「潮芯一の学期末」

 日没はまだ早く、夜の縄張りは広い。半島を駆ける風は冷たく、雪はまだあちこちに厚く残る。

 しかし冬真っ只中と比べれば寒さも幾分マシで、春が近い事を予感させた。

 三月の夕暮れ。その暗がりに沈みかけた星陵ケ丘高校の、運動部の部室などが並ぶ通りを、極めて大柄な生徒が闊歩する。

 学ランを着込んだ体躯は頑健そのもの。背が高く、ぶ厚く、肩幅があって逞しい。

 身長190センチ。体重160キロ弱。体のあちこちで筋肉の隆起が見て取れるが、その上にやや脂肪が乗った重厚な体躯。

 まるで壁が歩いているような印象を受けるその生徒は、焦げ茶色の牛獣人だった。

 体躯も顔立ちもごついのだが、眼光や表情には威圧するような色が無く、落ち着きのある雰囲気のおかげでやけに大人びて

見える。

 潮芯一(うしおしんいち)。二年生。

 体も声も度を越して大きいとよく揶揄されるこの牛は、星陵応援団を率いる団長を務めていた。

 風紀委員会が存在しない星陵において、応援団は伝統的にその代役を担っている。逆に言えば、応援団がしっかりとした基

盤を持ち、緩みも歪みもなく活動して風紀を維持し続けているため、風紀委員会が作られる必要がないまま今に至っていた。

 そのため、団員は品行方正かつ公明正大でなければならないのだが、その団員達を纏めるトップとして、ウシオは申し分な

い人格をしている。

 応援団員たるもの紳士たれ。

 それが、ウシオの信条であり口癖だった。

 そんなウシオは、本来ならば風紀の側であるために、他の生徒達から見れば敬遠されそうな立場ではあるが、

「団長、ちわっす!」

「お疲れ様でっす!」

「お?練習終わりかウシオ?」

 過度にお堅くはないその人柄故に、気軽に声をかけられ、慕われる存在となっている。

 挨拶一つ一つに応じながら、ウシオは隙間に雪が溜まっている部室の一つの前までやって来ると、まだ灯りがついていない

そこを見つめ、目を細めた。

(まだ稽古中か…)

 胸の内で呟いたウシオは、ただ待っているのも暇なので、道場の方へ向かって歩き出した。



 ドスッと、重たい物がぶつかり合い、土を蹴り乱しながらも滑る独特の音、そして絞り出されたような吐息混じりの声が、

熱気で温まった稽古場に響く。

 俵が円を描いた中でぶつかり合い、組み合ったのは、暗褐色の巨体と白くて丸い体。

 組み合った一方は極めて大柄な大兵肥満の河馬で、もう一方は背丈こそ並だが恰幅が良いアンコ型の白豚。

 ぶつかるなり当たり負けして後退した白豚は、しかし崩れた体が倒れる前に河馬の手で前褌を掴まれ、引き寄せられる形で

組まれている。そうして始まった四つ相撲で…、

「ふっぎ…!ふんっ…ぎぃ…!」

 白豚が押せども引けども、どっしり腰を落とした河馬はビクともしない。

「そらシロアン!気合入れろ!」

「攻めんのは今の内だぞ今の内!」

 発破をかける部員達だが、歯を食い縛った白豚の押しを、投げようとして捻る力を、受けに回った河馬は難なく堪えている。

 怪我に泣いて無冠ではあるが、河馬は県内屈指の相撲取り。万全であれば全国トップクラスと評される巨人は、相撲どころ

か本格的な運動を始めて一年にならない白豚が敵う相手ではない。

 それでも取り組みが一瞬で終わらないのは、河馬が白豚に稽古をつける格好で動かし、攻めさせ、守らせているせいだった。

 やがて、太鼓腹を合わせた状態で白豚が息切れし、顎が浮く。

 ひぃふぅ息を乱した白豚に対し、まぁこんな物かととりあえず納得した河馬は、ずいっと寄せた巨体全部で白豚を押した。

「あわわっ!」

 狼狽の声を上げた130キロもある白豚の体が、寄せられた反動だけで跳ねるように浮いた。速いというよりはゆったりし

た寄せだったが、呼気とタイミングを読んで入れた腰は、重さもあって堪え難い。

 まるで高波に押し上げられる小舟。白豚は一瞬腰を浮かせられ、踏ん張りを失い、

「ぷぎーっ!?」

 即座に右の上手捻りで土俵に転がされた。

 丸っこい体が災いして、ごろごろっと俵際まで土俵上を転がり、既に土化粧していた白い体をさらに汚す白豚。

 ふぅっと腹に溜めていた息を吐き出した河馬は、少し目を回してふらつきながら起き上がる後輩を見つめ、意外と満足げに

顎を引いた。

 白い稽古マワシを絞め込んだ巨体は、背中側や四肢の外側が暗褐色、腹や胸は血色の良いピンク色。上背でこそウシオの方

が高いものの、幅や厚み、体重はこちらの方がある。

 蒲谷重太郎(かばやじゅうたろう)。相撲部副主将の二年生であり、ウシオ曰くマブダチ。

(立ち合いでビクつかなくなった。しっかり成長しとるな)

 年度途中で入った一年生の白豚は、部内最弱…おそらく地区内最弱で、中学生にも簡単に負けてしまうだろう。

 だが、周りがどう言おうと、本人がどう思おうと、一向に相撲が強くならない白豚の事を、それでも河馬は評価していた。

 強くなりたいと、白豚は言った。だから相撲を始めた。

 しかし、本人はまだ判っていないようだが、白豚が求めた強さは腕っぷしの強さでも相撲の強さでもない。

 彼が求めたのは、弱い自分が今より少しでも強くなる事…。臆病で、流され易くて、弱々しい心根を鍛える事…。

 だから、部で一番弱くても良い。相撲で勝てなくても問題ない。自分が以前より強くなったと白豚が思える日が来ればそれ

でいい。河馬はそう考えていた。

 一礼した白豚が土俵を降り、河馬だけが土俵に残った。

 稽古締めくくりの申し合い。次が最後の一本になる。伸びる手を眺め回し、次の相手を選ぶカバヤは、

(ん?)

 いつの間にか稽古場の戸口に現われていた牛に気付き、眼を合わせて瞼を軽く下ろす。

(もうそんな時間か…。今日の稽古は長引いたな)

 待っている友人から目を離し、プロレスラーのような体格の人間男子…主将のキカナイを指名したカバヤは…、

「どわぁっ!?」

 先程とが打って変わって開始一秒弱。当たって組み、圧し合いに持ち込むと見せかけた所から豪快な首投げで勝負を決めた。



「だいぶ度胸がついたようだな。シラトは」

 歩道に残る雪を踏み崩して歩むウシオの言葉に、「判るか」とカバヤが満足げに応じる。

「態度は今でもビクビクしとるが、気持ちさえ定まれば腰も逃げんようになった。本人は変わっとらんつもりのようでも、な

かなかどうして…」

「嬉しそうだな?」

 口を挟んだウシオの意味あり気な笑みが、カバヤを一時黙らせる。

 二人にとって、あの白豚は少しばかり特別な縁がある後輩だった。

 あの白豚が関わっていたある一件が無ければ、ウシオは有能な後輩を応援団に招き入れる事ができなかっただろうし、カバ

ヤも新入部員を獲得する事はできなかっただろう。

「…嬉しそうか?」

「うむ。それもかなりだ」

「かなりか」

「うむ。判り易いほどだ」

「そう弄るな…」

「がっはっはっ!」

 耳を倒して困り笑いを浮かべたカバヤと、豪快に笑ったウシオは、並んでラーメン屋の前に立つ。

 そこは、先程の白豚…シラトの両親が経営する店だった。

 賑やかな店内で奥のテーブルに陣取り、それぞれ大盛りのチャーシューメンとニンニクラーメン、そして餃子を注文すると、

「有望株は入りそうなのか?」

 ウシオがそう切り出し、カバヤは軽く首を振った。

「むしろ、陽明に入る中に有望株が居る」

「ふむ。二年連続か」

 牛が漏らしたそんな感想で、河馬が肩を揺すって笑った。

「まったくだ。が、リキマルは川向うで良かっただろう。一年経ってなおさらそう思う」

「何故だ?」

 昨年陽明の相撲部に入った白犬の顔を思い浮かべ、ウシオは眉根を寄せる。友人だし古馴染み、おまけに地区内でも指折り

の強者。こちらに入って貰った方が良かっただろうに、と。

「リキマルは何だかんだでテツオと馬が合う。…鍛えられるという意味でな。それに、儂と同じ部では甘えてしまいそうだか

らと、本人も言っとった」

「そういう物か…」

 言葉を切ったウシオは、運ばれてきたラーメンの丼を受け取る。そうして箸を割るまで一時途切れた、口調からして高校生

の物と思えない会話は、

「柔道も、あちらに流れるか…」

 そんな、やや沈んだウシオの声で再開した。

 ゾルゾルと麺を啜ったカバヤは、咀嚼して一拍おき、「まだ判らんよ」と呟いた。

 ウシオが執心しているルームメイトの部が、深刻な部員不足になっている事は、カバヤにも判っている。川向うの柔道部は

県下屈指の立派な強豪であり、毎年柔道をしたい大半の学生があちらに流れてしまうのだ。

「そうだな。まだ判らんな」

 ウシオは自分を納得させるようにそう言うと、分厚いチャーシューを摘まんで噛み付いた。

(心配なのだろうな。廃部になったりせんか、と…)

 そんな事を考えてラーメンを啜り込んだカバヤは、しかし勘違いしていた。

 応援団のウシオは校則に明るい。…はずだった。

 だが、実際には風紀関係の事には明るいものの、部の活動要綱などは守備範囲外であり、それほど詳しくなかった。

 新学期の仮入部期間を過ぎた時点で部員が三名に満たない部活動は、休部、あるいは廃部扱いになる。

 その事を案じているのだろうと考えるカバヤだったが、ウシオはその事に全く気付いておらず、単に、人数不足では活動が

大変だから心配しているだけである。

「…ところで、まだ関係に変化は無いのか?」

 話題を変えにかかったカバヤのそんな問いで、ウシオは動きをピタリと止めた。

「…まぁ、まだ無い…な…」

 口ごもる牛。やや目を細めて意味あり気な視線を飛ばす河馬。

「引退まで、か」

「引退までだ…」

 傍から聞いていても判らないそのやりとりで、ウシオは耳を倒し、カバヤは微苦笑を浮かべる。

「試されるな、辛抱が」

「何の。「押忍」とは、押して忍ぶと書く!」

 むふーっと鼻息を漏らしたウシオは、盛大な音を立ててラーメンを啜り込んだ。



 星陵第二男子寮の玄関を潜り、エントランスホールを抜けるウシオに、気が付いた後輩達が口々に挨拶する。

「お疲れ様ですウシオ先輩」

「お疲れ様です」

 すれ違う下級生達は牛を一度見上げ、それから会釈し、また見上げる。

 平均的な身長の生徒の場合、この牛とはある程度離れていないと、顔が視界の上に消えてしまう。すれ違う際には30セン

チ近い身長差がはっきり自覚できた。

 一見すると大柄で強面なウシオだが、基本的に気の良い男で、後輩達にも気さくに接している。応援団長と副寮監を掛け持

ちしているその立場を、なんら特別な物としていない。

 その、頼りにはなるが全く気取っていない、馴染みやすい人柄こそが、後輩達に慕われる最大の魅力とも言えた。

「うむ。外出か?冷え込んで、昼間溶けた玄関先が凍っとる。気を付けてな」

 応じた牛は後輩達に注意を促しつつ、階段を登って自室へ向かう。

 その道中で、今度は逞しい体付きの虎と、顔立ちが整った狼が、階段を降りてきてウシオと顔を合わせた。

「お疲れ様です団長」

「お疲れ様です先輩」

 虎が生真面目に、狼が親しみのこもった笑みを浮かべて足を止め、道を譲ると、「うむ」と応じたウシオは「済まん」と礼

を言って二人の脇を抜けにかかった。

「アトラ、シゲ、今から飯か?」

「はい」

「夕飯は何だったかな…」

「今日はトンカツとなめこ汁って話です。なめこ好きだもんな、アトラ?」

「まぁまぁ好きだな。団長もこれからですか?」

「いや、ワシは外でジュウタロウと食って来た。シラトの所でな」

 そう、気さくに後輩と話していたウシオは、虎の顔に生じた微かな変化を見て取った。

「どうした?そう遠慮せんで行けばいいだろうに?」

「…しかし、ヤスキが嫌がります。何やら恥ずかしいと言って…」

「美味いよな、シラトんちのチャーシューメン」

 横から狼が茶々を入れると、味を思い出したのか、虎は口を引き結んでゴクリと唾を飲み込んだ。

「まぁ、恥かしいから行かんでくれ…というシラトの言葉に律儀に従うのも良いが、それで美味いラーメンを味わえんのは苦

行だな。その内に頑張って説得して、一緒に行けばいい」

「一緒に行くのはさらに嫌がると思いますが…」

 虎が半眼になって想像しながら言うと、デリケートな事に疎いウシオとデリカシーのない狼は、顔を見合わせて肩を竦めた。

「ではな。ゆっくりして来い」

「はい」

「はい、また後で」

 そう言葉を交わして二人と別れ、ウシオは自室を目指す。

 三月に入り、三年生は卒業し、豪雪地帯のさがで雪はかなり残っているものの、気温も少しずつ上がっている。

 もうじき春休みがやって来る。

 夏休みでは大会などに備えて、部活動の為に残留している生徒も多いが、冬休みと春休みはそうでもない。年度の変わり目

には団も活動を休むので、ウシオが寮に留まる理由もなくなる。

 つまり、帰省する事になるのだが…。

(気が重い…。しばらく会えなくなるのか…)

 ほふぅ…、とため息をついて、ウシオは自室のドアを開いた。

「ただい…」

「あ。ウシオ!良い所に!」

 ドアを潜るなりかけられた声に目を見開けば、壁際で低い踏み台に上がって背伸びしている、いがぐり頭の男子生徒の姿。

「どうした?何をした?何がどうなった?」

 疑問の声を発しながら部屋に踏み入ったウシオは、壁の天井付近、カーテンレールの上に乗ってしまった羽毛のはたきを見

つめて眉根を寄せた。

「埃払いに四苦八苦している内に、引っかかって…!」

 平均よりやや背が低いこの少年は、ウシオとはルームメイトであり親友でもある二年生、岩国聡(いわくにさとる)。

 寮監を務めており、唯一の柔道部員にして主将でもある。

 彼の話によれば、ギリギリ届かない所へ手を伸ばしている内にはたきが引っかかり、それを払い落として取り戻そうとした

所、運悪く引っかかった所を支点にして上に乗ってしまったらしい。

「どれ、ワシが…」

 間近に歩み寄ったウシオは、イワクニに代わってハタキを取ろうとした。しかし、譲ろうとして体勢を変えたイワクニは、

そのままバランスを崩してしまう。

「わっ!」

「おっと!」

 間一髪、崩れたイワクニの体をドフンと抱き止めたウシオは、分厚い胸に後頭部を預ける格好になったルームメイトを見下

ろす。

「気をつけんか」

「悪い、有り難う…」

 照れ笑いしたイワクニを立たせてやり、ゴホンと咳払いして胸の高鳴りを鎮めたウシオは、気を取り直してレールの上に悠

々と手を乗せる。そして継ぎ目に挟まった羽を引き抜き、はたきを回収してイワクニに手渡した。

「悪い。有り難う」

 繰り返したイワクニは、

「がっはっはっ!何の何の!また乗ったらワシが取ってやる!

 はたきのように先が房になっている尾をヒュンヒュン振って笑うウシオの顔を見上げ、

(…でも代わりにやってやろう…とかそういうトコが無いんだよな…)

 と、やや残念そうな目を向けていた。どうにもこの牛は、細やかな所に気が回らず、抜けた行動を取る傾向がある。

 その瞳が横に少し動き、壁掛け時計を確認した。

「って、まずい。こんな時間?」

「む?」

 若干の焦りで目を大きくしたイワクニは、ウシオの顔に目を戻しながら苦笑いした。「晩飯まだなんだ。掃除に夢中になっ

た…」と。

「ウシオは晩飯は食ったんだよな?友達と出かけて」

「うむ。シラトの所でラーメンを」

「じゃあ、ぼくも早い内に済ませよう…」

 気付いて空腹を覚えたイワクニがいそいそと寮食へ向かうと、ウシオはルームメイトが戻って来ない事を確認してから、備

え付けのデスクに腰を下ろした。

 しかしそれはウシオの分ではなく、イワクニが使用している物。椅子が低く調整されて、少々しっくり来ないが…。

「サトル…」

 小さく呟いたウシオが見つめているのは、デスク上に飾られた写真。柔道着姿の学生達が、老朽化した柔道場の前に並んで

いる。

 ごつい角刈りの生徒、スラッとのっぽな生徒、ぽてっと太めの生徒に、目つきが鋭い生徒。中背堅肥りの生徒に、背の低い

生徒…。

 先日に卒業した先輩達と、昨年度卒業した先輩達の中、今よりも背が低いイワクニがはにかみ笑いしていた。

 それは、二年近く前に道場の前で撮影された写真。人間男子ばかりの柔道部は当時から人数が少なかったのだが、当時たっ

た一人の新人だったイワクニの入部を最後に、今に至るまで新入部員が無い。

 そして今や、イワクニがたった独りの部員になってしまった。

「ひとりきり…、か…」

 大柄な牛は、普段の大声からは想像もつかない程小さな声で、物憂げに呟いた。

 柔道部に入ろうかと考えた事がない訳ではない。自分でも居れば足しになるだろうと何度も思った。

 だが、結局それは止めておいた。

 それは、応援団に勧誘され、自分がすべき事を見つけたからという事もあるのだが、理由はもう一つある。

 自分はおそらくイワクニよりも強い。柔道を始めれば数か月で抜いてしまうだろう。驕りでも、無知からでもなく、ウシオ

はそう確信している。

 体格もさる事ながら、ウシオは身体能力にも恵まれていた。四肢も体幹も力強く頑健で、体格からすればかなり機敏に動け

るし、そこそこの柔軟性もある。腕っぷしと経験が活かせる格闘技は勿論、ルールさえ理解すれば技量を要求される球技もそ

つなくこなせる運動神経と、並の生徒とは比較にならない肝っ玉が、重厚な体に宿っている。

 柔よく剛を制すという言葉は知っている。柔道で勝負したら間違いなく敵わないと思う、自分よりも小柄な選手を幾人も見

た。決して柔道そのものを舐めたり軽んじたりしている訳ではない。

 だが、イワクニは別だった。

 柔道歴は長い。だがイワクニは強くない。これまで試合で勝ち星をいくつ上げられたのかは、聞いた限りでは両手の指で足

りてしまう。

 だから、柔道部に入る事は諦めた。

 もしも入部していれば、イワクニ達は喜んだだろうし、歓迎してくれただろうが…。

(ワシは…、サトルが好きな物で、サトルが大事にしとるもので、サトルを負かしたくない…)

 本人に言えば、舐めるな、と怒るだろう。やる前から論じる勝ち負けについてではなく、そんな事を自分は気にしないぞと、

間違いなく怒るだろう。だから、この事を口にした事は一度もない。

 もっとも、今となってはもう心が揺れる事も無い。今やウシオは団長であり、柔道を始める訳には行かないのだから。

「新しい部員が入ってくれると良いな、サトル…」

 そう呟いて、写真スタンドの縁をごつい指でなぞり、ウシオは目を細める。

 切なげに、苦しげに、瞼を半分下ろした瞳に映る、高校一年生時のイワクニの笑顔。

 出会ってから丸二年になり、今では親友と呼べる間柄だが…。

 

―うっざくらしぃ…!ワシに構うな…!―

 

 約二年前、同じ部屋で過ごすルームメイトとして出会ったあの日、イワクニに叩き付けた言葉が出し抜けに思い出された。

「…今じゃ考えられん…」

 難しい顔で呟いたウシオは、変われば変わる物だと、当時の自分を思い出す。



 入学当時、ウシオは荒れていた。

 素行が悪くなったのは中学に入ったかどうかという辺りだったが、今のウシオしか知らない者から見れば、全くの別人と言

えるほどの荒くれ者だった。

 荒れていた原因は、家族構成と周囲の環境にあった。

 ウシオは四人家族である。

 だが、両親と弟は人間。長男だけが牛獣人。

 本来、人間の両親からは獣人が生まれる事は無い。

 人間と獣人の間に生まれる混血の子供も、九割の確率で人間。一割の確率で獣人。全体人口割合そのままの出生率となる。

 では、ウシオの場合はどうして人間の両親なのかというと、実の父親が牛獣人で、現在の父親とは血の繋がりが無いからで

ある。

 牛獣人だった実の父はウシオが幼い頃に亡くなり、現在の父は母と再婚した相手。現在の父親とは血の繋がりが無い。弟は

父の連れ子であり、同じくウシオとは血の繋がりが無い。

 人間の両親と次男、そして牛の長男。この構図で家族の事情を察するのはそれほど難しくないのだが、わざと面白おかしく

誤った解釈を言いふらす者も居る。

 

―潮芯一は、牛獣人に強姦された母親が身ごもった子供だ―

 

 性について学び始め、その方面の知識を仕入れ始める中学生達にとって、誰が言い出したか判らないその噂は、なかなかに

面白い物だったらしい。

 根も葉もない噂はあっという間に広まり、ウシオは奇異の視線にさらされ、からかいの対象となった。

 だが、幸か不幸か、ウシオはそれを笑って流せるほど大人でもなく、それで塞ぎ込むほど弱々しくも無かった。

 その結果、ウシオは噂話で自分をからかう口さがない者を、暴力で黙らせるようになった。

 簡単な事だった。

 体格、身体能力、肝っ玉、全てがずば抜けているウシオにとって、拳一つで相手を黙らせ、詫びを入れさせる事は。

 だが、原因はどうあれ、過剰なまでの攻撃性を見せるようになり、次第に荒れてゆくウシオから、友人達は距離を取り始め

た。反対に、ウシオの素行が目立つ事で、血の気の多い不良に目を付けられるケースは増えて行った。

 そうして気が付けば、誰からも避けられ、あるいは目の敵にされる、「暴走特急」潮芯一が生まれていた。

 星陵に入ったのは、そんな生活が面倒臭くなったからだった。

 煩わしく感じ始めた家族と離れ、雑音が耳に入らない場所で生活したかったからこそ、この学校を選んだ。

 そうして誰とも深く関わる事無く生活してゆくつもりだった。排他的に、つっけんどんに、ぶっきらぼうに周囲と接して…。

 ところが、ウシオの根本的な性質がそんな暮らしをさせてはくれなかった。

 きっかけはカツアゲに遭っていた同級生を救ってしまった事だった。それがウシオを渦中に引き摺り込んだ。

 星陵とは違い、二年前の川向うは治安が悪かった。

 星陵と同じく風紀を応援団が担う体質だったのだが、応援団自体の綱紀粛正が上手く行っておらず、機能していなかったの

である。

 ウシオがカツアゲを妨害して叩きのめした相手は、川向うの学校で猛威を振るっていたグループの下っ端。因縁が生じたウ

シオは、それからというもの川向うから付け狙われる形になった。

 喧嘩に明け暮れる日々。理由はどうあれ振るうのは暴力。一般の目には素行の悪い生徒としか映らないウシオ…。

 そんな中で、イワクニは馬鹿正直に、ウシオが拳を振り上げる理由があるのだと、根拠もなく信じ続けた。

 つっけんどんにあしらわれても、睨まれても、怒鳴られても…。

 端的に言えばウシオを変えたのはイワクニだけではない。

 母校を憂いた川向うの羆…、当時の応援団一年生。

 カツアゲに遭った友人をウシオに救われた相撲部の河馬。

 先日卒業した先代団長をはじめとする先輩達…。

 幾人もの生徒との出会いと交流が、渦中の中で砥ぎ上げられ、殺伐としていたウシオを変えた。

 トラブル続きの一学期が終わる頃に、ウシオは寮生でもあった先代団長の勧めもあって、応援団に参加した。

 以降は親しまれ易い口調と態度を身に着けようと努力したが、これはさほど難しくは無かった。

 何の事は無い。荒い気性こそが後付けであり、心無い言葉に晒される前のウシオは、気の良い大男だったのだから。

 かくして、潮芯一は質実共に応援団紳士の一員となり、広く慕われるようになった。

 そして…。



「あと半年、切ったか…」

 呟いたウシオは腰を上げ、写真の中のイワクニを見下ろした。

 交わした約束は二年越し。

 イワクニのやりたい事を優先させた約束。

 

―お前に惚れた。男同士という事を承知の上で。…良ければ、ワシと付き合って欲しい…―

 

 生まれて初めて恋をした相手がルームメイトの男子生徒というのも如何な物だろうか。そう思わないでもないが、心底惚れ

てしまったという事実からは目が逸らせない。

 告白には、相手に迷惑がかかるという懸念もあった。

 だが、我慢ができなくなるという可能性もあったし、元から隠し事が下手な性分なので、同じ部屋で過ごしていればいつか

バレてしまうのはほぼ確実だった。

 そうなった場合の相手のショックを考え、早くに告げてしまって、駄目なら駄目と言って貰うべきだと思った。その方が後

々知られるよりもお互いのダメージが少ないだろうと…。

 だから、十中八九断られるのを覚悟の上で告白したのだが…、これが意外にもすんなり承諾されてしまった。条件付ではあっ

たが。

 今は柔道に打ち込みたいから、引退まで待って貰えないだろうか?

 それが、告白したウシオへのイワクニの返事…。

 きょとんとしてしまった当時のウシオに、イワクニは言った。両方を掛け持ちできるほど自分は器用ではないし、余裕があ

るほど強くもないのだと。

 ウシオからすれば、その返事はどこかずれていた。待ってくれという理由が柔道で、そこに男同士である事への疑問や不快

感が全く見え隠れしていないので。

 変だと思わないのか?というウシオに、イワクニは少し困ったような笑みを浮かべて、変かもしれない、と応じた。そして、

続く言葉でウシオは目を見開いた。

 

―誰かに好きだって言って貰うの、初めてなんだ…。恋愛ってまだ良く判らないけど、何だろうな?「怖い」とか「不安」に

似た気持ちとか、「ビックリ」も確かにあるけれど…、ウシオの気持ちが、物凄く嬉しいんだ…―

 

 恥ずかしがってはにかみ笑いしながらイワクニが言ったその言葉で、表情で、態度で、ウシオはすっかり参ってしまった。

 あれでそれまでの恋心が熱愛に変わり、首っ丈になってしまった。

 思い出して顔がカッカと熱くなり、体が火照り、頭の上から湯気を上げつつ、ウシオは「むぅ…!」と唸りつつ分厚い両手

で顔を覆い、もぞもぞと身じろぎする。

 まるで女子のような恥ずかしがり方だと思うのだが、どうにもムズムズして、誰に見られている訳でもないのに顔を隠した

くなってしまう。

 あと少し。あと少し我慢すれば約束が叶えられる。

 その日が待ち遠しくもある反面、イワクニも引退時には相当寂しい思いをするのだろうと考えれば、まだ来て欲しくないよ

うな気もする。

「せめて新入部員がごっそり入ってくれれば、イワクニも充実した最後の年を送れるだろうに…」

 顔を覆った指の隙間から写真立てをチラリと見やり、ウシオはため息をつき…。

「ただいま」

 ドアが開く音と聞き馴染んだ愛しい声で、ウシオはパッと顔から手を離しつつ振り返った。

「お、おぉ、おかえり…!」

 ほんの一時のつもりが、随分長い事物思いに耽っていたのだなぁと、我が事ながら呆れてしまう。

「点呼まで間があるな。先に風呂行こうか?」

「うむ」

 応じたウシオは、イワクニがチェック用のボードをテーブルに出して点呼に備え、入浴の準備をする様子を眺めながら、ほ

んの数ヶ月前の事を思い出す。

 自分達が推薦を受け、教師に指名されて寮監になるまでは、三年生の先輩が巡回点呼を取っていた。

 少し前まで前応援団長である小柄な柴犬と、相撲部主将だった巨体のトドが組んで回り、自分達は点呼を受ける側だったの

が…。

(そろそろ慣れてきたな…)

 感慨深く思い出されるこの二年間。もうじき新学期がやって来れば、新しい風が星陵に吹き込む。

 自分達も最上級生。あと一年で、慣れ親しんだ学び舎を、そして、この思い出が詰まった部屋を後にする事になる…。

「行こうか、ウシオ」

「うむ」

 頷いたウシオは、先に立って歩き出すイワクニの後ろに従った。

 その、努力を続けながらもなお力強さのない愛おしい体を、後ろから抱き締めたい衝動に抗いながら…。

おまけ♪