樹海の潮騒(後編)
抱き合ったまま寝返りを打って横臥する格好になり、二人は執拗に口を吸いあう。
傍に居ながら想いを通い合わせる事ができなかった今までを、強引に埋めようとしているように、深く、長く…。
やがてヒコザは、口付けを交わしたままトライチの作務衣に手をかけ、脇の紐を解いて前をはだけさせると、下穿きにも手
をかけてずり下ろした。
合わせた口の隙間から息が漏れて唇を鳴らし、ヒコザの荒々しい鼻息が顔にかかってこそばゆいが、羞恥に耐えて脱がされ
るがままになるトライチ。
力ずくで荒々しく、野性的な所作で衣類を剥ぎ、褌一枚になるまで剥いたトライチを草の上に寝せたまま、口を離して身を
起こしたヒコザは、膝立ちになって上から見下ろす。
トライチを跨いで両脇に膝をつく格好のヒコザ。その視線からは、どちらへ寝返りを打っても逃げられない。ただ裸を見ら
れるのとは違う。「そういった行為」を前に鑑賞されるその羞恥は、期待は、動揺は、少年の被毛の下に汗を滲ませた。
堪えようとしたトライチだったが、しかし視線を逸らしてしまう。
一方ヒコザは、キジトラ猫の薄い胸板や括れた腹部、腰骨の位置がはっきり判る腰から太ももに繋がる線を、細い首を、頼
りない肩を、まじまじと時間をかけて見つめている。
六尺褌の前袋は、その下で硬くなった男根に押し上げられ、山を作っていた。
ヒコザは知っている。トライチのソコが既に立派な大人の雄のソレとなって、平時から亀頭が剥き出しになっている事を。
戦人としては頼りない、華奢で線が細く、非力なトライチの体…。ヒコザはそこに、美麗な細工物の印象を重ねた。
美しく、しかし繊細で脆い、ガラスの細工…。
力こそが、実用性こそが尊ばれるこの里では求められないという点においては、華奢で脆いトライチも、ガラス細工も同じ
だった。
それでもヒコザは、トライチの肢体を良い物だと感じた。
現実的で打算的で第一に実用性を求める己の性質を良く知っているので、これは自分でも意外な事だった。
「んっ…!」
トライチが声を漏らす。ヒコザの分厚い手が胸に触れて。
途端に大狸は驚いたように手を引き、一度唾を飲み込んでから、改めてそっと触れた。
筋肉が薄く、自分の重みをかければその下に横たわる肋骨すらも折れてしまいそうな胸板に、ヒコザはおののいた。
華奢な少年の体を改めて目の当たりにした事で、乱暴に扱っては痛めるのではないかと不安になった。
それもそのはず。ヒコザはこんな触れ合いが初めてだった。
里の事を、家の事を、御役目の事を、御館様の事を考え、壊す事、殺める事を追求して己を鍛え、技術を磨き続けたヒコザ
は、気の緩みに繋がらないよう、色恋沙汰から意図的に意識を逸らし続けてきた。
狸の瞳が動揺気味に揺れている事に、トライチは気付く。
最初は気付かなかった。そして、気付いてもなお簡単には信じられなかった。
騙し欺き謀り誤魔化す。隠神歴代でも屈指と賞賛される幻術使いが、うぶな一面を隠し切れていない。
トライチは感じ入る。
大胆不敵でふてぶてしい大狸が垣間見せた、躊躇と戸惑いの表情に…。
十も年上の大狸が晒した、むしろ自分と同年代の者達よりも晩熟な本性に…。
見られないものが見られた。おそらくは今だからこそ、こんな時だからこそ見る事ができた貴重な表情…。それだけで、雑
草に過ぎなかった自分が「特別」になれた気がした。
「わ…、若大将…」
「…ヒコザだ…」
トライチの呼びかけを訂正するも、声が割れてしまい、唾を飲んで乾いた喉を湿らせるヒコザ。
自分もひとの事は言えないのだが、トライチは大狸が見せるうぶな所作に胸が温まる思いだった。
今まで知らなかったヒコザがそこに居る。初めて見るそのヒコザもまた愛おしい…。
「…ヒコザさん…も…、脱いで下さい…」
おずおずと、恥じらいながら懇願したトライチの前で、自分はまだ服を着たままだったと思い出したヒコザが、慌てた様子
で腰帯と作務衣の紐をほどく。
あらわになった胴は太く、狸らしく腹が出ているものの、鍛え込まれて胸も肩も分厚い。
太く雄々しくいきり立つ、熱く脈打つ男の印が、六尺褌の生地越しにその陰を見せつける。
湯あみを共にした時に見ているので、トライチは知っている。ヒコザのそれは太く男らしいが、平時は厚皮を被っていた。
なによりも陰嚢がたっぷりと大きいのが印象的。
だが、屹立した状態のモノを見た事は、今まで一度もない。褌の中で勃起して皮が剥け、丸々膨れた薄紅色の鈴口が露出し
ている事は想像もできない。
白っぽく染まった腹側の被毛を半眼に映し、仰向けのトライチがそっと手を伸ばす。おそるおそる触れた被毛は、密集して
いて弾力があり、柔らかかった。
「柔らかい…。もっと、こわい毛だと思っていました…」
思わず正直な感想を口にしたトライチが、すぐさま顔を熱くして「し、失礼を…!」とどぎまぎ述べると、ヒコザは途端に
難しい顔になった。
「猫程ではあるまいよ」
再び身を屈め、トライチの両脇に手をついて覆いかぶさる格好になったヒコザは、「ヌシの体ほど、手触りは良くないわ」
と真上から声を落とした。
覆いかぶさったのは、裸体に向けられたトライチの視線に恥ずかしさを覚え、堪らなくなっての事だった。
「いいえ、とても心地良いです…」
ヒコザの目を見返し、トライチは微笑む。
狸の下っ腹に当てたままの手は、皮下脂肪と筋肉のずっしりとした重みと、被毛の内に篭った温もりを感じ取っている。
その手がゆっくりと腹をさすると、ヒコザはこそばゆさを誤魔化すように唇を重ねた。
求めるだけではない、他にどうして良いか判らず、最前の手を繰り返している。相手を嵌めるなら避けねばならない安易な
繰り返しに、しかし今、化かし合いの第一人者はすっかり溺れてしまっている。
口を吸いながら荒々しく肩を掴んでは、指に力を入れ過ぎて慌てて緩め、もどかしげに、しかし堪えるのがきついようにト
ライチを求めようとするヒコザ。その不器用さが、いかにも不慣れな所作が、トライチをさらに昂ぶらせる。
「うっ…!」
呻いたヒコザは、目を大きくしている。
トライチは組み敷かれたまま腰を浮かせ、自らの股間をヒコザの腰に下から押し付けていた。
身長差のある二人の事。口を深く咥え合わせたままでは腰の位置にも差が生じており、トライチの硬くなったモノは、その
先端をヒコザのムチッとした腹…窪みが深いヘソに当てている。
硬いソレが、自重で下がった腹に押し付けられ、埋もれる…。無礼を承知でなお抑えが利かないトライチは、自分のあさま
しさに涙した。
腰が動く。勝手に揺れる。事もあろうに股間のソレをヒコザの腹にこすり付けて…。
情けない。申し訳ない。そんな気持ちも焦がれに焦がれた恋と衝動の前に霞み、自戒すら固める傍から綻び蕩ける。
重量があり、密度を感じさせるヒコザの体に陰茎を擦りつけるのは、実際の感触だけでなく、背徳感すら甘美だった。
口を離したヒコザは、顔を見られる事を辛く感じているのだろうトライチの、横に逃れた目から視線を逸らす。
そして、ぐっと身を沈め、上からヒコザに重みを掛けた。
「ふっ…う…!」
息を絞り出したトライチの顎を肩に触れさせ、体を少し上にずらし、お互いの腰を同じ高さで合わせたヒコザは、
「マラ比べの、おしくらまんじゅうだぜ…」
照れ隠しに、これからする事を遊戯の一種であるかのように吹き込んで、ゆっくり腰を揺すり始めた。重さをかけ過ぎない
よう、トライチの左右でついた両肘両膝に体重を逃がして。
それでも上から被さる堅肥りな体は重量感があり、むっちりとした胸と腹の下で、トライチの細身が圧迫される。
その、少し苦しい重みさえも心地良いと感じた。
ゆすゆすと腰を使うヒコザの体が揺れ、自重で下に垂れた贅肉が、トライチの体を撫でるように擦る。
応じるように下から腰を反り上げ、揺するトライチ。草を押し潰す背が擦れるのも、下で潰された草が鳴くのも、もう気に
ならない。
怒張した二つの逸物が、吐き出した先走りで湿らせた薄布越しに擦れあう。
しとどに湿った六尺褌が擦れる音すら淫靡。吐き出されて口元に漂う吐息はあくまで熱く、濃厚な色情を帯びて変質したよ
うに重く残る。
いつしかヒコザの太い腕が、地面に肘をつき、トライチの顔を抱えて自分の首元へ押し付けていた。
一方トライチは、ヒコザの腋の下を通して分厚い胸に抱き付き、熱い吐息を狸の首…被毛の内へ吹き込むように喘いでいる。
自らが垂れ流した先走りで濡れた褌は、摩擦を高めて亀頭を刺激する。
直接の触れ合いを妨げる褌が邪魔に感じられたが、トライチもヒコザもそれを剥ぐ余裕などない。
動きを止める事を、この行為に水を差す事を、快楽の連続を中断する事を、今はほんの僅かにでもやりたくなかった。
「と、トラ…イチ…!」
ヒコザの喘ぎに自分の名が混じり、トライチは耳をぷるるっと小刻みに震わせる。
「た…、堪らん…!こいつは…、堪らんぜぇ…!トライチ…!」
普段厚皮に覆われているヒコザのソレは、トライチよりも敏感だった。到達が近いのか、腰の動きが性急さを増し、貪欲に
身を揺すって快楽をむしゃぶる。
トライチが初めて見るヒコザの姿がそこにあった。
いつでも堂々と、ふてぶてしく、余裕ありげに振る舞っていた大狸…。それがどうだろう?快楽に流されてどうしようもな
い己を恥じながら、それでも気持ちを訴えてくる…。訴えずにはいられなくなっている…。
「ヒコっ…!ヒコザ…さ……!ヒ…コっ…!」
応じる声が鼻にかかる。喘ぎで息すらままならず、感極まって喉が震え、まともな言葉にならない。
ゆっさゆっさと身を揺するヒコザの下で、密着するトライチの全身が快感を訴える。
(柔らかい…。重い…。ヒコザさん…。ヒコザさんの…匂い…温もり…!)
細腕に力を込め、しがみつくトライチ。隙間をほんの少しでも無くしたかった。いっそ溶け合って一つになれれば、どんな
に…。
「ぐぅっ!」
呻いたヒコザが身を強張らせ、ブルルッと震える。
狸特有の太い尾が反り返り、先端が広い背中の中央にとふっと乗る形になった。
密着した体の震えと堅さに、トライチは悟る。ヒコザが先に至った事を。
「んっ…、んぐぅっ!ううっ!うううううっ!」
きつく目を閉じ、歯を食い縛り、喉の奥をグルグルと鳴らす大狸の股間から、びゅくっ、びゅくっ、と立て続けに白濁液が
迸る。
乱れて前袋がずれた褌の内に、それでもどっぷりとたまった精液は、端から零れてトライチの股を汚した。
「はっ…!はっ…!はふっ…!ふぅ…、ふぅ…!」
射精を終えて腰から力が抜けたヒコザは、溜めた息を吐き出して喘いだ。が…、
「む…、むぐっ…!」
まだおさまっていないトライチに下から腰を擦り上げられ、ビクンと背を震わせて呻いた。
「ヒコザ…さ……!ヒコザさんっ…!」
懇願するような声音を熱い吐息混じりに発し、トライチが腰を振る。
まだ怒張しているヒコザの逸物は、いったばかりでさらに敏感になっている。ヌルヌルになった亀頭が乱れた褌の中で擦れ、
ジンジンと堪らない刺激が下っ腹に響いてくる。
「う…!あ…!んおぉ…!お…!」
辛抱堪らず、きつくトライチを抱きしめるヒコザ。どうにかなってしまいそうな刺激を受けて、何かに縋りたくて仕方がな
かった。
草と汗と雄の香が、大狸に抱きしめられたトライチの鼻孔をむわっと蹂躙する。
それだけではない。温もり、肉の圧、鼓動、呼吸、享受する全ての感覚が、そしてヒコザの態度が、トライチの興奮を否応
なしに高めて行く。
「お、おぅふっ!お、おおおおっ!んぐぅ…!」
「ひ、ヒコ…ザ…さっ………!も……少しっ…!…っく!くくぅっ!」
失禁してしまいそうな刺激に耐えるヒコザと、上り詰めて行くトライチ。
ヒコザの種汁が染みた褌の下で、射精寸前となった少年のソレは痛いほどに怒張し、激しく脈打つ。
「あ!」
トライチの口から声が漏れたのと、その細い体がグッと反ったのは、ほぼ同時だった。
ぎゅうっとヒコザの股に押し付けた逸物が、ビクンと反りを強めて精液を吐き出す。
手淫ほど短時間では済まない、もどかしい刺激で焦らされたせいか、射精の量は常にも増して多かった。
痙攣する尿道から迸ったソレは、褌の内で跳ねてべとべとに汚す。
鼻にかかったか細い声を漏らし、わなわなと震えながら繰り返し射精したトライチは、程なく力尽きてぐったりした。
その上に、射精したばかりの逸物に擦りつけられる苦行をようやく終えたヒコザが、ぐっと重みをかけてため息をつく。
ふいごのように上下する両者の胸はしっかり合わされている。
首といわず腋といわず、汗で全身がじっとりと湿っていた。
「…トライチ…」
「…はい…」
乱れが収まらない熱っぽい吐息をトライチの耳元に吹きかけたヒコザは、
「…い…、良いモンだった…」
照れ隠しに低めた声で、それでも本音を語った。
「…有り難う…」
ふっと、吐息で首の脇をくすぐられ、ヒコザは眉根を寄せる。
太鼓腹が揺すられる。下に敷いたトライチの薄い体が、痙攣するように動いたせいで。
トライチは笑っていた。くすくす、くすくすと、堪え切れずに。
「…な、何だ…!?」
喉を詰まらせたような声で問うヒコザに、トライチは「も、申し訳ありませんっ…!」と、腹筋の痙攣を堪えて応じる。
「だ、だって…!「有り難う」だなんて…、ヒコザさんが言うからっ…!」
「…変か…?…いや、へ、変だな確かに…、考えてみたら何やらおかしいぜ…」
訊ねてから気付いたヒコザがゴモゴモと唸る。
その様子がおかしくて、トライチはまた笑う。今度はふふっと、小さく声を漏らして。
何か言いかけたヒコザは、しかし上手い言葉が思い浮かばず、舌打ちをして横にごろんと寝返りを打った。
そして、腕を下に入れたままだったトライチの首を抱き寄せ、自分にくっつかせる。
戸惑いの表情を見せたトライチは、物言いたげにチラッと目を向けたヒコザが咳払いすると、表情を和らげ、腕枕される格
好で仰向けの大狸にひしっと抱き付いた。
そうして分厚い胸に手を這わせ、肉付きの良い腹をさするように移動させた後、臍の上まで汚しているベタつきに気付いて
動きを止める。
「御免なさい…ヒコザさん…」
「…何がだ?」
「あの…、汚して…」
フンと鼻を鳴らしたヒコザは、
「お互い様だぜ。それに…、有り難うもおかしかろうが、御免なさいもおかしいぜ。えぇ?」
「そう…ですかね?」
「そうとも」
「そうですか」
「そうだ」
言葉を交わしあった二人は、どちらからともなく、くっくっと喉を鳴らして笑い始めた。
繁茂する下生えの草を、高さを揃えるようにして並ぶ樹木を、風が叩き、樹海が潮騒にも似た声で鳴く。
二人はしばしその音に耳を傾け、余韻に浸りながら火照った体を冷やし、互いの温もりを噛み締めていたが、
「ワシは、「隠神刑部」になる…」
風が止むのを待って、ヒコザは押し殺した声でそう囁いた。
いかに自分達が好き合おうと、現実は曲げられない。曲げる事など許されない。
ヒコザは当主となる。御館様に尽くし、里を守り、子をもうけなければならない。
トライチは目を伏せた。
いっそこのまま、何もかも捨てて二人で逃げてしまえば…。
これからずっと、二人でお互いの事だけ思っていければ…。
だが、喉まで出かかったその言葉を、トライチは済んでの所で飲み込んだ。
使命感が強いヒコザに、そんな生き方が選べない事は明白だった。
そして何より、そんな事を考えたと知られたなら、ヒコザに嫌われてしまうと思った。
やがて、トライチは小さく頷いた。
報われないと諦めていた想いが叶えられた。たった一度でも…。もう望む事など何もない。これ以上を望むべきではない…。
そう自分に言い聞かせるトライチに、ヒコザは押し殺した声のまま続ける。
「「隠神刑部」は御館様の物…。里の物…」
判っている。だからもう言ってくれるな。もう諦めるから…。この一時だけを抱いて我慢するから…。
明日も知れない我が身なれど、ままならぬ今に縛られる身なれど、せめて今だけは…。今だけは…。
強くしがみ付き、きつく目を瞑って頷いたトライチの耳に、「だが…」と、ヒコザの声が忍び込む。
「「隠神刑部」はヌシだけのモンになってやれんが…。「隠神彦左」は、ヌシだけのモンだぜ…」
トライチの目が大きく見開かれ、次いでそこからポロポロと、涙が零れ落ちた。
何か言いたいのに、言えなかった。
胸がいっぱいで気の利いた事一つ口にできなかった。
トライチは黙って肩を震わせ、ただただ嗚咽を漏らす。
体は二つ。されど、想いは一つ…。
予後が悪かった隠神刑部の容態が急変したのは、それから二か月ほど後…。気温が急激に下がり始めた頃だった。
刑部は実に七日七晩も昏睡と覚醒を繰り返し、意識がある間に出すべき指示と下すべき判断を済ませ、近い者を呼んで後を
託した。
そうして一通りの事が済むと、意識が途切れて長い昏睡状態に陥った。
刑部がそのような有様なので、御役目は発せられず、里の者達はその時を覚悟して静かに過ごしていた。
皆が息を殺すように静かに過ごす、その三日目。ヒコザが心配で何かと手伝いに走っていたトライチは、働き過ぎを見兼ね
た年長達から少し休むようにと言われて、ひとり里を離れ、草むらにぽこんと岩がある、馴染みの場所へやってきた。
岩に腰掛けて思うのは、刑部の事…、ヒコザの事…。隠神当主の交代と、それに伴う、自分達の立場の違いの明確な変化…。
トライチは未熟で、戦闘要員としても甚だ頼りない。
ヒコザが刑部を継いだなら、彼の傍は手練れの眷属中心に固められ、少年が加えて貰う隙間は無くなるだろう。二人がどう
思おうと、距離はますます開いてしまう。
しかし、そんな考え事にもそう長くは耽っていられなかった。
「トライチ!」
鋭い声にハッと顔を上げ、首を巡らせるトライチ。
厳しい顔つきをした大男が、ざさざさと草むらを掻き分け、血相を変えて駆け寄ってくる。
トライチより十歳上、ヒコザと同期に当たる神壊の眷属…侍影(じえい)という名の黒熊だった。
「すぐ里に戻りな!隠神の大将がっ…!」
息を飲み、立ち上がるトライチ。
里の外に居る皆に声をかけて回っているジエイは、詳しく告げずにそのまま駆け去ったが、その言葉だけでも、何が起きた
のか察しがついた。
隠神刑部の葬儀は、寒風が吹く中、しめやかにおこなわれた。
落ち着いて堂々と振舞う喪主…ヒコザの姿を皆は立派な物だと褒めていたが、トライチは彼から張り詰めた物を感じていた。
葬儀の一切は滞りなく進み、先代となった刑部は火葬され、代々の刑部が眠る塚へ手厚く葬られた。
塚を前に佇み、長い長い別れの言葉を胸の内で述べる大狸の後ろ姿を、トライチは心中を察してじっと見つめていた。
その傍で初老の狼と、里一番の巨漢である巨熊が言葉を交わす。
「彦丸(ひこまる)殿は果報者だ…。誰にも恥じぬ働きをして、誇れるだけの立派な跡継ぎを残せた。そうは思わぬか?雷爪
(らいぞう)…」
「異論は無い。…里の誰が、異を唱えるものか」
狼が物憂げに、熊が無表情に、それぞれ隠神の新たな当主の背を見つめる。
トライチは思う。少しでもヒコザを支えられるよう、いっそう精進しよう、と…。
父を弔うヒコザは、涙一つ見せなかった。
そして初七日が過ぎた正午、御館様の御殿で引き継ぎの儀が行なわれた。
当主着任の宣誓を終えて、御殿の正面へ姿を見せた大狸は、誰もが認める偉丈夫ぶり、紋付袴の晴れ姿。
右に当代の不二守…神壊の当主たる巨熊を伴い、左に初老の狼、里の古強者たる神無の翁を伴い、ヒコザ…否、隠神刑部は
御殿前に設えられた段へ登る。
浴びせられる、祝いの言葉と激励の声。
笑み一つ見せず、堅苦しい仏頂面で深く頭を下げた大狸の姿は、トライチの瞳には、なぜか一気に歳をとったように映った。
これから彼は、里の戦力の一角を担う三柱のひとりとして生きてゆく。
最大勢力である隠神の眷属達を率いる長であり、里の守りの要たる、結界を維持する人柱の長…。
そうして、少しばかり時が流れる。
樹海の中を隠れ里に向かって、黒い作務衣を着込んだ集団が進んで行く。
一団を率いる頭は、楕円の陣の中央を歩む大狸。
刑部を襲名して、はや一年が過ぎた。
齢二十八となったギョウブは、堂々たる体躯を特別製の黒衣で覆っている。
袖を通した漆黒の作務衣は、以前愛用していた物に近い見た目だが、鵺の毛が編み込まれた特別製。先代の衣を解きほぐし、
より大柄な自分にあわせて仕立て直させた仕事服である。
「無駄足でしたな」
渋い顔で傍らの狸が唸ると、
「なに、明晩に大きな御役目を控えた所だ。足をこなす準備運動に丁度良い散歩だったぜ」
ギョウブは口の端をくいっと小さく上げてうそぶいた。
見回りから集団の侵入有りとの報を受けて探りに出た彼らだが、どうやらただのハイカーグループが迷っただけらしく、危
険域まで入り込んだ訳でもないので、害は無いと判断されて見逃し、帰還する途中である。
なお、男女九名の遭難者集団は、ギョウブの配下が施した幻術によって、見覚えがあるような気がすると思い込まされたルー
トを移動中。夕暮れには人足で踏み固められた地面が点在する安全圏まで辿り着けるはずだった。
樹海を訪れる者達への処遇については、隠れ里では厳密な決まりが設けられている。
基本的には、帰りたい者は帰してやる。都合の悪い事に気付かれさえしなければの話だが。彼らはそうして長年隠れ里を守っ
てきた。変に団体で遭難して捜索隊が入り込んで来ると、目隠しやら何やら手間がかかる。さらりと帰って貰えればお互いに
一件落着といくのである。
もっとも、生かして帰す訳には行かない場合もあるので、この場合は痕跡を残さず始末するか、自殺や遭難の末の衰弱死に
見せかけた偽装を施して、発見され易い位置に死体を放置する。
このように、帰すか、殺すか、問題がなければ放置しておくという三種に判断が絞られるのだが、極々稀に例外が発生する。
自殺志願者が里に迎えられるという例外が…。
時に、好ましいと判断された者へは、幻術によるテストをしかける。
その上で、どうせ死ぬつもりだったのなら隠れ里で第二の人生を歩んではみないかと誘いをかけ、承諾したならば迎え入れ
る。無論、断るならばそのまま死なせる。
これは、閉鎖された隠れ里という狭い社会での血の滞りを避けるために、外部から新しい血を取り入れる必要があるから設
けられている制度であり、これをこなすのも隠神ら狸達の務めだった。
威風堂々と肩で風を切る大狸は、やがて里の結界が見える頃になると周囲を固める狸衆に「おい」と声をかけ、足を止めた。
「ヌシらは先に戻って、御館様に問題ないとご報告を差し上げな。ワシはこのまま少し、外から結界を見て回る」
ギョウブは皆の顔をひとしきり見回してそう告げると、最後尾に控えるキジトラ猫に視線を定めた。
「トライチ、ヌシは付き合え」
「はい!」
背筋を伸ばして応じるトライチ。
十八になり、顔にも少しずつ精悍さが滲み出てきたトライチは、あれから練磨に励んだ事もあって少しばかり筋肉が付き、
体つきも逞しくなっている。
直接戦闘の腕前こそ中の上といった所だが、生来の器用さと、敏捷さと柔軟さ、そして遠駆けが利くスタミナを重点的に磨
き込んだ事で随分と買われるようになっており、若手伝令兵筆頭と目されるようになっていた。
覚えも良く、迅速かつ隠密な情報伝達手段として、そして時には工作兵として、今では闇の中の影の如く裏方として活躍し
ている。
相変わらず戦力としてはあてにできないのだが、ギョウブも贔屓などせず堂々と重用できる事を喜ばしく思っていた。
駆け寄るトライチと、ゆったり歩き始めるギョウブを残し、他の者は結界を超えて内へ、里へと戻ってゆく。
十分に距離があき、目も声も届かなくなった頃合を見計らい、ギョウブは口を開いた。
「トライチよ…」
「は!イヌガミの大将!」
若者の生真面目な返事に、ギョウブは耳を倒して苦笑する。
「今は「ヒコザ」でいいんだぜ」
その言葉で、どうやら結界の見回りは方便だったらしいと察し、トライチは「…はい」と戸惑い気味に頷く。
「…祝言の日取りが決まった」
足を止めたギョウブの唐突な言葉で、トライチの心臓がドクンと跳ねた。
近いだろうという事は察していた。それでギョウブが迷っているらしい事も知っていた。そして…、決心が定まった事も知っ
ていた。
昨日、神壊の当主ライゾウと何か話をしたらしい事は、ギョウブも言葉の隅で仄めかしていた。どんなやりとりがあったか
は判らないが、それで心を固める事ができたのだろう。
めでたい事だった。なのに嫉妬で胸がチリリと焦げた。
血を残すのも隠神の当主としての務め。婚姻自体は予定され、いつかその日が来るとトライチも覚悟はしていた。
それでも…。
ギョウブの広い背に声をかける事もできず、そこを見続ける事もできず、静かに俯くトライチ。
忍んでの逢瀬も、身の重ね合いも、もう許されなくなる…。その事実が目前に迫ると、堪えた。
「あの娘は、良い妻になってくれるだろうぜ」
トライチの乱れる心を、ギョウブの声がさらに揺さぶる。
「立派な子を産んで貰う」
手を当てて押さえた胸が、ギリギリと苦しくなった。
「その子が笑って暮らせるように…」
痛みが、幾筋もの針になって心臓を刺し貫くようだった。
「ヌシが笑っていられるように…」
胸に置いた手が、微かに震えた。
なぜそこで自分が?
疑問に顔を上げたトライチは、首を巡らせて振り向いているギョウブを見やり、息を飲んだ。
耳を倒し、目を細め、少し困っているような微苦笑を浮かべているギョウブの顔は、常のふてぶてしい面構えからは想像も
できないほど穏やかだった。
「隠神刑部は守るぜ。里も、皆も、妻も、生まれて来る子も…。隠神刑部は皆のためのモノ…。皆のために存在するんだから
それが当然だ」
何も答えられないトライチに、ギョウブは照れたようにそっぽを向いて「だが」と続ける。
「ワシが隠神彦左の時は…、ワシはヌシだけのモンだぜ。…あの約束は、死ぬまで変わらん」
二人の頭上で、風に揺られた木々の枝葉がザザァッと一斉に鳴り、そのまま音の連なりが遠ざかって行く。
「…有り難う…ごさい…ます…!ヒコザっ…さんっ…!」
あの日一緒に聞いた物とそっくりな樹海の潮騒に、トライチの小さな鼻声はかき消された。