Unburst rage

 それは、恐ろしく静かな「黒」だった。

 それは、現行の人類には獲得し得ないはずの力だった。

 それは、遥けき時の向こうへ埋もれ、忘れ去られたはずの現象だった。

 怒りを知らぬ静謐なる猛威…黒色の影と化したルディオは、ヒュドラの巨躯を琥珀色の瞳で見下ろす。

 ハークから継承したオーバードライブ、アンバーストレイジ。局在現象の極致にして、本来は「世界の理から外れたモノ」。

「局在」というその性質を全身に纏う形で顕現させたのがこの黒い姿。

 衣類ごと体表を覆って展開されている薄紙よりもなお薄い局在界面は、光、音波、熱伝導、プラズマ、果ては純エネルギー

までも遮断する防御フィールド。物理的接触という単純な攻撃以外に対してほぼ効果を発揮する漆黒のヴェール。

 その連続駆動限界時間はハークで二分弱、彼より制御が甘いルディオではそこまで持たせられない。最悪一分も保たずに効

果が切れる恐れもある上に、このオーバードライブは「目当ての一発」を放ったら強制的に解除される。より正確には、その

本命を撃つ為の待機状態…銃で言うならば撃鉄を起こした準備段階がこの姿。

 ミスは許されない。ルディオ自身よりも状況を把握しているシャチは声を張った。

「確実に入れろォ!確実にだァ!俺様が確実に、当てられる所まで突っ込ませてやるぜェ!」

 水流が流れ落ちる。サーフボードが後部から自壊しながら噴射し、加速する。ルディオが腰をより深く沈め、黒色の爪がガ

ヅンとボードに食い込んで固定する。

 ヒュドラの目が瞬きし、涙の毒霧を飛ばすが、高濃度の毒でサーフボードが端から融解しても、加護に覆われたルディオに

は届かない。

「アコルディオン…」

 能力に意識を集中させる。両手で握り締め、高々と掲げた手槍に力を集める。

「マルミアドワーズ…!」

 ルディオの右腕と、握られた手槍で黒色が反転し、眩い光の色に染まった。周囲の大気が高速振動させられて燃えている。

 それは、サーを代々担うバーナーズ家が伝えて来た伝家の宝刀。ハークから譲り受けた局在現象のもう一つの極致。その効

果は、局在フィールド内での高密度乱反射による波動増幅を利用した、対象物の「分子分解」。

 この現実離れした機能と現象があったからこそ、ラグナロクの研究者達はハークを素体にした兵器に、ガルム十号に拘り続

けた。この力はどんな事をしても得る価値があった。

 しかし結局、その力が世界に牙を剥く事はない。ハークに次いで「宝刀」を帯びた者が、ルディオであったが故に。

 ただし、マルミアドワーズの性能も、今は「その限りではない」。

Ashes to ashes…。発砲を許可する― 

 ルディオの頭にシバの女王の声が届く。

―ルディオや…。未来を勝ち取るは儂の力による物ではない。貴様ら命を生きる者が伸ばす、「ひとの手」による物である―

 今日この時ルディオに宿るのは、たった一度きり、一発きりの、ワールドセーバーが託した切り札。抜き放つ宝刀に込めら

れるのは、世界の敵を滅ぼす力。

 切り札の作用は二つ。

 本来は対個人用の物に過ぎない宝刀マルミアドワーズの効力を、ヒュドラの体躯全体に範囲拡大する加護がまず一つ。

 そして二つ目は、浸食破壊「ブラスト現象」。作用開始点から連鎖的に発生する、存在力そのものへの直接的な衝撃。シバ

の女王と同じく高次の存在であり、肉の器を破壊してもいずれは復活してしまうヒュドラすらも、この現象ならば存在力ごと

崩壊せしめる。

 シバの女王当人すらも、再現はできても規格が違うため制御できないその現象に、しかしルディオは「局在」という性質を

与え、侵食破壊の範囲を対象物のみに留めて使用できる。

 故に、シバの女王が描く決着に、たった一度の奇跡を現実の物とするために、対侵食者決戦兵器ルディオ・ハーキュリーズ

は必要不可欠だった。

 サーフボードは自ら蒸散して後方に噴射、体積を減らして融解しつつも加速は保ちながら、ルディオを運ぶ。シャチがかけ

た水流の道が、狙い定めた目標地点へと導いてゆく。

 迫るルディオから脅威を感じ取ったヒュドラが、全ての目を見開き、毒液をしぶかせた。トゲに包まれたウニの如く、毒液

を四方八方に発射し、毒は効かずとも物理的な水流の勢いで弾き飛ばそうとする。

 だが、ルディオが接近してゆく一点は、シャチの巨大な氷杭が打たれた箇所。真正面からの迎撃は無い。

 他の角度から迫る毒の水柱を、シャチが捻じ曲げた水流のレールが避ける。まともな生物の体では耐えられない、内臓も脳

もグチャグチャに揺れて潰れるような軌道と過度のGがルディオを襲うが、セントバーナードは堪える。ギシリと食い縛った

牙が黒色の口元で白く露出した。炯々と光る琥珀の瞳は充血した目の中でなお鮮やかだった。意識を失うどころか集中を途切

れさせていないルディオに、行く手の四方から集中するように毒の死線が向けられる。

 だが、避けられないほど無数の、細い毒の水鉄砲は、シャチが即座に生み出した遠隔操作の小型シールドで阻まれる。無数

に出現した銀のトレイを思わせる氷板が、毒液を受け止め、あるいは角度を変え、溶けて砕けて散りながらも、一発たりとも

通さない。

「グフ…!」

 獰猛な笑みを浮かべるシャチの全身は、開いた古傷から断続的に噴き出す出血で赤黒く染まっている。

 能力によって支配下に置く水の量の超過。一度に操る対象物の超過。それらを精密にコントロールする操作能力の出力超過。

あらゆる安全域を超えたシャチの体は、駆動臨界に達している。

 出血量は減っている。もう勢い良く出るだけの血液も残っていない。オーバードライブの維持限界がどうのという以前に、

過負荷も失血量も活動停止に迫る危険域に入っている。ルディオがしくじったら後は無い。

(さァて…、あとはもう、オメェ頼みだぜェ…?)

 もはや大きく開いた足の下にしか残っていないサーフボードの上で、ルディオはギリギリと上体を捻っていた。シャチが送

り届けてくれる事を信じて疑っていない。必ず届くと確信して、攻撃のモーションに入っている。

 体を巡るのは血だけではない。駆動させるのは筋肉だけではない。局在により衝撃を体内で撓め、ただ一つの動作にパルス

伝達による加圧と加速による強化を行なう。

 右腕に掴んだ手槍を大きく引き、ヒュドラに背中が向くほど極端な捻転で、琥珀色の左目が肩越しに獲物を睨んだ。

 ヒュドラの無数の目が映したのは、迫る脅威の背に刻まれた三文字。局在の黒に塗り潰され、見えないはずの三文字。

 「X2U」…Crash to You(アンタを壊す)。

「ブッ壊せルディオォッ!」

 シャチが吼えた。二度目は無い。もう余力は無い。オーバードライブもあと十数秒しか保てない。

「任されたぁ!」

 威勢良く吼え返したその直後には、ルディオは到達していた。ヒュドラ本体に突き刺さったままの、シャチの氷杭目前に。

 捻転を戻す。全力で上体を捻る。力を振り絞って手槍を突き出す。右腕を、内で発生した衝撃波がパイルバンカーの如く撃

ち出す。

 その一撃に込めるのは、神話を乗り越える気迫でもなく、英雄になりたい欲でもなく、崇高なる大義でもない。

 込めているのは、この世に生きる者の性にして業。失う事に抗い続ける、不変なる原初の欲求。

 乗せているのは、自らが生きる事を望み、大切な者が生きる事を願う、命と未来を欲する強欲。

 「命を生きる」というエゴを以って、神を殺して未来を掴む。

 ガウンッ。

 衝撃のパルスを駆動に加え、大砲の発射音にも似た轟音を伴い、繰り出された手槍がヒュドラの体に埋まった氷塊に突き刺

さる。

 それが、氷柱という巨大な穂先を得た槍としての形を成し、マルミアドワーズの効果が解放された瞬間、ルディオに託され

た切り札の封も解かれた。

 シバの女王から託され、ルディオの手の中に重なっていた、琥珀色に封じられた灰色の球。それが現象に戻り、輝く腕と槍

に伝播して鋼鉄の色に染め上げる。

 その突き穿つ軌道の延長線上へ、一瞬の内にマルミアドワーズの分子分解とブラスト現象の浸食破壊が伝播し、ヒュドラの

巨体が貫通され、こそげ取られるように大穴が空いた。さらには、その孔から連鎖崩壊が浸食する。刹那の間に、巨体の隅々

まで。

 それは、分子レベルで肉の器を破壊するだけに留まらず、存在力そのものを破壊する、神殺しの一突き。ヒュドラという存

在全てが連鎖的に崩壊し、分子レベルで破壊された肉体が蒸散し…。

「んがっ!?」

 氷のシールドを出現させて防御姿勢を取ったシャチが、大爆発に飲まれて木の葉のように吹き飛ばされる。

 爆心地に居るルディオは、吹き飛びながら腕を交差して首から上を守り、きつく目を閉じているが、その表面から剥離する

ように黒が削げ落ち、次第に元の姿に戻ってゆく。

 マルミアドワーズが引き起こす分子分解と、質量崩壊の余波、そしてブラスト現象によって消滅する存在力の返し波。対象

の爆散を至近距離で浴びて消し飛ばずに済むのは、このオーバードライブによって局在の界面を纏っているからこそ。

 弾けて霧散する烈光の中で、元の体色に戻りつつあるルディオは、自分を突き抜けてゆく意思のような物を感じた。

 

 すべてがひとつになれば あらそいはおこらない

 ほしにひとつのいしき せかいにひとつのかちかん

 すべてがびょうどうで すべてがとうかちで すべてがえいえんの かんぜんなせかい

 …けれど

 きっとそれは めつぼうにひとしい ていたいしたせかい

 なのに…

 もうとまらない もうとまれない ていたいにむかってすすんでゆく

 おしえてほしい せまりくるあすのむこうからきたひと

 わたしは どこでまちがえたのでしょう

 

 それは、ヒュドラの存在の核とでも言うべき、魂にこびり付いた何か。

 悠久の時を経てなお消えなかった、いつか誰かが抱いた悔恨。

 ああ、そうだったのかと、ルディオは理解した。

 人類を滅ぼすとか、世界を滅ぼすとか、星を滅ぼすとか、そんな目的ではなかった。むしろ、未来を憂う想いからヒュドラ

という存在が産まれた。

 侵食を繰り返した最果てで、全てがひとつになり、個にして全の存在として完成する事。それが侵食者ヒュドラの存在理由。

道程と手段はどうあれ、目指す結末がどんな形であれ、世界の行く末を案じた存在…。

(おやすみ…)

 自分達を取り巻く空間に、ビシリと亀裂が入る音を聞きながら、吹き飛ばされてゆくルディオの意識が遠のいて…。



 海に、灰色と金色が混じり合う光の柱が立った。海上の船からも島からも望める、近海の空に向かって。

「アンチャン…」

 ウッドデッキで皆と一緒に夜の海を見守るカムタが、小さく呟いた。

 少し前まで感じられなくなっていたルディオの気配が、何かが立ち昇るような光の発生と共に再び感じられるようになった。

 それは、ルディオが自分と同じ空間に戻って来た証。繋がっている彼が生きているという確かな感覚。

 空間の隔離が解除され、「何もなかった」、「穏やかなままだった」、いつもと変わらない夜の海を、一同はじっと見守る。

 そして気付く。

 「ノイズ」が消えていた。消えるまでノイズと気付けなかった、天候や漁の勘が鈍らされていた違和感が消え、感覚がクリ

アになった。

 島は、長らく失っていた本物の平穏を取り戻した。




―大義であった―

 謁見の間に座す喪服の老女を前に、ルディオはパチパチと瞬きした。

「…あれ?」

 横を向けばシャチも居る。が、ふたりとも傷一つ無い体で、疲弊も感じない。

「グフフ、今度は精神だけお呼ばれしたって事かァ?…おっかな過ぎだろワールドセーバー…」

 訝るシャチに、セーフモードに戻って老婆の姿になっている女王がヴェールを揺らして頷いた。

―現実の貴様らは力尽きて海に浮いておる。今しばし待て。我が戦士達が船まで運んでおるのでな―

「終わったって考えて良いんだろうなァ?女王様よォ」

―無論。貴様らの働きにより脅威は退けられ、此度の世界の危機は終息した―

 シャチと女王のやりとりを聞きながら、ルディオは考える。

 生まれた理由は判った。役目を果たした。終わった。全部。

 なら自分は、これからどうすれば良いのだろうか?生まれた理由をクリアしたなら、生きる理由は…。

 そんなセントバーナードの思考を感じ取り、老女は…、

「ルディオや」

 あえて念話を使わず、口を開いた。

「生まれがどうの、造りがどうの、そんな物はいずれも些事。いかに力があろうと、貴様もまた我が子らのひとり…「ひと」

に過ぎぬ。儂が紡いだ糸が引き寄せたのは、あくまでも「役目を果たす存在」。貴様という「個」が貴様として成立したるは、

世界の祝福と島の民の情による物ぞ」

 凛としてなお、労うような、諭すような、その声は優しい。

「埋もれた昨日に別れを告げて、降り積もる今を踏み越えて、迫り来る明日に挑み続けよ。それが、「命を生きる」という事

である」

 顔を覆うヴェールの向こうで、シバの女王の目が優しく細められた。我が子の旅立ちを見送る母親のように。

「さしあたっては…」

 瞬きするルディオ。シャチも「んん?」と周囲を見回す。

 謁見の間の様相が一変していた。柱だけでなく壁があり、頭上の海は天井に遮られて見えない。

「貴様らは、現行人類史上屈指の偉業と呼べるだけの大役を果たしたのじゃ。感謝の歓声に耳を傾けるのもよかろう」

 振り返ったルディオとシャチは、後方の壁に四角く空いた出入り口と、その先に広がる蒼を見る。

「…まさか、だぜェ…。グフフフフ!」

 肩を揺すってシャチが笑い、ルディオを促して歩き出す。

 歓声が大きくなる。外からの声が。シャチとルディオは四角い出入り口から外を覗き、動きを止めた。

 そこには、見渡す限りの街並みが、視界の端まで続いていた。

 翡翠が混じる石で作られた家屋、道、塔。中世よりもさらに前の文化を思わせる、地平線の果てまで広がる都市。

 その広場で、道で、美しい一角獣が引く荷馬車の台の上で、羽根が四枚ある小鳥が止まる民家の屋根の上で、あるいは淡く

発光する華が飾られた窓で、人々が歓声を上げていた。

 人間も獣人も居る。肌の色も髪の色も千差万別。人々は女王の戦士達同様に、古い時代の部族衣装を着用し、老若男女問わ

ず獣骨面を着用しているが、戦士達とは違って顔を覆うのではなく頭の上に乗せる形で被っていた。ベレー帽でも被るように。

「…え…?」

 理解の範疇外の光景を目の当たりにして絶句したルディオが居るのは、ピラミッドにも似た巨大な四角錐の建物…女王の宮

殿の天辺付近。そこを見上げる人々が、賞賛の声を英雄に捧げる。

 それは、ひとつの世界。現実に重なって在る異層領域構造。

 イマジナリーストラクチャー・シバ。そこに住まう者達が「シバ」と呼ぶ、丸ごと一つの都市世界。シバの女王が管理する、

遥か昔に地表から切り離された、現行人類が認識する世界とは存在座標が異なる国。独自の理を持つ世界にして、遥かな太古

に地上で暮らした人々や命が入植した場所の一つ。

「ニブルヘイム、OZ、桃源郷に続いて、黄昏が実在を確認できた四箇所目のイマジナリーストラクチャー…。しかも創造者

が管理人としてそのまま残ってる第一発見例…。さらに一都市レベルのOZや桃源郷とは比較にならねぇ規模…。下手すりゃ

大陸サイズの超巨大イマジナリーストラクチャーって事になるがァ…。グフフフフ!入ってみましたァ、なんて事は報告でき

ねェんだなァ畜生めェ!」

 シャチが悔しそうに苦笑する。持って帰れば大手柄の情報だが、いかんせんこの経緯について報告する訳には行かない。

「部外者にお披露目とは気前が良いなァ?褒美って訳かァ、グフフ!」

―招かれながら、我が国を一目も見ずに帰るのは不幸であろう?それと、褒美は別に与えようぞ―

 シャチに応じた女王は、何が良いかと訊ねて…、

「手柄になるようなモンは持ち帰れねェしなァ…。よし、ウチのガキ共の健康一年分だァ。ワールドセーバー様の加護なら、

怪我やら病気やら防げるんだろォ?グフフフフ」

 シャチが意外と欲のない事を言ったので、不思議そうに沈黙した。

「他意はねェ。欲しいモンは自分で手に入れるし、過程も楽しむ性分なんでなァ」

―なるほど、理解した。ではそのようにしよう。して、ルディオや―

 次いで女王は、歓声を上げる人々に何となく手を振り返しているルディオに話しかける。

―貴様は何を望む?用意できる範囲内ではあるが、欲しい褒美を申せ―

 振り向いたルディオは、少し考え…。

「………」

 しばらく考え…。

「………………」

 だいぶ考え…。

「………………………あれ?無いなぁ?」

 困ったように眉根を寄せた。

 島は守れた。皆は無事。今は特段必要と思える品も無い。カムタは船が欲しいのだが、もうテシーから譲って貰う約束をし

ている。住む家もあるし、小漁師という仕事もある。

 ただ、カムタが欲しい。ひと一人が欲しいという強欲な願いは、しかし既に叶っている。

 となれば、それ以上望むべき物も欲しい物も、ルディオには思い浮かばなくて…。

―無いのか?―

「無いなぁ」

―それは困ったのう―

 シバの女王は短時間の熟考の末、よし、と顎を引いた。

―今後、何かの折に困った時は申せ。心の中で念じよ。その時に貴様の願いを聞き届けよう―

 これを聞いたシャチが軽く顔を顰めた。

(あァ、保留って手もあったかァ。リンとかヴァージニアとか、活きが良過ぎる娘共が嫁の貰い手に困った時に相手を用意し

て貰うってのもアリだったなァ…)

―ルディオや。何をするも好きに成せ。世界を見て回るも、あの子と安住の地を求めるのも良い。だが…―

 ヴェールが揺れる。笑いの息で。

―地表に嫌気がさしたならいつでも願うが良い。イマジナリーストラクチャー・シバは、貴様とその大切な者をいつでも受け

入れよう。このシバはいつまでも在る。何もすべき事がなくなり、行くべき場所もなくなったなら、その時改めて訪れれば良

い。シバの国民として住まうもよし、一時の逗留先と定めるもよしじゃ―

 ルディオは遠い玉座の女王を眺め、笑った。

 シャチも、シバの女王も、その顔を見て言葉を失う。

 表情に乏しかったセントバーナードが見せたのは、目を細め、ニカッと歯を剥いた笑顔。それは、彼が愛する少年の笑い方

にそっくりな、開けっ広げで飾り気の無い、心の底からの笑顔だった。

―…さて…。名残惜しいが、貴様らの精神を引き留めておくのも苦しくなってきおった。別れの時じゃ―

 ジジッと、空間にノイズが走った。女王によってチャンネルを合わせられていたシャチとルディオの精神が、シバの王国と

のリンクを保てなくなり始めている。

―では…、な…。ご苦労であった…―

 女王の目が閉じる。声が遠ざかる。景色が不明瞭になる。ルディオとシャチは薄暗く滲み始めた景色の中に消えてゆき…。



 稲穂のような明るい夕日で、波打つ海面が真鍮の色に輝く。

 寄せては返す波の音。白く泡立つ波の頭。砂浜は延々と、何処までも続いている。

 そこに、寄り添って座る影が一組あった。

―のう…。そなたの生まれる未来を善き物になど、儂にできるのじゃろうか…―

 言の葉を紡いだのは、小麦色の肌の若い女。

―ひとも世界も守るなど、儂にできるのじゃろうか…―

 まどろむように目を閉じている彼女が頭を預けているのは、2メートル近い長身で、丸々と肥った虎の大男。

 鉄色の被毛に覆われた、いささか贅肉が多めの胸に頭を預け、しなだれかかる女の頭を、分厚く大きな手が軽く撫でる。

―さぁな―

 億劫そうな声。ぶっきらぼうな返事。

―だが…、アンタが俺に言ったんだ。「大変だったが、悪くはねぇ旅だった」ってよ―

 何処をどれほど旅してきたのか、汗と土埃と草の臭いが被毛に染み付いている。

 何をどれだけ誤魔化してきたのか、酒と煙草と硝煙の匂いが体に染み込んでいる。

―…そなたの言葉を信じよう…―

 夢見る乙女の表情で、微笑を口元に溜めた女が囁いた。

―いつか…。そなたと出会える未来を…。のう…、ソロモン…―

 真鍮色に染め上げられた黄昏の海を前に、ふたつの影はいつまでも寄り添っていた。



 灰色の草が揺れている。

 黒い空には白い星。瞬くそれらを見上げていたルディオは、我に返って視線を下げる。

「よう」

 ルディオの正面、草原の中に鎮座する大きな岩に、セントバーナードの巨漢が座っていた。

「よくやった」

 目を細めるハークに、ルディオは口の端を僅かに上げて頷く。

「まぁ、何だ…。場合によっちゃ俺があてがわれる可能性もあった。結局死んじまったからお前にお鉢が回った訳だが…。ま、

上手く行ったようで良かった」

 ふう、と安堵したような息を吐いて、ハークがガシガシとうなじを掻く。バツが悪そうな顰めっ面で。

「死体を再利用されねぇように、死ぬ間際の悪あがきで脳味噌グズグズにしたんだが…、あれがまさかこんな結末に繋がると

は思ってもなかったぜ…。兵器としての製造は失敗した。コイツは思惑通りだったが…」

 ハークは、自分と同じ顔で表情が全く違うセントバーナードを見つめた。

「悪くねぇ結末だ。苦し紛れの最後っ屁だったが、あの結果としてお前が生まれたなら、無駄な足掻きじゃなかったって訳だ」

 ルディオはそんなハークの言葉を聞きながら、言うべき言葉を考えていた。

 たぶん、もうしばらく会えないのだろうという予感がある。自分が役目を果たした今、この境界領域のハークに会いに来れ

る理由が無い。そういう物なのだとぼんやり理解している。

「あの…。えぇと…。ん~…」

 何か言おうとして、しかし気の利いた別れの言葉なども思い浮かばなくて、悩むルディオにハークは笑いかける。「判って

る、もういい」と。

「気持ちだけはちゃんと伝わってるぜ?名残惜しいのも、感謝もな。だからそんな頑張らなくていい。お前が頑張らなきゃい

けねぇのは生きてるヤツに対してだ。判ってるか?お前ものすげぇ喋んの下手糞だからな?」

「えぇ…?」

 若干ショックを受けた様子のルディオに、ハークはカラカラ笑ってみせる。親しげで、陽気で、懐っこい、おそらくは仕事

や役目から離れた時の素の笑顔がこれなのだろうと、ルディオは感じた。

「さて、せっかく生き延びたんだ。隙見てシャチをブチ殺せ。…と言いてぇ所だが、ソイツはいいか…。お前まで返り討ちに

されちまっちゃ堪らねぇからな」

 借りもできたし、と口の中で小さく付け加えたハークは、ルディオの瞳をじっと見つめた。

 琥珀色に変じる美しいトルマリンの瞳。愛する少年もまた同じ瞳を持つ事になった。大役は見事に果たし遂せたが、ルディ

オ達が大変なのはこれからも変わらない。

「長生きしろよヴィジランテ?これからお前が果たさなきゃならねぇのは、死ぬまで続く、代役の立てようもねぇ「役目」な

んだからよ」

 言われている意味は、ルディオにも判った。これからも大変だが、きっとその「役目」も、誇りに思える嬉しい役なのだと。

「じゃあな。…ああ、最後に一つ」

 太い人差し指を立てて、ニヤリと笑ったハークが言った。

「あんまり早くに「こっち」来たら承知しねぇぞ。いいな?」

「………ん!」

 少し間をあけて、大きく、しっかりと頷いた途端に、ルディオの意識は遠のいて…。



「ん…、んんん…」

 波の音に耳をくすぐられ、身じろぎして軽く顔を顰めたルディオは、薄く目を開けた。

 体が揺れている。夜明けが近い空を見上げている。デュカリオン・ゼロの甲板上で、ルディオは大の字になっていた。

「…ジョンさん?」

 声を発すると、「おゥ」と返事があった。

 横を向けば、同じく甲板に手足を投げ出して仰向けに倒れているシャチの姿。無茶をしたせいか、オーバードライブ時に浮

き上がる古傷があちこち開いて血が滲んでいる。

「生きてるみてェだなァ?」

「たぶん。でも。…痛いなぁ体中…」

「グフフフフ、俺様もだァ」

 女王が言った通り、隔離空間内で吹き飛ばされた後、意識を失ったふたりの肉体は女王の戦士達によって保護され、デュカ

リオン・ゼロまで運ばれていた。クルーザーは自動航行システムが起動しており、島に帰還する途中である。

 起き上がるのも辛いほどの、全身を襲う激痛と、激しい虚脱感。あのオーバードライブはなるべく使わないようにしようと、

ルディオは肝に銘じる。

「…ジョンさん」

「あァ?」

 少しの間黙り込んでから、ルディオはシャチに訊いてみた。シバの女王とは、ワールドセーバーとは、一体どういう存在な

のかと。

「ず~っと昔、現行の人類が把握してる星の歴史が始まる前、かつて世界の運行を管理してた連中のひとり。…そして、かつ

て星と人類を守ったひとだァ」

 全部知っている訳ではないが、と前置きしてから、シャチは「旧時代」の事をルディオに話し始めた。

 何せ、ラグナロクの前身となったフィンブルには、現行人類に好意的なワールドセーバーが助力していたし、ワールドセー

バーになろうとした男も在籍していた。記録はある程度残されている。「旧時代」の事はデータベースを調べて多少は理解で

きていた。もっとも、フィンブルのデータへのアクセスは越権行為で、露見すれば処罰は免れないのだが…。

 かつて、世界はワールドセーバーという高次存在によって守護されていた。世界の運行を、命の営みを、ワールドセーバー

達は見守り続けた。

 だが、世界を管理していた超存在…ワールドセーバー達は、世界の管理及び守護の仕方で意見が食い違い、二派に別れる事

になり、大きな戦争が起きた。

 原因は、ある新たな生物種の繁殖だった。

 それまでは存在していなかった、他の獣とは一線を画す命。ワールドセーバーと同じ姿の生物。高度な知性という名の武器

を備えた獣。

 この「人間」と名付けられた種の処遇を巡り、ワールドセーバー達は二派に分かれた。世界を滅ぼす害として「人間」を滅

ぼそうとする派閥と、全ての命は守護対象であるとしてこれを阻む派閥に。

 「人間」を排除しようとした側は、彼らを駆除するためワールドセーバーと獣を足したような姿の生物兵器…「獣人」を生

み出した。一説には「横並びの世界のワールドセーバー」の似姿とも言われているが、それは当事者達の言ではなく、シャチ

が参照したデータに付随する研究者達の一部の意見に過ぎず、真偽は不明。

 対して、「人間」も守ろうとした側のワールドセーバーは、自分達が扱う技術や能力をダウンサイジングした超技術を「人

間」達に与え、様々は異形の生物を護衛につけ、獣人達に対抗させた。これがレリックや秘匿技術の起源であるらしいとシャ

チが参照したデータは述べている。

 この、二派に別れたワールドセーバー達と、「人間」と「獣人」…旧人類が、星全体を巻き込んでおこなった全面戦争の結

果、文明は発展し、そして滅び、旧人類の歴史は終焉を迎えた。「人間」がほぼ絶滅するという結果をもって。

「…人間が絶滅?」

 けれどカムタ達は…と続けようとしたルディオに、シャチは言う。「今の人間は、その頃の「人間」とは別物だァ」と。

 「人間」も守ろうとした側のワールドセーバーは敗北を諦めなかった。彼らの護衛に異形の生物を作り出したように、「新

たな人間」を創造したのである。

「それが今の人類の方の人間だァ。性能は旧時代に自然発生した「人間」には遠く及ばねェが…」

 その新たな人間達は繁殖力に優れていた。個としての強さではなく、種を存続させる性能に恵まれていた。

「全面戦争を経て、ワールドセーバー達は殆どが消滅して、残った少数の大半も機能維持ができねェほど弱った。兵器として

生まれた「獣人」達も命令するモンが居なくなったおかげで自由になった。これが、現行人類の始まりだァ」

 そして、生き残った僅かな「人間」と上位兵器として作られた「獣人」達の一部は、自分達の時代の終わりを悟って身を隠

した。ある者はイマジナリーストラクチャーに移って現世との関わりを断ち、ある者は新たに生み出されたか弱い人間達と共

に生きる事を選んだ。シバの王国に住まう民は、女王がこの頃に救助した旧い「人間」と「獣人」達である。

 それから長い時を経て、「獣人」達からは兵器としての血が薄れて今の獣人に世代が移り、やがて人間の方が数が増えて…。

「シバの女王は、その戦争でどっち側にも属さなかった中の一柱…戦争を止めようとした少数派だァ。元々は「人間」擁護派

だったみてェだがなァ。何でそんな結論に至ったのか、動機やら何やらまでは知らねェが…。とにかく女王達は滅びに向かっ

てまっしぐらの戦争から、争いを望まねぇ「人間」や「獣人」を保護して回り、戦争を止めようとしたァ。もしもその一派が

なかったら全部の命が消えて、今の人類の歴史が来る事もなく、争いの終わりには星が砕けてたところだァ。だからイマジナ

リーストラクチャーに引き篭もってる旧人類の末裔共は、シバの女王達を「かつて星を救ったひと」と呼んでんだぜェ」

 ルディオは無言で、聞いた話を反芻する。

 真実の創世神話。スケールが大き過ぎてピンと来ないが、一つだけ判った。

 兵器として造られた「獣人」から産まれた今の獣人と、昔の「人間」とは別種の人間。今の時代を生きる人々が、かつて自

分達が管理していた頃の者達ではなくなってしまっても、シバの女王は守ろうとしてくれたのだと。現行人類が生き続ける事

を望んでくれたのだと。

「そろそろ夜が明けるぜェ。…立ち上がって日の出を拝む元気はねェがなァ」

 明るさを増す空を見上げたまま、ルディオは「あ~…」と声を漏らす。

「まァ、今は休んでてもバチは当たらねェだろォよォ。何せ世界を…」

「腹減ったぁ…」

 話の流れを断ち切るルディオの一言に続き、グゥ~と、返事をするように鳴ったのは、本人のではなくシャチの腹。

 小さく吹き出したふたりの口から、同時に笑い声が上がった。

 大役も名誉もそれはそれ、生きていれば腹も減る。気持ちはどうあれ体は正直である。

 体中が痛むのに、我慢できず笑い続ける二頭を、朝日の一条が船ごと照らした。

 世界の行く末を左右する一晩の大冒険を終えて、ルディオは島に帰る。

 カムタが待つ島へ…。




「船だ!」

 生まれたての太陽が輝く海に、小さな船影を認めた少年は、ウッドデッキを飛び降りた。

「ルディオさん達だろうか…カムタ君!?」

 確認も無視して駆け出したカムタを、ヤンが、子供達が、慌てて追いかける。

 弾むように坂を駆け下り、土の道を走り抜け、砂浜を目指す。

 島を包む、いつも通りの朝の空気。夜露が残る草木が煌く道。

 エンマンノ。美しい島。カムタは生まれ育った大地を駆け抜ける。

 クルーザーはどんどん近付く。船底を擦らずに寄せられる、最も近い入り江目指して。少年にはそこが何処なのか判ってい

る。迷わずに目指した入り江の砂浜へ、息を切らせて駆け込んで…。

 砂浜に踏み入る。船の上に影が見える。操舵する鯱の巨漢と、デッキに立つセントバーナード。

 逆光の中、大きな影が海に飛び降りる。待ちきれず、減速した船の甲板から跳んだセントバーナードが、ザブザブと波を掻

き分けて進んでくる。

 湿った砂を踏み、波打ち際を飛び越えて、カムタも海に駆け込んだ。

「カムタ!」

 声が弾んでいた。

「アンチャン!」

 応える声も高かった。

 船の上から、陸の上から、皆が見守るその中で、腰まで海に浸かって波飛沫を上げ、ふたりが抱き合う。

「ただいまぁ、カムタ!」

「おかえりアンチャン!」

 ギュッと強く抱き締め合って、互いの肩に顎を乗せ、頬をすりつけたふたりは、少しだけ身を離して顔を見合わせる。

 笑顔で向き合う二つの顔がそっと近付き、朝日に焼かれたシルエットが口付けを交わした。


『お疲れさまでした。ご無事で何よりです…。島の方々の帰還は始めてしまっても構いませんか?』

「任せたァ…。こちとらヘロヘロでもうチンポも勃たねェ…」

 デュカリオン・スリーに通信を入れたシャチは、億劫そうに舵輪を回しながら島を眺める。

 世界を守る事にまんまと加担させられてしまったが、まぁこれはこれで良いかと、軽くかぶりを振る。

 無くなってしまうには惜しい、美しい諸島。残れば子供らも喜ぶし、腐れ縁のストレンジャーと一緒に来る事もできる。

「…まァ…、こんな結末も「捨てたもんじゃねェ」、だろォ?グフフ…!」

 抱き合う少年とセントバーナードの姿を眺めながら、鯱の巨漢は誰かに問うような口調で呟き、含み笑いを漏らした。




 シャワーの音が耳を打つ。

 浴室の床に、へたり込むようにあぐらをかいているルディオと、向き合う格好で胡坐をかいたカムタは、背中にシャワーを

浴びて体を冷却しているセントバーナードの大きな右手を、両手で取って表も裏もしっかり見ていた。

 指。全部ある。右手も、左手も。

 脚は持ち上がらないので、顔を寄せて確認する。

 指。全部ある。右足も、左足も。

 立ち上がって背中側から見る。

 耳。欠けていない。背中も傷は無い。

 前に戻って下から喉を覗き込む。

 首。繋がっている。ちゃんと付いている。

 ルディオは疲弊しきっているが、毒気も全て抜けて、体には傷一つ残っていない。

 せわしなく自分の周りをグルグル回って確認する少年を、セントバーナードは目で追っている。念入りどころの騒ぎではな

い。ヤンにも見て貰って、栄養補給用にタブレットも貰って点滴もして、大丈夫だと太鼓判を押されたのに、カムタはソワソ

ワとチェックを繰り返す。

 シバの女王からの念話で、ヒュドラのイメージはカムタ達も得ていた。ひとの身では到底乗り越えられない脅威である事も

理解していた。だから、ルディオが帰ってきてホッとしながらも、本当に大丈夫だろうかと繰り返し確認してしまう。

 最初の位置に戻り、ルディオと向き合ってまた右手を取る。

 大きな手を表も裏も見て、指が全部ついている事を確認して、手首も肘も繋がっている事を確かめて…。

「カムタ」

 シャワーの音にかき消されそうなほど小さな声で、ルディオは少年を呼んだ。

「うん!何だアンチャン!どっか痛ぇか!?」

 顔を上げた少年の目を見つめ返して、セントバーナードは言った。

「大丈夫だぁ。本当に…」

「…そっか。うん。そうだな…。大丈夫そうだな…」

 頷いた少年の頭にセントバーナードの大きな手が乗った。蓬髪をワシワシと掻き乱して撫でる手の感触で、カムタは顔を綻

ばせる。

 話したい事はたくさんある。聞きたい事がたくさんある。これまでの事、これからの事、ふたりの事。けれど、今は…。

「アンチャン…」

 カムタは膝でルディオに寄り、太い首に手を回した。受け止めるようにその背中に腕を回したルディオは、あぐらの上に乗

せる格好で少年を抱える。

 ピッタリと密着して、互いの方に顎を乗せて、感じ取る。呼吸を、鼓動を、命を。

 生きている。自分達は、確かに生きている。

 カムタはそっと手を下ろして、ルディオの胸に添えた。心臓の脈動を感じる。自分と同じ、ウールブヘジンが繋いでくれた

命がここにある。

 今は判る。これが「愛おしい」という感情なのだと。

 胸に当てた手を下ろして、出っ張った腹を、張りのある脇腹を、肉厚な背中を、順に撫でてしっかりしがみつく。

「ああ…。良かった…!」

 鼻声になったカムタを、ルディオはギュッと強く抱きしめた。

「ん…。良かった…」

 最愛の命を失わずに済んだ。ウールブヘジンに託された少年を守り切った。そしてこれからも守り続ける事ができる。

 自分達は生きている。これからも、命を生きてゆく。

 水音の中、やがてふたりは床に横たわり身を重ねた。

 張りのある腹に手をつき、上に覆い被さったカムタの口へ、下からルディオが唇を合わせる。

 お互いの命を、繋がった命を、ふたりは互いに隅々まで確かめ合って…。



 そして、数日が過ぎ…。



 諸島の、とある島。そのホテルの一室で、男達は顔を見合わせて黙り込んでいた。

 彼らは「ウォッチャー」。エルダーバスティオンの諜報工作要員である。

 ケンディル・ホプキンスからの連絡が途絶し、その配下の戦力も大半が丸ごと消えた。何者かと交戦したらしい事だけは、

予備戦力として待機を命じられたおかげで生き延びていた少数の兵から確認が取れたのだが…。

「どういう事だ?」

 男の独りが呻く。ケンディルが残していた、日用生活品が詰まったスーツケース。部屋の隅に置かれたそれの上に、血塗れ

のハンカチが置かれている。何かのメッセージのように。

 ケンディルが借りていた部屋は鍵がかかっており、誰かが侵入した形跡も見つからない。しかしこのハンカチを本人が残し

たとも思えない。三名のウォッチャーは思案したが…。

 最初に動いたのが誰かは判らなかった。気配を察した三名が同時にサウンドサプレッサーつきの銃を抜き、ドアに向けて発

砲した。

 そこに、黒服の中年が立っている。

 三発の弾丸は、しかし結論から言えば男に傷一つ付けなかった。

 薄い革手袋を嵌めた右手が、胸の前でスッと振られた。そうして軽く握られた手が開かれると、ひしゃげた鉛弾がパラパラ

と床に落ちる。一瞬だけ、男の掌に薄っすらと燐光が灯っていたが、すぐに消えている。

 男の姿を確認し、ウォッチャー達は重大なミスに気付いた。

 ピシリと仕立ての良い黒服を纏い、サングラスで両目を隠し、プラチナブロンドをオールバックに纏めた屈強な中年は、彼

らもよく知る男だった。

 エルダーバスティオン最高幹部のひとり、テオドール・ロッテンマイヤーの秘書にして従者、コードネームは「スパーダA」。

ラグナロクで言えば最高幹部付きエージェント…シャチのような立場にあたる男。

 ケンディルが何者かに殺され、殺害者が血染めのハンカチを置いていったと考えたウォッチャー達は、反射的に発砲してし

まったが、これは処分されても仕方がない失敗である。しかし…。

「構わない。誰にでもある、ちょっとした弾みのミスだ」

 男は蒼白になっているウォッチャー達にそう告げると、三人の後ろにあるトランクを見遣る。

「…本当に来ていたのか…」

 呟いた男は口調を改めて、ウォッチャーに告げた。明朝、諸島に入っている全ての構成員に撤退命令が下る予定だと。

「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?ミスタースパーダ…」

 あまりにも急な事だったので、ウォッチャーのひとりがおずおずと問うと、スパーダAは、

「我が主宛てにある映像が届いた。その中で「荷物のところに証拠を置いておく」と、送り主が言ったのだが…。結論から言

えばケンディル・ホプキンスは殺された」

 と、スーツケースを指し示しながら応じた。

 発信者不明で一方的に送りつけられた映像データの内容は、生きながらミンチにされてゆくケンディルの姿を記録したビデ

オレター。黄昏の構成員を名乗る男からの不気味に陽気で不穏な警告メッセージ。

「映像撮影者の言葉が真実だった場合は兵を引くと、我が主はおっしゃられた」

 メッセージが真実ならば、これ以上の諸島捜索に実りはなく、厄ネタだけがあるとテオドールは判断した。そこで、信用で

きる片腕を直接派遣して確認させたのだが…。

「任務ご苦労」

 男達の間を抜け、懐から取り出したビニールにハンカチをしまったスパーダAは、ウォッチャー達に告げる。連絡が取れる

範囲の者達には、撤退命令が出るので準備しておくようにと事前に連絡回しても構わない、と。

 その気遣いと、ミスを軽く流して貰えた事に感謝して頭を下げるウォッチャーを残し、スパーダAは廊下に出る。

(やれやれ…。まさか黄昏が噛んでいるとは…)

 溜息を漏らした黒服は、そのまま忽然と姿を消した。

 ホテルから出る姿どころか、諸島に居た痕跡すら、ウォッチャー達にも掴ませずに。



 同時刻、エンマンノ島。

「あァ?倉が空になるゥ?構わねェからリンに食材全部持たせろォ、グフフ!諸島を出る前にどっかで買い込めば済む話だァ」

 デュカリオン・スリーの番人から届いた通信に笑って応じるシャチの視線の先では、広場に飾られたクリスマスツリーの装

飾が進められていた。

 クリスマスイブを控えた島は朝から大忙し。料理が出来る者は総出で食材と格闘し、漁師達は足りない分を獲りに船を出し

ている。

 シャチと子供達も宴の準備を手伝っており、立派なツリーもデュカリオン・ゼロが首都の島マジュロから酒類と一緒に調達

してきた物だった。

 テシーのバーもカムタの家の台所もフル回転で、ヤンも少しでも助けになればとルディオと一緒に釣りに出ている。

 とはいえ、この忙しさはクリスマスだからという物ではない。

 島の住民達にとっての今日という日は、クリスマスの祝いであると同時に、感謝の宴でもあった。

 

 あっという間に日が暮れて、島をあげての宴が開かれた。カナデを歓迎した夜以上の大宴会である。

 広場には料理が運び込まれた他、石を積んだ竈が数基作られ、その上で食材が網焼きされて香ばしい煙が立ち込めている。

 シバの女王の使徒…というのは正確では無いのだが、シャチとルディオは島民から概ねそのように解釈され、人気者になっ

ている。上座に着かされた主役二名には宴が始まってからしばらくの間、代わる代わる酒が注がれたが、挨拶がひとしきり済

んだ所で開放され、宴は自由歓談になった。

 あの事件について、いたずらに口外する島民は居ない。シバの女王への信仰厚い民達は、頭に送り込まれる映像で見た「怪

物を倒す英雄達」の事を、新たな神話の一つとしてシバの女王を巡る物語に編纂した。語り継がれはするが、即物的な情報と

して個人の事が漏れる事は無い。

 問題は、既にネット上に流出してしまった「琥珀の結晶に覆われた少年の画像」の方だったが、こちらはシャチの子供達が

頑張った。琥珀色のアクリルパネルを駆使してメイキング画像を作り、実はフェイクニュースでした、と流したのである。広

まり具合は上々で、解明動画が上がるや否や、最初から不自然だったと感想を翻す者や、最初の画像の反射が科学的におかし

いのだと解説を流す者などが次々に現れ、やがてそういった大きな声が主流になった。

 島民ではない駐在ふたりは、職務上は報告しなければいけない立場なのだが、報告書に記せる内容でもないので仕方がない、

とサッパリ割り切って苦笑いした。元々の島民でないが、マーシャルの国民性と言える割り切り具合である。

 ここだけの話としてルディオが話したシバの王国の事は、島民達にとって非常に興味深い情報だった。伝承にある王国の姿

と特徴が合っていた。何より「高貴な黒い女性」という女王の口伝に、島の人々が見た夢のお告げの老婆に、ルディオが語っ

た喪服の女王の姿も一致している。

「海からの賜り物、ってか?」

 テシーの父バーバリー・ロヤックは豪快に笑った。自分達には、日々の糧も救い手も、みな海から与えられる、と。

 島民達に次々酒を注がれて上機嫌に酔っ払ったシャチは、ヤンを捕まえて女王の報酬について訊いてみた。女王に何を望ん

だのか?と。

「え?いや、そもそも僕はシバの女王に会っていないぞ?」

 問われた肥満虎は、訝って耳を倒しながら応じた。

「あァ、夢の形で謁見する事もあるだろうよ」

「夢だって見ていない」

 はて、ヤンはシバの女王が言った「異邦人」にカウントされていないのだろうか?と、シャチは不思議がった。が、本人が

「見ていない」という夢は、「覚えていない」だけの可能性もある。

(どっちにしろ、覚えてねェなら何を願ったかなんて判らねェなァ)

 そんな結論に至ったシャチが確かめる気を無くしたので、真相は知られないままだったが、実は一年半ほど前に夢の中で女

王に謁見しており、その時に願った事は既に叶えられている。

 ヤン自身も覚えていない「兄との再会」という願いは、島への心強い助っ人の招き入れと同時に…。

 ルディオは島の子供達にせがまれ、シバの王国の風景を繰り返し話した。それで判った事なのだが、どうにも王国の景色に

ついては口伝で残っている風景はかなり正確だったらしい。カムタも驚いていたので、これは間違いないだろうとルディオも

思う。そのカムタは…。

「何だコレッッッッッッ!?」

 網焼きにした太いグリーンアスパラにマヨネーズをつけて齧って、目を白黒させている。

「え?普通のアスパラだよぉ?」

「アスパラ…!?アスパラ…!アスパラって何パラだっ!?」

 勧めたラークも反応に困るリアクションだった。

 そして突然駆け出す少年。向かった先にはセントバーナード。

「アンチャン!」

「ん?」

「マヨネーズの宇宙が世界中で繋がんの本当かもしれねぇ!ほら!これ食ってみろ!」

 ボリッ…。

「…宇宙…かもなぁ…!」

 何でもない事からまた一つ広がる世界。そして深まるマヨネーズへの誤解。

「カムタ君アスパラ初めてだったの?じゃあ…」

 気を利かせたリンは、島に無さそうな物を中心に少年を網焼きに誘う。周囲には小さな年少組もついて回り、子どもの声で

賑やかだが…。

「何よ。また自主的な警戒配置?」

 歩み寄って来た狐の娘からそう声をかけられると、広場の端で椰子の木に寄りかかって全体を視界に収めている黒髪の少年

は、スッと片手を上げた。

「きちんと食べている。先ほどカムタから渡された」

 手にしているのは、大振りに切り分けられた豚肉とジャガイモと鳥肉とタマネギが刺さった鉄串。二本も食べれば大人でも

満腹になりそうなボリュームである。

「なら良いわ。バーベキュー串でナイフ投げの持ち方はどうかと思うけど…」

 ヴァージニアは視線を動かし、丸っこいシルエットに止める。足元がふらつき始めたヤンは、テシーの肩を借りて用足しに

向かっていた。

「…やりきった。上手く行った。そんな満足感は、ちょっとあるかも…」

「同意する」

 顎を引いたゼファーは、島独自の甘辛いタレに漬け込んで焼かれた豚肉を齧り、呟いた。

「この島は素晴らしいところだと考える。防衛が成功してよかった」

 堅苦しいゼファーの言葉で、「そうさ。守れたんだ」とヴァージニアも笑った。

「世界からはじき出されたモノだって、誰かの役に立てるし、立派な事ができるんだよ。それこそ、「捨てた物じゃない」…、

でしょ?」

「同意する」

 ほんの少し笑って、少年は顎を引いた。

 

 宴は終わり、参加者達は三々五々帰路に着く。

 シャチは子供達を帰しつつもヤンを捕まえており、テシーのバーに向かって飲み明かすつもりのようだが、ルディオはカム

タと一緒に家へ向かった。

 静かで穏やかな夜だった。いつも通りの島の夜だった。

 カナデも愛した、星が零れそうな島の夜空の下を。ふたりはゆっくり歩いてゆく。

 無言のカムタの横で、ルディオは風に揺れる椰子の葉を見遣った。

 ヒュドラの霧散以降、海域に満ちていたノイズが消えており、カムタは明日の天気を自信満々に快晴と言いきった。きっと

当たるだろうと、ルディオも思う。

「真っ直ぐ帰るかぁ?」

 尋ねたセントバーナードに、少年は「うん」と応じた。

 何だったらもう少し夜景を見て回っても良いと思ったルディオだったが、それ以上は何も言わない。 

 生まれ育った島の夜空は、今夜で見納めになる。

「最初はさ、首都に行って、あのクレープ食ってこうなアンチャン」

 カムタの提案に頷きながら、ルディオは言った。

「カナデ先生と最初に会った、あの店とか行ってみるかぁ」

 明日、カムタとルディオは島を出る。

 蘇りを果たして肉体的に人間ではなくなってしまったカムタの存在は、島に余計なトラブルを招く可能性がある。

 島を愛するが故に、少年は島を出る事にした。

 カムタがルディオと相談して決めたこの事に、ヤンもテシーも反対したが、シャチは本人達の良いようにさせろと言った。

 後始末は可能な限りやったが、それでも、カムタとルディオの存在が島に危険を招く可能性は否定できない。琥珀の塊の映

像の件にはカウンターの動画をワクチンとしてアップしたが、それでもどこかの組織が調べにでも来て、カムタとルディオの

体組織などを入手されてしまったら正体に気付かれる。どんな存在かという事までは簡単に判らなくとも、「ひとではない」

という事は判ってしまう。

 シャチがそのように客観的で遠慮が無い意見を述べると、ヤンもテシーも反論できなかった。穏やかに過ごして欲しいとい

う希望が、危険を呼び込んでしまうなら、それでまたルディオが戦わなければならないのなら…。

 足になるクルーザーは、テシーがカムタにも馴染み深い一隻…いつか売ると約束していた船を譲ってくれた。

 テシーはくれると言ったが、タダで貰って良いような値段の物ではないと、カムタは無償譲渡を突っぱねた。とはいえ、相

場通りならば何年も稼がないと払えない額になるので、少年は家と土地をテシーに譲り、交換という体裁にするよう交渉した。

このフェアトレードについてはカムタが頑として譲らなかったので、テシーもしぶしぶながら「じゃあ預かる」と承諾した。

 旅の当面の資金は、リスキーが口座を作って残した島の防衛用の資金や世話になった礼金などを、ヤンが一部現金で下ろし

てきて用意した。

 餅は餅屋。リスキーに連絡を取ったら、国籍船籍パスポート、必要な情報は何でも偽造させると請け負ってくれた。ふたり

の船員手帳やパスポートや免許類などもONC絡みのツテで用立てて貰える事になったので、まずはリスキーと合流して、業

者の所へ行くのが旅の最初の目的となる。

 カムタは思う。

 いつか自分も船を手に入れて海に出る。ずっと口にして来た目標を、まさかこんな形で達するとは思ってもみなかった。

 島の漁師にはなれなかったが、まぁこれもアリかなぁなどと、楽天的に考えている。

 ルディオは思う。

 いつか記憶が戻って帰る場所が見つかったら一緒に行こう。帰る場所が見つからなかったらずっとここで一緒に暮らそう。

 かつて提案した道は結局どちらも辿れなかったが、この結末は、望める中では最上に近い物ではないだろうかと。

「カムタ」

「うん?」

 降るような星の下で、ルディオは口を開いた。言おうと、言うべきだと、言わなければいけないと、帰ってきてからずっと

思っていた言葉…。

「死ぬまで一緒だ」

「違うぞアンチャン?」

 あれ?とルディオは耳の基部を下げた。喋るのが下手糞とハークから言われた事をそれなりに気にして、一応考えておいた

セリフだったのに、何処を間違えたのだろうか、と。

 突然、カムタがドンと体を預けてきた。太い胴に腕を回して、ギュッと顔を押し付けて、息を吸い込んでいる。

「――――――――――――――」

 抱きついてきた少年が顔を上げ、輝く笑顔で口にした言葉を聞いて、ルディオは顔を綻ばせ、尻尾をフサフサ振りながら大

きく頷いた。



 翌朝、船着場にはヤンとテシー、そしてハミルだけが見送りに来た。集まった五人の頭上を、バルーンがブブブブッと旋回

飛行している。

 漁船はみな漁に出て、デュカリオンは未明の内に全て出航しており、船着場は閑散としている。

 大々的な見送りをされたら泣きそうになるから、宴の席でお別れが良い。そんなカムタの願いを島民達は受け入れていたの

で、見送りは最低限だった。

「カムタ…」

 泣きそうな顔で、ハミルはそっと首飾りを差し出す。

 出発の朝に間に合うようにと、昨夜遅くまでかかって作った、真珠色に煌く貝の内側を使った首飾り。カムタとルディオで

ペアのネックレス。丁寧に削って磨いて棒状に仕上げた貝飾りの数を見れば、どれだけ時間をかけたかは想像に難くない。

「船旅のお守りに…」

「あんがとな、ハミル…」

 受け取ったカムタがルディオにも手渡して、ふたりはネックレスを首にかけて見せた。

「………っ!」

 ハミルがカムタにハグをする。泣きそうになって、口を引き結んで、歯を食い縛って、幼馴染の船出を笑顔で見送ろうと、

懸命に耐える。

 力強く抱き締め返して、その背中をポンポンと元気付けるように叩いて、カムタは小声で囁いた。

「寂しくなったら電話すっからな…」

「うん…!」

「年に一回ぐらいは帰って来れるようにすっから…」

「うん…!」

 身を離したカムタの頭に、横合いからポンとテシーの手が置かれた。

「変に気を遣ったりするなよ?帰って来たくなったらいつだって気軽に帰って来るんだぞ?お前のホームはこの島なんだから」

「うん。判ってるって!」

「あと、帰って来る時は土産よろしくな!」

「あっはっはっ!任せろー!」

 笑みを交わしたふたりは、握り拳を作った右手をガッガッと軽くぶつけ合い、パンと小気味良い音を立ててハイタッチする。

陽気で楽観的、島の別れはそれでいい、と。

 ズビッと音がして、少年とセントバーナードが見遣ると、肥満医師はハンカチで眉間を摘んでいた。

「潮風で砂が目に鼻にあと花粉症気味でつまりそんなところ…」

 別れの涙を堪え損ね、鼻声で言いわけするヤンの背中を、隣に寄ったテシーがポンポンと軽く叩いてから撫でさする。

 コホンと咳払いしたヤンは、気を取り直して口を開いた。

「備蓄薬の説明は一通り書いたが、過信はしないように。ふたりともそうそう医者に見せられない体なんだ、健康が一番だぞ?

それから、いくら光合成で賄えるとはいっても栄養摂取とバランスには気をつける事。航行中の病がどんなに恐ろしいかは、

大航海時代の逸話から歴史が証明している。栄養補助のタブレットは過信せず、上陸したら必ず野菜と果物を採りなさい。プ

チトマトの世話もしっかりするように。それから…」

 言葉に詰まる。

 わかってるよ。そんな笑みを浮かべて立っているカムタに、ヤンは言いたい事が山ほどあった。

 父親を失わせた事を詫びたい。自分が島に残って少年が行かなければいけない事に納得しかねている。いくら操船上手でも

長距離航海の経験などないカムタを、ルディオとふたりだけで行かせるのは心配だ。

 そんなヤンの気持ちを察したカムタは、進み出て、虎の手を取って握る。

「ヤン先生、色々あんがとな!」

「…こちらこそ、だ…」

 手を握り返して、思う。

 少年の手は記憶にあるより大きかった。厚みを増して逞しくなっていた。いつのまにか漁師の手になっていた。大丈夫だと、

握る力が語っていた。

「ああ…。言うべき事は最後に一つだけ…」

 いつも厳しく作っている顔を、名残惜しそうな泣き笑いに変えて、ふたりを笑顔で送り出す。

「ふたりとも、良い旅を」

 大きく頷き、テシーとハミルも笑顔を向ける。

『シバの女王のご加護がありますように!』



 朝日で輝く海を、クルーザーがゆく。

 船員はふたりと一匹。

 操舵席に立ち、潮風に蓬髪をなぶらせ、舵輪を握っている太い少年。

 甲板で、プチトマトの鉢植えを日当たりのいい場所に置き直している、巨漢のセントバーナード。

 そして、キャプテンである少年の頭に乗った、メロン大のクマバチ。

 最初に目指すのは首都マジュロ。次いでリスキーが指定した落ち合い場所、フィリピン。

 今の世界に受け入れられないふたりは、しかし世界を憎んでいない。見て回らなければ世界の事など判らないのだから、憎

みようもない。憎むどころか、まだ見ぬ世界に期待を膨らませている。

 きっと、捨てた物ではないはずだ、と。

「リスキーと会って用が済んだら、だいたい何処でも行けるようになんだよな?そしたら次どうすっかな?アンチャンの一番

上のアンチャン…ウルってひと、どっかで会えるかな?」

「会えると良いなぁ。…ああ、英国は行ってみたいかもなぁ」

「だな!ハークとハウルの故郷だ!」

「ウールブヘジンの仲間って、まだ何処かに居るのかなぁ?」

「う~ん、探してみっか?助けられたんだって、お礼とか言えるといいよな?」

「あと、リン達にもカナダに遊びに来いって言われたしなぁ」

「そうだ!カナダだろ?あと日本にも行きてぇよな!カナデ先生の国!」

「あとラーメンなぁ」

「うん!ラーメンだな!」

 やりたい事。してみたい事。これからの事。言い交わすふたりの前に広がるのは、広大な海と可能性。

 尽きない「やりたい事」を言い交わすふたりのやり取りは、しかし無線機の音で中断された。

「あれ?何だろ…」

 バルーンが急かすようにブブブと羽を震わせ、カムタが無線機を取る。ルディオは舳先に移動して、目の上に手で庇を作っ

て周辺を眺め回し…。

「あ」

 遠く霞んで見える、行く手の船影に気付く。クルーザーを三つ牽引する巨大な客船が、船足を緩めて洋上に待機していた。

『あ~、こちらデュカリオン・スリー、こちらデュカリオン・スリー、「イソカゼ」聞こえるかどうぞォ。どちらまで行かれ

るんでェ?グフフフ!』

 無線から船舶名で呼びかけてきたのは、子供達を連れて未明に出発したはずのシャチの声。

「オッチャン!…あ!こちらイソカゼ!こちらイソカゼ!聞こえてますどうぞ!」

 驚きながらも笑顔になったカムタが声を返すと、無線の向こうが賑わしくなった。

『カムタ君!船出おめでとう!』

『カムタ兄ちゃんの声だー!』

『あ~コラコラ、今パパが話してるだろうがァ、後で喋らせてやるから少し我慢しとけェ』

 無線の相手が誰なのか察して、ルディオもカムタの近くに寄って来ると、子供達から無線機を取り返したらしいシャチが先

を続けた。

『晩飯の予定が決まってねェなら招待するぜェ?ふたりともデュカリオン・スリーには乗せてなかったしなァ。それとルディ

オにとっては会って損がねェクルーも居る。グフフフフ!』

 はて誰だろうか?と一瞬考えたルディオだったが、船番をしていた人物の事だとすぐに気がついた。

『どうせそっちもマジュロ経由だろうし、そこまではついでに牽引してってやる。グフフフフ!』

「え!?いいのか!?じゃあ行く!」

 磯風が船速を上げる。のろのろと到着を待って進む大型客船目指して。

 ルディオは甲板中央に戻り、カムタ達を背にして大海原を眺める。

 どこまでも続く水平線。漕ぎ出す先は世界の果て。

 潮風を浴びながら、ルディオは思い出す。昨夜カムタが言ってくれた言葉を。






これは、永遠を手にした男の物語。
とんでもなく無欲で、とても強欲で、羨ましいほど手ぶらで、呆れ返るほど満たされていた男のお話。

 

―死んでも一緒だ!死んだって、あの世に行ったって、生まれ変わったって一緒だ!ずっと!ず~っと!な!?―

 

 かくして、男は永遠を手に入れた。






・エピローグ・