ユキ・5

「ユキって、呼んでくれませんか?」

 私のそんな言葉に、ヤマトさんはパンを咥えたまま目を丸くしました。

「な、何?急に…」

 齧り取らないままパンを口から外したヤマトさんは、訝るように眉根を寄せます。

 いつもと変わらない朝食。幸せな朝のひととき。ベーコンエッグをつつきながら、私は続けました。

「呼び方の事ですよ。ツキノスケだって「ナカイ君」です。来た時に困りませんか?」

「そ、それはまぁ…」

 ヤマトさんが唸ります。

「それに私、ユキって呼んで貰えた方が嬉しいです。この街では、トベさんや店長を除くと、私を下の名前で呼んでくれるひ

とは殆ど居ませんから…」

「でも…、ユキって呼ぶ、かぁ…。何か抵抗が…」

「どうしてです?」

「だって、呼び捨てみたいだ」

「あれ?ヤマトさん、お友達の皆さんとは呼び捨てでやりとりしていませんでしたっけ?」

 勘違いだったかな?と振り返ってみましたが…、そう、確かに呼び捨てにしていたような…。

「いやまぁ、それはそうだけど…」

 モゴモゴ口ごもるヤマトさんは、結局、はっきりとは返事をしてくれませんでした。



「じゃあ仕事行って来るね?」

「はい。気を付けていってらっしゃい」

 玄関先でのお見送り。私は靴を履いたヤマトさんを笑顔で送り出します。

 予定では休みの日だったんですが、車の無料点検で臨時の休みを取った埋め合わせという事で、別の方と休みを一日交換し

たそうです。

 結局、ヤマトさんは呼び方の事をうやむやにしたまま…というか遠まわしな拒否のポーズを見せたまま行ってしまいました。

 …どうして嫌なんでしょうか?お友達や後輩さん達には呼び捨てで接しているんですし、愛称で呼ぶくらい良いじゃないで

すか。ねぇ?

 そんな軽い不満を胸に、私は家事に取り掛かりました。

 まずは洗濯。ふたり暮らしですからそうそう数は出ないんですが、何せヤマトさんの衣類は大きいので、あまり溜めると洗

濯機に収まらなくなってしまいます。こまめに洗濯しておく方が楽です。…干す場所も取りますからね…。

 洗濯物を洗濯器に押し込んだら、次はお掃除です。

 部屋は全部合わせてもあまり広くないし、ヤマトさんも掃除しやすいようにと気を利かせてくれて、床に物を置いたままに

しなくなりましたから、これはずぐに終わります。

 そうこうしている間に十一時です。お昼ご飯はひとり分なので、いつもささっと済ませます。今日はどうしましょうか…。

 とりあえず、パスタがかなり残っていた事を思い出したので、これを使う事にします。そうだ。ニンニクもありますから、

ピリッと辛めのペペロンチーノにしましょう。

 鍋にお湯を沸かして、パスタを茹でて、手早く支度。完成したのは十一時半…少し早い昼食です。

 テレビをつけてコタツでご飯。バラエティー番組のCMでは、年度変わりを視点に据えた新商品が代わる代わる顔見せして

います。

 …もう春なんですねぇ…。桜が咲く頃になったら、ヤマトさんと一緒に何処かの桜並木など見に行きたいです。

 さて、午後はどうしましょうか?夕飯の仕込みと、夕方のタイムセールを狙った買い物を除くと用事がありません。私って

ヤマトさんと休日が合わないと本当に暇なんですよね…。

 ゲームを進めておきましょうか?ヤマトさんからすると私が挑戦できる難易度は物足りないですし、いつまでも足を引っ張っ

てばかりだと申し訳ないですから。

 …ちょっと勇気を出して、装備新調のために強敵にトライしてみるとか…。

 そんな事を考えながら、フォークに巻き付けたペペロンチーノを口に入れたままモゴモゴしていると、ピンポーン、とチャ

イムが鳴りました。

「はーい!」

 大きな声で返事をしながら立ち上がり、玄関に向かいます。

 前置きなくこの部屋を訪ねて来るのは、宅配業者さんが主です。…稀にヤマトさんのご友人の一部がアポ無しでいらっしゃ

いますが…。

 なので私はヤマトさんが通販した何かが届いたのだろうと思ってドアを開けました。

 が、そこに居たのは宅配業者さんではなく、普通の格好をした黒狼さんと白犬さんです。

「む?」

 玄関の外に立っていた黒い狼さんは、私と目を合わせて眉を潜めました。そして、

「済みません部屋を間違えました」

 ガバッと頭を下げてから、首を傾げつつ隣の部屋の方を向きます。しかし、

「いや待てハルオミ。表札はここで間違いない」

 白犬さんがそう言って黒狼さんを引き止めます。…ピンと来ました。

「あの、もしかしてヤマトさんのご友人の方でしょうか?」

 そう訊ねたら、黒狼さんは訝しそうに目を細めて、白犬さんは頷きます。

 やっぱりヤマトさんの友達でした。

 お客さんの一方は、光沢が鈍い黒い被毛がアンダーの白毛からくっきり浮き立つ、二枚目な狼のひと。

 少し癖がある毛は所々でツンと尖っていて、私は風雨に削られた岩や崖を連想させられました。

 眼差しは鋭く顔立ちは野性的、ヤマトさんを見慣れると感覚がおかしくなってしまいますが、普通のひとと比べるとかなり

体格がいいです。

 背は高く、肩幅があり、首も太くて四肢も逞しい…、テレビで見る格闘家のような体格で、オジマさんにも似た筋肉質な体

つきでした。

 もう一方は、狼さんと同じような背格好で、綺麗な白い被毛に体を覆われた、ハンサムな犬のひと。

 こちらも光沢があまり無い毛艶で、まるで濃い霧のような深みがある白が印象に残ります。

 面立ちは凛々しいですが、聡明そうな眼差しをしていて、温和そうな表情を浮かべていました。

「君は誰だ?」

「私は…」

 黒狼さんに訊ねられて、口を開くと…、

「いや名前を訊くなら自分から名乗るのが礼儀だな。俺は黒金晴臣(くろがねはるおみ)。ヤマトとは高校からの付き合いだ。

君は?」

 名乗る前に一息にすらすら名乗られて、口をパクパクさせました。

「俺は狗崎修一(くざきしゅういち)。学校は違ったが、コイツと同じくヤマト君とは友人でね。よろしく」

 クザキさんと名乗った白犬さんは、にこやかに握手を求めて来ました。あまりそういう習慣に馴染みがないので一瞬戸惑い

ましたが、私はその手を握り返しながら自己紹介を…、

「む!待てシュウイチ!先に挨拶したのは俺だ握手は俺が先にすべきだろう!」

 する前に黒狼さん…クロガネさんに割り込まれ、ギュッと手を握られました。

 そして今度こそ自己しょうか…。

「どうも。私は…」

「それで、君は誰だ?」

 …このクロガネさんという方…、さっきからちょっとタイミングが掴み辛いです…。

「私は中井雪之丞。ヤマトさんのお友達で、宅配の受け取りのために留守番を頼まれていました」

 私はいつものように接客用の名乗りをします。ヤマトさんが同性愛者だという事を知らないご友人も居ますから、誰にでも

「恋人です」と名乗れるわけではありません。

「留守番?ヤマトは居ないのか?」

 クロガネさんが意外そうに訊ねて来ました。

「月曜日がヤマトの週定休だと、前に聞いたのだが…」

「あ、そうです。でも先日休みを取ったので、早々と有休を使うのも何だから、埋め合わせという事で一日シフトを交代した

とか…」

 私がそう説明すると、クザキさんがクロガネさんに視線を向けます。

「今日お邪魔すると連絡していたんだろう?」

「勿論だ。メールでしっかりと」

 あれ?ヤマトさん、約束を忘れていたんでしょうか?私にも何も言っていませんし…。

「と、とにかく中へどうぞ。ちょっと連絡してみます…」

 顔を見合わせて首を傾げているおふたりを中へ招き入れながら、私は早速携帯を手に取りました。



「…あ。帰ってきましたね」

 玄関を開ける音で耳を立てた私は、次いでドスドスと重々しく響く足音を耳にしました。そして…。

「何で連絡も無しにいきなり来るんだよクロガネ!…あ、クザキ君ご無沙汰。元気だった?」

「しばらく。そっちも変わりないようだね」

 大急ぎで帰って来たヤマトさんは、居間に入るなりクロガネさんを睨みつけて大声を出しました。そしてクザキさんに軽く

会釈しながら笑顔を向けました。

「何を言ってモグ!連絡はしちゃだろムガ?先週メールで…」

 応じたクロガネさんは…、お昼がまだだったとお聞きしたので、急いで作ったペペロンチーノをモゴモゴしています。

「埋め合わせに勤務代わるって言って出てたのに、お前のせいでまた早引けだよ!パスタムグムグすんな!真面目に喋れ!」

「何を言うモガ!俺は真面目に話してゴム!このスパゲッティはガーリックがきいてじちゅに美味い!辛さも食欲をじょう進

しゃせムグ!」

 怒られながらも全く意に介さないクロガネさんは、豪快にペペロンチーノを掻き込みます。

 珍しいヤマトさんのエキサイト。

 長くなりそうなので、おふたりが言い合っている内にここまでの事や私が知った事を、掻い摘んで説明しましょうか…。

 クロガネさんとクザキさんは、ヤマトさんと高校時代に知り合ったご友人で、北街道にお住まいの二十五歳。地元の企業に

お勤めだそうです。

 おふたりともヤマトさんとは同郷ではないのですが、クロガネさんは高校の同級生で、クザキさんはその姉妹校出身。知り

合って以来十年の付き合いがあるとか…。

 ヤマトさんがなかなか北街道に帰らないので、今では時々しか会えないそうですが、こうして年に一度くらいは顔を見に来

ているそうです。

 考えてみると、ヤマトさんは誰かの所に遊びに行くという事は少ないですが、近場遠方問わず色々な方に訪問されています。

地元から遠く離れても、古い友人ともずっと付き合いが続いている辺り、流石の人徳と言えるでしょう。

「うん。色々と済まないヤマト君。ハルオミ、とりあえず口の中を空にしてから喋るようにしようか」

 しばらく続いても言い合いが収まらなかったので、取り為してたしなめるクザキさん。こちらは上品にフォークを使って、

口の周りを全く汚さないで食べています。

「まったく…!」

 と、渋々ですが一度文句を収めたヤマトさんは、空いている席にのそっと腰を下ろしました。

 これでコタツを四人で囲む格好。私の右隣にヤマトさんが、そのまた右隣にクザキさんが、さらにその隣にクロガネさんが

座っています。

「で?メールで連絡って…」

「うむ。先週の話だ」

「…先週…。先週ね…」

 口を空にして滑舌がはっきりしたクロガネさんの言葉に、ヤマトさんは携帯を弄りながら頷き…、

「来てねぇよっ!」

 少ししてから、顔を上げて怒鳴りました。

「何だと?お前目が悪くなったのか?さては稽古をサボったな!?」

 目を剥くクロガネさん。…お稽古?何のでしょうか?

「稽古なんて元からしてねぇよ!っていうか稽古サボると目が悪くなんのお前!?」

「悪くならん保障など…ないっ!」

「何だよその「クワッ!」は!そういう生き物なのお前!?稽古してないと視力落ちる新種の生物!?」

 ヤマトさんがクロスさん以外のひとにこういう口調で喋るの、珍しいですね…。

「…いや違う!落ち着け俺…!」

 ヤマトさんは深呼吸すると、携帯を太い指でトントンつついて言いました。

「とにかくメール!メール来てねぇんだってば!目が悪いとかじゃなくて!お前とクザキ君のアケオメ初詣写真が最後!」

「ちょっと待てヤマト…」

 クロガネさんが目を光らせます。

「お前さっき…、まさか…、稽古など元からしていないと言ったのか!?そんな事で勝てると思っているのか!?」

「まともに話をさせろぉおおおおおっ!」

 険しい表情で身を乗り出すクロガネさん。同じく顔を突き出すヤマトさん。コタツを挟んで睨み合うふたりを「まぁまぁ…」

とクザキさんが宥めます。

「ハルオミ、その話は後だ。とにかくヤマト君にはメールが届いていないと言うんだから、君の携帯も確認してみようか」

「む…。そうだな。動かぬ証拠を見せてやるぞインドヒグマ!」

「だから何だよその未確認生物は!」

 そしてクロガネさんは携帯をスチャッと取り出して、パネルを弄って画面を凝視します。

 一分ほど経ったでしょうか?クロガネさんはキリッと顔を上げて、ヤマトさんを見ました。

「済まん。送信前の下書きボックスに入っていた。だがまぁ良いだろう」

「良くねぇよ!」

「良くないな…」

 ヤマトさんとクザキさんが同時に突っ込みました。

 私は突っ込みませんでしたが、何のキリッ!だったんでしょうか?今の。そこが気になります。

「済んだ事は仕方がないだろう!済まなかったこの通りだ!」

 ガバッと頭を下げるクロガネさん。

「開き直ってんのか反省してんのかどっちなんだ!?」

 頭を抱えるヤマトさん。

「俺からもお詫びするよヤマト君…。ハルオミの事だから、きちんと疑って確認すべきだった…」

 耳を倒して項垂れるクザキさん…。ヤマトさんはため息をついて、

「いや、まぁ、もう良いけどさ…。とにかく、ふたりとも遥々良く来てくれ…」

「それはともかく。ヤマト、わざわざナカイ君に留守番を頼むなど、何が宅配で届くのだ?」

 苦笑いして歓迎の言葉を言おうとしたところで、クロガネさんに遮られました。…このひと、本当に間が悪いです…。

 頬をヒクつかせたヤマトさんが、ちょっと怖い笑顔でクザキさんに尋ねます。クロガネさんを指差しながら。

「引っぱたいて良い?」

「本当に済まないね…。後でキツくするから…」

 クザキさんもため息です…。

 そしてクロガネさんは、ふたりの心境などお構いなしで強引にマイウェイ。「さては!?」と何か当たりを付けた様子で声

を上げます。

「新品のマワシが届くのだな?春だからな、心機一転か…!」

「違うっ!何でお前の脳みそってそうなの!?」

 …タワシ?いや配達の受け取り自体が嘘なんですが、はて?わざわざ通販するような特別なタワシでもあるんでしょうか?

北街道特産とか…。それとも北街道には新年度にタワシを新しくする習慣が?

「ではなぜわざわざナカイ君に留守番など頼んだ?個人個人の時間を大事にするお前が、長時間拘束までして頼むとは珍しい

気がするぞ」

「あー、いや、それは…なぁ…」

 ヤマトさんはチラッと私を見て、それからクロガネさんを見て、クザキさんを見て、最後にコタツへ視線を落としました。

「そのぉ…、ナカイ君は、さ…。本当は…」

 …あれ?もしかして、ヤマトさん…。

「…俺の…恋人…。同棲してんだ…」

 大きな熊さんは、恥ずかしそうに体を小さくしてボソボソっと言いました。

「…え?え!?クザキさんとクロガネさんには、話しても良かったんですか!?」

 思わず訊ねた私の横で、

「おめでとうヤマト!」

 クロガネさんがコタツにバンッと手をつき、腰を浮かせました。

「それは…、めでたい…!いや、驚いたが…、本当にめでたい!」

 クザキさんは私とヤマトさんを交互に見つめて、「おめでとう」と微笑みました。

 きょとんとした私に、ヤマトさんが恥かしげな微苦笑を浮かべながら言いました。

「このふたり、同類なんだよ」

「え…?」

 思わず目を丸くして、クロガネさんとクザキさんを見たら、おふたりは肯定して深く頷きます。

「そういう事だ」

「付き合っているんだよ。俺達」

 誇らしげに胸を張るクロガネさんと、気恥ずかしそうな笑みを見せるクザキさん。

 …カップルだったんですか…。意外…いや、思い返せば納得です。

「それで、いつからだ!?いつ付き合い始めた!?昨年の夏はまだ独り身だったな?秋か!冬か!」

 クロガネさんは、我が事のような喜びようでした。尻尾をブンブン振りながら顔を笑み崩して…。

「えぇと、初めて会ったのはクリスマスで…」

「その後すぐにお付き合いを始めました」

 ヤマトさんが、私が、それぞれ補足し合いながら説明する間、クロガネさんとクザキさんは笑顔のまま、ずっと聞いていま

した…。



「なるほど…。しかしようやくだったな」

 缶ビールを煽って、プハーッとひと息ついたクロガネさんは、話を聞き終えてそう言いました。

 ヤマトさんからお話を伺っていましたが、交際については本当に「やっと」という事らしいです…。

「ホント、やっとだ…。でも良かったとも思うんだよな。フリーだったからナカイ君とこうして付き合える訳で…」

 チビッとビールを飲んで、ヤマトさんも頷きます。

 私たちの手元にはそれぞれ缶ビール。私は殆ど手を付けていませんが、クロガネさんは酒豪のようで、水のようにパカパカ

飲んでいます。

 日もまだ高いから、とヤマトさんは飲酒に乗り気ではなかったのですが、祝杯!祝杯!と繰り返すクロガネさんに、結局押

し切られました。

「高校時代、何度かチャンスがあったと聞いていたんだが…」

 クザキさんのこの言葉に、ヤマトさんが「あれ?何で知ってんの?」と眉根を寄せました。

「ハルオミから聞いたよ」

 答えを聞いてクロガネさんを睨むヤマトさん。

「スゴから聞いた」

 何故か得意げに胸を張るクロガネさん。

「アイツめ…!」

 頭を押さえるヤマトさん。でも怒っているというよりは、微妙な困り笑い…といった感じの顔と声です。

「スゴさんって…?」

 聞き覚えのない名前が出たので、訊ねた私に、

「高校の後輩。俺の寮仲間で、クロガネからすれば部活の後輩。今度写真見せるよ」

 と、ヤマトさんは微苦笑しながら答えてくれました。

「クロガネさんの部活の後輩って…、何部だったんですか?」

「相撲部だ!」

 間髪入れず応じるクロガネさん。なるほど、この立派な体格はお相撲さんとして鍛えた結果…、納得の筋肉です。

「何を隠そう、俺もシュウイチもヤマトも角友だからな!」

「かくゆう?」

 言葉の意味が判らずに首を傾げた私の横で、ヤマトさんが「何言ってんのお前!?」と大声を上げます。

「事実だろう?土俵の友よ!」

「そんな事実はないからっ!」

 …あれ?

「もしかして、ヤマトさんも相撲部だったんですか!?」

 文科系インドア派って聞いていたんですが…、似合う!ヤマトさんにお相撲さんは似合います!

「いや、違うからねナカイ君。俺は帰宅部だったから」

「うむ…。口惜しい事に俺の勧誘を悉く跳ね除けて、コイツはインドヒグマである事を貫き通した。…むしろ天晴と言える逃

げっぷりだった…!ぐぬぬ…!無念だが、今となっては悔いもない…!ぐぅ…!」

 拳を握り締めてきつく目を瞑り、眉間に深い皺を刻むクロガネさん。…無念なんですか?悔いが無いんですか?どっちなん

ですか?インドヒグマって何でしょう?

「ハルオミの目線から言うとね、部活では一緒に慣れなかったが、気持ち的には角友…相撲の友人っていう扱いになるらしい

んだ。ヤマト君は相撲を取った事もないのにね」

 クザキさんが微苦笑しながら、小声でそう教えてくれました。

「複雑ですね…」

「だろう?でもハルオミからすると、それは難しい事でもおかしな事でも複雑な事でもないらしい。変だろう?」

 目を細めて穏やかに笑うクザキさんは、…何と言えば良いんでしょうか…、クロガネさんの事がよく判っているように思え

ました。

 ただ、完全に理解しているとか、共感しているとかでもなくて、そういう考え方や捉え方をするひとなんだという事を、受

け入れて、判ってあげている…。そんな気がして…。

 ああ、素敵だなぁって、思えました…。

 ヤマトさんと私も、一緒に積み重ねた時間の先に、こういう判り合いができるようになるんでしょうか…?

 何だか、ちょっと難しいような、遠いような気がします…。

 と、それはともかく、ヤマトさんとクロガネさんの間ではまだ言い合いが続いています。

「今からでも遅くはない!土俵に戻って来い!」

「戻るも何も、そもそも土俵に居た事ねぇから!」

「何だと!?嫌だというのか!?」

「嫌だしリターンっていう表現はおかしいって言ってんの俺は!お前そこの所を都合よく言い換えるな!いや言い換えてんじゃ

なくて勘違いしてんの!?だからより重症なの!?」

「相撲取り崩れに玩具販売者が務まると思っているのか!稽古場の土の匂いを思い出せ!」

「崩れる以前に相撲取りだった事はない!経験してないから匂いなんか思い出せない!っていうか頼むからまともに会話して

くれ!」

 …なかなか…、大変なようです…。

 これは放っておいても収拾がつかないと感じたのか、クザキさんが静かに、若干低い声で言いました。

「ハルオミ。ちょっと黙ろうか…」

「はい。でもヤマトが悪いんです」

 背筋を伸ばしてキリッと応じるクロガネさん。

 ホッとしたようなヤマトさんに、私は笑いかけます。

「でもヤマトさん、お相撲さんの格好似合いそうですよね?」

「な、ナカイ君!?そんな事言ったら…」

「そう思うだろうナカイ君!君は見る目がある!」

 ヤマトさんの慌てた声を遮って、妙に行儀よく座りなおして黙ったクロガネさんが大きな声を出しました。

 …しまった。私の発言がクロガネさんに再着火を…!

「似合うなどと言う物ではないのだ。見ろ!これを!」

 クロガネさんは携帯をササッと弄って、私に画面を向けました。そこには…。

「…ヤマト…さん…?」

 そこには、褌…いや、廻し?そう、お相撲さんのあのマワシを穿いている、ほぼ裸の羆の姿が…!

 これは、学生時代のヤマトさんでしょうか!?高校生の!?うわぁ!貴重な写真です!

 ちょっと若い感じがしますが、当時から貫禄があって、顔付きは今とあまり変わりません。恰好が恥ずかしいのか、ちょっ

と硬い表情で…。か、かわいい…!

 寮の自室なんでしょうか?背景は雑然と散らかっています。

 この部屋でヤマトさんは三年間過ごしたんですね…。

 ご友人達と、先輩達と、後輩達と、どんな生活をしていたんでしょう…。いつか、色々と話してくれたら嬉しいですが…。

 それにしても、マワシ姿のヤマトさん、本当に良く似合っています。様になっています。違和感ゼロです。本物のようです。

 サンタ服の似合い方も尋常じゃありませんでしたが、これも負けず劣らずのコスプレ…!

「お前、まだその写真消してなかったの…?」

 驚愕の表情で呻くヤマトさん。その目は私をチラチラ見て、その耳は気恥ずかしそうに伏せられています。

「どうだ!ナカイ君も絶句するこの晴れ姿!判ったなヤマト!?お前は相撲を取るべき男なんだ!今からでも遅くない、相撲

を取ろう!」

「やだよ!!!似合うのと向いてるのとは別問題だから!取るべきとか勝手に決め付けるな!」

「この分からず屋め!こうなれば力ずくだ!立て!久々に一丁揉んでやる!」

「勘弁しろマジで!床が抜けたらどうすんだよ!」

「ハルオミ。ちょっと座ろうか…」

「はい。でもヤマトが悪いんです」

 再度クザキさんが低い声で囁くと、立ち上がったばかりのクロガネさんは、そのままストンと正座しました。

 …さっきの写真、欲しいですね…。あとでお願いしてみましょうか…。

「それはともかくだ」

「お前が言うなよ…」

 話題を切り替えようとしたクロガネさんにボソリと突っ込むヤマトさん。

「そろそろ夕飯の時間だな。祝いの席という事で…、ヤマト!寿司を取ろう!」

「寿司かぁ…」

 ちょっと考えるヤマトさん。

「美味い寿司を頼む。ごっつぁん!」

「…ん?」

 ん?

 ヤマトさんと私は首を傾げ、クザキさんは無言でクロガネさんを見ます。

「まさかクロガネ…。お前御馳走になる気?」

 念の為に確認するヤマトさん。

「俺は客だぞ?」

 何を言っているのだ当たり前だろう?という顔のクロガネさん。

 そして、おふたりはまた揉め始めました…。祝われるのにどうしてこっちが出すのだとか、お客様はもてなす物だとか、ケ

ンケンと…。

「とりあえず、だ。ここは平等に出資者を決めるべきだと思う」

 クザキさんが呆れたように言います。

 平等に…、ワリカンですよね。

「ジャンケンで」

 …私は、クザキさんというひとの事をちょっと勘違いしていました…。

「ジャンケンか…」

 ヤマトさんがちょっと考えます。

「む…。ジャンケン…、望むところだ!」

 クロガネさんが鼻息を荒くします。

 え?え?ワリカンで良いんじゃないですか?

「あの、ワリカ…」

 口を挟もうとした私に、ヤマトさんがウインクしました。

 次いで、私の手にそっと、何かが触れて来ます。

 何かと思えば、クザキさんが私の手に携帯を触れさせていました。クロガネさんの死角になる位置で。

 内緒の何かだと察して、発光しているその画面を見ると…。

 …?

 !?!?!?

 え?これって…、え?それじゃあクザキさんは…、最初から…!?

「ではゆくぞ!ジャン!ケン!」

 クロガネさんが音頭を取り、全員が手を出します。その黒い右耳を、それとなく窺いながら…。

『ポン!』

 全員がチョキ。一度目はあいこでした。

「あい、こで…」

 また私達は、クロガネさんの右耳を見ます。…あ。ピクってした!

『しょっ!』

 グー、パー、パー、パー…。負けたのは…。

「ぬぐああああっ!」

 頭を抱えて仰け反るクロガネさん。

「ごっつぁん」

 ニヤニヤするヤマトさん。

「運が無かったなハルオミ」

 涼しい顔のクザキさん。

 …ですがこのジャンケン、実はクロガネさんの負けは確定していたんですよね…。

 クザキさんが教えてくれましたが、クロガネさんはグーを出す時、右耳をピクンとくすぐったがっているように震わせる癖

があるそうです。さっきのウインクからすると、どうやらヤマトさんも知っていたようですが…。

 だから、クロガネさんの右耳が震えたらパーを、震えなかった時はチョキを出せば、絶対に負けないんです。

 つまり、クザキさんはジャンケンを提案した時点で、クロガネさんに払わせるつもりだったという事に…。

 クザキさん…。クロガネさんに好きにさせているようで、絞める所では折れよとばかりに首輪を締め付けますね…。

「それじゃあ早速注文するか。ああそうそう、クロガネ…」

 ヤマトさんは携帯を弄りながら、クロガネさんに目を向けました。

「寿司は勿論、特上だよな?祝いなんだから」

 この時、ヤマトさんは私が初めて見る、想像もした事も無かった、とてもとても悪い顔をしていました…。

「ヤマトお前っ…!」

 牙を剥き出しにして目をも開き、驚愕の表情を浮かべるクロガネさん。…御愁傷様です…。



「邪魔をしたな」

「御邪魔しました。また来るよ」

 クロガネさんとクザキさんを、アパートの下まで見送りに出た私とヤマトさんは、笑顔でふたりと向き合います。

「御馳走様でした」

「悪かったなぁクロガネ。お祝いに奢って貰っちゃって…」

「ぐぬぬ…!」

 ヤマトさんがニヤニヤしながらそう言って、クロガネさんに睨まれました。

 タクシー乗り場まで歩くからというおふたりは、近場のホテルをとっていたそうです。でなければ泊まって行って頂くとこ

ろなのですが…。

「ナカイ君。ヤマト君は年上なんだから、たくさん我儘言って良いんだからね?」

 クザキさんがそう、優しく微笑みかけながら言ってくれました。

「はい。ヤマトさんは優しいから、たくさん良くして貰っています。お願いもみんな叶えてくれるし…、あ、でも…」

 私はふと思い出しました。

 ユキとは、呼んでくれないのかなぁ、と…。

「ん?でも、何?」

「えぇと…。私の事、愛称で呼んでくれるようにお願いしたのには乗り気じゃなかったなぁって…」

 クザキさんはクスリと笑って、「照れくさいのかな?」と目を細めました。

「何!?愛称で呼んでくれないだと!?」

 ここでクロガネさんが割って入ります…。あの、夜だし外だし大声はちょっと…。

「いかんなヤマト。呼び方ひとつ、頼まれて変えられないとは…。嘆かわしい!それでも相撲取りか!」

「相撲取りじゃないっての!…いやほら、でもそれは嫌だって事じゃなくて…」

 ヤマトさんは俯いて、胸の前で組んだ手をモニョモニョ動かします。

「俺達は呼び捨てだぞ?どうだ!」

 何やら自慢げな物言いをするクロガネさん。

 ヤマトさんはそれには答えず、はぁ…、と困ったようにため息をつきました。

「さあ、そろそろ行こうかハルオミ」

「そうだな。ではヤマト、その内にまた…」

「お?おお、うん。また…」

 軽く手を上げたふたりに、肩の高さに上げた手を振って、ヤマトさんは応じます。

「またいらしてくださいね?今度はちゃんとしたお料理を作りますから」

「いやいや、ペペロンチーノ、美味しかったよ」

「そうとも!あのスパゲッティは絶品だった!また食いに来よう!」

 からから笑って、クザキさんとクロガネさんは『では』と声を揃えて歩き出しました。

「気を付けて…」

 と見送ったヤマトさんは、おふたりの姿が通りの方に出て、曲がって、見えなくなってから…。

「…そろそろ入ろうかナカ…あ〜…」

 一度言いよどんで、少し間をあけて、それから…。

「入ろうか、ユキ…」

 私は満面の笑みを浮かべて、「はい!」と頷きました。

「あ、あのさ。ナカイ君も俺の事、ナオキって呼んで良…」

「あ。私はその…、良ければ「ヤマトさん」のままが良いんですが…」

「え!?な、何でっ!?」

 ヤマトさんはビックリしたように目と声を大きくします。

「響きが好きなんです。「ヤマトさん」の…。駄目ですか?」

 微笑んだ私に、ヤマトさんは首を傾げました。

 ピッタリだと思うんですよね、「ヤマトさん」っていう呼び方が。山のように大きいからでしょうか?響きとイメージが凄

くしっくりしていて、好きなんです。

 ヤマトさんは何だか納得いかないような顔をしていましたが、結局「まぁ、それでもいいか…」と呟きました。

「お風呂、そろそろ入れますよ」

「うん。ナカ…ユキ先行く?」

「う〜ん、一緒でどうです?」

「…そ、そうしようか…」

 部屋に戻るでこぼこな私達を、半分のお月様が優しく見下ろしていました。


オマケ