Valiant(後編)

大手製薬会社の地下、アガタが研究に従事させられていた施設の中。

床も壁も天上も、全てが冷たく輝く金属でできた一辺15メートル程の正立方体の部屋の中央に、直径4メートル、高さ3

メートル程の土色の大釜が据えられていた。

周囲を取り囲む様々な機材から伸びる何本ものコードに繋がれたソレの正面には、中を覗き込めるように広い踏み台が、支

えも兼ねて設置されている。

虫の羽音を思わせる、ブウゥゥゥン…、という低い震動音を漏らしている釜の内側で静かにたゆたっているのは、うっすら

と銀光を発する、白みがかった半透明の液体。

微かに震動する釜の中で、その奇妙な液体の表面は絶えず細波立っていた。

様々な機材とコード類、そして大釜だけが据えられたその部屋では、唯一の出入り口となっている気密ドアが、プシュッと

音を立てて開いた。

部屋に入って来たのは、五人の男である。

先頭に立って部屋に入ったのは白衣を着た研究者風の白髪の老人。その後ろには三人の男が横一列に並んでいる。

両脇に居るのはそれぞれ尾の長い黒顔の猿と、ずんぐりしたブルドッグの獣人。

どちらも警備員の服装をしているが、地上部分に居るまっとうな警備員達とは違い、懐に拳銃を忍ばせているせいで、胸の

辺りにいびつな膨らみができている。

両脇から腕を掴まれ、引き摺られるようにして歩かされている中央の男は、やせぎすでひょろりとした人間で、先頭の老人

と同じく白衣を着込んでいた。

「ま、待ってください!誰にも言わない!もう逃げようなんて思わない!だから…、だから許して…!」

悲鳴混じりの声を上げている白衣を着た男は、涙と鼻水で顔を濡らしながら、必死になって老人に懇願した。

「覚悟を決めるんだな。もう許しちゃ貰えんよ」

最後尾に控えた男が、取り乱す研究員を鼻で笑う。

そちらは身長180程のスラリとした狼で、影のように黒い被毛と、警備員の物とは違う衣服を纏っている。

二の腕までまくり上げた薄手のシャツは、濃い緑と黒の迷彩柄。

同じ柄のズボンにコンバットブーツ、腰にはいくつものベルトポーチをぶら下げた格好で、左右の腰に大型拳銃と、左胸に

は鞘に収まった大型のアーミーナイフがベルトで固定されている。

どことなく、戦場からそのまま抜け出してきた兵士のような雰囲気を漂わせる狼は、先頭の老人に声をかけた。

「しかし…、こんな弱っちそうな野郎から、良い粥が出来るのかねぇ博士?」

「素材の肉体的頑健さは、粥の効果にはあまり影響せんようなのだよ」

老人は淡々と応じると、釜の前の踏み台に上がり、足を止めた。

そしてその手の平を釜の表面、何匹もの蛇が絡み合っているような、複雑な文様が浮き出ている部位に押し当てる。

老人が触れると、釜は途端に鳴動を弱め、静かになった。

満足げに頷いた老人は、振り向いて白衣の男を見遣る。

「では、お別れだな。…あ〜…何と言ったかな?まぁ良いか、名前なぞ」

優秀な研究者ではあるものの、老人は研究員一人一人の名前までは覚えていない。

覚えられないのではなく、覚える必要性を感じないからである。

白衣の男は、老人がこれから何をしようとしているかを知っている。

それを知り、恐怖に駆られて脱走を図ったからこそ、こうして捕らえられてしまったのだから。

「た、助けてください!やめて!やめてくれぇえええええええええっ!…げぶぅっ!」

半狂乱になって暴れ出した白衣の男は、左腕を掴んでいたブルドッグに強烈なボディブローを叩き込まれ、前のめりになっ

て嘔吐する。

逃亡をはかった白衣の男を捕らえた当人である黒い狼は、どこか面白がっているような表情を浮かべながら、その様子を眺

めている。

やがて老人が顎をしゃくると、二人の警備員はえずいている男を軽々と担ぎ上げ、大釜の前の踏み台に登った。

「ひっ!?や、やめっ!た、助けてくれぇええええええええええええ!」

男の悲鳴は、水音にかき消されて途切れた。

釜の中にたゆたう銀光を発するどろりとした液体は、まるでアメーバか何かのように、投げ込まれた男の体にからみついて

自由を奪い、白衣ごとその身体を溶かし始める。

どろりとした液体の中で音にならない悲鳴を上げながら、分解されて粥にされてゆく白衣の男。

踏み台の上から大釜を覗き込み、小波立つ水面越しにその様子を眺め、老人は満足げに頷いた。

「博士ぇ、飯にしちゃあどうですか?アンタ朝から何も食ってない上に、昨日もろくに寝ていないんでしょうが?」

「む?はて…、そうだったかね?」

老人が聞き返すと、狼は呆れた様子で肩を竦めた。

「自分の体調管理ぐらいはしっかりして下さいよ?アンタに何かあったら、俺が社長さんにどやされるんだ」

狼は面倒臭そうに老人に告げると、白衣の男を釜に投げ落とした二人の獣人に視線を向けた。

「デリゴ、持ち場に戻って良いぞ。マイキーは0時から社長宅の警護だな?遅れずに移動しろ。…最近はさすがに怪しみ始め

てる研究員が増えてきた。また脱走なんぞされたらかなわん、くれぐれも警戒は怠るなよ?」

『はっ!』

警備員に扮した部下達が退室しても、黒い狼だけは老人とともに部屋に残った。

溶けて粥になってゆく元研究員を見ながら、老人は満足げな笑みを浮かべている。

「良いぞ…。以前よりも溶解性能が上がっている…。素材を吟味する事も大切だが、本体の方も随分とこなれてきたのか、再

起動当時と比較してだいぶスムーズに…」

ブツブツと呟いている老人を眺めながら、黒い狼は考える。

優秀ではあるかもしれないが、まともではない。それが、黒狼が老人に抱いている印象であった。

「…ま、多少なりともまともだったら、そもそもこんな物の研究なんぞできはしないか…」

呟いた狼は、相変わらずブツブツ言っている老人から視線を外し、ドアに向かって歩き出した。

雇われた身である狼にとっては、研究そのものにも、研究員達にも興味はない。

重要なのはつつがなく仕事をこなすことと、しっかり報酬を受け取る事だけ。

それがこの黒い狼…、枯原吠(かれはらこう)のスタイルである。

六年と少し前までは、彼は今とは全く逆の立場の職についていた。

法の側に立ち一般人への秘匿事項に関係する事件に関わる、自警団が職業化された存在…、すなわち調停者だったのである。

彼がその生き方を変えるきっかけとなったのは、首都で発動されたエマージェンシーコールであった。

六年程前の雪がちらつく夜、帝居を狙う謎の襲撃者達を相手に防衛戦に参加した彼のチームは、多大な被害を受け、リーダ

ーまでもが殉職し、半壊状態となった。

だが、負傷者はもちろん、殉職者の遺族にも十分な補償が為されなかった。

話を聞けば、それは自分達だけではなく、参加した他のチームも同様だという。

27人居たそのチームで、事件後も生き残ったのは、カレハラを含めてたった四人だけであった。

サブリーダーでもあった白毛の熊は、その後も調停者を続けていた。

事件後、自分達と同じく居場所を失った調停者達に声をかけ、チームを結成しようとしていた彼に、カレハラも声をかけら

れた。

だが、元々金を稼ぐ手段と割り切って調停者となった上、政府の対応にほとほと愛想が尽きていたカレハラは、これを断っ

て認識票を返上し、この業界に身を沈めた。

調停者として培った技術や知識を、それまでと全く逆方向に活かす事にして。

その後、カレハラに声をかけた白い熊も、昨年末に東北のとある街で起こった事件で殉職したと聞いている。

同僚であったモサモサした牛もまた、今も調停者を続けているらしい。

噂では首都近郊のチームを転々とした末、最近になって国内最大のチームであるブルーティッシュに加わったとも聞くが、

真偽の程は定かではない。

もう一人の同僚であったマラミュートは、彼と同じく事件後に認識票を返上している。

現在は四大財閥の一つである鼓谷財閥の総帥にSP兼顧問として雇われていると聞いている。

あちらは政府の許可を得てレリックの研究をしている財閥に雇われ、こちらも今は隠れて非合法に研究している製薬会社に

雇われている。

その奇妙な符合に因縁めいた物を感じながらも、恐らく自分達が昔のように交流する事は無いだろうと確信している。

望んで表社会に出る事のない身となったカレハラは、自分の判断が間違っていたとは思っていない。

二年と少し前に起きた首都でのマーシャルロー後も、調停者達の扱いはやはり酷い物であり、政府に尻尾を振っても得には

ならないという彼の認識はさらに強まった。

殺しからボディーガードまで幅広く引き受ける、雇われの何でも屋集団のボスとなった今は、調停者だった頃と比べて稼ぎ

も良くなっており、認識票を手放した事への後悔など微塵も無い。

だが、それでも彼は時折考える。

あの時、東北の片田舎で調停事務所を開くつもりだと言った白い熊の言葉に乗っていたならば、自分は今どうしていただろ

うか?と…。

「ま、一緒にくたばってたかもしれないしな…。やっぱこれで良かったのさ」

ドアを潜ってひとりごちたカレハラは、部下達がサボっていないか確認するため、抜き打ちで見回りを始めた。



それから三時間後、その製薬会社のビルからほど近い立体駐車場に停められた、黒塗りのワゴン車の中では、

「首尾はどうだ?」

中年の豹が、様々な機器が並ぶ簡易司令室となった車内で、ヘッドホンに付属するマイクを通してモチャに尋ねていた。

『万事上手く行きましたで。それなりのプロテクトでしたけど、ワイにかかればお茶の子さいさいですわ』

余裕の返事が返って来た事で満足げに頷くと、豹は傍らで椅子につき、コンソールを操作している中年女性に尋ねた。

「実行部隊アルファ、ベータの準備はどうだ?」

「配置完了です。いつでも行動に移れます」

「「葬り屋」は?」

「二分前にポイント到達。準備はできているようです」

頷いた豹は、実行部隊全員に呼びかけた。

「それでは作戦を開始する。十秒後にセキュリティがダウンする。それに続き、各員行動に移れ。秒読み開始!」

豹の言葉に続き、中年女性によって秒読みが始められた。その声は、通信機を通して作戦参加者全員に届けられていた。



『2…、1…、0!』

「バッチリや!」

カウントダウンゼロと同時に、目前のディスプレイにデカデカとOKサインが表示され、モチャは満足げな声を上げた。

太いパイプが幾重にも重なって走る、ビル内部の真っ暗な空間。

ビルに潜入した三毛猫が潜むそこは、メンテナンス等の際にしかひとが入らない、整備用通路であった。

上下揃いの水色の作業着に身を包んだモチャは、床にあぐらをかき、持ち込んだ薄型ノートパソコンを見つめている。

ノートは後ろから伸びたコードで、壁の鉄製パネルを開けて剥き出しにされた警報装置に繋げられ、セキュリティを乗っ取っ

ていた。

数分前、カモフラージュ用の整備技師コスプレに一応身を包み、警備員にドアを開けさせて正面口から堂々と入ったモチャ

は、鍵まで借りてこの場に辿り着いていた。

予定にないビルの施設整備の為に、技師が深夜にやって来る。それも、通常であれば四人が来るこの大きなビルの整備に、

たった一人で。

その異常な状況において、不審極まりない訪問者を、警備員達はすんなり通してしまっている。

侵入に役立つこの奇妙な能力を有している事こそが、単純な戦闘能力から言えばオブシダンクロウ内で並以下であるモチャ

が、実行部隊として前線に出される理由であった。

「さて、ワイもそろそろ潜らへんと…。まぁワイ一人おらへんでも、たぶん問題あらへんねやけど…」

奪取したセキュリティのコントロールを司令部に委譲すると、モチャはノートパソコンをザックにしまい、ひょいと担いで

立ち上がる。

「「システム制圧後は柔軟な対応を期待する」ておっしゃってはったなぁ…。近いトコに合流しよか。…んと…、こっから一

番近いんは…」

短めの尾が生えているムッチリした尻をパンパン叩き、埃を払いながら呟いたモチャは、配置を思い出して微苦笑した。

「ランゾウはんやな…。結局いつもの組み合わせやわ…」



白衣の男達が行き交う研究室の入り口で、警備員に扮したブルドックは欠伸を噛み殺していた。

休息も不十分で、急ピッチで研究に打ち込まされている研究員達は、いずれも顔色が悪い。

そんな彼らを、ブルドックをはじめとする見張り役五名が監視している。

彼には良く解らないし興味も無い事だが、研究は大詰めに差し掛かっているらしい。

あの大釜の研究が終われば、事情を知る一部の者を除き、口封じの為に一般研究者達は始末する事になっている。

そうとは知らず、必死になって自らのタイムリミットを縮めている研究者達の姿は、ブルドックの目には滑稽に映った。

再び欠伸が込み上げ、口元を押さえたブルドックは、自分の横でプシュッと音がした事で、慌てて姿勢を正す。

彼らのリーダーである黒い狼は、時折部下がサボっていないか抜き打ちで見回りに来る。

彼は不要な事には首を突っ込まないが、受けた仕事は完璧にこなすという信念を持っているので、欠伸などしていたら給料

を減らされかねない。

タイミング的に見られなかったはずだと、内心で胸を撫で下ろしたブルドックは、ホッとしたのも束の間、首を巡らせるな

りギョッとして顔を強ばらせた。

気密ドアから入ってきた者は、確かに黒かった。が、狼ではない。

黒色の被毛ではなく、黒色の外套を纏ったその男は、巨大な熊である。

底がボコボコとした黒色のコンバットブーツに、ややゆったりした黒色のコンバットズボン。

上にも同じく黒のコートを着込み、左目には黒いアイパッチ。黒に覆われていない部分は赤銅色の被毛に包まれている。

黒いコートの首周りから肩、背中側の半ばまでは、ぶ厚い布がケープのようにかかっていた。

ブルドックの前でゆっくりと首を巡らせ、室内を睥睨しているのは、季節外れも甚だしい、漆黒のインバネスコートを着込

んだ異様な風体の巨漢であった。

その巨躯は目の前にありながらも、奇妙な程に気配が薄い。

傍に居たおかげでブルドックは気付けたが、気密ドアの小さな音以外に侵入を知らせる兆しは無かった。

たまたま入り口が視界に入っていた研究員数名が、見覚えのない巨漢に怪訝そうな顔を向けているが、ブルドックの他の見

張りは気付いていない。

ブルドックはこの男が何者なのか判断できず、咄嗟に銃を握る事すらできなかった。

厳重なセキュリティが施されているこの施設に、部外者が入り込むとは思えない。

カタギの者にはとても見えないが、この場に居るという事から企業側の重役である可能性すら思い浮かんでいた。

実際、身に付けた物は季節外れで不自然なものの、大柄で恰幅のよい巨漢の顔立ちには、衣類さえ替えれば社の重役と言っ

ても通用しそうな威厳がある。

ブルドックが行動を起こさないでいるほんの数秒の内に、警備員の服装をした見張り役達の姿を右眼で確認したランゾウは、

音も無く右手を上げた。

右拳から揃えて突き出した人差し指と中指を、ちょうど自分の方へ顔を向けようとした雑種らしき犬獣人にひたりと据える。

その太い二本の指先に淡い燐光が灯り、急速に光を強めてゆく。

−地下施設に常駐する警備員は、全て裏の稼業に携わる者。研究員の安全確保の障害となるならば始末して構わない−

今夜の作戦で指揮を執っている豹の言葉を胸の内で反芻し、黒ずくめの巨熊は呟いた。

「雷音破…」

直後、指先に灯った輝きが射出され、巨熊の右手が僅かに跳ね上がる。

雑種の顔がランゾウの方を向いたそのタイミングで、光弾は彼の顔面を直撃した。

発砲するようなモーションで放たれた、超高密度に圧縮された力場は、雑種の頭部を粉々に粉砕し、細かな残骸すらも白い

塵に変え、痕跡を残さず破壊する。

射出後もランゾウの遠隔操作に従っていた光弾は、その破壊を限定した空間内にのみ留めている。

命中と同時に展開した力場は、対象の頭部を覆いつつ衝撃と熱を周囲に散らさぬよう内側に向けて炸裂しており、傍に居た

研究員には、赤外線ヒーターに当たった感触にも似た僅かな熱が伝わった程度であった。

頭部を失った雑種の身体がドサリと床に倒れる音で、ブルドック以外の見張り役もランゾウに気付いた。

「敵だ!」

状況は飲み込めていなかったものの、目にした侵入者を理屈抜きで敵と察し、反射的に声を上げた色黒の人間男性を、太い

二本の指が次なる標的として指し示す。

頭部の無い二つめの死体ができあがり、ぐらりと揺れたその時には、残った三人の見張り達は懐から銃を引き抜いていた。

その銃口がランゾウの巨体に据えられる直前、プシュシュッと、小さな音が鳴る。

部屋の奥側でランゾウに銃を向けようとしていた二人の人間男性は、それぞれ眉間と喉を正確に撃ち抜かれて崩れ落ちる。

「二丁あがりぃ〜」

ランゾウの横に居たモチャは呑気な声を上げると、サウンドサプレッサーを取り付けた二丁のグロックの先端をフッと吹く。

ランゾウが一発目の雷音破を放つと同時に空いたままのドアを潜り、真横に進み出ていたモチャの姿は、ブルドックからは

熊の巨体の陰になり、見えていなかった。

敵は二人。おまけに一瞬で四人が殺されている。

パニックを起こしかけたブルドックの手は、至近距離でランゾウに向けた銃の引き金を絞った。

乾いた銃声と共に撃ち出される45口径の鉛玉。が、太鼓腹に真横から打ち込まれた銃弾は、しかし巨熊を傷つけるには至

らなかった。

ランゾウの右脇腹に命中した弾丸は、コートを突き破る事無く跳ね返って床に落ちる。

防弾防刃機能を備えるのみならず、その内部を着用者が望む温度に調節し、センサー類の攪乱機能まで付加されたインバネ

スコートとズボン、ブーツの一式は、トモエがランゾウの為に特別にあつらえた、オーバーテクノロジーの塊である。

それ自体が極めて丈夫な外套は、ランゾウの能力と相乗効果を生む。内側に薄くエナジーコートの力場を帯び、弾丸と衝撃

を食い止めていた。

呆気に取られているブルドックの顔を、向き直ったランゾウの大きな手が両側から挟み込む。

その直後、ボギュッと、水に沈めて枯れ木をへし折ったような、嫌な音が響いた。

ランゾウが手を放すと、首が肩と水平になったブルドックは、その場でへなへなと崩れ落ちる。

凄まじい膂力を誇る巨熊の無造作な合掌捻りで、ブルドックの太い首はあっさりとへし折られていた。

疲労の色が濃い研究員達の顔に浮かぶのは困惑の色。それが恐怖へと変わり、パニックが起こる前に、モチャは声を上げた。

「安心しとくんなはれ!ワイらは救助のモンですわ!」

銃を両腰に戻したモチャは、偽物の警察手帳を頭上に上げ、敵意の無い事を示す。

そして、死人が出ている事を察し、萎縮している研究員達の間を、偽の手帳を示しながら歩き回る。

さりげなく、一人一人の肩や腕などへ、落ち着かせるようにポンと軽く触れながら。

「先生方は知らされとらへんようですが、この連中、法に触れる薬物の研究をさせとったんですよぅ!」

厳重な警備と、外部との連絡が取れない監禁状態についておかしいと思い始めていた研究員達は、救助を名乗る三毛猫が巧

みな話術で状況を伝えると、二人組を信用しても良いかもしれないと思い始める。

モチャが見せた偽の警察手帳も、この説得には一役買っている。

手帳のおかげで意識に僅かな間隙を作られた研究員達は、モチャの侵蝕を容易く許してしまった。

相手の論理的思考に穴を作り、自らの主張を正しいと思い込ませる。

これこそがビルへ侵入する際にも効果的に働いた、他に類を見ない三毛猫の能力。

 トモエによって与えられた名は、ロジカルエクリプス。

発動に必要な条件は二つ。

それは、少しでも「そうかも知れない」と相手に思わせる事と、思わせた相手に衣類越しでも構わないので触れる事。

作業着のコスプレや偽の警察手帳は、この条件の一つめを満たすための物である。

ただし、この二つの条件を満たしてなお、相手が自分を全く信用していない場合は侵蝕が起きない。

一度相手を納得させてしまえば、その後誰かに誤りを指摘されない限りは効果が持続する。

現に、モチャが侵入する際に接触した普通の警備員達は、今も彼の事を「臨時で緊急メンテナンスにやってきた業者」だと

思い込んでいる。

一種の催眠術にも似たこの力は、せいぜい主張や行動を容認させる程度で、相手に命令できる程の強制力はない。

モチャが要望、提案、主張した事を、相手が受け入れた場合にのみ成立するこの力は、相手が真に優先すべき事と被った場

合は無効となる。

つまり、自分を殺そうとしている敵対者に対し、見逃してくれ等ともちかけても効果は発揮されない。

モチャ自身はちっぽけな力と評するこの能力は、しかし彼が幼い頃に受けているはずの能力検査すら誤魔化し、気付かれず

にスルーしたステルスタイプであり、殆どの検知機器にも引っかからない。

まるで好き勝手に民家に上がり込んで夕食を失敬する野良猫のように、モチャは大概の場所へすんなりと、何食わぬ顔で潜

入する事ができた。

その特異な性質と独特の効果は、彼を潜入と紛れ込みのエキスパートたらしめている。

モチャが研究員達を落ち着かせている間、ランゾウは見張りの死骸を廊下に放り出していた。

単独行動となる事を想定していた彼は、モチャが来なければ状況説明などをするつもりも無かった。

大人しくしていればよし、パニックを起こすようならばドアを破壊して閉じ込める。

そんな事すら考えていたのだが、いつものように相棒が合流してくれたおかげで、比較的穏便に事が運んでいた。

極めて優秀かつ信頼できる同志。そんな評価を口にするトモエに、ランゾウも手放しで同意している。

作業を終えたランゾウは、部屋の入り口からモチャを振り返った。

丁度説明が終わったモチャも、研究員達に部屋から出ず大人しくしているように告げると、ランゾウを振り返る。

「ほな行きましょか?サクサクっと終いにして、お屋敷に帰りまっせぇ!」

口の端を吊り上げて笑みを浮べたモチャに、ランゾウはいつものように無言で頷く事で応じた。



セキュリティを乗っ取られた地下施設は、非常警報すら鳴らせない状況に陥り、カラスの奇襲部隊に蹂躙された。

統率が取れた奇襲部隊の戦力そのものもさる事ながら、隔壁などの防御機能を逆手に取られてしまい、効果的に利用されて

は分断、隔離され、戦闘員達は次々と撃破されてゆく。

部隊として以前に、精鋭揃いの奇襲部隊と雇われ戦闘員達には、個々の戦闘能力に圧倒的な開きがあった。

「…何だ?こいつらは…」

研究室の一つで、カレハラは呟いた。

メットにゴーグル、ベストにコンバットズボン、身につける全てが黒で統一された襲撃者達。

黒い狼は四人の襲撃者から向けられる銃口に注意しつつ、咄嗟の判断で盾にした女性研究員のこめかみに銃口を突きつけた

まま、じりじりと出口へ向かう。

統率が取れた奇襲部隊の動きを冷静に観察したカレハラは、研究員を傷つけないように動いている事を見抜いている。

その鋭い観察眼が、彼と部下達の運命を分けていた。

突如押し入った奇襲部隊の攻撃を受け、同室に居合わせた三人の部下とともに応戦したカレハラは、部下達が抵抗虚しく射

殺されるその最中、手近な距離に居た研究員の一人を人質に取り、難を逃れていた。

「動くなよ?でないとズドンと行くぜ?」

蹲っている研究員達に躓いて転ばぬよう注意しながら、カレハラはドアを潜る。

銃撃音が少し前に止んだ事から、部下達の大半は抵抗を諦めるか、あるいは殺害されたものと考え、黒狼は単独での脱出を

企てる。

護衛対象である老研究者の事は気になるが、命あっての物種、手を回している余裕はない。

後ろ向きにドアを潜って素早く首を後ろへ向けたカレハラは、視界を遮る黒を眼前にしていた。

刹那の戸惑いに次いで、本能的な恐怖で総毛立つ。

女性研究員を突き飛ばすようにして放し、反射的に横へ跳んだ黒狼の鼻先で、振り下ろされた豪腕が発する突風が荒れ狂う。

飛び退きながら発砲したカレハラの眼前で、女性研究員を抱え込むように懐に抱いた黒ずくめの巨熊は、右腕や肩、脇腹な

どに被弾しながら物ともせず、その太い足を後ろ回し蹴りの要領で跳ね上げた。

右腕で女性研究員を抱き込んで守りつつ、巨体に見合わぬ俊敏さで身を捻ったランゾウの蹴りは、咄嗟に屈んだ黒狼の頭部

から、左耳を爆ぜ飛ばしていた。

「っぐぅ!?」

銃弾にも匹敵する衝撃。掠めた蹴りで耳が粉々に破壊され、焼き切られたようになっている傷口を押さえたカレハラは、苦

痛に呻いて左耳を押さえつつ後退する。

そんなカレハラには目も向けずに、何が起こったか判っていない女性研究員を立たせてドアの向こうへ押しやり、同僚に預

けるランゾウ。

カレハラはランゾウの後方へとじりじり回り込み、退路を確保しながら銃を構える。

そして、ランゾウが振り向くそのタイミングで、引き金を絞った。

響き渡る銃声と立ち込める紫煙。

左側から振り向いた巨熊は、しかし今度は一発も被弾する事は無かった。

銃口から飛び出し、側頭部を狙った鉛弾は、巨熊の左手に握り込まれている。

極々薄い、しかし高密度エネルギーの力場でコーティングされた左手は、銃弾の運動エネルギーを完全に押さえ込み、受け

止めていた。

まるで、眼帯越しに左目で見ているかのように銃弾の軌道を見切った巨熊がゆっくりと向き直ったその瞬間、相手の姿を改

めて確認したカレハラは息を飲む。

(神代…勇羆…!?)

それは、六年程前の冬。帝居防衛戦の折に目にした、白銀の襲撃者と拳を交えていた神将の名。

帝直属の超法的存在である神将の一人にして、当代最強とされる武人。

最強の調停者と呼ばれるブルーティッシュのダウド・グラハルトですら勝てなかったと、噂では聞いている。

萎縮した全身から冷や汗が噴き出し、一気に口の中が干上がった。

だが、ある事に気付くと、カレハラはゴクリと唾を飲み込み、改めてランゾウを観察する。

(…いや…、違う…。本人じゃあない…。六年前見たあの神将よりも、少し若い…)

確かに、奥羽の闘神と称されるあの神将に、目の前の巨熊は酷似していた。

かつて目にした熊の神将は、当時三十過ぎであった。

だが、隻眼の巨熊はせいぜい二十代後半か三十程度に見え、当時の神将より若い。

見た目は似ているが、別人。そう確認できたカレハラの体から、幾分硬さが取れた。

「見た目以上に速いな?デカブツ…」

呟きながら腰の後ろに左手を回し、カレハラはポーチの中に収めていた黒い球体を取り出す。

ランゾウめがけて素早く放られたテニスボール程のサイズの球体は、ジャキンと音を立て、鋭い針を生やした。

放物線を描いて宙を舞いながらウニを思わせる形状に変化すると、球体は自動的に高速回転を始めた。

ニードルボール。防弾ベストの繊維すら貫通する細かな針を無数に射出する武器で、レリックの解析によって得られたテク

ノロジーを利用した、擬似レリックウェポンである。

回転しながら使用者が命じた方向にだけ針を飛ばすこの武器にとって、巨熊の図体は射抜きやすい的。ついでに言えば、銃

弾を受け付けないコートは厄介だが、ニードルボールの針ならば貫通するはず。おまけに、身を隠す場所も無い…。

カレハラはそんな事を考えながら、追撃を仕掛けるべく右手の銃を構える。

ランゾウは隻眼をすぅっと細め、飛んで来るボールを眺めていた。

実に退屈そうな、つまらなそうな、下らない物を仕方なく見ているような、そんな目で。

その直後、巨熊の左手が唸りを上げてかすみ、体の脇に下げられた状態から右斜め上へと移動した。

無造作な手付きから凄まじい速度で放られた礫は、ニードルボールを粉微塵に破壊する。

「…あ?」

口をポカンとあけ、間の抜けた声を漏らした黒狼は、理解していなかった。

先ほど自分が撃ち込み、止められた弾丸が、今度はランゾウの武器となってニードルボールを破壊したのだという事は。

弾丸を放ってボールを壊し、ランゾウはぐっと姿勢を低くしながら身を捻った。

カレハラに背を向けるほどに大きく身をねじり、右腕を後方に引き、前後に広げた足をしっかりと踏ん張る。

後ろに大きく引いた右手が、五指を広げてうごめかせてゴキリと音を鳴らし、腕全体がうっすらと燐光を灯す。

その直後、ランゾウは黒い突風となってカレハラに迫った。

カレハラは棒立ちのまま、銃の引き金を絞る事すらできず、その接近を許してしまった。

「斬躯(ざんく)…」

呟くような低い声を耳にしたその時、カレハラは自分の足を見ていた。

腰の位置で分断されてきりきりと宙を舞いながら、吹き飛んで壁に当たり、弾んで床に倒れる自らの下半身を。

高速突進に次いで振るわれたランゾウの右腕は、黒狼の胴を腰の位置で焼き切っていた。

まるで野生の熊が水面下の魚を弾き飛ばすような、シンプルで力強く、かつ大雑把な動作ではあったものの、その速度は相

手に反応すら許さない。

何が起こったかも判らぬまま、横回転しているカレハラの上半身めがけ、身を起こしたランゾウは左拳を振り上げる。

そして、回転している狼の頭部へと、きつく固めた拳を叩き込んだ。

ハンマーのような拳がカレハラの視界を覆いつくし、彼の意識を永久に奪った。



一方で別の部屋では、三毛猫がぼんやりと釜を見上げていた。

「えげつなぁ〜い、道具でんなぁ…。で、これを研究するんが先生のお仕事なんで?」

「そうとも!研究はもう大詰めだ。データも揃いつつある!もうじき、もうじき全てを解き明かす事ができる!」

老科学者は大釜の表面に手を這わせ、熱に浮かされたような口調で話し続けていた。

部屋には老人とモチャの二人しか居ない。

機械の点検に来た業者と名乗った作業着姿の三毛猫の能力で、老人は偽りの自己紹介をすっかり信じ込まされており、怪し

むそぶりも無い。

おだてられ、持ち上げられ、気を良くしたのか専門的な事を話し始めた老人の話を、適当に相づちを交えながら「ほ〜…」

「へぇ〜…」などと声を漏らしつつ、重要な事以外は聞き流し、モチャは目の前の老人の対処について考える。

(手配書で見覚えある顔やな…。カタギやないわ、このじぃさん…)

記憶を手繰ったモチャは、老人もまた始末すべき対象である事を確認した。

快活で人の良さそうな振る舞いや言動とは裏腹に、この三毛猫は危うい程に険呑な性質を宿している。

モチャには、相手が年配であろうと、幼かろうと、男であろうと、女であろうと関係が無い。

ただ、雇い主であり心許した仲間でもあるトモエ達にとって、害になるか、益になるか、それだけが判断基準となる。

よって、目の前の老人に対しても、抹殺対象であるという事以上の感情は持たない。

三毛猫は老人をどうすべきか決めると、話が僅かに切れたタイミングで口を挟んだ。

「けど先生?ホンマに理解するんやったら、もっとこの釜に近付かなあかんのとちゃいますか?」

振り向き、「もっと近付く?」と尋ねた老人に歩み寄ったモチャは、その肩をポンと、親しげに叩いた。

いつも通りの表情で、いつも通りの口調で、しかしいつもとは違う冷徹な光を目に灯しながら。

「そや。もっともぉ〜っと釜に近付いて、よぉ〜っく観察せぇへんと…。例えば、「内側なんか」からよぉ〜っく観れば、先

生ならもっと詳しく理解できるんとちゃいますか?」

「…内側から…、観察か…」

呟いた老人の目を見つめながら、モチャは笑みを浮かべて頷く。

ロジカルエクリプスは、元々狂気染みていた老人の論理的思考を容易く侵食した。



数分後、眺めていた釜から視線を外して、駆け込んで来た他のメンバーを振り返ったモチャは、彼らの後ろからゆっくり歩

いて来る相棒の姿を目にすると、笑みを浮かべて片手を上げた。

「大釜、確保完了ですわ。どうでっしゃろ?何や感じます?」

前に進み出たランゾウは、大釜をじっと見つめる。

受け継がれてきた血が訴え、眼帯の下で左の眼窩が疼く…。

目の前の大釜が間違いなくトモエが欲している遺物であると確信し、ランゾウは頷いた。

歩み寄って台に上り、釜の中を覗き込んだ巨熊は、胡乱げに目を細めてモチャを振り返る。

「あぁ〜、研究熱心なじぃさんがおりましてなぁ、よぉ〜っく確認して隅々まで理解したいんやて。本望でっしゃろ?大釜が

どうやってひとを粥にするか、身をもって確かめられたんやし」

ニコニコと笑うモチャに片眉を上げて見せると、ランゾウは老人を溶かして粥を作っている最中の大釜から離れた。



「ご苦労。ではそろそろこちらも「商談」を纏めよう」

携帯を切ったトモエは、それを傍らのサキに預ける。

恭しく受け取った秘書から、壁に張り付いている肥えた初老の男へとその視線を移すと、トモエは口を開いた。

「施設の制圧は完了し、貴方がお雇いになっていた部隊も片付きました。もはや抵抗は無意味です」

トモエの周囲では、初老の男のボディーガード達が床に倒れ伏していた。

いずれも、若い女性に付き従っている恰幅の良いゴリラの手によるものである。

初老の男の護衛4名を、なだれ込むなり一瞬で制圧してのけたガイゼは、トモエの左後ろに控え、右手で握った50cm程

の太い棍棒を、パシパシと左の手の平に当てている。

その後方には、黒い衣装に身を包む、警察の特殊部隊を思わせるいでたちの戦闘員達5名。

初老の男は混乱していた。

邸宅が突如襲撃されたかと思えば、屈強なボディーガード達が手も無く捻られ、無力化されたあげく、自分は寝室で追い詰

められている。

襲撃者達を指揮している若い女性に見覚えがある事もまた、その混乱に拍車をかけている。

漆黒のアサルトジャケットにベスト、コンバットズボンにブーツという、他の襲撃者達と同じく物々しい格好だが、その顔

は見間違えようが無い。

何度か財界のパーティー等で顔をあわせている。県内最大どころか、全国でも指折りの歴史ある大財閥、烏丸コンツェルン

の若き総帥が、黒い戦闘服に身を包み、そこに立っていた。

驚くべき事に、自分達がカラスという組織である事を初老の男に告げて。

古くから存在すると言われ続けてきた、武勇をもって事を成す侠客集団。

まことしやかに囁かれながらも誰も実体は知らず、初老の男も、その存在は都市伝説に過ぎない物だとばかり思っていたの

だが…。

「これで、商談のテーブルについて頂けますか?」

トモエの静かな声で、初老の男は我に返る。そして、ある事に思い至った。

今年に入ってから、いくつかの会社が烏丸の傘下に収まった。

いずれも事前に買収などの噂もなく、振って湧いたように話が出たかと思えば、いやにすんなりと傘下に…。

もしや、これまでもこのような交渉をおこなって来ていたのか?

高額の報酬を支払ってまで雇った護衛達を手も無く捻り、圧倒的戦力差を見せ付けた襲撃者達に包囲された初老の男の背筋

を、冷たいものが伝い落ちる。

頼みの綱である護衛達は、三十数名居たにもかかわらず、十名足らずの襲撃者達によって無力化されてしまった。

もはや降伏するしか無いと初老の男が判断したその時であった。

トモエと男の間、その頭上で、格子状の模様になっている高い天井の板が、音も無くスライドしたのは。

ひと一人がようやく通れる程度の暗闇がポッカリと口をあけ、そこから黒い猿が足を下にしてするりと落ちる。

その足を覆う黒い革靴の先端からは、紫色の液体が付着した両刃のナイフが飛び出していた。

誰にも気付かれる事無く、リーダー格と思われる若い女めがけて襲い掛かった猿は、4メートルの高さを落下しながら、

「!?」

毒に濡れた刃を蹴り込もうとしている相手が、不意に顔を上げ、自分の目を真っ直ぐに見た事で目を見開く。

気付かれていた。

左手を真っ直ぐに横へ伸ばし、ゴリラを制しながら自分を見上げる女の視線を受け、猿は悟った。

一瞬で左腰に移動したトモエの右手が、そこに固定されていた棒を掴む。

それは、リレーで使うバトンを思わせる、真っ直ぐで凹凸の無い、完全な円柱形の棒であった。

全長40センチ程の濃い紫色で、両端と中央に銀のラインが走り、一周している。

刹那の間に、落下しながら顔面を狙って前へと蹴り上げられた猿の右足が、首を傾げるようにしたトモエに掠りもせず、風

切り音を立てて空を切る。

続けて水平に薙ぎ払われた左足が、仰け反るように後方へ大きく上体を反らしたトモエの、胸の丘陵に触れる事も無く上を

通り過ぎる。

驚くほどの柔軟性と、身体的な優位を誇る獣人の動きに苦も無く対処する反応速度。

ほんの半歩動いただけで二撃を回避したその身ごなしは、穏やかな風に揺れる花を思わせる程に優雅であった。

二度の攻撃をかわされながら着地寸前になった猿の前で、傾けていた上体を起こすトモエの右手が、腰から棒を引き抜いた。

長さ40センチ程のそれを、抜き放つ一連の動作で素早く振るったトモエの前で、赤紫の光が弧を描く。

床に着いた猿の両脚と手にやや遅れ、少し離れた位置にゴトッと音を立てて床に転がったのは、首の位置で切断された猿の

頭部であった。

切断面が焼かれ、血の一滴も流していない、どこか現実味に欠けた黒い猿の体が、犬のお座りのような姿勢からバランスを

崩し、後ろへと転がった。

それを見下ろすトモエの右手には、たった今猿の首をはねたばかりの得物が握られている。

手にした紫と銀の棒は、その先端から赤紫の光を1メートルの棒状に放っていた。

赤紫の光刃を持つ剣。トモエが手にしているそれは、SF映画で見る光の刃を持つ剣を思わせる。

事実、トモエの護身用具でもあるその得物は、常時は本体である柄の部分のみで、使用者の意思によってエネルギー刃を構

築する。

原理は異なるものの、その刃の効果はランゾウの能力とも似ており、負わせた傷からは一滴も血が零れない。

レリックウェポン、フラガラッハ。それが、トモエが愛用している得物の名である。

流麗にして優雅、一瞬で黒い猿を返り討ちにしたトモエの所作を、初老の男は放心しながら眺めていた。

「…さて、もう邪魔は入らないでしょう。商談に移りましょうか、ワタリ社長」

集中を解き、光の刃がその色を希薄にしつつ霧散するように宙へ消えると、トモエは柄だけとなったフラガラッハを腰に戻

し、優雅に微笑んだ。



赤銅色の被毛は、シャワーを浴びたばかりで、まだ湿り気を帯びている。

午前七時、襲撃作戦を終えて屋敷へと戻ったランゾウは、トモエの私室で絨毯に直接あぐらをかき、四角い容器におさまっ

たインスタントヤキソバをガツガツとかきこんでいた。

通気性に優れた薄布で作られた、サラサラとした感触が心地良い若葉色の甚平を纏い、一心不乱にヤキソバを咀嚼している

巨熊を、タンクトップにスパッツというラフな格好のトモエが眺めている。

交渉が終わり、救出した研究者達を保護し終え、作戦は滞りなく終了した。

事後処理はあらかじめ指名していた幹部達に任せて帰還したトモエは、先に屋敷に到着していたランゾウに、玄関前で迎え

られている。

「この後寝るんでしょ?そうやって寝る前に食べまくると、ま〜た太っちゃうわよぉ〜?」

パソコンが乗ったデスクとセットのアームチェアに腰掛け、目を細めて少々意地の悪そうな笑みを浮べたトモエに、カップ

から顔を上げたランゾウが隻眼を向け、小さくフンと鼻を鳴らす。

クスリと笑って腰を上げたトモエは、ランゾウに歩み寄るとその背後に回り、背中合わせになって絨毯に腰を下ろした。

そして、巨熊の広く頼もしい、ふかふかとした背中に自らの背を重ね、足を伸ばして座る。

「予想外の幸運だったわ。解析が終わり次第、バロールの封印解除を行うわね」

ランゾウが顎を引いて頷くと、トモエは目を細めて微笑する。

「…これで、残り一つ…。あと一つ探し出せれば、バロールの封印は完全に解ける…」

組織内最強の暗殺者であり、同時に自分の守護者でもある巨熊の背中によりかかりながら、小声で呟くトモエ。

「…トモエ…」

せわしなく箸を操っていた手を休め、ランゾウは低く太い声で、自らの全てを捧げた女性の名を呼ぶ。

「ランゾウが何て言っても止めないわよ?これは、私の意地みたいな物だから」

トモエは小さくクスクスと笑いながら呟くと、巨熊の背に体重を預けたまま目を閉じる。

「オブシダンクロウにかつてのような力が戻って、街の裏の部分も安定して、そして…、最後の秘宝が見つかってバロールが

完全開封できたら、その時は…」

目を閉じたまま、トモエは口元をほころばせた。

いつか、この街の裏社会にも以前のような秩序が戻った後、組織を抜けてランゾウと共にこの街を去り、何処か静かな場所

で平穏に暮らす。

それが、モチャやサキにすら話していない、二人だけの密やかな願い。

叶うのは数年後か、十数年後か、実現まではまだまだ遠い、ささやかで実現困難な二人の夢…。



そして日は巡り、施設の奇襲が実行された夜から十日後の昼下がり。

烏丸の屋敷の広大な敷地、本宅の裏手側のブナ林の中に建てられた丸太小屋で、

「アガタはん一家、明日から自宅に戻らはるそうでっせ」

板張りの床に敷かれた座布団の上で、モチャは左手に座る巨熊から麦茶の入った湯飲みを受け取りつつ、保護した親子の状

況について話し始めた。

小ぢんまりとした部屋の中央には囲炉裏が切ってあり、天井を走る梁から自在鉤が下がっている。

狭いながらも庭を持つこの小さな丸太小屋は、トモエがランゾウの為にあてがった住まいである。

屋敷内の豪華な洋間は、この巨熊にはやや居心地が悪いらしく、気を利かせたトモエはランゾウの故郷の自宅に似せて、こ

の小屋を建てさせた。

建てる際に要望を訊かれたものの、シンプルな物を好む傾向がある巨熊は、風呂や倉庫を除けば寝室と居間兼食卓の二部屋

しか無い、この単純な造りの小屋を希望した。

外見はランゾウが落ち着けるように丸太小屋だが、実はトモエがハイテク機器をこれでもかと導入し、冷暖房や加除湿機能

も万全。

ランゾウたっての願いである囲炉裏だけは、トモエの主張によるガス化を免れ、炭と薪を呑んで役目を担っている。

自分の湯飲みにもヤカンから冷たい麦茶を注いだランゾウは、今は火が入っていない囲炉裏の自在鉤へとヤカンを戻し、氷

が浮く湯飲みを傾けて涼を取りながら、モチャの話に耳を傾けた。

件の製薬会社が烏丸コンツェルンの傘下に収まり、事件は明るみに出る事無く終息した。

だが、レリックの不法研究に巻き込まれた研究員達の安全保障や、心のケアの問題も発生している。

救助した研究員達には、落ち着くまでの間、県外にある烏丸名義の保養施設で休暇を取らせながら、与える情報を慎重に選

び、操作しつつ事情を説明し、復帰を目的としたリハビリをおこなっていた。

だが、幸いにも全体像を把握している者が一人も居なかったため、それほど深刻な心的外傷を受けている者はおらず、復帰

メニューは順調に進んでいる。

彼らに事件の全貌については話さない。それが、トモエの決めた方針であった。

ひとを材料にする粥を研究させられていたなど、わざわざ知らせてやる必要は無い。

非合法の薬品をそうとは知らずに研究させられていたと伝え、それについても実害は生じていないため、咎めは無いと説明

するに留めている。

アガタ達も他の研究員と同じ施設で休養して貰っていたが、明日の朝にはこちらへ戻って来るというのが、モチャが仕入れ

て来た情報であった。

「こっちにも挨拶に寄るてゆぅてはりましたで?マサオ君、喜んどるやろなぁ。何でかランゾウはんに懐いとったし…」

屋敷に居た短い間、外出こそ許されなかったものの、屋内は自由に歩き回っても良いと告げられたアガタ夫妻の一人息子は、

何故かランゾウの後ろをついて周り、使用人達に笑みを浮べさせていた。

その様子を思い出しながら、モチャはニマ〜っと笑う。

「ランゾウはん。ひょっとして子供に好かれるタイプですのん?案外子供好きやったりして?」

湯飲みを片手に厳つい顔を顰めたランゾウは、「うるせぇ…」と、不機嫌そうに呟いた。