君、死にたもう事なかれ

私の右拳が、ウルの右足とぶつかり合う。

纏った衝撃波が相殺して拡散し、巻き込まれた雪が粒子の如く細かな霧と化す。

次いで脇腹につけていた左拳を捻りこむように放つが、これは横合いから打ち込まれたウルの左拳に軌道をずらされた。

体が泳ぐ格好で上体を捻った私に、ウルの右拳が迫った。

マズル下の死角を突く角度で跳ね上がったウルの拳が、首を引いた私の鼻先を掠める。

…今度は回避が浅かった。危機察知の精度が甘かったらしい。

直後、伝播した振動が脳を揺さぶるが、皮膚感覚とソナーを頼りに平衡感覚を補い、私は踏み止まった。

気分が悪いなどと言ってはいられない。ホワイトアウトの維持限界が近付いているのだ。無理矢理にでも体を動かし、早期

決着を狙わなければ…。

体勢を立て直しつつ、鋭い呼気と共にぐらついた体を捻って上から被せるように右拳を落とす。

横に流れたウルの体に掠りもしないが、私はそのまま体の回転を、軸を水平にした物に切り替える。

風車のように回転した私の、右拳を追うように唸りを上げた右脚が、頭上からウルを強襲した。

今度こそ避けられなかった狼は、腕を交差させて腰を落とし、叩き付けられた脚を防ぎ止める。

がぼっと、ウルの両脚が雪に沈んだ。

好機!…だったのだが、私の膝とウルの両腕が接触したその状態から、互いの体が衝撃波を発生させ、弾けて離れる。

脚の破砕を狙ったウルだったが、私はそれを一瞬早く察知できていた。…無理に攻めるのはリスクが大き過ぎるので、止む

を得ず相殺したが…、隙に攻め込めなかったのは痛いな…。

ブライアンから引き継いだこの能力…、危機と好機の直感的察知とでもいうべき能力は、使いようによっては極めて強力か

つ応用が利いて便利ではあるが、過信は禁物だ。

私が不慣れなせいもあるだろうが、初撃に意識が向いてしまうせいか、連携攻撃になると次撃が察知できない事が多い。

こちらからの攻撃の際も同様で、相手の意識の変化にあわせて隙の状態が変化する為、確実ではない。

攻める場合でも、守る場合でも、「一撃目のアドバンテージ」を得られる力…。今はこの能力をそう捉えた方が良いだろう。

だが、この力で常に感じられている物もある。それは…。

互いに反発しあって弾かれ下がった状態から、体重を活かしてウルより早く踏ん張れた私は、体を横回転させつつ雪の中に

足先を突っ込む。

円を描くように雪を押し退け、深い溝を作りながら掘り返した足の甲に、ごつっと硬い何かが当たった。それはソナーで探

り当てた、直径50センチにも及ぶ氷塊だ。

私はそれを足に乗せる格好で、掘り返した雪ごとウルめがけて蹴り飛ばした。

簡単な目くらましと、無視はできない氷の砲弾。

ソナーで視覚をカバーするウルにとって、単なる雪の目くらましは殆ど効果を発揮しないが…。

「むっ!?」

ウルは私の狙い通りに氷塊を察知できず、寸前で身をかわしつつ呻いた。

「雪が…振動を!?」

そう。目くらましに蹴った雪に、私は微弱な振動を付与していた。

それ自体が細かく砕けながら振動し、霧のように拡散して行った雪の結晶は、我々のソナーには邪魔になり、精度を乱す。

そして…、私は彼を攪乱した雪に紛れ、またも接近している。

雪を乱して伸びた私の拳が、反射的に身を捌いたウルの胸元を掠る。

反撃で飛んできた蹴りが、私の腹をまともに捉えた。

脂肪がへこみ、筋肉がひしゃげ、内臓が潰れるような強烈な蹴りだったが…、

「っく!?」

腹にめり込んだ足を私に抱え込まれ、ウルは失策を悟った。

スイングする格好でウルを振り回し、加速を付けて地面に叩き付ける。

雪が舞い上がり、凍った地面が砕けて散り、腕で抱える形で庇ったウルの後頭部から鮮血が舞う。

…よし、依然として感じている…!

もはや私に余力は無い。生み出せる振動の全てを、余すところ無く全て彼に伝えよう。

私はウルの体に点在して見える無数のソレめがけ、連続して拳を叩き込んだ。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

私は肺腑から空気を絞り出し、雄叫びを上げる。

ブライアンが現役時代におこなっていたウォークライは、己を鼓舞する効果があるそうだ。実際のところ、酸素を吐き出す

という効果的とは言い難い行為を犯しながらも、ほんの少しだけ力を得たような気がしている。

肩、胸、脇腹、大腿、手当たり次第にただ殴っているような私のラッシュで、ウルの体が地面へ打ち込まれ、沈む。

ウルもガードはしているが、一方的な攻めだ。

やがて、渾身の力を込めて振り下ろした拳が、胸の前で交差されたウルの腕に当たり、止まる。

彼の両腕で、嫌な音を立てて骨が砕けた。

同時に、私の体もオーバードライブ状態での稼働限界を迎える。

「ぐ…!」

喀血したのは、私の方だった。

口元を押さえて息を止め、彼の上に覆い被さるように四つんばいになった私を、血塗れになったウルが見上げる。

まだ、オーバードライブを維持しているウルが。

「限界のようだな、ハティ…」

両腕が折れたとて、ウルの闘志は尽きていない。動ける限りは戦うつもりなのだ。

目の前で星がチラチラ舞い、耳鳴りが酷い。

乱れた脈拍と高まった血圧で全身の血管が痛みを訴える。

呼吸など目も当てられない乱れようで、肺が空気を求めてひたすら喘ぎ、腹はふいごのように上下している。

あの異常な修復速度は既に失われたようで、体から漂い出ていた白い霧も消えている。

多用した反動なのだろうか?ブライアンの察知能力も消えている。今はラインもポイントも感じない。

「君は善戦した。正直危なかったが…、ここまでだ」

ウルの意識が衝撃波を放つべく集中されていくのが何となく判った。

が、私はすぐには動けそうもない。避ける事はできそうにない。

もう少し…。あとほんの少しなのだが…。何とか一瞬でも時間を稼げれば…。そう、一発でも入れて気を逸らせれば…!

………………?

必死になって体を支えていた私は、その事に気付くと、自分の間抜けさに呆れてしまった。

そうだ。何をしているのだ私は?簡単で楽な攻撃方法が、まだ一つだけ残っていたというのに…。

私は両腕から力を抜き、重力に引かれるまま、ウルの上に倒れ込む。

ガゴッと、硬い音がした。

「がっ!?」

体重をかけた私の頭突きがウルの鼻を粉砕する。さらに…、

「げほっ!?」

私にのし掛かられた狼の口から息が絞り出され、集中が完全に途切れた。

決定打にはならないが、弱った所へ頭突きを見舞い、さらに200キロオーバーの体重を浴びせれば、流石のウルも涼しい

顔ではいられない。

おまけに、折れた腕が私との間で圧迫されているのだから、その苦痛は相当な物だろう。

「くっ…!退け、ハティ…!」

私を吹き飛ばそうと、改めて意識を集中し始めたウルは、突如ビクッと身を震わせた。

…間に合った…!

私は密着した状態で、彼の中でいくつもの衝撃が爆ぜる音を、体で聞く。

ウルの全身で皮膚が裂け、あちこちから血がしぶく。

私は彼を闇雲に殴っていた訳ではない。感じていたウィークポイントに、振動を乗せた攻撃を加えておいたのだ。

幾重にも打ち込み、内部での反響増幅を狙ったそれは、今こうして実を結び、彼に破壊をもたらした。

…これは、彼のモータルタッチがヒントになった攻撃だ。

私の新たな能力「超ド級」は、脆い部位だけでなく、振動を効率的に反響させる角度で打ち込むポイントまで正確に感じ取

る事ができた。直感的にやれると踏んで試したのだが、上手く作用したらしい。

痙攣しつつ全身から血を撒き散らすウルの上から、私は身を退けた。

呼吸はいくらか楽になった。が、消耗は激しい…。

ウルはまだ生きている。幸か不幸か、満身創痍の私が力を振り絞っても、致命傷にはならなかったのだ。

「流石に…、もう…、動けないようだな…、ウル…」

乱れた息の間からそう声をかけ、私は彼を見下ろした。

生きてはいるが、もはや指一本動かせないのだろう。ウルは苦しげに顔を歪めながら、私を見返す。

不思議な気分だ。私もウルも、まるで本物の生物のように苦痛に顔を歪め、闘志を剥き出しにし、生存をかけて争った…。

もしかしたら、それほど難しく考えるまでもなく、私達は生物と呼べる範囲内にあるのかもしれない…。今はそう感じる…。

私は踵を返し、吹き付けた雪で半ば埋没していたトンファーを拾い上げ、腰のホルスターに収めた。

分解された方のトンファーは…、隊長の形見でもある、やはり持って行こう。

輪切りにされた得物の残骸を出来る限り拾い、ポケットに押し込んだ私に、ウルが息も絶え絶えに声をかけてくる。

「とどめを…刺さない…のか…?」

「全力を尽くした闘争の結果、君は息がある。もしかしたらその事にも意味があるのかもしれない。それに…」

私は咳き込み、血の塊を吐き出した。

「わざわざとどめをくれてやるだけの余裕も…、無いのでね…」

体調はすこぶる悪い。苦痛の信号化は私とウルの特性なのだが、お互いにもう正常に機能しない状態…、気を抜けば倒れ込

んで意識を失ってしまいそうだ。

だが、まだだ。ミオを起こして移動しなければならない。残念だがすぐには休めないな。もう少し踏ん張らなければ…。

「…では、な…」

私は足を引きずりながら踵を返す。

その背を、ウルの声が叩いた。

「逃げ切れると…思っているのか…?今…確信したが…、君は…ラグナロクにとって…ただの脱走者ではない…。士官クラス

である…、エインフェリアである…、そんな事すら…問題では無いほどの…、おそらくは、もっと重要な何かを…、君は宿し

ている…」

「………………」

「ラグナロクは…、君を諦めない…。どうあっても始末するだろう…。逃げ切れると…思うのか…?世界とすら敵対する…ラ

グナロクを…敵に回して…」

「…世界の…敵…、の敵…、か…」

私は呟いていた。

ウルに念を押された今でも、恐怖も後悔も全く無い。

ただ、彼の言葉で思い付いた事が一つあった。

天啓のように閃いたのだ。自分が今後どうすれば良いのかを。

「…ありがとうウル。私は今、やるべき事が明確に見えてきた…」

「…な…に…?」

私は彼に答えず、重い体を引き摺って歩き出す。

…ミオ…。今行くぞ…!



背中に手を入れて抱き起こし、軽く揺さぶると、ミオは顔を顰めて「うぅん…」と唸った後、薄く目を開けた。

「あ…。大尉…、おはようございま…」

寝起きと勘違いしたのか、ぼんやりとしながら口を開いたミオは、私の有様を見てハッとすると、

「だ、大丈夫ですか大尉!?酷い出血!あ、アイツは!?あの狼は…」

「何とか退けた。私達の勝ちだよ、ミオ…」

安堵しながら、私はミオを抱き締める。

「あ…、た、大尉…?」

戸惑っているようなミオは、しかし嬉しそうに尻尾を左右にくねらせた。

少年の華奢な体の感触が、私を落ち着かせる。

生きている。重大な負傷は一つもない。

奇跡だ…。直撃していなかったとはいえ、ウルの衝撃波に巻き込まれたミオは、何事も無かったように元気だった。

「さあ行こう、ミオ。先を急がなければ…」

「え?で、でも…。大尉は傷の手当てをするべきじゃ…」

「後でいい。この場を離れるのが先決だ」

今もしも追っ手と出くわしたら今度こそまずい。感覚がおかしくなってソナーを使う余裕すら無い今、無防備に留まっては

いられないのだ。

出血は何とか止めたが、あちこちの傷は下手に動けば傷を開くだろう。体力の面でも、痕跡を残すという面でもそれは避け

たい。体に気を遣いながら進まなければ…。

歩き出した私に、ミオが従う。

雪は止み、風は穏やかだ。今の私には有り難い。…いや、これはミオのおかげか…。ここまで来るともう確信できるな、ミ

オは北原に好かれている。

ふと、レディ・スノウ…ヴェルヅァンディが語った事が思い出された。

私に課せられた物…、未来へ運ぶべきもの…、あれはおそらくミオの事なのだ。ミオを生かす為に、行かせる為に、私は追

い返されたのだろう。

彼女が何を思って助力してくれたのかは、判断材料が少ないので何とも説明がつかない。

だが、ミオを生き永らえさせる為だったのだとしたら…。ふむ…。やはりこの子は北原に好かれていると言える。あの…、

雪の女王に…。

ミオを未来へ運ぶ事が私に架せられた定めだったとして、ミオには何が架せられているのだろう?

辿り着いた未来で、この少年は何を見て何を感じ、どう過ごすのだろう?

…私は思う。そして願う。この少年が、平和な世を謳歌する為に未来を生きるよう定められている事を…。

しばらく歩いた後、ミオにあわせて少しペースを落とし、私は口を開いた。

「しかし…、こうも消耗していると、重い体が恨めしいな…。少しウエイトを絞るべきかもしれない」

私の呟きに、ミオは「えーっ!」とやけに大きな声で過剰反応を示す。

「絶対痩せないで下さい!痩せたらダメです!絶対ダメっ!」

歩調を早めて私の横に並んだミオは、かなり真剣な顔だった。

「大尉がふくよかでなくなったら嫌です!疲れて体が重いなら、ぼくが支えますから!」

私は小さく笑う。

「あー!無理だって思ってますね!判りませんよ?鍛えたらぼくだって…!」

いや、今でも充分支えて貰っているよ、ミオ…。

私はそう本音で応じる代わりに、「期待しておこう」と笑いかけた。

ミオは頬を膨らませていたが、気を取り直して前を向く。

「ミオ」

「はい?」

「私は決めたよ」

少年は私の横顔を見上げ、首を傾げる。

「私は今後、「世界の敵の敵」になる」

語呂が悪いその言葉を聞くなり、ミオは不思議そうな顔をした。

「今の世界は私達を受け入れてはくれない。私達はあくまでも法的には人権が認められない存在なのだ。だが…」

私は前を見据え、大きく頷く。

「敵の敵は味方…というヤツだ。世界の為にその敵と戦えば、世界はいつか、私達を受け入れてくれるかもしれない」

楽観的過ぎるだろうか?だが、私はこの考えに希望を持っていた。

ウルに言われて気付いたのだ。

逃げ切るのは難しい、ならばこちらも牙を剥く。

世界の敵の敵として、世界に受け入れて貰えるその日まで、私は…、ミオを守り、黄昏を迎え撃つ。

存在を認めさせるために世界を敵に回す。屈服させて自分達の存在を確固たる物にする。ラグナロクのメンバーは多くがそ

んな思想の持ち主だ。

だが、私達は既存の世界と歩み寄る事もできるのではないかと、今の私は考えている。

あの少年騎士は、素性の知れない私達に気を許してくれた。共通する脅威を共に迎え撃つあの時、私は確かにあの少年騎士

と協力しあっていた。分かり合えないなどと決まった訳ではない。

「「世界の敵の敵」…ですかぁ…。もうちょっと格好良い呼び方とか無いですかね…。大尉は名前付けるの得意じゃないですか?」

「そんな事実は無い。…が、はて?ふさわしい名前となると…。まぁ後で休みながらゆっくり考えよう。ミオ、君も一緒にな」

「ぼくセンス無いですから」

「諦めが早いな。もう少し頑張りなさい」

肩を竦めたミオと笑いあった私は、

「っ!?」

殴られたような衝撃を背中に受けて、息を詰まらせて前のめりになる。

「どうしました大尉?何かに躓いたんです?」

笑顔のミオが問いかけて来るが、私は答える事ができなかった。

かろうじて前に出し、体を支えた足が震える。

ミオは私の異常を察したのか、「大尉?もしかして具合が?」と心配そうな顔になった。

さらに続けて二度、背中に受けた衝撃は、そのまま私を突き抜けて行った。

胸と腹からブシュッと、二条の赤い線が飛ぶ。

これは…?私は、狙撃…され…?何処…から…?

前に出して体を支えていた右脚から、急に力が抜けた。

膝が折れて体勢が崩れながら、私は首と身を捻る。

ぶれる視界に入ったのは、雪に溶け込む白ずくめの狙撃手、数名…。

…ラグナロクの…追っ手か…!

振り向きざまに認識したその時には、私はトンファーを引き抜き、ありったけの思念波を込めて振るっていた。

特大の赤い翼が飛翔して、五名の狙撃手を上下に両断し、血の噴水を上げさせる。

そこまで確認した私は、体を回しながらどうっと仰向けに雪面へ倒れ込んだ。

手から離れたトンファーが雪に突き刺さり、軽い音を立てる。

胸に二つ、腹に一つ穿たれた銃創から溢れる鮮血は、鼓動にあわせて断続的に吹き出す。

心臓と…肺…、それに胃をやられたのか…。

鈍った感覚が、他人事のようにその致命的な損傷状況を脳に伝えてくる。

吐き気がし、息苦しくなり、噎せ返りながら嘔吐した私の口から、信じられないほど大量の血液が迸った。

あれだけ出血したのに、まだこんなに血が出る事が私には不思議だった。

「た…!」

何が起きたのか判っていなかったのだろう、傍らでしばし立ち尽くしていたミオは、その両手で口元を覆い、わなわなと震

え始めた。

「た、大尉…?大尉ぃ…?」

歩み寄って雪に膝を着き、私の傍らで屈み込んだミオは、おろおろしながら私の体を見下ろし、銃創から吹き出す血を見つ

めた後、

「うわぁああああああああああああああっ!?大尉っ!?大尉ぃいいいいいいいいいいいいいっ!!!」

悲鳴に近い声を上げながら、吹き出す血を止めようと、小さな手で傷口を塞ぎにかかった。

だが、もうあまり残っていないのだろう。血の勢いは次第に弱まって行く。…いや、私の心臓が…止まろうとしているせい

かもしれない…。

まずいな…。体が、動かない…。

「大尉!大尉しっかり!あああ、あああああああっ!」

涙を流すミオの声が、耳に痛い。

経験の少ない彼でも容易に悟れたのだろう。

この傷は、もうどうしようもないという事を…。

…困ったな…。これからだという時に…。

やっとやるべき事が判ったというのに…。

ヴェルヅァンディの言葉が、ふと思い出された。

「拾った時間」…。あれは、こういう事だったのだろうか…?蘇生できたのは、いわゆるロスタイムのような物で…、私は、

こうなる事が定まっていた…のか…?

…いや、私には義務があるそうだ。未来へ届ける…。そう、ミオを…、未来へ…、平和な…、私…が…。

いかん…、意識が朦朧としてきた。もう保たないのだろうか?

「…ミ…オ…」

ゴボゴボと喉を鳴らしながら、それでも何とか声を絞り出すと、ミオはバッと顔を上げた。

「はいっ!はい、何ですか大尉!?」

「…行…く…んだ…」

「大尉っ!?」

「…行き…なさ…い…。…そし…て…、生き…なさい…。ミ…オ…」

「嫌です!大尉と一緒です!ぼくはっ!ぼくは死ぬまで大尉の傍を離れませんっ!」

…ああ…ミオ…。

何と嬉しい事を言ってくれるのだろう、この少年は。

目の奥が熱い。目尻がこそばゆい。…涙が…、過剰分泌されているのか…。

嬉しいからだろうか?それとも、哀しいからだろうか?

「あなたがくれたんです!」

耳元で唸る風を切り裂き、ミオの叫びが鼓膜を震わせた。

この小さな体からどうしてそこまでの声が出るのだろうか…。ミオは私に縋り付き、泣きじゃくりながら訴える。

「ここまで繋がった命も!生きる理由も!優しさも温もりも希望も!そして名前も!全部、全部っ…、大尉がくれたんです!」

ミオに抱きつかれているはずなのに、私にはもう触れられている感覚は無かった。

ただ、ほんの少しだけ…、まだ温もりを感じる…。

「ぼくは…、大尉と離れて…、生きてなんか…行けない…!」

応じようにも、呼びかけようにも、口が動かない。どうやら呼吸も止まったらしい。

どうすればミオは私から離れてくれる?どうすれば行ってくれるのだ?

傍にいても、私はもう守ってやれないのに…。

鼓動は…微かに続いているが、しかし間もなく止まるだろう。

私の身体はじきに機能を完全に停止し、脳もチップも血流による供給を受けられずに思考を途切れさせるはずだ。

そこから先は…、もう自分では認識できないのだから、想像しても仕方がない事か…。

…そうか…。これが「死ぬ」という事か…。

視界が急に暗くなって来た。

ミオの顔が見えない。それが残念だ。そして心細い。

私はやはり、ミオの存在に支えられていたのだろう…。

…寒いな…。

それほど辛いと思った事のない北原の寒気が、今は身を切るように冷たく、寒い。

しかしそれすらも、薄れていく意識と同じく次第に遠のいて行く。

その中で、ミオの体の温もりだけがかろうじて感じられている。

ここに至って、私は強く思った。

…死にたくない…。

もう少しで良い、生きていたい。生きて、ミオを守りたい…。

それが叶わぬ事だと解っていながら、愚かな私はここに来てやっと「死にたくない」という生物の基本的な感情を理解した。

生きていたい。死にたくない。今私が死んでしまったら、誰がミオを守るのだ?誰がミオを救うのだ?誰がミオを逃がして

やるのだ?

足音が、聞こえたような気がした。

この状態での事だ、気のせいかもしれないが、追っ手に見つかったのかもしれない。

怖かった。

ドレッドノートとまで呼ばれておきながら、私は恐怖した。

この手が届く範囲に居ながらミオを守れない事に、ミオを失う事に、激しく恐怖した。

体が動かない。手が、足が、指先すら動かない。

狂おしい程思う。あと一分で良い…、誰か、私に動けるだけの力を…。

それが叶わぬならば、どうか、どうか、誰か私の代わりにミオを助けてやって欲しい…。

願わくは…、北原よ…、極めて不寛容でこの上なく美しい、禁断にして自由の地よ…。

この場に咲くべきでなかった儚き命に、一片の慈悲を…。

天使が生きるには、ここは過酷すぎる…。寒すぎる…。

たった一つの命も掬い取れぬ、無力な私を哀れむならば、どうか…、どうか…、聞き届けて欲しい…。

地上という名の地獄から、私は見えぬ目で天を仰ぎ見、居るかどうかも定かではない神に、聞き届けてくれるかどうかも解

らぬ北原に、心の底から懇願した。

神でも悪魔でも構わない。誰でもいい、ミオを助けてくれ…。

願わくはミオの…、この温もりを摘み取らないで欲しい…。

願わくはミオの…、この命の灯を吹き消さないで欲しい…。

願わくは…。

願わくは…。



君…、死にたもう事なかれ…。





・エピローグ・