世界の敵の敵
細やかな雪がちらちらと舞う。陽光を照り返し、目映く輝きながら。
その一角に、うずたかく積もった雪の丘に立つ人影があった。
黒いバイザーを額にずらし、幻想的な美しさに彩られた晴天の北原を眩しそうに細めた目で見回し、アメリカンショートヘ
アーの青年は顔を綻ばせる。
真っ白な雪中迷彩仕様の防寒装備を纏うその青年は、身の丈170センチ前後。厚手の防寒装備でボディラインが判り辛い
が、しなやかでほっそりした体付きをしていた。
身に纏っている物が常の白い軍服であれば、いかにもしなやかで機敏そうな印象を与える引き締まった体躯のラインがはっ
きり判る。
両太腿には二本のロングダガーが鞘に収まって固定され、腰の後ろには大振りなごついトンファーが斜めに吊されている。
顔立ちにはどことなくあどけなさがあって、少年のような目は何かを探し求めるようにキラキラと輝いていた。
「少尉殿は本当に…、北原に、好かれて…、っく!…おいでなのでしょうなぁ…!」
厚く積もった雪をギュッギュッと続けて踏み締める音に次いで、荒い息に彩られたそんな声が響くと、青年は首を巡らせて
後ろを振り返った。
青年の後を追いかけてきた中年猪は、息を切らせながら丘を登り、彼の後ろに控える。
体格がいい太めの猪は、背丈こそアメリカンショートヘアーとそう変わりないが、体躯の厚みと太さは倍以上。ずんぐりと
していて頑丈そうな体付きであった。
どうやら青年のハイペースに付き合うのは、中年猪には堪えるらしく、肩を上下させて苦しげに喘いでいる。
「はぁ…!ひぃ…!け、健脚でらっしゃいますな…!これでも北の地には慣れとるんですが…、少尉殿の早い事早い事…!」
苦しげな猪に笑いかけ、少尉と呼ばれた青年は口を開く。
「だからミューラー特曹…、これはプライベートな視察なんですから、無理について来なくても良いんですよって、あれほど
言ったのに…」
ヴァイスリッター所属のミューラー特務曹長は、青年に苦笑いされてバツの悪そうな顔をした。
「しかしですなぁ、ここは北原!坊ちゃんのご友人でもある少尉殿をお一人で行かせる訳には…」
「心配性ですねぇ…。ぼく、そんなに頼り無いですか?」
「い、いえそんな事は決してっ!」
慌てた様子で両手を胸の前で広げ、ぶんぶんと首を振ったミューラーは、
「でも、有り難うございます」
青年に微笑みかけられると、つられてだらしなく顔を弛緩させた。
その青年の笑みには不思議な魅力がある。
確かに、顔立ちは整っている上に、少年の幼さが見え隠れし、行き違う女性が目を惹かれるような美男子だが、そんな事で
は説明の付かない、心地良い引力のような物がその笑みにはあった。
だからこそ、誰もがこの青年の笑顔を見たくなる。
ただ楽しげなだけでなく、薄皮一枚捲れた内側に静謐な物が潜んでいるような、魅力的な笑顔を。
それは、多くの者には何なのか理解できず、察する事もできない。
生と死を見つめ続け、喜びと哀しみを噛み締め、過去を抱きながら未来へ歩む青年だからこそ、その笑みに深みがあるのだ
という事までは…。
「しかし…、ああいや、これは文句とかそういうモンでは決してないんですが…」
「何ですか?」
機嫌を損ねないようにと前置きしたミューラーは、青年に促されて先を続けた。
「せっかくの休暇に、何故またわざわざ北原なんかにお越しになったんです?坊ちゃんももうじき休暇に入るそうですから、
屋敷でお待ちして、ご一緒に何処か楽しい所へでもお出かけになった方が良かったのでは…」
「う〜ん…。でもギュンター君と一緒に居ても、たぶん日がな一日魚釣りか訓練に付き合わされるのがおちですよ。遊びに快
楽や刺激を求めるタイプじゃないですからね、彼。ストイックで朴念仁」
気の知れた友人の事をそう評したアメリカンショートヘアーに、猪は「言われてみればそうですな…」と応じつつ猪首を縮
めた。
「しかし、それにしても北原にというのは…」
「ちょっと捜し物をしに来たかったんですよ。最近になって座標がはっきりしたんで…」
青年は猪に応じつつ、また周囲をきょろきょろと見回し、今度は手首に填めた腕時計に視線を落とす。
測位機能はもちろん、野外活動で役立つ様々な機能が盛り込まれたごつい腕時計は、青年の細い腕には重そうに見えた。
その様子を後ろから見守りつつ、ミューラーは汗ばんだ首もとを掴んで襟を正す。
少尉…と呼んではいるが、実はミューラーも青年の正確な所属を知らない。
彼とその所属、及び任務は全て機密扱いとなっており、下士官である彼には何の情報も与えられていないのである。
ただ、正式なリッターでない事だけは確かだと考えている。
この青年は一応ヴァイスリッター所属という事にはなっているが、どの部隊の指揮下にも入っていない。
おまけに、式典に参列する際や公の場でも、軍服や制服を着用はしても士官の印たる剣を帯びる事は無く、何より不帯行為
そのものを咎められもしない。
式典などの際にはヴァイスリッターの最高指揮官である大佐の傍に居るという立ち位置から察するに、彼直属の特務員とも
思えるのだが、それらについて質問する事も、詮索する事も禁じられているので、何年もの間謎は解けていない。
ただ、それが正式な名称なのか、誰かが勝手に呼び始めたのかは判らないが、青年は陰でこう呼ばれている。
ナハトイエーガー、と。
だが、ミューラーは出自も正体も不明なこの青年を、個人的には好ましい人物と評価していた。
階級が下の自分達にも頭ごなしに何かを言う事も無く、むしろ腰が低いほどの接し方をする。おまけに茶目っ気も持ち合わ
せたその人柄は、味方をあちこちに作っていた。
何より、大恩あるエアハルト家の末っ子騎士が気の置けない友人として接しているのだから、ミューラー個人としても忠義
を尽くすに値する相手であった。
「あ、もうちょっと北だ」
唐突に青年が呟いて歩き出したので、ミューラーは慌てて後を追った。
「北に、何かあるので?」
「はい。車が埋まってるはずです。リッター内では未発見扱いの。…ただ、確実でもないからこうして休暇を使って探す気に
なったんですけど…」
「ほう!?何処の車なんですかな!?積み荷は何でしょうな!?」
これはもしや首尾良く見つけられればお宝入手か?と、鼻息を荒くしたミューラーは、
「所属は判りません。あ、価値がありそうな積み荷とかは無いですよ?ほとんど空っぽです」
青年のそんな言葉で、プシューッと元気無く鼻息を漏らして萎む。
「あ!あそこだ!」
唐突に叫んだ青年は、ミューラーが顔を上げた時には飛ぶように丘を駆け下り始めていた。
「お、お待ち下さい少尉殿!走っては危な…のわぁーっ!」
慌てて追いかけつつ注意を呼びかけた猪は、雪に足を取られて転び、坂をゴロゴロと転がり落ちて行った。
青年を追いかける格好で転がり続けた猪は、丘を下った場所にある雪の柱の前で青年が足を止めると、その横を転がって抜
け、ドシィンと柱に激しく衝突した。
柱に付着していた雪がばさばさと落ちて完全に埋没した猪は、雪をかき分け「ぶはーっ!」と顔を出す。
その目に、何かを見つめている青年の顔が映った。
視線を追って太い首を巡らせた猪は、自分がぶつかった所の雪が剥げ落ち、金属製の扉のような物が見えている事に気付く。
雪が剥がれ落ちた柱の根元には、凍り浸けになった雪上車が埋まっていた。
「…あった…。有り難うございますミューラー特曹。お怪我は?」
「ああいえ、何のこれしき…」
雪から這い出たミューラーは、青年がトンファーを抜く様子をちらっと一瞥してから、付着した雪を払い落とす。
程なく、ガギンッと硬い音が響いたかと思えば、青年はトンファーを腰の後ろに戻していた。
ミューラーは目を離していたので何をしたのか判らなかったが、分厚い氷が砕けてばらばらと落下し、金属扉は数年ぶりに
大気に触れる。
(今、何をなさったんだ?まったくもって底が知れんなぁ、この少尉殿は…)
猪は首を傾げる。青年が戦闘をおこなう場面は、これまで一度しか見ていない。それも、白騎士総司令官たる大佐を狙った
暗殺未遂事件での事だった。
二年前のその光景は、今でもミューラーの目に焼き付いている。
視察中に奇襲をかけられた大佐の傍に付き従っていたこの青年は、たったひとりで七名の襲撃者を返り討ちにした。
護衛が他に居なかった訳ではない。むしろ警護は万全と言えた。暗殺が成功する可能性すら極めてゼロに近かった。
だが、青年はたったひとりで応戦し、他の者は抜剣しただけで戦闘には加わらなかった。否、より正確に表現するならば、
「加われなかった」のだ。
何故ならば、護衛が剣を抜いたその時には、七名の襲撃者はひとり残らず地に伏すか、緊縛された状態になっていたからで
ある。
少し離れた位置にいたミューラーには全景が見えていたが、青年が何をしたのかは全く判らなかった。いつの間にか大佐の
傍から消えていて、気付けば襲撃者がいずれも倒れ、内ひとりをワイヤーロープで縛り上げていたのである。
頭部を強打されたらしい者、太腿を刺された者、アキレス腱を断たれた者、確かに血は流れたが、いずれも命に関わるよう
な傷ではない。虜囚確保100パーセントの実に鮮やかな返り討ちであった。
密集陣形の内側からいかにして外へ出たのか、いかにして離れた位置に居た複数名を制圧したのか、全てが白日の下で行わ
れながら全く判らない。
ただ一つ判ったのは、この華奢な青年が、十数名からなる護衛団以上の戦力を単身で有しているという事だけ…。
束の間の回想に浸る猪をよそに、無言でハッチに手を掛けた青年は、ぐっと力を込めて隙間を空け、中の様子を窺った。
「何があるんです?」
「ほぼ空っぽです。空の木箱ぐらいしか…」
応じた青年はハッチの隙間にするりと入り込む。
慌てて続こうとしたミューラーは、しかし無理矢理胸まで入れたものの、腹がつかえて入れない。氷が挟まっているのか、
ハッチはそれ以上ビクともしなかった。
「しょ、少尉殿!?大丈夫ですか!?」
「平気です。何もないし、何も居ないですから」
応じた青年はポケットから光を放つクリスタルを取り出し、宙に浮かべた。
ライトクリスタルの抑えられた光量が、何年も放置されていた車内を照らし出す。
しばし無言で室内を見回していた青年は、懐かしげに目を細め、屈み込んだ。
そして、凍てついた床に手袋を填めた右手をひたっと触れさせ、目を閉じる。
もう六年以上も前になる一夜の事が、昨日の事のように思い出された。
やがて目を開けた青年は、立ち上がって木箱の間を見て回る。そして、
「ああ…。やっぱりここに忘れていたんだ…」
小さく呟きながら屈むと、凍って床に張り付いた、ナイフや栓抜き、缶切りを兼ねるツールに手を掛けた。
ダガーを抜いて柄でカツカツと叩くと、程なくツールは取れた。
それを両手で包み込むように持ち、胸に抱いて、青年は目を閉じる。
かつて彼は、これで命を絶とうとした事があった。
仕方がなかったとはいえ、初めて他者を殺め、良心の呵責に耐えかねた際に。
「…生きますよ…。もう死にたいなんて絶対に思わない…。精一杯…、生きますよ…」
呟いた青年の閉じられた目から、涙が伝い落ちて頬を濡らす。
しかし、青年はすぐに手袋の甲で涙を拭うと、踵を返した。
車内に入れず、やきもきしながら待っていた心配性の猪は、青年が出てくるとほっと胸をなで下ろす。
「…ん?どうか…なさいましたか?少尉殿…」
一瞬だけ、青年が泣いていたように見えて猪は戸惑った。だが、
「いいえ、何も!」
アメリカンショートヘアーが明るく笑うと、気のせいだろうと納得してしまう。
「さあ、用事は済みましたから帰りましょうか。この座標、探索班に転送できますか?何もないけど情報は情報だし」
「合点です。少々お待ちを…」
背中のザックから通信機器一式を取り出したミューラーは、すぐさまランプが灯ったのを見て取り「おや?入電ですな」と
首を捻った。
「こちらミューラー。こちらミューラー。通信状況オールグリーン。どうぞ?」
『ミューラー、そこにミオは居るか?』
通信可能であることを告げた猪は、耳に押し当てたヘッドホンから聴き馴染みのある声が響くと、さらに首を捻った。
「どうしたんです坊ちゃん?わざわざ通信で…」
『仕方ないだろう?オスロから国際電話をかけて、リッターの北原基地局中継で通信繋げて貰っているんだから。…何だって
休暇なのに北原なんかに居るんだよ、まったく…』
アメリカンショートヘアーが「ギュンター君?」と訊ねると、ミューラーは「ですな」と頷いた。
「ご一緒しておりますので、かわります」
青年は猪からヘッドホンを受け取って填めると、小声で何やら言い交わした後、
「了解。大佐にはぼくから連絡を入れておくよ。それじゃあ、また」
と、友人と雑談を挟む事もせず、あっさりと通信を終えてしまう。
「何です?」
「う〜ん、何て言うか…。休暇取り消しになっちゃいました」
訊ねた猪は、青年…ミオがペロッと舌を出して苦笑いすると、口をぽかんと開けて絶句した。
「な…!え…!?きょ、今日来たばかりで!?」
「仕方ないですよー。急いで当たらなくちゃいけない案件が出ちゃったんで」
「そ、それにしても急過ぎ…」
気遣うようなミューラーの視線に気付いたミオは、「ぼくは大丈夫ですから」と笑顔を見せる。
そして、少し考えた後に「…そうだ…」と呟いた。
「これも急ですが、ミューラー特務曹長。辞令通達です」
「は?」
突然話を変えられてきょとんとした猪に、ミオは続ける。
「今日付けで貴方の現所属を解消、「こちら」に転属して貰います。…これまで行使した事はなかったけど、確かぼくの権限
で所属の現場処理もできるはずだから、大丈夫でしょう」
「は?へ?」
驚きながら口をパクパクさせ、自分の顔を指し示した猪に、ミオは真顔で頷いた。
「これは大佐が提案してくれた事です。本来は次の任務にあわせて正式に辞令が届く予定でしたけど…、もう任務来ちゃった
し、済みませんけどしばらく付き合って下さい」
話について行けない猪には構わず、ミオは顎に手を当てて目を細めた。
「オスロに保管されていた古種危険性物が国外に持ち出されたらしいんです。モノがモノだけに目立つ動きは取れないし、ぼ
くが適任だろう、って…。特級の危険度だから、確保が無理なら処分して良いっていう話でした。おまけに、流出経路に二三
おかしな点があるとかで…、もしかすると「連中」が絡んでいる可能性も…」
「ちょちょちょちょっと待って下さい少尉殿!?そ、それは冗談ではなく本当に…?」
「です」
ミオはこくりと頷き、苦笑いした。
「ぼくは任務の性質上単独行動が多いんですけど、通信やら情報収集やらまで一手でやるのはなかなか大変で、サポートが受
けられない状況だと結構苦労してたんですよ。お兄さ…じゃない、大佐はその辺りを心配して下さっていたらしくて、ミュー
ラー特曹ならサポートとバックアップには適任だろう、って」
混乱している猪に、ミオは手を合わせて拝むような仕草を見せた。
「という訳で…、どうぞよろしく!なるべく急いで荷物纏めて下さいね?」
「は、はぁ…」
ミューラーは曖昧に頷いたが、ミオが手を差し出すと、戸惑いながらも握手に応じた。
「しかし…、何から何まで急ですなぁ…」
猪が顔を顰める。急に抜擢を告げられても現実味が無い。
「少尉殿も、ろくに休暇も楽しめないで…」
「仕方ないですよそれは」
「おまけに危険度の高い物を通信一つで追えなどと…」
「仕方ないですよそれも」
くり返したミオは、微笑みながら悪戯っぽくウインクした。
「だってぼくは、「世界の敵の敵」なんですからっ!」