ブラックアウト(後編)

 グリスミルは船内通路を駆けていた。

 傷だらけの顔面を片手で押さえ、一本だけになった剣をぶら下げ、強張った顔で。

 敗走。屈辱的な二文字が脳裏を過ぎるが、どうしようもなかった。

 そう、どうしようもない。手に負えない。エインフェリアが、中枢に仕える直属の部下、エージェントの地位まで上り詰め

た自分が、あの量産型に勝てない。

「ぐ…、ぐぐ…!ぐぐぐぐぐぅ…!」

 押し殺した唸りが口から漏れる。恥辱もいい所だったが、足を止める事はできない。

「シアアアアアアッ!」

 擦過音のような怒声を発しながら、ミオが追走する。

 足止めに入る兵達を、まるで突風が葦を薙ぐように蹴散らして。

 手加減がほとんどされていないので、トンファーで頭を割られる者、抜き手で眼球を抉り出される者、胸を蹴り潰される者、

被害者は一瞬で重態に追い込まれた。

 それでもミオは残った理性で自戒し、過剰な追撃を行なわない。あくまでも目標はグリスミル。生き残った足止めの兵にい

ちいちとどめをさしてはいない。

 グリスミルは、裂けた舌のおかげで滑舌の悪い、しかも悲鳴に近い声を上げて足止めを命じながら逃げ続け、そのままミオ

との距離を少しずつ離し、通信室に飛び込んだ。

「グリスミル様!?」

 驚いている通信兵を苛立ち紛れの八つ当たりで殴り倒し、昏倒させると、ハスキーはコンソールパネルに指を走らせた。

 そうして発された信号は二つ。援軍を呼ぶための救難信号と…。

 ドアの外で悲鳴が響き、次いでドアが蹴り開けられる。

 現れたミオは、勝ち誇るグリスミルと向き合って背筋を伸ばした。

 呼吸は荒く、全身を激痛が苛む。

 オーバードライブは効果が切れかかっている。臨界突破が近いと判断したミオが、獣性に飲み込まれる前に押さえつけに入っ

たので。

「お前の負けだ、ナハトイェーガー…!」

 舌が割れて聞き取り辛い声で、得意げに勝利宣言を行なうグリスミル。

「たった今救援要請を送った!沖で待機していた護衛艦がすぐにも飛んで来るぞ!」

「…それで?」

 ミオの静かな声に、グリスミルは一瞬呆気に取られた。

「まさか、「援軍が来るまで自分が生きてられる」なんて思ってませんよね?貴方」

 確認を取る、冷徹な声。

「護衛艦が来るまで待つ義理なんて、ぼくにはないですよ。目的を果たして引き上げるだけです」

 ゾクリと寒気を覚えて身震いするグリスミル。だがもう一つ、脅かしてやれるだけの事をしたのだと思い返し、再び声を大

きくした。

「積んでいたサラマンダーを解き放った!これでこの船は沈む!」

 ミオは片眉を少し上げたが、それだけだった。

「好都合です。船が大破してくれるなら助かります」

 グリスミルは鼻白む。ミオにしてみれば、奪還できない時は処分しろと言われているので、容器に入っていようといまいと

構わない。

 気掛かりなのは傍に居るはずのミューラーだが、危なくなったら避難するはずだと考えた。その程度で簡単に死ぬ男ではな

いと、猪の事は腕も含めて信用している。

「任務の放棄に救援要請。とんだ失態ですね。この上自分は脱出できると考えているのが、不憫です」

 オーバードライブの影響下から完全には抜け出ていないミオの舌鋒は、鋭く、冷たく、容赦がない。

「こ、小僧…!小僧っ!俺を誰だと思っている!ラグナロクだぞ!?黄昏を敵に回してただで済むと…」

「お忘れですか?ぼくは既に、ラグナロクのブラックリストに敵性存在として名を連ねられてるんですよ?」

 グリスミルの声を遮り、淡々と述べる青年。そこには恐れも、萎縮もない。

 夜は、黄昏を追うようにやってきて、塗り替える。

 ナハトイェーガー(夜の狩人)とはつまり、黄昏に終わりをもたらす者として付けられた呼称。

 殺処分されそうになってラグナロクを抜け、さらにはラグナロクと敵対する為に立ち上げられた機関に属しているミオに、

黄昏に目を付けられるなどという脅しが通用するはずもない。

「それに、お互いの所属も背景も、今この場でぼくと貴方の力関係を左右する要素にはなりません」

 すぐには言い返せないグリスミルだったが、船がズズンと揺れ、ミオがハッと耳を立てると、口の端を僅かに上げた。



「ワシ…、何もしちゃあいませんぞ少尉…」

 いい訳めいた独り言を漏らしながら、ミューラーは数歩後ずさった。

 筒状の容器の外側が上へスライドし、三重になった防壁が展開し、サラマンダーがその姿を見せる。

 それは、その場で細長く立ち、何もないのに燃えている、柱のような炎に見えた。

 ライターや蝋燭の火を連想させるそれは、外気を得て歓喜しているように赤からオレンジ、黄色、青と、鮮やかに目まぐる

しく色を変えつつ、生きているようにくねる。

 いや、実際それは生きていた。

 炎の上部がぐねっと曲がり、ミューラーの方を向いたと思った途端に、トカゲのような、しかし角を供えた何かの顔が出現

した。

 それこそが火竜サラマンダー。伝説上の生物。

「捕まえるか、処分しろと言われとるが…」

 捕縛は無理。どうすれば殺せるのかも分からない。パンツァーシュレックで吹き飛ばせば、炎が掻き消えて絶命するかもし

れないとも思うが、生憎と隣の部屋に置いてきてしまった。

 猪がチラリとそちらを見遣った次の瞬間、サアマンダーはその身を炎の帯に変えて素早く移動した。

「む!?」

 壁にあいた穴へ飛翔し、するりと向こうに消えた。

「しまった!パンツァーシュレックが!」

 効果的と思われる唯一の武器を失っては事だ。ミューラーは痛む体を叱咤して駆け戻ったが…。

「…これは…、一体…?」

 猪は穴の手前で立ち竦んだ。

 パンツァーシュレックはそのまま床に転がっている。サラマンダーの姿は無い。だが、異様な光景である事は確かだった。

「お前…!」

 既に事切れたはずの、背中を大きく裂かれた猫が、ゆらりと身を起こして立ち上がっている。

 その双眸から、薄く開いた口から、背中にパックリ開いた傷口から、燃え盛る炎のようなオレンジの光が漏れていた。

 取り付いた。ミューラーはそう直感した。

 命の灯火が消えて空っぽになった猫の死体を、サラマンダーは仮初の容れ物にした。

 パンツァーシュレックとの間合いを計るミューラー。

 駆け込んで拾い上げ、砲撃する。その動作の内にサラマンダーが何をするか、何ができるか、慎重に吟味する。

 しかしサラマンダーはそのオレンジの目で猪を一瞥すると、それ以上興味も示さずに視線を外し、天井を見上げる。

 その双眸が輝き、熱線が放射されて天井をチュインッ…と射抜いた。

 そして熱線は天井をくり抜き、船の深部から甲板まで直線の穴を空け、船体を大きく揺さぶった。

「逃げる気か!?」

 駆け込んでパンツァーシュレックを担ぎ上げ、弾を込めようとポーチに手を突っ込むミューラー。

 しかし、背の傷から焔を片翼のように伸ばして浮き上がり、周囲が溶解している熱い穴へと上昇、侵入したサラマンダーは、

射線から消えてしまう。

 下から穴の中に撃ちこむという手も考えたが、熱線であけられて周囲の金属が溶けているような穴の中を、ロケット弾がま

ともに飛翔するとは思えない。下手をすればろくに進まず熱で爆発してしまう。

「ぬぅ…!」

 歯噛みした猪は、そこでハッとなり、弾薬ケースの入ったポーチを見下ろし、中に突っ込んだ手を蠢かせた。

 心なしかポーチが軽くなっている。いや、それどころか…。

「弾が…減っとる!?」



「サラマンダーが暴れ出したようだな…」

 船内に鳴り響くブザーと、目を揺らす回転灯の光。

 グリスミルはニタリと笑い、思わず振り向いたミオが目を離したその一瞬で、傍にあった緊急脱出用のボタンを、上にかぶ

せられた透明なフードを叩き割りながら押した。

 直後、ハスキーの立っていた床が傾き、滑り台のようになって外へ繋がる穴に変化する。

 迷わずそこへ飛び込んだグリスミルは、閉じる床の隙間からミオに侮蔑の笑みを向けた。

「次に会った時こそ、決着を付けよう…」

 自分は負けていないというスタンスを保つための、精一杯の虚勢。

 ミオは閉じた床を叩いて調べたが、再度ボタンを押しても開かない。通路内から誰かが抜け出るまでは、危険防止のために

扉の開閉が自動で行われる、やや古い造りになっていた。

(でも、出る先は甲板のはず…)

 ミオは部屋を見回して方角を確認し、壁の一角めがけてトンファーの「銃口」を固定した。



「ありゃー…?」

 船から距離を置いていたヒキガエルは、夜空へ駆け抜けた一条の閃光が、そのまま円を描くように回る様を目撃して、目の

上で庇を作る。

「なーんかあったなー…。だいじょーぶかなー…」

 しばし考えたラドは、やがてボートを移動させ始めた。

 ミオには脱出時に呼ぶと言われていたが、状況が変化しているので。

 ナハトイェーガーのメンバーは、少数かつ相手が相手なので高度な柔軟性を要求される。無論、適切な対応と成果も併せて。

 若輩ながらも特殊な事情でスカウトされたラドも例外ではなく、ミオの親友である若い騎士の厳しい訓練と指導により、第

一線で活躍できるだけの行動力を身に着けている。

 迎えに入る絶好のタイミングを計るべく、適切な、しかし発見されないような距離と位置に独断でボートを移すラド。

 ただしそれは、きちんと計算と予想に裏打ちされた行動である。

(混乱してるだろーしー、予定より距離詰められるねー)

 そして…。

(少尉喜んでくれるかなー?褒めてくれるかなー?えっへっへっへっへ…)

 別の物に裏打ちされた行動でもあった…。

 静かに船へ近付いてゆくラド。しかし「ん?」と声を漏らすと、タップリした首肉にフィットしているチョーカーに触れて、

通信に応答する。

『軍曹。状況はどうかね?』

「進行中です少佐ー。ただー、サラマンダー、出ちゃったみたいですよー」

『そうか』

 短く応じた通信相手は、ラドから現在の行動について「行き当たりばったりに進めますー」と説明されると、

『それは行き当たりばったりとは言えない。成果を顧みない場当たり的な行動でなければそうは表現しないものだ。事前準備

と自分の技量を併せて柔軟に対応し、成果をあげる君の手際は、むしろ臨機応変と表現すべきだろう』

 と、すらすら述べてラドを「えーへーへー!」と喜ばせた。さらに…。

『事実これまでも君は、自己の判断に基づく行動で出来得る限りの効果を挙げている。それでいて命令には反した事がない。

文脈の穴を突いたり、命じられたのではなく頼まれただけ、という屁理屈をこねて独断行動に出ている』

 そう続けて今度は「あーはーはー…」と恐縮させる。

『恥じる必要も今後改める必要もない。屁理屈も理屈、だ』

 注意されているようで褒められている。微妙な半笑いを浮かべたラドに、

『それと、こちらからも報告がある。二十七分前に、沖合で停泊していたラグナロクの護衛艦を確認した』

 少佐は重大な事をさらりと告げて驚かせ、『その艦だが…』と、さらに追加の情報を与えて、ますます驚かせた。



 脱出用のシューターを滑り降り、救命ボートまで一直線に伸びるロープについたハンドルを握ったグリスミルは、潮風を受

けて目を細めながら、妙な光源に視線を向ける。

 サラマンダーが起こした火災がデッキ近辺にまで達したのか?と一瞬考えたのだが…。

「何だ…あれは…!?」

 焔を纏って浮遊するミオに似たアメリカンショートヘアーの姿を目撃し、グリスミルは唸る。

 サラマンダーが自分の部下の死体に取りついた事など、現場を目にした訳でもなく、そんな能力がある事すら知らなかった

グリスミルには想像もできない。

 その困惑と疑問に一時動きを止められたグリスミルだったが、しかし自分が生き残る事が最優先だと、ハンドルをしっかり

掴んでロープにぶら下がり、傾斜の先にあるボートへ滑走する。

 眼下で大騒ぎする乗組員達の事すらどうでもいい。ラグナロク兵も、下請けの組織の構成員も大事ではない。

 大事なのは、自分が生き延びる事。

 シュルルルッとワイヤーを伝ったグリスミルは、ワイヤーを離してボートに着地する。

 そして脱出用のコンソールに触れてウィンチを作動させ、船の縁の外へと吊り出させた。

 そのまま外へ下ろされて着水した後は、先程救援を求めた護衛艦が到着し次第拾って貰えば良い。

 とりあえずは増援と合流し、へばってきた猫を始末…あるいは生け捕りにして…。

 などという皮算用が中断されたのは、ボートがゆらりと、不自然に揺らめいたせいだった。

 振り向くハスキー。その瞳に映り込んだのは、ボートの縁に着地し、深く身を沈めているアメリカンショートヘアー。

「小僧っ!?何故ここ…」

「ふっ!」

 言い終えるのも待たず、縁を蹴って詰め寄ったミオがトンファーを薙ぐ。

 顎先を掠めるように狙ったその先端をかろうじてかわしたグリスミルだったが、いかんせん後退しようにも後が無い。

 逃げる為に至った場所で、逃げ場を失うこの皮肉。

 ウィンチで宙に吊られたボート内という狭い足場内で、最後の力を振り絞って攻勢に出るミオを、ハスキーは押し留められ

ない。

 横殴り、伏せる。蹴り上げ、かわす。打ち込み、弾く。同時に、受けた剣が音高く跳ね飛び、暗い海面に吸い込まれてゆく。

 余力はグリスミルの方が大きい。ミオは重傷を負って疲労困憊の体を、半ば精神力で動かしているだけ。

 しのぎ切れば逃げられる。そんな、後退ばかり考えて後ろを気にするグリスミルは、

(そうだ…!)

 ある作戦を思い付いた。

 猛攻に次ぐ猛攻。グリスミルは後退しての回避ができない船縁を背にし、後がなくなる。

 そこで、ハスキーは低く跳躍した。足払いをかわすようにして。

 反射的にそこへ射抜くような蹴りを見舞うミオ。

 しかしそれを、グリスミルは両腕を交差させ、あえて体の芯で受ける。

 ハスキーの体が浮き上がり、飛ぶ。ボートの外へ。夜の海へ。

(かかったな小僧!)

 この場から逃げられさえすればそれでいい。無理をしているがミオは重傷。遠泳になればついて来れない。

 蹴り飛ばされて宙を舞いながら、失策だったな、と嘲り笑うグリスミル。だが…。

「ていっ!」

 ボート上のミオが右腕を横へ伸ばし、それからぐんっと勢いをつけて振るう。

 何かを投擲されたと考えたハスキーは、一本になった剣でガードしようと正面で水平に寝かせ、飛翔物を見極めようとした

が…。

「ぐふっ!?」

 衝撃は、横手から襲ってきた。

 ノンオブザーブで屈折補正をかけながらミオが振るったのは、袖下に仕込まれたワイヤーロープ。それが横合いからスイン

グされる形でハスキーに巻き付き、自由を封じた。

(ふん!腕を封じられようと問題ない!脚だけで泳ぐことは十分可能。離れてからゆっくり解いても…)

 そんな事を考えたグリスミルの目が、ロープを射出する形で切り離したミオの手元を確認して見開かれた。

 ワイヤーロープの尻には、先程部屋を闇で満たした際に確保しておいた、パンツァーシュレック用の炸裂型とナパーム型の

ロケット弾それぞれ二発ずつと、起爆用の手榴弾一発が、金属クリップで止められていた。

 それが慣性でグリスミルを中心に回り、巻き付いて接近して来る。

「そ、そんな!そんな!来るなぁあああああああああああああっ!」

 放物線を描いて船から遠ざかり、防ごうにも手が出せない爆薬の接近を為すすべなく見つめ、悲鳴を上げながら海面へ落下

してゆくハスキー。

「グーテナハト…」(お休みなさい)

 ミオが呟く。くるりとグリスミルに背を向けて。

 それは、黄昏が終わり、夜が訪れた事を告げる言葉。

 皮肉にもハスキー自身が言った通り、「次に会った」今が、間をおかず決着の時となった。

 直後、夜の海面に、ドォンと腹の底に響く重々しい音を立てて、紅蓮の炎に彩られた巨大な水柱が高々と上がる。

 ラグナロクのエージェント、グリスミルは木端微塵に砕け散り、痕跡も残さず海の藻屑と消えた。

「…サラマンダーは…」

 先程目にした自分そっくりな猫の姿を求めて、ミオは視線を彷徨わせる。

 だが、何処かへ隠れたのか、それとも飛び去ったのか、忽然と消えてしまい見つからない。

 そうこうしている間にも、火災が発生した船の甲板には乗組員が押し掛け、脱出用のボートに群がりはじめている。

「潮時、か…」

 ため息をついたミオは、チョーカーに触れてまずミューラーへ通信を送り…。



「おかえりなさーい」

「戻りました」

「ふぅーっ!」

 迎えに来たラドのボートへワイヤーで降下し、即座に船を離れるその上で、ミオは燃える船を振り返る。一方ミューラーは

疲労困憊といった様子でドッカと腰を下ろし、ため息をついた。

 脱出するミオ達に気付いた者が船上で何人か声を上げるが、もはや追う余裕も無い。

「救助要請…してあげたい所だけど…」

 逃げようとしている乗組員達を眺めながら、ミオは考え込むように耳を寝せた。

「援軍を呼んだって言ってたもんな…。下手に呼べば危険に晒しちゃう…」

「はっ!?」

 そんな話は聞いていない。ギョッとしたミューラーが声を上げたが、ラドは「あー、援軍ですー?」と、いつもと変わらな

い様子。

「ええ。沖合に待機していたラグナロクの護衛艦を呼んだって…」

「あー、それ来ませんよー」

 猪と猫は、あっさりきっぱり言い切ったヒキガエルを見つめる。

「さっき少佐からー、ふたりは潜入中だろうからってー、こっちに状況確認の通信が入りましてー。こっちに来る途中でー、

護衛艦拿捕したそうですー」

「うわぁ…。相変わらずめちゃくちゃだぁ…」

 苦笑いするミオ。「だ、拿捕…?」と、聞いた言葉が脳で理解できないミューラー。

「その少佐がー、もうすぐ近くまで来ますからー、救助もしてくれますよー」

「そうですか…。じゃあ、離脱した事と、サラマンダー逃がした事だけ先に報告しておかないと…」

 ミオは任務を完了できなかった事で少しばかり気落ちしながら、チョーカーに指を伸ばし…。

「ラド軍曹」

「はいー?」

「スムーズな回収、助かりました。状況を読んでの英断に感謝してます」

 そう笑顔で告げてヒキガエルを「えーへーへー!」と舞い上がらせ、通信を開始した。

 何やらクネクネしているヒキガエルを敵愾心が微かに混じった目でミューラーが睨む、ややおかしな空気が流れているボー

ト上で、ミオは上官に報告する。

 エージェントを始末した事、サラマンダーを逃がしてしまった事、そして敵船の状況を告げて指示を仰ぎ、口を閉ざしてあ

ちらの言葉に耳を傾けたミオは、

「どうでした?」

 通信を終えるなりミューラーに問われて「ぼくらは陸に戻って良いそうです」と、楽な姿勢になりながら答えた。

「後始末は少佐と、ロンドンから乗せて来てくれた英国の王室特別防衛隊が行なうそうです」

「ほ?ワシらは休んで良いんですか?…と言うか、上官殿は肝が太い御仁ですなぁ。乗せて来てくれた英国の兵と…つまり借

り物の兵と一緒に、ラグナロクの護衛艦とやり合うなど…」

 一体どんな男なのだろうか、とうんうん唸りながら考えるミューラーに、

「肝が太いのは確かにそうですけど、借りた兵隊さん達は使いませんよ?あのひと」

 と、ミオがさらりと言う。

「は?」

「たぶん今夜もー、単身で制圧ー、拿捕してますねー」

 のんびり言うラドに、「そうですね」とミオも頷く。

「は?え?単身?」

「ひとりでもー、連隊と喧嘩できるんですよー、少佐はー」

「少佐はナハトイェーガーの指揮官であると同時に、メンバー中最大の火力を誇る、戦力の要でもあるんです。US級(ユニ

バーサルステージクラス)の能力者なんですよ」

 一体どんな男なのだろうか、とまたうんうん唸りながら考えるミューラー。

「はぁ…。流石にちょっと疲れちゃったな…。帰ったら命令通りに、まず休もう…」

 そう漏らしたミオの顔を見遣り、ミューラーは違和感を覚える。

 先ほどまで任務完遂にならなかった事を気にしていたはずが、今のミオは晴れ晴れとした顔になっていた。

「少尉、今の通信で…」

「なーんかー、言われましたー?」

 問いかけたミューラーに、気配を察したラドも乗る。

 ミオはきょとんとしてから、少し恥ずかしそうに耳を寝せて、はにかみ笑いを見せた。

「「良くやってくれた」って、少佐が褒めてくれました。任務は終わらせられなかったのに…!」

 それを聞いたミューラーとラドは、

「少尉は…」

「もてますからねー…」

 と小声で呟く。

 内容を聞き取れなかったミオが「え?何ですか?」ときき返したが、

『何でもありません』

 水平線が白み始めて夜が終わろうとする中で、ミューラーとラドは口を揃えて誤魔化した。



 そして日は昇り、九時間ほど時が経ち…。

 コペンハーゲン発、ドイツのハンブルク行きの越境列車内で、アメリカンショートヘアーの青年は駅で入手したパンフレッ

トを読み耽っていた。

 激戦から一夜明けた正午。本国領内へ引き上げるよう命を受けたミオとミューラーは、後始末を仰せつかって一日残留が決

定したラドが、胸の内で悔しがりながら手配した電車のチケット類を手に、ハンブルクを目指している。

 列車の旅は約五時間。だが、今回は少し風変わり。

 尻尾を立てて揺らめかせる猫は、今か今かとその瞬間を待ちわび、隣に座る猪はそんな連れの様子をホンワカしながら見守っ

ている。

 やがて列車は速度を落とし始め、ミオはピンと尻尾を立てた。

 減速した列車の行く先には遥か彼方まで広がる海と、巨大クレーンが立ち並び、無数の船がつけられた港。そして…、

「うわー!大きい…!」

 これから乗り込む事になる、巨大なフェリーの威容が見えた。

 だが、ミオの興味はフェリーの巨大さもそうだが、別の事にも向いている。

「船内に入りますぞ」

「はいっ!」

 ミューラーの声に頷いたミオは、窓にべったり張り付いて前方を眺めた。

 さらに減速した列車は、フェリーの乗り込み口へゆっくり、ゆっくり入って行く。

 ホームに進入するように、船の中の広大な空間へその身を乗り入れる列車。

「うーわーっ…!うっわぁ〜っ!凄いなぁーっ!」

 国境を超えるこのルートは風変わりで、列車が丸ごとフェリーに収容され、海を渡る。

 話には聞いていたが、ミオには初体験。興奮ぎみで窓の外を見つめている。

 やがて列車が完全に止まったその時には、窓の外にはフェリーの内壁しか見えなくなっていた。

「一時間近くかかります。降りて船内を見て回りますかな?」

「はい!」

 喜び勇んで返事をしたミオだったが…。



 すぅすぅと穏やかな寝息を漏らし、ベンチに座って寝入っている青年の顔を、フランクフルトを買って戻って来た猪が困り

顔で見つめる。

 デッキに上がって風景を見て、レストランや免税店まである小さな町のような船内をうろつき回ったミオは、二十分も経た

ない内に疲れて眠ってしまった。

 鎮痛剤を飲み、怪我をおしての移動である。寝不足な上に疲労も溜まっている。

 列車での移動は少佐の指示。

 なぜ飛行機などの足を手配してくれなかったのかと、途中まで疑問に思っていたミューラーだったが、列車ごと運ばれるフェ

リーにミオが興奮していた事で、この移動手段を利用するように指示された理由に気が付いた。

 携帯が鳴り、ミューラーは二本のフランクフルトを片手に纏めて持ち替え、ポケットに手を入れる。

『任務ご苦労。移動はどうかね特曹?』

「はっ。ただ今フェリー上。順調です」

 姿の見えない通話相手に対し、背筋を伸ばして応じるミューラー。起こしてしまわないようにミオから少し離れ、壁際に寄

る猪の耳に、『結構』と少佐の声が入り込む。

 落ち着き払った、低くも優雅さが感じられる声と、典雅な発音。聞いていると安心する、そんな声だった。

 しかしここでミューラーは疑問を感じた。何故ミオではなく自分に電話をしてきたのか、と…。

『ミオは、眠っているかな?』

「え?あ…」

 居眠りしているなどと知られたら青年が叱られるのではないかと考え、返事に詰まったミューラーだったが、

『彼は華奢な分、限界運動のフィードバックが大きく、無理をした後はじっくり休養を取らなければならない。働き者過ぎる

きらいがあるので、休まなければならない間の補佐もよろしく頼む』

 ミオの事を頼むその声は、親身になっている事が感じられる物だった。命令ではなく「頼む」と言われた事で、ミューラー

は少佐に少しばかり親近感を覚える。

 皆、ミオが好きなのだ。だから命令ではなく、頼んでしまう。

「おまかせを!」

 ドンと力強く胸を叩き、グリスミルに散々蹴られた腹や胸が痛んで屈み込み、息を止めたミューラーの耳に『特曹、どうし

たのかね?』と少佐の訝しげな声が届いた。

「い、いえ!喉に唾が入ってむせそうになっただけで…、失礼を…!」

 誤魔化したミューラーに、『そうだ、特曹』と少佐は思い出したように続ける。

『道中疲れて眠っている事で、様々な物を見逃したと、ミオが残念がるかもしれないが…。そんな時は、こう言ってやってく

れたまえ』

「は、はい…?」

『「次がある」と。道中休めたならば、今回はそれで良しとして貰おう』

 ミューラーは微苦笑し、「心得ました」と答える。

 無茶な任務に赴かせたかと思えば、気遣う様子はひどく優しい。強い信頼と親しみ、そして期待をミオに抱いている事が、

少佐が見せた数少ない振る舞いと言葉から窺えた。

 そんなやりとりがあった事も知らず、ミオは夢の中に居る。

 穏やかに微笑むその寝顔で、どんな夢を見ているのか…。

「………ん…」

 口元が僅かに動き、誰かの名を呼んだ青年の声は、しかし誰にも聞こえていない。

 そしてその夢の中身もまた、誰も覗い知る事はできない。

 通話を終えたミューラーは、二本のフランクフルトを眺めてどうしたものかと眉根を寄せながら、ミオの隣にそっと腰を下

ろした。そこで…、

 

―…ま、今回は邪魔しないで夢を見させてあげようかしら―

 

 どこからか女性の囁き声と含み笑いが聞こえたような気がして、ミューラーは周囲を見回す。

 だが、ベンチに覗く小さなステンレス製のネジの頭に色白の女性の像が映り込み、微笑んでから消える様にはついに気が付

かず、軽く頭を振って、

「ワシも疲れとるのか…」

 とひとりごち、冷めはじめたフランクフルトにかぶりついた。


・エピローグ・