もうちょっと!頑張ってコマザワ!」

 バタ平で泳いでくるコマザワをプール中央で待ち構え、励ます。

「あと5メートル!4!3!2…!」

「うぼらああああっ!」

 ちょっと沈みかけのコマザワが最後の一蹴りで前進、水を掻いていた両手を広げて僕に抱き付いた。

「ど、どうだっ!やってやったぜ畜生めっ!」

 息を荒らげながらも気勢を上げるコマザワ。水の中でビュンビュン尻尾を振っている。とても嬉しそうだ。

 呼吸が乱れて胸と腹が上下するコマザワの身体は、骨太で、筋肉がみっしりついて、その上に脂肪が乗っている。逞しくも

ムチッとした堅肥り。

 喧嘩が強いのも頷けた。大男ってわけじゃない、背丈は僕より少し高い程度だけど、「重み」とか「密度」とか、そういう

のが僕とは全然違う…。

「へへへっ!サンキューなコナガイ!」

 得意げで、嬉しそうで、子供っぽい笑顔。最初は品が無く思えた笑顔は、見慣れて来ると愛嬌があって、何だかこっちも気

分が明るくなる…。

 いつ以来だろう?自分が練習した訳じゃないけど、こうして何かに、こんなにも真面目に、汗を流して取り組んだのは…。



 何とかある程度泳げるようになり、すっかり上機嫌になったコマザワは、帰りに早めの晩飯を奢ってくれた。が…。

「こ、これが…、特上ウニ丼…!」

 道の駅の有名店、目玉商品中の目玉商品、度迫力のウニ山盛り丼を前に、僕は絶句した。

 …なお、お値段は二千八百円也…。遠慮したんだけれど、強引に押し切られてしまった…。

「気にすんな。お礼だお礼。あ、言っとくが、かつ上げした金じゃねぇからな?」

「そ、そこは疑っていないけれど…」

 割り箸を取ってパチンと割り、コマザワは早速箸をつける。緊張気味に「い、頂きます…」とそれに倣った僕は、滅多に食

べられない御馳走に夢中になった。す、凄い量の生ウニ!

「やっぱウニは生だよな!塩ウニなんかも嫌いじゃねぇけどよ」

 ガツガツと掻きこむ合間に、コマザワはそんな事を言った。それにしても男らしい食いっぷり…。あれ?そういえばコマザ

ワが食事している所は初めて見たかも?

「コマザワは、昼食いつもどうしてる?弁当じゃなかったような…?」

「ん?学食でパン買って、体育館裏で食ってるぜ」

 そういえば寮に入っているんだったかな…。

「独りで?」

「だいたいな」

「いつもパン?」

「ああ。でもまぁ朝飯晩飯は寮で食えるから、バランスは取れてんだよ。…ちっと脂っこいのが多めかもしんねぇけど」

 ニィッと笑ったコマザワが、脇腹の肉を摘まんで見せた。不良のイメージにそぐわないユーモラスさで、僕は思わず小さく

笑ってしまう。

 笑ってしまってから、気を悪くしたかな?と思ったけれど、コマザワは機嫌よく笑ったままだった。

 コマザワは意外と愛嬌がある。それに、不良とはいっても話が通じないヤツじゃない。

 慣れてきたせいか、僕はちょっとずつだけれどその事に気付き始めていた…。

 電車で帰ってきて、コマザワと別れた帰り道、僕は携帯を覗き込んでツイートを確認する。

『唯我独尊!』

 アイロンが呟き続けていた。覗いていない間に面白いツイートが結構あって、すぐに反応できなかった事が悔やまれたけれ

ど…、一日を振り返ったら、まぁいいかって気分にもなった。こんなに長い事ツイートを確認しなかったのは久しぶり…。

『夏はプールに限る!』

 僕が呟くと、

『カキ氷はブルーハワイに限る!』

 アイロンがすぐに応じてくれた。

『ウニも生がいいね!』

『ビールとウニとエビは生に限る!』

『まだビールは飲めません!』

『いつか判る日が来るさ!様々な不思議体験を経て!ボーイズビーアンビリーバボー!』

 ポチポチとキーを押してテクテクと歩く僕は、終始尻尾を揺らしてニコニコしていた。

 不良のはずのコマザワは、結構良いヤツだった。







 翌日、月曜の朝…。昇降口に入った僕は、コマザワの姿を見つけて尻尾を立てた。

 これまでは近寄り難かった風貌にも、話して印象が変わったせいか、親近感を覚えている。

 下駄箱に外履きを入れているコマザワに近付いて、僕はちょっと照れくささを覚えながら声を掛けた。

「おはよ、コマザワ」

 屈んでいたコマザワは僕をチラッと見上げ、「ああ」とそっけなく返事をする。

「昨日は御馳走様」

「ああ」

 頷いたコマザワは立ち上がると、…あれ?

「………」

 むっつり口を閉ざして僕に背を向け、さっさと歩き出した。

 ホームルームまでは時間がある。そんなに急ぐ事もないだろうに…。

 もしかしてコマザワ、朝は機嫌が悪いタイプ?低血圧?

 それとも、月曜の朝だから憂鬱?気分が乗らないとか?

 靴を履きかえた僕は、首を傾げながら教室に向かった。



 しかし、コマザワは急いでいた訳じゃなかった。

 最初の休み時間に席を立った僕は、教室を出ようとするコマザワに声を掛けたけれど…。

「いつも出ていくけれど、休み時間はどうしてるんだ?」

 コマザワは「何も」と応じてそのまま出て行こうとする。

「廊下でボーっとしているのか?何なら…」

 ちょっと話でも?と言おうとした僕は、

「うるせえ」

 コマザワの低い声で口を閉ざす。コマザワの鋭い目が、至近距離から僕を睨んで、射竦ませる…。

「俺に構うんじゃねぇよ」

 ドスのきいた声を僕に浴びせ、コマザワは廊下へ出て行く。

 竦んで動けなくなった僕は、しばらくその場に佇んでいた。

 …どうしたんだろう?コマザワは、昨日とは別人みたいにおっかなくなっていた…。

 まさか僕は、何か機嫌を損ねるような事でもしたんだろうか…?



 昼休みにも声をかけてみた。

 けれどコマザワは…、

「馴れ馴れしく話しかけんじゃねぇ」

 ずいっと僕に顔を寄せ、間近から凄まじい形相で睨み、低い声で脅しつけてきた…。

 去っていくコマザワを立ち竦んだまま見送り、僕は確信する。

 僕は何か、機嫌を損ねるような事をしてしまったんだ…。

 仲良くなれたような気がしたのに、嫌われてしまった…。

 のろのろと席につく僕は、周囲の興味深そうな視線に気付いて動揺する。

 ボッチ気味だったせいで視線を集めると落ち着かない…。

 ひそひそと、僕とコマザワについて憶測を巡らせているんだろう連中の囁き声が聞こえて来るけれど、気付かないふりをし

て、平静を装って、携帯に視線を固定する。

『唯我独尊!』

 十数分前に、アイロンがいつものように呟いていた。

『ちょっとブルーな気分』

 愚痴ってみた。情けない。

 昼休みの終わりまで待ったけれど、忙しいのか、アイロンの返事は無かった。



 帰宅して、部屋のベッドに倒れ込む。

 何だろうこれ?喪失感?すっごいブルー…。

 何が悪かったんだろう?僕は何をしてしまったんだろう?

 …でも、確認するのもちょっと…。だってコマザワ、あんなおっかない顔して…。

 訳が判らない…。僕は何をしたんだろう…?

 しばらく悶々とした後、僕は携帯を手にする。

 …コマザワとは、元々親しくなかった…。あの日だけ特別だったんだ…。元通りになっただけだ…。

 自分に言い聞かせながら、アイロンのツイートを確認する。

『唯我独尊!』

 昼に呟かれたのを最後に、アイロンのツイートは無かった。

 何だか、物凄く孤独感を味わった…。







 異常に気付いたのは翌朝だった。

 いつもそうしているように、起きて最初にツイートを確認した僕の目に、ずらりと並ぶ見慣れた文が飛び込んで来た。

『唯我独尊!』

 アイロンの呟き…。

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

 昨夜遅くから、繰り返し何回も同じ文が…。

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

 十分か、短い時は五分おきに…。

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

 一晩中、ずっと休まずに…。

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

『唯我独尊!』

 な、何だこれ…?何なんだこれ…?

 目を見開いて凝視する僕の目に、新しいツイートがあると示す表示が映った。

 恐る恐る更新ボタンを押すと…。

『唯我独尊!』

 びくっと、手が震えた。一分前に発されたツイートは、やっぱり同じ『唯我独尊!』…。

 壊れたように繰り返され、ずらっと並んだ『唯我独尊!』は、正気を疑わせる異様な眺めを作り出していた…。

 ふと、誰かのコメントが三つ前のツイートについている事に気付き、そこを開いてみる。

『アイロンってbotだったのか?』

 ………。

 ボッ…ト…?

 アイロンが、ボット…!?

 呆然としながら指を動かす僕の目に、様々なひとが発したツイートが映り込む。

『返事が早いなぁとは思ってたけど』

『嘘だろ?疑った事も無かった』

『そういえば時間が一定じゃないよな。不定期で不規則』

 僕の手から携帯が滑り落ちて、ベッドの上で跳ねた。

 母が階下で呼ぶ。そろそろ起きなさいって。

 でも僕は、受けたショックが強すぎて返事ができない。

 ずっと友達だと思っていた相手は…、プログラムだった…。

 アイロンは、ボットだった…。

 そして僕は、ボッチだった…。







 教師の声と、黒板を擦るチョークの音が、僕の耳を撫でて通り過ぎる。

 やる気が出ない。

 授業内容は頭をすり抜けていく。

 孤独感が、僕の中を埋め尽くす。

 他の物が入ってくる猶予は無い。

 携帯を覗いてみる気も起きない。

 繰り返される『唯我独尊!』…。

 ボットだった友達、アイロン…。

 ぼんやりと、ただそこに居るだけの僕の周りで、それでも時間は普通に流れていく。

 唯我独尊。

 尊くはないけれど、我は独り…。独りぼっち…。ずっと前から独りぼっちだったんだ…。

 友達だと思っていた、会った事もない相手はプログラムだった…。

 アイロンは凄く良くできたボットだったから疑いもしなかった…。

 それをずっとひとだと思い込み続けていた、なんとも滑稽な僕…。

 …笑えるな、ほんとに…。

 ぼんやりしている間に、今日の授業は全部終わっていた。

 ボクはのろのろと支度をして、ガヤガヤ話す皆の声に背を向けて、教室を出た。



 いつも携帯を見ながら帰っていたせいか、帰り道の景色は、登校時と同じく別物に見えた。

 滅多に見上げる事も無かった空を眺めたら、蒸気みたいな薄い雲が漂う青空を、一筋の真っ直ぐな雲が横切っている。

 物悲しく、そして寂しく見える、一本だけの飛行機雲…。

 携帯を見なかったら、特に何もする事はない。家に帰ってもぼんやり音楽を聴くだけだ…。

 気付かなかったおかげで今まで味わわなかった孤独は、結構キツかった…。

 これから僕は、ずっとこんな気分で過ごすんだろうか…?

 そんな風に落ち込みながらトボトボ歩いていた僕は、

「おい」

 不意に左側から声をかけられて顔を上げる。

 そこには、見覚えのあるシェパードの顔…。

 あ!

 右腕に痛い程の圧迫感。肘の少し上をキツく掴まれた僕は、別の手で後ろから肩を捕まえられる。

 そして無理矢理上半身を引っ張られ、斜め後ろに引き摺られて…。

「じゃ、行こうぜ?」

 シェパードは路地に引っ張り込まれる僕越しに仲間へ声をかけ、追い抜いて先導し始めた。

 何だ?何をされるんだ!?

 羽交い絞めにされて後ろ向きに引き摺られて行く僕の耳に、

「逃げようなんて思うなよ?センパイ…」

 ねちっこく纏わりつくような声が忍び込んだ…。



 僕が連れて行かれたのは、閉店して看板が外され、空っぽになったコンビニだった。

 テナント募集の張り紙がしてある窓から覗ける店内は、がらんどうで寒々しい。

 ブロック塀と壁との隙間が2メートル半程度しかない、狭苦しい建物の裏手に連れ込まれた僕は、たぶんガスボンベが収め

られていたんだろう、壁からL字型に伸ばして積まれたブロック壁のスペースに圧し込まれた。

 乱暴に背中を突かれてよろめき、壁に手をついて体を支えて振り返った僕は、見覚えのあるシェパードと、イタチ、キツネ、

黒ブチ猫が逃げ道を塞いでいるのを見て、絶望的な気分になる。

 こいつら、あの時僕をかつ上げしようとして、コマザワに叩きのめされた一年生達…!

「大人しくしとけよセンパイ?」

「変な真似しなけりゃ痛い目みねぇで済むからよ」

 口々に恫喝する一年生。ビクビクしていた僕は、彼らが手を出して来ないおかげでいくらか冷静になり、疑問を覚えた。

 ど、どういう事だろう?僕を痛めつけるためにここへ連れてきた訳じゃない?

「じゃあセンパイ。コマザワ呼んでくれるか?」

 シェパードが僕を睨んで言う。

「え?」

 疑問の声を発した途端、シェパードはおもむろに足を上げて、壁をガスっと蹴った。それだけでビクついた僕に、再び声が

かけられる。

「しらばっくれてんじゃねぇ!携帯で呼べっつってんだよ!」

 何?え?どういう事なんだ?コマザワを呼べ?僕がコマザワを?いやそんな事はできない。僕はコマザワの携帯番号とか…。

「し、知らない…」

「あ?」

 シェパードがずいっと身を乗り出し、僕は仰け反りながら続ける。

「僕は…、コマザワの携帯、知らないんだ…!」

「あ?そんな誤魔化しが通用するとでも思ってんのか?おぉっ!?」

 情けないけれど、一歳下のシェパードに凄まれて身震いする僕…。

「ご、誤魔化しじゃなく、本当に知らな…」

「一緒に電車で出かけてんのにかよ?」

 低く鋭い声が僕の言葉を途中で遮った。

 …そうか。あの時一緒に居たから、僕をコマザワの友達だと勘違いして…?加えて僕はコイツらから助けて貰っている。親

しいと思われても不思議じゃない…!

「ち、違う!あれはたまたま…」

 そう、たまたま…。だってコマザワは何だか怒っているようで、僕は嫌われていて…。親しくなんか…、ないんだ…。

「…携帯寄越せよ」

 シェパードが言う。「履歴見せろ」って。

 正直嫌だけれど、履歴は親の番号ばかりだ。見せてもコマザワには迷惑なんてかからない。

 僕はポケットに手を入れて携帯を握り締め、

「すぐ返してよ?」

 余計な一言を口走っていた。

 瞬間、四人の顔色が変わる。

「テメェ…!」

 …あれ?あれ!?な、何だか前にもこんな事があったような気が…。焦りながらも妙な感覚を味わう僕。

 何だろうこれ?デジャヴ?

 そしてその奇妙な感覚は、すぐさまデジャヴだったと判明した。

 何故なら、あの時と同じように…。

「いい加減にしやがれ一年坊!」

 野太い声が響いて、アイツが姿を現したから…。

 僕に視線を集中していた連中は、声の主が近付いていた事に気付けなかった。

 同時に視線を向けた僕らの目に、前をはだけて裾をベロッと出した半袖ワイシャツを着込む、骨太の和犬が映り込む。

「コマザワ…!」

 僕の口から出た声には、驚きと、そして安堵が混じっていた。でもどうして?どうしてまた来てくれたんだ?だって僕の事

を嫌いになったんじゃ…。

 走って来たのか、息を切らせているコマザワのワイシャツと赤いアンダーウェアは、脇の下付近や首周りが汗でグッショリ

変色していた。

「…へっ…!バンダイさんに感謝だぜ…!」

 乱れた息の合間に呟いたコマザワは、あの時と同じように四人を睨み回した。

「懲りてねぇなモヤシども…。誰のシマ荒らしてやがんだ…?あぁんっ!?」

 コマザワの唇が捲れ上がり、歯茎と牙が露出して、物凄く獰猛な顔が出来上がる。アイツの強さを身をもって学んだ四人は、

迫力に気圧されて半歩退いた。けど…。

「あっ!」

 声を上げたのは僕だ。半歩下がったと思ったシェパードが、急に振り向いて手を伸ばし、僕のワイシャツの袖を掴む。

「動くなよコマザワァッ!?ダチがどうなっても良いのかコラ!?」

 っ!!!

 目を見開いた僕はようやく理解した。僕はコマザワを呼び出すためだけに捕まえられたんじゃない。僕をコマザワの友達だ

と勘違いしているコイツらは、人質として僕を…。

 でも、そんなの無駄だ。僕はコマザワの友達じゃない。むしろ嫌われている。だから人質にはならない。コマザワは連中を

叩きのめすだろう。僕がどうなろうと関係なく…。

 …あれ?

 僕はコマザワの表情を見て、疑問を覚えた。

「勝ち目がねぇから人質…ってか?腑抜けどもが…!」

 牙を剥き出すコマザワの顔が、苦悶するように歪んでいた…。そして、その目が僕に向き、悲しげに細められる。

「悪ぃなコナガイ…。こんな事にならねぇように、気ぃつけてたつもりだったのによ…」

 …え?こんな事に…ならない…よう…?

 戸惑う僕の胸の内に、じわりと理解が広がる。

 コマザワ…。もしかして、こういう連中が僕に手を出さないように?巻き添えにしないように?わざとあんな態度を!?

 驚いている僕の前で、コマザワは四人を睨み回してから「へっ!」と鼻を鳴らした。

「殴らしてやらぁ。好きなだけやりやがれ!けどなぁ…、その貧弱な手首折れちまわねぇように気ぃつけろよモヤシども!」

 猛々しく吼えるコマザワは、覚悟を決めたように両手を体の脇に垂らし、拳をきつく握り込んだ。

「ま、待ってコマザワ!逃げ…」

「黙ってろ!」

 シェパードに怒鳴られ、情けない僕はビクッと固まって目を瞑り、耳を倒す。けれどその直後、地面を蹴るような音に続い

て、ゴッ…と鈍い音が響き、僕は目を見開いた。

 コマザワに歩み寄ったキツネが、腕を振り抜いていた。思い切り左頬を殴られたコマザワは、首が捩れて横を向いて、体が

斜めに傾いて…。

 けれど、アイツは倒れなかった。

 右足を横に出してザリッと地面を踏み締め、上半身が傾いた格好で堪える。そして、ぎろりとキツネを睨んで体を起こした。

「てんでキかねぇな。ちゃんと飯食ってんのかモヤシぃ?」

 コマザワの顔には不敵な笑み。まるで殴られてなんかいないように、背筋が伸びてしゃっきりしている…。

 挑発されたキツネがもう一発、今度は右頬を殴る。再び響く、何かに覆われた硬くて重い物がぶつかり合うような音…。で

もコマザワはまたも倒れず、さっきと同じく踏ん張り、キツネを睨んだ。

「どした?んなへっぴり腰で俺を殴り倒せるとでも思ってんのか?おぉっ!?」

 な、なんて頑丈な…!

 驚きと呆れ、そして感動にも似た物を覚えた僕だったけれど、次いでイタチが加わって、コマザワの脛を爪先でガツンと蹴っ

たら目を瞑ってしまう。見ているこっちまで痛い…!

 さらに黒ブチ猫が加わって、コマザワの後ろから腰に蹴りを入れた。そしてイタチが顔を殴り、キツネが腹を殴って…。

 連続する打撃音。連中の罵り声。けれどコマザワは痛そうな声一つ上げずに挑発する。どうしたどうした、その程度か、っ

て…。

 骨が鉄ででもできているんじゃないだろうか?あんなに蹴られて殴られて、それでも元気だなんて、どうかしているよ…。

 けれど、僕はそれが楽観的過ぎる見方だと、すぐに気付いた。

 不敵な笑みを浮かべて連中を罵るコマザワの口元から、タラリと血が滲んでる。そしてその喉が、時々コクンと何かを飲み

込んでいる…。

 ふと、プールでの事が思い出された。

 あの時コマザワは、水と空気を飲んだって、顔を顰めて腹を摩っていた。

 …もしかして、コマザワは平気なんかじゃない…?喉が動いているのは、血を飲み込んでいるせい?弱みを見せないため?

きいていないって見せかけるため?プールで水や空気を飲み込んでいたのは…、この強がり方でついた癖!?

 一度見方が変わったら、コマザワは平気なんかじゃないって判った。

 足が時々、殴られたのとは無関係にガクガクッと震えている。時々かぶりを振っている。体の揺れ方が大きくなっている…!

 キいているんだ!足にきている!あれはやせ我慢だ!

 弱音を吐かず、苦鳴一つ漏らさないコマザワ…。本当は四対一でも勝てるのに、僕を助けるために殴られっ放しになって…!

 それなのに何をしているんだ僕は!?ただ黙って見ているだけで、何もしようとしないで!

 …で、でも…、僕じゃ何もできない…。何の取り柄もない僕じゃ、この状況で何もできっこない…。

 毎日毎日携帯を弄るばかりで、体も鍛えていないし、度胸もないし、武器になる物なんか何も…。鞄にだって筆記用具程度

しか…!

 …筆記用具…?


―『ペンは剣より強し!』―


 僕はピクンと尻尾を震わせた。

 …あった。武器があった。でも、僕にできるだろうか?失敗したら状況はもっと悪く…。

 改めて観察してみる。三人はコマザワを痛めつけるのに手一杯。倒れないからやっきになって、周囲が見えていない。

 シェパードは僕が逃げられないようにはしているものの、注意が仲間とコマザワに向いていて、こっちの挙動を見ていない。

 …きっとやれる…。やれる…。やるんだ…!

 僕はストラップを親指と人差し指でしっかり摘み、あれからずっとポケットから抜くのを忘れていた手を素早く引き抜きざ

ま、あっちを向いているシェパードの顔に向かって振りながら、思い切り伸ばした。


―『今の時代、携帯はペンより強し!』―


 バキャッと、何かが割れる音。「ギャッ!」という悲鳴。

 ストラップを握って振った携帯は、弧を描きつつ、狙い違わずシェパードの眉間に炸裂した。

 アイロンが呟いたのはこういう意味でじゃないだろうけれど、携帯は精密機器の塊だから、大きさの割にぎっしり身が詰まっ

ている。コマザワみたいに!

 堪らず手を離したシェパードの脇を、バッテリーカバーが飛んだ携帯を手放しながら駆け抜ける!

 シェパードの悲鳴で異常を察した三人が振り返り、「あ!」「野郎!」と口々に声を上げた。キツネが僕の行く手を阻むよ

うに動く。イタチが壁際を抜けられないように塞ぎにかかる。

 僕は顔を両腕で庇い、目をきつく瞑って前も見ずに突進した。

「テメェこのっ!」

 罵声が横手で上がる。けれど僕は駆け抜ける。直後、腰の少し上に後ろからドガッと何かが当たった。

 蹴られたんだって理解する前に、僕はつんのめって、顔を庇っていた腕を夢中になって前へ伸ばして、目を開けて…。

 伸ばした手が何かに触れた。

 かと思ったら手首が力強く掴まれ、僕はグイッと引き寄せられる。そして体がドフッと、重い何かにぶつかった。

 いや、ぶつかったっていうか、止められた。

 重々しくて分厚くて、逞しくて、でもムチッと柔らか味がある…、コマザワの体で…。

 コードが抜けて首から飛んだヘッドホンが、地面に落ちて跳ね、ガラガラと音を立てて滑っていく。

 つんのめった僕が伸ばした腕を掴み、引き寄せて抱き止める格好で支え、脇腹に腕を入れて転ばないようにしてくれたコマ

ザワが…、

「へっ…!やるじゃねぇか…!やっぱすげぇわお前…!」

 僕の耳元に囁きかけ、気分良さそうに笑った。

 僕の進路を阻みにきたキツネは、コマザワにやられたのか、脇腹を押さえて地面に転がり、ゲェゲェ喉を鳴らしてえづきな

がらのた打ち回っている。

 回り込んで僕を蹴ったイタチは、コマザワに凄まれて追撃を阻まれている。

 黒ブチ猫は人質が自由になった事で警戒し、距離を取ってイタチの方に寄っていく。

 そしてシェパードは、マズルの付け根と眉間を右手で覆って、左目で僕を睨んでいた。

「形勢逆転…ってか?」

 不敵に笑ったコマザワが、横を向いてベッと唾を吐く。

 吐き捨てられた唾は真っ赤だった。これじゃ口の中は相当傷ついているはず…。やっぱり、きいていないように見せかける

為に、痩せ我慢して飲み込んでいたんだ…。

「下がってろよ、コナガイ」

 コマザワは僕を後ろにずいっと押し遣り、連中との間に立つ。そうして僕を背後に庇うような立ち位置になると、ワイシャ

ツの袖を掴んで脱ぐ。

 ワイシャツの下は薄手の、赤い半袖ティーシャツ。背筋が盛り上がった逞しいその背中には、縦に並んだ黒い四文字…。

「唯我…独尊…」

 呟いた僕の前で、コマザワはワイシャツを放り捨てる。

「畳まれる覚悟はできてんだろうなぁ…モヤシども!?」

 怒りが籠った低い唸り声。コマザワは一体どんな顔をしているのか、連中が気圧されたように後ずさった。

「オラ来いやぁっ!!!」

 コマザワが吠え、走る。

 重量感のある体躯が突っ込んで、

「ボロボロでコいてんじゃねぇっ!」

 裏返った奇声を上げた黒ブチ猫が迎え撃って、

「だらぁ!」

「おあっ!」

 真正面からお互いの顔にパンチをぶつけ合う格好になって…、片方が弾け飛ぶ。

 コマザワは、黒ブチ猫のパンチを額に受けて…いや、握り拳に頭突きを当てる格好で迎撃しつつ、相手の左頬へ拳をめり込

ませていた。

「ごぼぇっ!」

 嫌な声を発した黒ブチ猫が、傾けた体を半回転させ、俯せになってどうっと地面へ倒れ込む。それでも勢いが止まらず、そ

のままごろっと横向きに転がる様を見たら、コマザワのパンチがどれだけのパワーなのか実感できた…。

 連中があれだけ殴って蹴って、それでも倒れなかったコマザワ。

 対してコマザワの一発に、連中は耐えられない。一撃必殺だ…。

 僕はというと、情けない事にカタカタ震えている…。喧嘩の叫びに、目の前で振るわれる暴力に、怯えきって体が竦んでい

る…。

 怯んでいたイタチは、それでもコマザワがボロボロだからだろう、モーションが大きいパンチ後のアイツに向かって駆け、

雄叫びを上げて蹴りかかった。

 体重を乗せたやくざキック。右腕を振り抜いていたコマザワは捻った体を戻す途中で、避けられない!

 ドボッ、と深い音がした。

 不安定な姿勢のまま足だけ踏ん張って向き直ったコマザワの腹に、イタチの靴底が埋まっている。

 けれど、コマザワは倒れない。ザリリリっと靴を地面に擦って後ろに滑ったけれど、どてっ腹に食らったキックを、体を折

りながら両手で抱え込んで捕まえている。

「うげっ!?」

 イタチの口から驚きと焦りが半々の声。がっしり右脚を掴んだまま、コマザワは強引に体を捻じってイタチを地面へ転がす。

直後コマザワは、イタチの太腿の前側、やや外寄りを中心に向かって蹴った。

「どらぁ!」

「いぎゃああああっ!」

 サッカーボールを蹴るみたいな、爪先をめり込ませる容赦ないキック…!

 太腿の筋肉に強烈な一発が突き刺さり、イタリは脚を手で押さえて転げ回る。

「あとは…、テメェ独りだぜ…」

 大きくつく息を早いペースで繰り返し、胸と肩を上下させるコマザワに睨まれ、僕の携帯で眉間の下を少し切ったシェパー

ドが鼻白む。

 どう考えても、シェパード一人じゃ勝ち目はない。素人の僕でもそれが判る。

 少し怯えているように耳を後ろへ寝せ気味にして、じりっと後退するシェパード。憎々しげに僕を睨んで竦ませた彼は、コ

マザワがジャリッと踏み出すと、

「くそっ!」

 踵を返して駆け出す。僕らが入って来たのとは逆側…、空き店舗脇の隙間から表に向かう方へ…。

「テメェっ!逃げんじゃねぇ!」

 吠えて駆け出そうとしたコマザワの足がもつれた。ハッとしたように大きく足を踏み出して体を支えはしたけれど、やっぱ

り足にきている!

「こ、コマザワ!もう止め…」

 もう追いかけなくていい。もう無理しなくていい。もう止めよう?

 そう声を掛けようとした僕は、言葉を途中で切った。

 コマザワは僕の制止とは別の理由で足を止めていた。

 シェパードも立ち止まって…いや、立ち竦んでいた。

 僕らの視線は、空き店舗の向こう側からのっそりと現れた大男に向いている。

 酒樽を思わせる分厚くどっしりした胴…。

 丸太みたいな、逞しくてごっつい手足…。

 筋肉で盛り上がった肩とぶっとい猪首…。

 鋭い目と立派な牙を備えた、厳つい顔…。

 そして、大きく肌蹴られたワイシャツの前から覗くのは、真っ赤なティーシャツにプリントされた、縦に並ぶ黒い四文字、

「弱肉強食」…。

「兄貴…!」

 大男の姿を見たコマザワが、驚いたように呻く。

 その大男は、黒褐色の猪だ。

 ある者は「学園の守護者」と呼び、またある者は「無敵の重戦車」とも呼ぶ。そして何より、全員がこの大男をこう認識し

ている。「正義の番長」と…。

 番長はシェパードに向けていた鋭い目をゆっくり動かし、地面に転がったまま自分を見つめている他の三人へ順番に向けた。

そうして全員が威圧されて動けなくなると、僕にちらりと目を向けてからコマザワに話しかける。

「コマザワ、大事ねぇか?」

「へのかっぱっす!」

 威勢良く返事をするコマザワの声には喜びにも似た張りがあって、尻尾がハタタッと揺れていた。

 その返答を受けて無言で頷いた番長は、

「この喧嘩はオレが預かる。文句があるヤツは居るか?」

 全員の顔を見回し、有無を言わせない口調で終息宣言した。

 コマザワ一人でも手におえないのに、番長まで現れた。文句があっても言えるはずがない。観念したシェパードが魂でも抜

けたように脱力し、地面に這いつくばっていた連中も諦める。そこへ、

「イノウエ君、もういい?」

 番長の後ろの方で、建物の陰からひょこっと、背が低くて可愛らしいレッサーパンダが顔を覗かせた。

 番長の盟友、生徒会書記のバンダイ先輩だ。

 いわゆる非公式な抑止力の番長サイドと、生徒会及び風紀委員会サイドの橋渡し役になっている人物であり、寮では番長の

ルームメイトなんだけれど…、そういえばさっきコマザワが、バンダイ先輩に感謝とかどうとか言っていたような…。

「ああ」

 番長が振り返って短く応ると、バンダイ先輩はトコトコと歩いてきてその脇に並ぶ。そして連中の様子を見てから僕とコマ

ザワに視線を向け、可愛らしく微笑んだ。

「大変だったね」

 この惨状を前に可愛いレッサーパンダは全く動じていない…。まだ震えが収まらずにビクビクしている自分が情けないよ…。

「後はボクらが引き受けるから。コマザワ君は、彼を送ってあげたらいいよ」

 バンダイ先輩の言葉を受けたコマザワは、一度ちらりと僕を振り返ってから、

「済んません。そうさして貰いまっす!」

 番長とバンダイ先輩に深々と頭を下げた。そしてブロック塀の際に目を向けると、僕の携帯と、飛んでいたバッテリーと蓋

を拾い上げ、こっちに向かって歩いてくる。

 僕の手を取り、バッテリーをはめて半端に蓋を閉めた携帯を押し付けると、コマザワはもう一度屈んでヘッドホンを拾う。

「行こうぜ」

 差し出されたヘッドホンを受け取り、携帯と一緒に抱えるように胸に抱いた僕は、コマザワに促されてその場を後にした…。



「悪かったな」

 歩道を並んで歩きながらコマザワが口を開いたのは、お互いに無言のまま、しばらく歩いた後の事だった。

「え?」

 横顔を見遣った僕に、「あ〜…、だからホレ、さっきのよ…」と、彼はボソボソ言う。

「連中な、俺の事目の敵にしてやがんだ。巻添え食らわしちまったな…」

 コマザワは何だか、悪い事をして反省している子供の様な顔と口調で…、そこには近付き難い不良は居なくて…、普通の…

いや、むしろ普通よりも少し幼く見える同級生が居るだけで…。

「…怖かったろ?」

「…うん…」

 強がる事もできずに、僕は頷いた。「だよな」とコマザワは言った。

「こんな事になるんじゃねぇかと思ったから、学校じゃ話しかけなかったのによ…」

 …え?

 目で問う僕をちらっと見た後、コマザワは居心地悪そうに一つ肩を竦めて前を向いた。

「本当は昨日の放課後に言うつもりだったんだぜ?けどお前さっさと帰っちまったから、説明し損ねちまって…。今日もよ、

帰りに学校の外で捕まえようとしたら見失っちまって…。お前が連中に連れられてくトコを見たって、バンダイさんが俺を呼

んでくれたから、あそこが判ったけどよ…」

 コマザワはボソボソとそう前置きをしてから、「だいたい判ったろ?」と、僕の目を困り顔で見つめた。

「俺は敵が多いんだ。兄貴と違ってまだ勝ち目がある相手ってんで、ああいうヤツらにしょっちゅう因縁つけられてっからな。

…だからよ、仲が良いなんて知られちまったら…、こうだ」

 …あ…。

「それによ、俺とつるんでたらクラスの連中からも変な目で見られんだろ?先公どもにだって目ぇつけられちまうかもしんねぇ

し…。誰かの目があるトコで釘刺して、それを見られちゃ元も子もねぇしよ…」

 コマザワの言葉で、僕は理解した。

 つっけんどんな態度も、喧嘩腰で唸ったのも、全部芝居だったんだ…。自分と一緒に居ると、僕に迷惑がかかると思って、

コマザワは…。

「…悪かったな…。日曜の帰りにちゃんと言っときゃ良かったのに、あんまり楽しかったからつい忘れちまって…」

 コマザワはガリガリと頭を掻いた。そんな彼に、

「どうして…」

 僕は掠れた声で訊ねた。訊ねずにはいられなかった。

「どうして僕を庇ったんだコマザワ?…だって…、だって…、痛い目に合うの判ってるのに、何で…!」

 何で僕を、見捨てなかったんだ?

 立ち止まった僕に少し遅れ、二歩進んでから止まったコマザワは、僕を振り返る。

 友達な訳でもない。親しい訳でもない。居ても居なくても同じなどうでもいい僕を、どうして庇ったりしたんだ?助けに来

たりしたんだ?

 来なければあんな目に遭わなかったし、僕を無視すればこんなに痛めつけられる事もなかったのに…!

 言いたい事は、訊きたい事は決まっているのに、あんな状況に放り込まれたショックが抜けていないせいか、口が上手く回

らない…。

 問う僕の中で、答えを求める僕の中で、不謹慎にも期待が膨れた。

 コマザワは、そこまでしてでも僕を助けてくれた…。

 コマザワは、僕を特別に思って助けてくれたのか…?

 何処にでもいるような、何の取り柄も無いような、僕を…?

「何でって…」

 返答に詰まるコマザワ。

 困ったような彼の顔を見た途端に、僕は気が付いて、期待が萎んだ。

 …そうだ…。判っていた…。

 コマザワが僕を助けたのは、番長の理念に沿うように、なんだ…。一般生徒を不良とのトラブルから守る為だ…。

 昔「闘犬」と呼ばれていたコマザワの今のあだ名は、「番犬」…。番長の犬…。

 コマザワは番長の忠犬だ。番長の理念と意思に従って牙を剥く忠犬…。でも、見方によっては一般生徒を守る番犬でもある。

 コマザワにとって、僕を助けた春の事も、今日の事も、特別な事じゃないんだ。誰が相手でもああして…。

 僕は視線を落とす。

 有り難う。それだけでいいじゃないか?ラッキーだったじゃないか?それ以上の事なんか、期待するだけ馬鹿げてる…。

 長い沈黙の後、僕は口を開いた。「有り難う」を口にするために。けれど、

「…あの…よぉ…」

 先にコマザワが声を発した。

「俺、な…。ずっと、お前の事見てたんだわ…」

 視線を斜め下に向けて、少し迷っているような顔になったコマザワが、ボソボソと言う。

「コナガイはよぉ、他の連中とつるまねぇよな」

 僕は小さく頷く。つるまない…というかつるめないんだ…。

「俺みてぇに不良って訳じゃねぇし、何かしでかして村八分になってる訳でも、別に嫌われて外されてる訳でもねぇ。お前の

方から混ざろうとしねぇ」

 それは…、僕が皆に混ざれないくらい話題も面白味も無い生徒だから…。

 そんな僕の内心には気付かないまま、コマザワは続ける。

「何つぅかさ…、俺は…、それがちっと格好良く見えたんだ。流されねぇっつぅのか、自分をしっかり持ってるつぅのか…。

「唯我独尊」って、こういう事なのかもなって思った」

「唯我…独尊…?」

 おうむ返しに呟いた僕に、コマザワは深く頷いた。眼を真っ直ぐに見つめて。

「ずっと見てたんだぜ?お前の事…。けど俺に話しかけられたら迷惑だろうし、つるんでちゃ今日みてぇな事になっちまう…。

だから声もかけねぇで黙ってた」

「ずっと…?」

「おう。去年からずっと…。春に、絡まれてたトコ見てさ、お前助けて…、そんで貸しができた時…、俺、本当は無茶苦茶舞

い上がってたんだぜ…?貸し一つ…、一回は逃げねぇで話を聞いて貰えるかなって…。だから、一回のチャンスをどう使うか

考えて…、それで…、お前が泳ぎは結構得意そうだったの思い出して…」

 コマザワは少し俯き、言葉を切った。

 ボクはドキドキしながら、確認のために口を開く。コマザワの言葉を疑ったわけじゃないけれど、耳にした事があまりにも

僕の望みに沿う形になっていて、あまりにも都合が良すぎて…、もしも勘違いだったら、後から押し寄せた失望に耐えられな

くなりそうで、怖かったから…。

「ど、どうして僕なの?だって僕は、取り柄も無くて、居ても居なくても一緒で、協調性も無くて、つまんないヤツで…!」

「つまんねぇヤツなんかじゃねぇ!」

 コマザワはムスッとしかめっ面になって言い返した。

「俺、日曜は無茶苦茶楽しかったんだぜ?」

「でもっ!…僕は何者でもない…!人気者でも嫌われ者でもない、空気と同じで…」

 僕はしつこく言う。コマザワが僕に特別な何かを求めているなら、見間違った何かを探しているなら、がっかりさせる前に

理解して欲しかったから…。

 そしてコマザワは、言葉を切った僕を見つめて、静かに言った。

「何者かなんて、決まってんじゃねぇか。俺は俺。お前はお前。唯我独尊だ」

 …また、唯我独尊…?

「世の中ひとは山ほど居るが、「そいつ」なのは「そいつ」だけ」

 コマザワが言う。少し視線を上向きにして、考え、思い出すような表情で。

「兄貴が教えてくれたんだ。昔そう教えられて、救われたんだって…。天上天下、俺達全員唯我独尊。一人一人みんな違って、

やれる事も違うし、やるべき事も違う。そしてそれは、判り辛ぇけど尊いんだ、って」

 コマザワの言葉の後半は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。

 そして何となく判った。

 コマザワがしている事は他の誰にもできない事だ。番長と同じ考えを抱いて、不良であって、教師の評価を恐れなくて、喧

嘩が強くて…、そんな条件が揃っている生徒は、校内にコマザワしか居ない。

 唯一無二の番犬として動いているコマザワは、彼が言う唯我独尊を実感している事だろう…。

 コマザワが、「バンダイさんがさ」と、唐突に言った。

 縫いぐるみのような可愛いレッサーパンダの姿を思い浮かべた僕に、コマザワが続ける。

「バンダイさんが言うには、「オンリーワンはナンバーワン」なんだとよ。「そのひとがそのひとである事にかけて一番なの

は、そのひと」だって…。世の中で一番「俺」なのは「俺」。よく判んねぇけど、ちっと面白ぇだろ?」

 そしてコマザワは「だから…!」と続けた。ふてくされているような、そして照れているような、微妙な顰め面で「お前だ

から…良いんだよっ…!」と、言った。

「ダチに…、なってくんねぇか…?」

 不慣れな、そして勇気を出したんだろうその一言に、僕は…。

「…おい」

 僕は黙ったまま…、

「おい、コナガイ?」

 答えられなかった…。

「な、何で泣いてんだよ?おい!?」

 戸惑って、困って、慌てているコマザワの声。

 今更だけどその声は、いつもヘッドホンで遮っていた、僕を取り巻きながらも僕とは無関係な雑音じゃなく…、僕に向けら

れた、僕への声で…。

 嬉しくて、ホッとして、怖いのもショックだったのもみんな吹っ飛んでしまって…、独りぼっちで迷い歩いて、やっと誰か

に出会えた迷子のような…、そんな気分…。

「わ、悪かった!…あ?な、何が悪かったんだ…?いや、とにかく悪ぃ!だからもう泣くな!なっ!?」

 今しがた不良を思い切りぶん殴っていた男の声とは思えない、取り乱しておろおろしているコマザワの声が、行き交う車の

音にも飛ばされず、僕を優しく包み込んでいる…。

 僕はボッチだった。

 プログラムを友達と思い込んで、ボッチじゃないって勘違いしているボッチだった。

 でも本当は、こっそり、黙って、ずっと見ていてくれたヤツが、ここに居たんだ…。

 もう僕は、ボッチじゃない…。







 それから、三日が経って…。







 金曜の授業が終わり、僕は手早く支度をして席を立つ。

 ちらりと窓際を見遣れば、コマザワが乱雑に荷物を纏めていた。

 廊下に出て昇降口に向かいながら、背面が傷だらけになった携帯を取り出す。

 これは名誉の傷。ささやかだけれど、ちっぽけな僕が一瞬でも何かに立ち向かえた印…。

 なお、ヘッドホンも同じく細かな傷がたくさんついたけれど、こっちはコードがツンッと引っ張られて接触が悪くなったみ

たいで、ノイズ混じりになってしまった。名残惜しいけれど買い替え予定…。本体まで一緒に飛んで壊れなかったのは不幸中

の幸いだったのか、それとも一緒に飛べば接触部が傷まなくて済んだのか…、判断は難しいところ…。

 携帯のモニターを覗いてキーを押し、呼び出したツイートの履歴には、

『唯我独尊!』

 おなじみのツイー…、え?

 僕は立ち止まり、その四文字を凝視する。

 アイロンが…呟いてる…!?元に戻ってる!?あのおかしくなった日の昼からずっと沈黙していたはずなのに!

 履歴を見てみると、どうやら今朝から復帰していたみたいだ。フォロワー全員宛てに呟かれたのか、『ご心配をおかけしま

した』と、珍しく「!」がついていないツイートが僕宛てにも届いている。

 制作者が調整したのか、ツイート履歴を見ると、アイロンはすっかり元通りみたいだ。

 昇降口で靴を履き替え、てくてく帰り道を歩みながら確認してみたら、ボットだった事が判明したアイロン相手に、馴染み

のフォロワーから様々な反応が見られた。

『実はbotだとかアリですかー!?』

『この詐欺師!(褒めてる)』

『もう大丈夫なの?寂しかった』

『怖いから真夜中の「唯我独尊」連打はもう止めてくだちぃ(泣)』

『本当に直った?良かった良かった!…ところでこの余ってるネジって何?』

botでもアイロンはアイロンだし!これまでと何も変わらんし!』

『全然気付かなかった…。ま、これからもよろしく』

 殆どは友好的な、そしてジョークに富んだツイートだった。

 アイロンの周りに集まったフォロワーは、結局アイロンの面白い呟きに興味がある。繋がっているのは「アイロン」とであっ

て、プログラムかどうかなんてあまり重要じゃないんだ。

 アイロンはアイロン、それでいいじゃない?たぶんそんな感じ…。僕だってそうだし。

 ごう、と頭上で音がして、僕は空を仰ぎ見る。

 ヘッドホンをしていた時は、飛行機の音なんてあんまり気にならなかったな…。

 みるみる真っ直ぐ伸びて行く飛行機雲。薄い雲が霧のように漂う青空を、白い線が一本切り裂いて行くようにも見えたけれ

ど、無限の蒼を白が開拓して行くようにも見えて…。

『飛行機雲は、空を切り拓いているみたいだ』

 半ば反射で、僕はそう打ち込んでいた。

『開拓者だ!』

 アイロンがすぐにツイートして、復帰の挨拶にも答えていなかった事を思い出した僕は苦笑いする。

『おかえり、アイロン』

『ただいま!ヘッドホン!』

 くすくす笑った僕の後ろから、

「な〜に一人で笑ってんだぁ?」

 野太い声が不思議そうな響きを伴って耳をくすぐってきた。

 振り向けば、肩越しに右手で鞄を持ち、かつぐように背中側にぶら下げたコマザワの姿。

「良い事があったんだ」

「良い事?」

「うん。良い事!」

 コマザワは携帯をしまいながら応じた僕の横に並び、訝しげに首を傾げた。

 あの日から、コマザワは僕の友達になった。

 ただ、学校内では基本的に今まで通りで、僕達は互いに知らんぷり。友達として一緒に過ごすのは、昼休みの食事と、こう

して外で会う時だけ。

 大っぴらに交友関係を見られる事については、僕まで嫌われるから、とコマザワが頑なに拒むんだ。これにはコマザワが兄

貴と慕う番長も同意見だったらしく、メリハリはつけるべきだと賛同したとか…。

 僕は別に良いのに。元々ボッチだから今更嫌われたって困る事なんてないし、コマザワと一緒に仲良く嫌われるなら望むと

ころなんだけれど…。

「ところでよ」

 コマザワが靴底を擦る独特な足音を立てて歩きながら言う。

「ヘッドホン、本当に良いのか?弁償するぜ?」

「良いよ。付き合ってくれるだけで十分」

 コマザワがしつこく言うけれど、僕は笑ってそれをいなす。

 自分のせいだとコマザワは言う。でも、コマザワが連中に付け狙われる原因になったのは、最初にからまれた僕なんだ。コ

マザワは首を突っ込んだだけ、そこへヘッドホンの弁償までさせちゃったら申し訳ない。

 コマザワは「そうかぁ?」と、まだちょっと納得していない顔で言ったけれど、気を取り直したように前を向き、それから

ゴォー…という音で空を見上げる。

 アイロンの蒸気みたいな薄い雲に彩られた、夏の盛りが近付く青い空に、二本目の飛行機雲が引かれて行った。

 丁度車通りも絶えて、曲がって入った路地には人気も無くて、車の音は遠くて、飛行機の音も遠のいて、二本のラインが走

る空の下にも、空の上にも、僕ら二人だけ…。

「んじゃ、今日は何処に行く?」

 言いながら、コマザワは空へ手を伸ばす。

 逞しい犬人が広げた分厚くてごつい手は、空が落ちないよう支えているみたいに見えて、ふと僕の耳に、いつもヘッドホン

から流れていた歌が蘇る。

 シェリル・ウォーカーの、『Reaching the sky』…。


 手を伸ばすのは疲れる事で

 背伸びし続ける事は大変で

 だからつい 忘れてしまう

 「辛い事ばかりじゃなかった」

 そんな大切で 当たり前の事を


 …ああ、そうか…。

 微笑んだ僕は、コマザワを真似て手を伸ばす。

 白い線が二本入った蒼に向かって、思い切り背伸びして…。


 ねえ 思い出して

 手を伸ばした先は 輝いていなかった?

 背伸びをした時 気持ち良くなかった?

 私達はちっぽけだから 空に手は届かない

 もしかして そんな勘違いをしていない?


 いつのまにかすっかり忘れていた、何かを求めていっぱいに手を伸ばすこの感覚…。

 水泳大会、50メートルのゴール際。水の中で伸ばした手も、蒼に包まれていて…。

 陽を浴びる手の平が気持ちいい…。まるで、空に触ったみたい…。


 さあ手を伸ばして さあ背伸びをして

 駄目で元々… それもアリじゃない?

 騙されたと思って ほら 手を掲げて

 ねえ どう?

 蒼に重なったその手は 空に届いているよね?


 僕の手も、コマザワの手も、空に触っている…。

 ちっぽけな手も、伸ばせばちゃんと届くんだ…。

おまけ