Fatal Ignition(Finale)

「いたたたた…!」

 全身を襲う負荷の痛みにミオが呻き、ラドとミューラーがアワアワとコールドスプレーで冷やす。後部座席の騒ぎをバック

ミラーでチラリと見て、マヌル猫はため息をついた。

「イズン中尉にゃ黙っとくぜ?ミオちゃんも怒られるだろうが、居合わせて無茶を止めなかったってことで周りまで叱られち

まう。…つぅか、「勇ましく買って出ておきながらこの体たらくか曹長」とか、たぶんオイラが一番こっぴどく怒られる…」

 ラドに代わってハンドルを握るブルーノは、自分も勿論嫌だがミオがイズンに叱られるのも嫌なので、あえて報告を上げな

い事にしようと皆に提案し、これを受け入れられる。

 殲滅戦の行方を終盤まで見届け、事態が収束に向かっている事を見極めてから、ナハトイェーガーは戦闘区域から離脱した。

サラマンダーが消滅した以上、任務は完了となっている。完璧な形とは言えなかったが、他国で大きな被害を出すような惨事

にならなかっただけで良しとした。

「レンタカー返して荷物纏めたらすぐに海路で国を出るぜ。忘れモンとか大丈夫かよ?」

 そう確認を促したブルーノは、

「出国前にもう一度「ネギタマ」を味わいたいところだが…」

「ネギタマ?何だそりゃ?ワショクってヤツかい?」

 ミューラーから簡単に説明され、興味を覚えて小さい丸耳を立てる。そこで、しばらく考えて確認していたミオが「あ!」

と声を上げた。

「そうだ、忘れ物…!」

「おう。何かあったかミオちゃん?」

 マヌル猫の問いに、アメリカンショートヘアーは「危ないところでした…!」と神妙な顔で頷く。

「ギュンター君から頼まれた「漆塗りの浮き」、アドルフ少尉から頼まれた「ソーカ・センベー」、あと少佐や中尉やエアハ

ルト騎士団長へのお土産をまだ買ってな…」

「そこかよ!?」

 呆れるどころか驚いてしまうブルーノ。前々から思っていたがこの士官は時々生真面目さがおかしい。

「ってゆーかドサクサ紛れにアドルフ少尉お土産要求してたんですかー!?坊ちゃまはいいとしてー!」

「任務に私用を捻じ込んできよってからにあのダメな方の少尉は!坊ちゃんは別として!」

 怒るラドとミューラー。かなり贔屓が入った憤慨の仕方である。

「アドルフ少尉の分だけ意図的に忘れて行きましょーよー」

「よし名案だヒキガエル!」

「バカ言ってんじゃねぇぞラド。「よし」じゃねぇよミューラーのオッサン。あの小便タレの事だ、ミオちゃんが土産を忘れ

たって言ったら…、どう出る?」

『お詫びを要求する!しまった!』

 ブルーノから指摘され、声を揃えた猪と蛙がグヌヌと唸った。

「だから、だ。買ってくしかねぇ」

 マヌル猫の言葉で納得の行かない表情を見せたミューラーとラドだったが、

「で、イズン中尉に手渡しつつ、「これはアドルフから特別に絶対に必ず買って来いとせがまれて頼まれた分」…っつって、

渡して貰やいいんだよ…!」

(「残念だ…」確定ー!)

(悪魔め!だが乗った!)

 さらりとブルーノが提案した致命的なお土産の渡し方に、即座に乗っかるラドとミューラー。ミオにコナをかける第二分隊

長は相変わらず酷い嫌われっぷりである。



 囮に使われた封鎖区域に監査官が手配していた事後処理班が踏み込み、清掃が進む。

 作業の陣頭指揮を執る警官達も、作業に従事する下請け業者も、秘匿事項への接触が許可されている人員に限られている。

ただし、武装はしているが調停者ではなく、ひとの脅威足りえる危険生物と渡り合うには心許ない装備と人員なので、もし危

険生物の生き残りが居れば大変な事になってしまう。

 今回はブルーティッシュも警護人員を割いてくれていないので、皆が警戒し、ビクビクと作業を進めているが、実際にはそ

んな心配は必要なかった。

 デスチェインに取りこぼし無し。コックローチは一体残らず殲滅されている。そして何より…。

(夜明け前には完了すると見てよかろうか…)

 ビルの上で腕を組み、仁王立ちしている逞しいシベリアンハスキーが、一連の作業工程を見守っていた。 ダウドへの助勢

は果たしたが、義理立てしたマーナは念のため後始末の警護まで自主的に行なっている。万が一の仕留め損ねに備えての事で

ある。

 ふと、作業員のひとりが上を向く。おっかなびっくり作業していたので、ビル風の音にも驚いてしまって。

 見上げた先で夜空を刻むビルの角、しかしそこには既にシベリアンハスキーの姿は無い。見上げる動作を察知するなり、い

ち早く移動を済ませていた。

 視界範囲内で、自分まで直線で通る全ての視線…ひいては射線を把握できるマーナの姿を、作業に従事する者達が目にする

事はない。

 見守られている事も知らないまま、清掃作業は続く。



 数時間後。二人を欠き、三名となった虫使い達は、豪奢な調度品が目を引く室内で、深く頭を垂れていた。

「サラマンダーを得る事はできなかったが、よしとしよう」

 老人はサラマンダー奪取失敗の報告を受けながらも、虫使い達を赦した。

「むしろ、そのまま誰かの手に握られてしまった方が恐ろしい存在だ。惜しくはあるが、消えてしまった物は仕方がない。惜

しいといえば…」

 老人は三人の虫使いをじっと見つめ、「手痛い損失だった」と呟いた。

「手当ては弾む。故郷の家族に報告する際には、便宜をはかってやるがいい」

「身に過ぎた配慮、痛み入りますホウエツ様」

 頭をより深く垂れた虫使い達に、「しかし…」と老人は感嘆混じりの評価を告げる。

「むしろ「見事」という他あるまい。数のみが強みであるコックローチ程度の「手足」でもここまでやれる…。此度もブルー

ティッシュでなければお主達に対応できなかっただろう。たった五名で五個大隊をも全滅させられような。…いささか低く見

ておったのは事実、今後はより相応しい手足を用意させよう」

 コストを惜しまず、例えば強力なインセクトフォームなども含めた部隊を与えたならば、虫使い達はより優れた働きができ

るだろうと老人は期待する。

「そして…」

 老人が視線を動かした先には、スーツ姿の男がひとり。

 冷や汗で顔をてからせ、ガタガタと震えているその男は、エルダーバスティオンと内通し、ブルーティッシュの情報を漏ら

していた監査官である。

「今後は、より正確な情報源を確保すると約束しよう」

 ファミリーに迎え入れると称して呼ばれた男は、もう理解していた。

 自分は、処分のために呼び出されたのだと…。

「さて、大損害を被らせてくれたこの男、お主らはどうしたい?気が済むまで切り刻むもよし、虫の苗床にするもよし、好き

にせよ」

 老人の言葉が終わるか終わらぬかの内に、監査官は胸に隠し持っていた小型拳銃を引き抜いた。が…。

「お言葉ではございますが」

 拳銃の先端を摘んでぶら下げながら、虫使いの頭領は頭を垂れる。

「このような者を殺めたところで我が同胞の欠けを満たすには到底及ばず、また、虫の苗床にするほどの価値も見い出せませ

ぬ故…」

 監査官は絶叫していた。虫使いの頭領が摘んだ拳銃は、まだ握られている。手首で切断された自分の手に。

 ジャンビーヤの光刃で一閃された手首からは、傷口が焼き塞がれているので血の一滴も零れない。まるでマネキンのパーツ

のように、切断された右手首は現実から乖離して見える。

「なるほど…。赦せ。お前達とその誇りを安く下げるような言葉となった」

「いえ、そのような…」

 恭しく頭を垂れる頭領の耳に、絶叫が届かなくなった。

 女性が、そして細面の中年が、拘束した男の口に猿轡を噛ませている。

「では、下の者に処分を任せよう。大義であった」

 老人の言葉に、虫使い達は跪いて応えた。そしてすぐさま、欠員補充のために本国へ使者が飛ぶ事となる。専任に劣らぬ手

錬を招集するために。

 皆を下がらせてひとりになると、老人は腰を上げ、窓際に立った。

 眼下に広がるは不夜城都市。煌びやかな装いと活気とは裏腹に、秩序立った混沌が我が物顔で闊歩する、アジア最悪の魔都。

「ソウエツが死に、黒武士会も滅びた。それでなお容易くは落ちぬか、この都は…」

 黒伏法越(くろぶしほうえつ)。エルダーバスティオン最高幹部のひとりである老人は、未だ夜明けも遠い首都の夜景を、

闇を呑んだような瞳に映して呟いた。



 こうして首都の騒動…後に「ゴキブリ事変」という実も蓋もない事件名を当てられる事になる一件は、一応の決着を見た。

 住民達からは、夜中に変な物が空を飛んでいた、川原で火災が起きているのではないか、臭くてベタつく液体が降って来た、

またテロなのではないか、などという通報が相次いで寄せられ、関係機関は昼を過ぎてもなお対応に追われる事となるのだが、

一般市民の死傷者はひとりも出さずに済んでいる。

 ブルーティッシュ側も、多少の負傷者は出したが殉職はゼロ。

 一応その負傷者のひとりであるノゾムは…。

(疲れてきちゃった…)

 回転する円形の足場に気を付けの姿勢で立ち、時折流れるスピーカーからの指示で両手を広げたり万歳したり気を付けに戻っ

たりしながら困惑していた。

 現場の後処理班を残して、実行部隊である調停者の大半が引き上げるのにあわせ、ノゾムも本部へ帰還させられた。そして

簡単な手当てを施されるなり、最先端の検査機材が取り揃えられているラボラトリーへ運び込まれ、繰り返しスキャンされて

いる。

 ノゾムの検査に使われているのは、一見すればレントゲン撮影の機材にも似ているが、実際には思念波や能力励起反応をは

じめとする各種エネルギーを観測する装置である。

 ノゾム自身も覚えが無い、生まれて初めて経験した新種の発火現象。その原因を調査する一環として全身の各種スキャニン

グを受けているのだが…。

(それに、恥かしい…)

 撮られるのは骨や肉まで透ける透過画像になるのだが、それはそれとして全裸なのは恥かしい。

 顔をカッカさせながら数分間の撮影を終えて、いそいそとパンツを穿いて隣の部屋に戻ったノゾムは…。

「居るわね…」

「居るっスね…」

「居るなー…」

「いらっしゃるであります」

「…え?」

 特殊機器で全身をスキャンした画像を見ながら、ネネもアルもアンドウもエイルも同じ事を言う。

 気になって覗き込んだノゾムは、画像を目にするなりビクッと毛を逆立てた。

 直立するノゾムを四方八方から映した無数の画像の中で、ある種のパターンを検知、視認できるようカラーにしたタイプの

物が、狐の丸い輪郭の中に、ひとの物とは異質なエネルギー塊を表示している。

 下腹部内…女性で言えば子宮の位置に、細部こそはっきりしないが獣が体を丸めているような球体に近い発光がある。反応

自体は弱々しいが、そのパターンはサラマンダーから計測された物とほぼ一致していた。

「…え?ここ!?」

 思わず下腹部を押さえて見下ろすノゾム。

「そこら辺っスね…。外からは全然見えないんスね?」

 ノゾムの下腹部に顔を近づけ、ヘソの下辺りにじっと目を凝らす北極熊。肉眼では何も見えないし、気配のような物も感じ

られなかった。アルの鼻息がヘソ下にかかってこそばゆく、身震いする餅狐。

「検知そのものも難しかったけれど、特殊な画像処理で強調しないと見えないぐらいに波長が微弱になっているのよ。こんな

に近くに居るのに、私でもかなり集中しないと感知できないわ。そこに居るっていう確信を持っていなければ、ノイズの一種

と誤認してしまいそうね」

 感知能力者の矜持を傷つけられて少々悔しいのか、ネネも耳を伏せて困り顔。

「では次の検査へ以降するであります。こちらへどうぞであります」

 続けて、エイルに先導されアルに付き添われ、ノゾムは何をされるのか教えられないまま直腸検査に送り込まれた。

 一行を見送り、ネネは眉間を揉む。結果は判っている。画像上は腸等の臓器類に重なって見えるが、物理的には「そこに何

も無い」のだろう、と。

「瀕死のエネルギー体が近くの物に宿って休眠する、という話は聞いた事があったけれど…。これもそれらと似たケースね…」

「実家の近くにもありましたよ、古狸が宿った石とか…。調停者になってからマジもんだって聞かされてビビりました。チエ

とかあの辺でかくれんぼしてたしな…。しかしひとにも入るモンだったんですね?昔話の類はともかく、実際のモンとしちゃ

初経験ですよ」

「近代では珍しいけれど、まるっきり無かった訳でもないのよ。ただ普通は憑依状態になると、宿主は自我を眠らされたりし

て体を乗っ取られるような状態になるわ。…一応、神原家のご先祖様が「調停」に際して、弱った「土地のもの」などを御身

に宿して他所へ逃がしたり、保護して新天地へ移動させたりしていたっていう逸話もあるけれど…、どんな秘術を使ったのか

まるで判らないの。単純に失伝したとも思えないけれど、全く資料が残っていないらしくて…」

「え?神原家の先祖って…、もしかしてそれ猪武者伝承のひとですか?」

「そうよ?」

 アンドウは妙な顔をしながらネネに問う。

「神原魂壊ノ輔傳兵衛(かんばらたまかいのすけでんべえ)…、歴代の神将中でも最強の「妖(あやかし)殺し」じゃありま

せんでしたっけ?」

「正確には神将ではないのよ。当主襲名を辞退して弟君に譲られた方だから」

 アンドウの発言を訂正しながら、ネネは胸中で呟く。

(そういう意味では「忌み名の神代殿」に近いけれど、別に出奔した訳でもないせいか、後世への伝わり方に随分差があるの

よね…。こっちは普通に昔話になっているし、アンドウ君も本名を知っているぐらい有名だし…)

「そうなんですか?…それにしても、保護?イメージだとこう…、妖が出る、村人とかが困る、ふらっと来る、殺す、…って

感じなんですけど?テレビでやってた懐かしのアニメ昔話とかだと交渉抜きにいきなりブチ殺したりおもっくそ皆殺しにした

りだったんですけど?」

「ああー…、私も観た事があるけれど、アニメの昔話はそんな具合だったわね…。有名な逸話は勇ましい物が多いから誤解さ

れがちだけれど、実際にはまず交渉して穏便に解決しようとする方だったらしいわ。御伽噺に残っているのは、どうにもなら

なくて仕方なく狩った時の逸話が多いみたい。きっとそういった話の方が民話としては好まれたからでしょうね。実際にはと

てもおおらかで穏やかな方だったと、神原家に伝わっているわよ」

「…「調停者」、か…」

「そうね。本当の意味ではそういうひとだったって言えるでしょう」

 ネネが言葉を切り、アンドウはラボ員が持ってきたレシート状の出力データを受け取ると、ネネに見せながら「マジで安定

してます」と肩を竦める。

 古来より、存在の持続が難しいほど弱ったエネルギー体タイプの危険生物が、回復のために草木や岩に宿って長い眠りにつ

くという事例は報告されている。それが祀られるようになり、信仰という形で思念波のエネルギー供給が受けられるようにな

ると、居心地がよくてそのままずっと居付いたりもする。

 今回のケースでは、人体に取り付いて活動していた期間が長かったからなのか、それとも波長があったからなのか、とにか

くノゾムを宿り先として選んだらしい。生物を宿とするレアケース中のレアケースなので、間違いなく定期的に検査や調査が

行なわれるようになってしまうだろう。

 ただし、一度休眠に入ったら、基本的には回復に数十年から数百年を要する。しばらくはノゾムの中で安定し、危険な状態

になる事はまず無いだろうが…。

「いやでも、気味悪いんじゃないですか?体の中にサラマンダーが入ってるなんて…」

「そこなのよね…。けれど物理的な手術で取り除ける物でもないし、無理に追い出そうとすれば自棄になって暴れるかもしれ

ないし、ヤマギシ君さえ我慢できるならそのままにしておくのが安全なんだけれど…。いえ、むしろ」

 ネネは小首を傾げて考え込む。こういった状態になると、エネルギー存在は自らの家である宿り先を護ろうとする。サラマ

ンダーはむしろ、いざという時にはノゾムにとって守護霊のような物となるかもしれない。

(アルの数少ない友達だもの。長生きはして欲しいし…)

 本人が受け入れてくれるのがベストだろうなぁと思いながら、ネネは複雑な顔をしていた。問題はそこだけではない。こん

な希少なケースを嗅ぎ付けたら、政府の研究機関が通告や手続きも前倒しにして身柄を確保しに来るのは目に見えている。

(早急に手を打つ必要があるわね…)




 リビングのソファーに座って、ノゾムはぼんやりしていた。

 ようやく検査が一段落して部屋に戻れたものの、いろいろな事が起こり過ぎて気持ちの整理がつかない。テーブルに置いた

グラスの中では、コーラに浮いていた氷がすっかり溶けて跡形もなくなっている。

 ピンポンと、来客を知らせるチャイムが鳴り、びっくりしたノゾムが跳ね上がる。

 カメラの画像が映し出されている小窓を覗くと、北極熊の顔が見えた。

 部屋に迎え入れられたアルは浮かない顔で、ノゾムには喋り辛そうにしているようにも感じられた。

「その…、落ち着いたっス?」

「うん。だいぶ…」

 嘘だと感じたが、アルは指摘しない。

「その…、平気っス?」

 アルの視線はチラチラとノゾムの下腹部を窺っていた。それでノゾムは気付く。アルはサラマンダーの事を気にしているの

だろうと。

 北極熊の思考では、狐に宿ったサラマンダーは寄生虫のような印象で、危険はないし健康にも害は無いと聞かされても落ち

着かなかった。

「うん。まだちょっと実感が無いっていうか、どう考えていいのか判らないけど…」

 下腹部に手を当ててゆっくり撫でるノゾムの顔を見て、アルは少しだけ安堵する。耐え難いほど不快だったりしたら、こん

な顔はできないだろうなと思って。

「弱ってるんだって」

「みたいっスね」

「それで、ぼくを頼ったんだ」

「そうかもしれないっス」

「ぼくから離れたら生きていけないんだって」

「らしいっスね…」

「赤ちゃん…とか、そういった物みたいに考えると、ちょっと可愛いかもって思うんだ」

「へ?赤ちゃんスか?」

 そういう捉え方をしていたのかと、目から鱗のアル。

(…ニンシンしてるって事っス?ニンプさんっス?)

 ちょっと違うかなぁ、などとイメージ固めに苦労するアル。

「きっとね」

 ノゾムは下腹部を撫でながら続けた。

「このサラマンダーは、いつか元気になっても、ひとの敵にはならないと思うんだ。願いは、火と、ひとと、一緒に過ごす事

だったから…」

「「当たり」だったっスよね?滅多に居ない、ひとを好きになってくれる「大当たり」っス」

 ウンウン頷くアルに、「叶えてあげたいんだ」とノゾムは言った。

「今でも、ちょっとぐらいなら味わって貰えるかなぁって…」

「ちょっと?何をっス?」

「う~ん…」

 ノゾムは難しい顔をして、

「…キャンプファイヤーとか、バーベキューとか、火を焚く物は喜びそう…」

「バーベキューで!ヤキソバも!よっしゃーっス!」

 即座に食いついたアルのガッツポーズで、思わず吹き出すノゾム。

「マシュマロとかもやってみたいっスね!あと焼き鳥とか…」

 盛り上げようとしたアルは、微笑むノゾムの瞳に宿る陰に気が付いた。

「…やっぱ、不安とかあるっスか?自分の中に危険生物って…」

「あ、ううん。平気。そっちは、たぶん大丈夫になってくと思う」

「でも元気なさそうっス」

 きっぱり指摘されたノゾムは、

「不安だったら言って良いんスよ?話して楽になる事もあるって大人の人達も時々言ってるっスから。あとトモダチってそう

いう悩み事とか話し合うって読んだっス。漫画とかで」

 少し必死な様子で頼って良いよアピールをするアルに、ポツリと言った。

「…初めて、だったんだ…」

「うん?何がっス?」

 身を乗り出したアルは、

「…ひとを…、殺したの…」

 顔を伏せたノゾムが囁いた、消え入りそうな震える声を、確かに聞いた。

 初めてだった。

 ノゾムがその力で「ひと」を殺したのは、あれが初めてだった。

 身に宿ったサラマンダーの事よりも、自らがとどめを刺した、放置していても死ぬはずだった犯罪者の事が、ノゾムを苦悩

させていた。

 相手が死ぬかもしれないという状況で、それだけの炎を放った経験はある。殺してしまうかもしれないという配慮すらでき

ず、死に物狂いで力を放った事もある。それでも、結果的にはひとりも殺めるに至った事は無かった。昨日までは…。

「…アル君は、その…、死なせた事って…」

 経験があるか訊こうとして最後まで言えなかったノゾムは…。

「…調停者になった日だったっス」

「え?」

 驚いて顔を上げたノゾムに、アルは哀しげに眉尻を下げて言った。

「よく、覚えてるっスよ。すごく怖かった事とか、たぶん忘れられないっス…」

 最初に殺した相手の事を、アルはよく覚えている。

 調停者はヒーローだと、正義の味方だと、ずっと夢見て憧れ続けて来た世界。その現実を容赦なく突きつけられたあの出来

事を、恐らく死ぬまで忘れる事は無いだろう。

「…やっぱり、怖かったんだ…」

「そりゃそうっスよ」

 頷いたアルは、「生殺与奪」とノゾムに告げた。

 調停者には免許の種類に関わらず生殺与奪の権限が与えられている。それは、調停者となってすぐに教えられる、基本的な

行動方針だが…。

「ノゾムに教えたひとは、何て説明したっスか?」

「………」

 狐は白熊の顔を見ながら記憶を手繰り…。


「生殺与奪の権限…、つってものぉ」

 歳がいった白い被毛の熊は、たっぷりした頬に右手を当て、頬杖をつきながら顔を緩めていた。

 ノゾムが調停者となったその日、チーム加入記念も兼ねた、ささやかな祝いの席の事だった。もう明方近くになっていて、

調停事務所のメンバーは酔い潰れてそこらに転がって眠っていて、ソフトドリンクを飲んでいたノゾムと、酒豪のドッカーだ

けが起きていた。

 いよいよ眠たくなってきたノゾムは、ウーロン茶をチビチビ飲みながらリーダーの話を聞いていた。

「「殺してもいい」ってぇ権利じゃあなか」

「え?」

「基本的にはのぉ、秘匿事項に関わった犯罪者は、その時点で本人の人権よりも「排除」を優先されるけぇのぉ。それだけ調

停者って職業が危険って訳じゃが…」

 ドッカーはビール瓶を掴むと、半分ほどあった中身をラッパ飲みで空にし、げふぅっとゲップを吐く。

「ソイツを野放しにしちまったら、逃しちまったら、犠牲者が増える…。そんな「仕方ない」時に殺して済ましても罪には問

われん…、そういうモンじゃ」

 足し算引き算なのだと、熟練の調停者は新米に告げた。

 犯罪者を逃せばそれだけ一般人の危険が増える。そして、調停者が独り減ればそれだけ一般人の危険が増える。

「じゃからのぉ、「調停者」ってのは立派にやらにゃあならん。出した犠牲に調停の成果が負けちゃあいかん…、そんな覚悟

が要る職業じゃ」

 その時のノゾムにはドッカーの話は難しかった。束縛から自由になる道として調停者を志した少年には実感し難い事だった。

だがそれでもドッカーは、若い調停者に期待を込めて言っていた。

「辛いかもしれんがのぉ、犠牲を出す事にゃ慣れたらいかん。忘れんようによぉ~っく思い返して自分に言い聞かせるんじゃ。

「失わせた命の重みに、自分はきちんと報いなけりゃあならん」ってのぉ」

 そう言って、ドッカーは手を伸ばしてノゾムの頭にポンと触れ、優しく撫でてくれた。

「いつか、お前さんがそういった状況になって、辛くてキツくて堪らん時、覚えとったらこの話を反芻してみぃ」

 ドッカーはにっこりと、優しく笑っていた。


「…犠牲に…報いる…」

 ポツリと呟いたノゾムの目から、ポロリと涙が零れ落ちた。

 自分はあの日、覚悟を決めたドッカーが犠牲となった結果、生き長らえた。

 自分はあの日、覚悟を決めたタカマツが犠牲となった結果、生き長らえた。

 「生殺与奪」。あの選択と覚悟が、まさにそうだった。

―犠牲に報いる覚悟はあるか?―

 作戦前に投げかけられたダウドの問いの本当の意味が、今になってやっと解った。

「ぼくは…」

 震え始めたノゾムの傍に寄って、アルはその体をギュッと抱き締める。

「ぼくは…、うっ、ううっ!ちゃんと…!」

―自分なりの、足を踏み締められるだけの、確固たる意思を、理由を持て。覚悟が、お前を調停者にする―

 タカマツが今際の際に残した言葉の意味を、ノゾムはやっと理解した。

「ちゃんと…!犠牲に報い…られる…!立派なっ…!調停者に…!」

 能力者としての監視の枷から逃れたい。そんな元々の理由は、もうノゾムにとっての「理由」ではなかった。

「い…、いつか…、いづ…か…!ぎっど、いづがっ…!」

 鼻が詰まって、しゃっくりが止まらなくて、まともに喋れなくなって…。

 理由はある。確固たる意思はある。だからきっと、もうこの足を踏み締められる。

 犠牲に報いる。そのために自分も覚悟を決める。怖くとも、辛くとも、多くの先達から受け取ったバトンを、無下に放り出

してしまわないように。 

 しゃくりあげるノゾムを抱き締めて、背中を撫でてやりながら、アルはただ黙って、ずっと傍に居続けた。

 自分もそうだった。あの時はネネが、泣き止むまで抱き締めてくれた。

 だから今度は、同じ経験をしたノゾムに、自分がそうしてやろうと思った。


「…ごめん」

 かなり経ってからようやく泣き止んで、顔中グショグショに湿らせたノゾムは、ずっと抱き締めてくれていたアルの耳元へ

詫びる。

「いいんスよ」

 肩に顎を乗せているノゾムのしゃっくりが止まった事を確認して、アルは背中をポンポンと優しく叩く。

 自分の時はこうして貰った。きっと誰でもこうして貰えるのが良いはずだと、アルはノゾムを抱き締め続けた。

「泣いたってグチったって良いんスよ。オレがそうなった時はノゾムがしてくれればいいんス。だってオレ達、友達じゃない

スか?」

 友達なんだからお互い様。そう述べるアルの鼻息が耳をくすぐって、ノゾムは目を閉じる。下りた瞼に押し出されて、涙の

最後の一粒が零れた。

「だからもっともっと本音出して、いっぱい話すんスよ。泣き言とか、面白い話とか、キツかった事とか、楽しい事とか、あ

と…、あとは…、う~ん…、思い出すと変な声が出る恥ずかしい思い出とかっス…?」

 気を軽くしようと、慰めようと、一生懸命考えながら声をかけて来るアルに、ノゾムは「うん…」と、鼻が詰まった声で応

える。

「あ!あとっスね、前にも言ったけど「君」要らないっスからね?呼び捨てにして欲しいっス」

「………」

 頷こうとして、ノゾムは少し迷った。アドレスの名前は「アル」にしてあるのだが、直接喋る時はどうにも「君」がついて

しまう。踏み込めないというよりは、親しい相手が少な過ぎるが故の習慣のようなものである。

「…えぇと…、じゃあ…」

 少し言い難そうに、ゴモゴモと口を動かしたノゾムは…。

「ア………、アルビオン…?」

「あれ!?何か逆に距離感じるんスけど!?」

 改めて名を口にしようとしたら何故か改まり過ぎてしまったノゾムと、思わず身を離して顔を見るアル。

「そ、そう…だね?あの…、アル…?」

「そうソレっ!ソレっス!」

 戸惑い気味に言い直したノゾムと、ウンウン大きく頷いたアルは、顔を見合わせてプッと吹き出した。

 友達が少ない同士、何から何まで最初からは上手く行かないものだなぁ、と…。



 しばらく経って落ち着いて、アルが帰って行った後…。

「………っ!」

 ノゾムはベッドに腰掛けて項垂れ、両手で顔を覆っていた。

「は…、恥かしい…!」

 落ち着いてきたら顔がカッカと熱くなった。心配して顔を見に来てくれたアルの前で、泣きじゃくった挙句に抱き締められ

て慰められてイイコイコされてあやされて…。

「恥かしいっ…!」

 顔が発火しそうだった。比喩ではなく。

 一度立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、二口飲んで気を鎮めて、改めてベッドに座ったノゾムは…。

「きょ、今日は今日!明日は明日!明日からは…、うん!」

 少しだけ、前向きになれていた。

 そうして気持ちを切り替えた後で、ノゾムは視線を下に向けた。

(ぼくのお腹の中に、サラマンダーが…)

 ベッドに腰掛けているノゾムの腹は、立っている時よりせり出している。パンツ一枚の格好なので、ノゾムの腹は白に近い

クリーム色のフカフカした被毛を晒していた。

 そっと両手で撫でてみる。

 違う「生命」が自分の中にあるというのは不思議な感覚だったが、アルに言った通りもう落ち着いている。赤ちゃんのよう、

とは言ったものの妊娠の事などよく知らない。弱っている所を保護した小動物、といった印象に近い。

(僕の中でないと生きられないサラマンダー…。僕よりもずっと永く生きてきたのに、力を失って弱々しくなってる命…)

 まだ実感は乏しいが、虫使いにトドメを刺したあの発火は、サラマンダーが力を貸してくれた結果なのだと理解している。

 ノゾムは自分の身に起こった事を整理し、受け止める。この同居人とは、きっと上手くやって行けるだろうと。

(…あ。名前とかつけた方が良いのかな?サラマンダーっていうのは種名だし…)

 何て名前が良いかな?と、サラマンダーが居る辺りを撫でながら、ノゾムは心の中で語りかけた。

 眠っているのか、弱っているからか、感覚を部分共有した時のような返答は無かったが…。

「…うん…」

 ノゾムは微笑む。

「元気になったら答えてよね?どんな風に呼んだらいいのか…」




 サラマンダー調停作戦終了から丸一日が経過した早朝。漁に出ていた漁船が次々と戻る頃合い、入れ違いに湾を出たクルー

ザーが沖へ離れ、遠ざかった陸地がついに見えなくなると、

「…慌しい滞在でした…」

「まったくですな」

 クルーザー後部のデッキで潮風を浴びながら、しみじみと、そして疲れたようにミオが呟くと、頭の包帯を真新しい物に取

り替えたミューラーが同意する。

 全身がガタガタになっているミオには船の揺れを堪えるのも一苦労なので、手すりに縋るアメリカンショートヘアーの背中

越しに腕を回したミューラーが、支える格好で斜め後ろから密着していた。当然…、

(役得役得…!)

 鼻の下が伸びている。

「いつかまた機会があればですが、次は落ち着いて見物して回りたいものですな」

「ええ、そうですね!皆で一緒に、仕事も抜きで!有名なジンジャっていう所もいくつか見てみたいですし、綺麗なフジサン

も眺めてみたいです!」

 歳相応に好奇心に満ちた顔を見せたミオに、ミューラーも笑顔で大きく頷いた。

「俺も気に入ったぜ。ちょこっとしか見てねぇが興味津々だ」

 内海と外洋の境目に当たる位置、不安定な波で船が不規則に揺れるので、ふらつき気味なラドの手を引いてデッキに上がっ

て来たマヌル猫も話に加わった。

「ミオちゃん、興味あんなら船長達に話でもせびってみたらどうだ?どうせ時間はたっぷりあるんだからよ」

「そうですよー?移動中は報告ぐらいしかできないですしー、休息したってバチはあたりませんよー」

「ふむ、一理あるな。…そういう事ですので分隊長殿、今はゆっくりお体を休めて下さいますよう、お願い致します」

 華奢な上官にそう進言し、「はい。お言葉に甘えます…」と苦笑いさせたミューラーは、

(それにしても…。ヤマギシノゾム、か…)

 可愛い子だったなぁ…。もうちょっと日本語が堪能だったらもっと話せたなぁ…。などと、名残惜しく思いながら首都の方

角を眺めるのであった。また鼻の下を伸ばして。

 一方ミオは…。

(あのシロクマの子…)

 北極熊の歳若い巨漢の事を思い浮かべていた。

 大きく、太く、逞しく、白い。共通点はその程度で、種も違うし顔も似ていない。印象も大きく違う。なのに…。

(どうして、あのひとと似ているって感じたんだろう?)

 暴走状態に陥ってもなお、あの北極熊を見た途端に意識が引き戻された。それほど印象深かったのは確かなのだが…。

(見た目にハッとしちゃっただけかな…)

 微苦笑を浮かべたミオは、吹き付けた風に耳を倒した。

 かくしてナハトイェーガーは日本を去る。

 追い続けていたサラマンダーの件が決着したとはいえ、ゆっくり休める訳でもない。次の狩りはまたすぐにでも。

 だから今は、波に揺られて束の間の休息を…。




 狩人達が海へ去った数時間後、朝食を済ませたノゾムはエイルとネネに付き添われ、あの奇妙な発火現象の再現に赴いた。

 正直なところ拍子抜けしていた。すぐにでも政府研究機関の者が来て、あれこれ検査されるのだろうと思っていたのだが、

丸一日何もなかった上に、今日は予定していた試験を受けに行っても良いと、サブリーダーから申し渡されている。ネネ曰く、

検査もテストも全てブルーティッシュで済ませるので、政府の研究機関は今回ノータッチだとの事である。

(そういう事もあるのかな…?)

 詳しくないノゾムはほんの少し疑問に感じただけで納得したが、これは極めて異例の事である。

 サラマンダーがノゾムに宿ったという顛末を知った数名の監査官は、すぐさま政府直轄の能力者研究施設に収容すべきだと

訴え、また別の数名はサラマンダーという危険を宿している以上隔離が妥当だと訴えたのだが、それらはネネが「実家」を通

した交渉で黙らせた。

 ブルーティッシュが一時身柄を預かって各種検査と報告を済ませ、その後は所属している東護調停者連合へ帰すというのが、

ネネが勝ち取って来た交渉の成果。特殊監視対象としてのノゾムの身元預かり人は、東護に住まう監査官のひとり…元々ノゾ

ムを担当していたカズキを指名している。

 例え他の監査官や政府関係者が良からぬ事を考えようと、カズキにだけは手出しできないだろうと、ネネとダウドは意見を

一致させ、この形に持ち込んだ。むしろ政府関係者や監査官であれば、彼に対して下手に圧力をかけたりすれば相応のリスク

があると重々承知しているので、内側から何かされる心配は無くなる。

 作戦に協力した結果、研究対象となって一生モルモットにされてしまっては、ブルーティッシュの沽券に関わる。それ故の

ネネの全力工作であった。

「それじゃあ、そこからあのターゲットを燃やしてみて」

 下手に引火も延焼もしないよう、屋外射撃訓練施設の真ん中に立たされたノゾムは、ネネが指し示した射撃用のターゲット

用紙を見つめて頷いた。

 スタッフが各種計測機器を向ける中、狐は集中して発火現象を起こし…。

(…あれ?いつもと同じだ…)

 普段通りに視力を一瞬喪失し、標的にしたターゲット用紙を燃やして、視力が戻った目で燃え残りが風に散る様を眺める。

 数度繰り返してみても結果は同じ、あの光球は出現しなかった。幾度目かの発火を確認した後で、ネネは「いいの。これは

想定通りよ」と口を開く。

「やっぱり常時できる訳じゃないのね。サラマンダーは基本的に休眠状態なんだもの、ヤマギシ君の力にその影響が出るのは、

起きている時に限るのかもしれないわ」

「起きている時、ですか…?」

 自分の腹を見下ろしたノゾムに、エイルが言う。

「起こしてみてはいかがでありましょうか?」

「起こす?って…」

「モーニングコールであります」

「………」

 ノゾムはしばし考えた後、「おーい…」と小声で話しかけてみた。改めて考えると、自分の腹に向かって話しかけるのはな

かなかにシュールである。

「ちょっと起きてくれない?昨日の発火、もう一回見せて欲しいんだけど…」

 たぶんこの辺り、と思うヘソ下付近を撫でてみたり、軽くぺしぺし叩いてみたりするノゾムを眺めながら、

「…とはいえ、普通に返事をしてくれるものでありましょうか?」

「さあ…?私だってヤマギシ君みたいなケースを知らないもの…」

 小声で囁き交わすエイルとネネ。ノゾムはその間にもサラマンダーに呼びかけ続け、しまいには腹の段差の下に両手を入れ

て揺すり始めた。本人は中のサラマンダーを揺り起こそうとしているのだが、傍から見ているとコミカルである。そして…。

「…あ」

 ノゾムは唐突に声を上げて動きを止めた。

「今ちょっと、「眠い」…みたいな感じが…。いや、「起きたくない」…かも?」

「起きたの!?」

 半ば諦め気味だったネネがビックリする。

「では説得であります。「そこを何とか」と」

「は、はい!サラマンダー、そこを何とか…」

 エイルに促されて頼みにかかったノゾムは、しばし声掛けした後に…、

「…うっ…」

 下っ腹を押さえて小さく呻いた。

(中があったかい…。熱いのが、体の中を巡って…)

 昨夜の一度目は自覚できなかったが、今度は気が付いた。

 あれはサラマンダーが出した火ではない。そもそもサラマンダーは弱っていて、元々の状態のような力は発揮できない。あ

の発火は、力そのものは、サラマンダーではなくノゾムの物。サラマンダーはそれを調整して、あの人智を超えた焼却を実現

させていたのだと。

 逆に言えば、ひとという種にはそれだけ無駄が多い。適切な調整次第で同じ出力でも結果はまだまだ引き上げられる。もっ

とも、独力でソレが可能になった者を、ひとはもう、「ひと」とは呼ばなくなるのだろう。

「…で、出そうです…!」

 下っ腹を押さえながら言うのでネネは一瞬誤解しかけたが、一拍おいて気付くとターゲットを指し示した。そして…。

 

―ミロ―

 

 見た。

 ノゾムの下腹部、押さえている手のすぐ上から、スルリと這い出して来たものがある。

 それは蝋燭に灯る火のような、心安らぐ暖かなオレンジ色で、胴は長く、耳が尖り、小さな四肢とフッサリした尾を備えて

いる。

(管狐…?)

 宿主であるノゾムの影響を受けてそのような姿になったのだろうと直感的に理解したネネは、もう一つ別に、これも直感で

理解した事がある。

 管狐はシュルルルッと素早く一瞬で、少年の脇腹を通って背中側に回り、その肩の上に身を乗り出す格好でターゲットに顔

を向ける。

 その、少年と同じ方向を見つめる小動物は…。

(ああ、きっとそうね…!)

 ネネは微笑する。エイルには見えていない。他のメンバーにも見えていない。思念波を視覚情報として処理する高度な感知

能力によって、ネネだけにその姿がはっきりと見ている。それが少し勿体無いと、灰猫は感じた。

 見れば納得する。少年に懐っこく寄り添い、暖かく燃えているソレが、ひとの敵であるはずがないと…。

 そして、オレンジの球体が出現した。

 西瓜大の焼却炉はターゲット用紙をすっぽり飲み込み、瞬時に「消却」し、消え去った後には燃えカスも灰も残さず、粒子

に近い塵に変えて風の中へ解き放つ。

「…できた」

 改めてその焼却力を目の当たりにし、ポカンとした。

 強力だとか、凄いだとか、感じる以前の問題だった。どれほどの熱量なのか想像もつかず、漠然と桁違いである事を認識し

てはいるものの、現実味に乏しい。何せ、自分本来の発火現象とは違い、余熱が全く感じられないのだから。

 ノゾムの肩に、もう管狐は居ない。ネネには見えていたが、用が済むなりノゾムの胸元へ下ってゆき、またスルンと下っ腹

の中へ入っていた。

「…データはどう?」

 スタッフに尋ねながらもネネは予感していた。

 それは、神代家や鳴神家の当主達など、ユニバーサルステージ級能力者が起こす現象にも似ていた。人知を超える威力と、

範囲外へ漏れ出る余波の、極端な差という点において。それらも、引き起こす現象に対して意志による何らかの介入と補正が

働いているという仮説が立てられてはいるが、どういう仕組みなのかは判っていない。

(う~ん…。アレもたぶん原理不明でしょうね…)

 そしてふと思う。検査結果を報告しても、ダウドは意外そうな顔も見せなかった。予期していたのかと尋ねても、「予測で

きるはずねぇだろ?」とはぐらかしてはいたが…。

(あのひと、本当はこういうケースに心当たりがあったんじゃないのかしら…?)


「…へ?休みっス?」

 同時刻。ダウドの執務室に独りで呼び出されていたアルは、白虎から唐突に「今日から休んでいいぞ」と告げられ、首を捻っ

ていた。

「う~ん…」

 腕を組み、

「ん~…むむむ…」

 目を閉じ、

「うぅ~ん…」

 頭をあちこちに傾けてしばらく唸っていたアルは…。

「えっ!?オレなんか物凄い失敗とかやらかしたんスか!?ヴァリスタ故障したからっス!?」

 バンッとダウドの机に両手をついて身を乗り出した。あれは自分のせいではあんまりない。たぶん。と…。

「違う。休職処分じゃなくて普通の休暇だ」

 近い近い、と手を振って下がらせながら白虎は告げる。

 コックローチは先の大規模殲滅戦で一気に数が減り、首都全域で出没が激減…どころか、捜索しているにも関わらず特区内

では一匹も見つかっていない。郊外で二匹、下水管に詰まっていたのが見つかっただけである。エルダーバスティオンの虫使

いもコックローチのほぼ全頭数を投入していたらしく、幸か不幸か今回の騒動で一斉に駆除できたと考えられた。

 一方、この騒動に乗じる事なく静観を決め、警戒して成り行きを見定めていた他の組織なども、すぐにはアクションを起こ

さず注視を続けるようで、首都の裏側は今、巨大組織「黒武士」が壊滅して以降滅多に無い、極めて平穏な状態となっている。

「という訳で夜間待機からも外す。せっかくの休暇だ、好きに使え」

「好きにって…、どう使えばいいんス?」

「「好きに」、だろうが」

 ダウドはトントンと指先で机を叩きながら続けた。

「ネネも了解済みだ。休暇用って事で特別に小遣いを出すってよ。お年玉五口分ぐれぇな」

「ホントっスか!?って…、ご?五口?五口って…、まさかゴマンエンっスか!?」

「ああ。パーッと使ってもいいし、何かの時のために取っておいたって…」

 ダウドの言葉も話半分になってしまったアルの脳裏を、内蔵電球と特殊素材でボディのあちこちがグラデーション発光する

ギミックを備えたビッグサイズのプラモデルが過ぎった。お年玉でも歯が立たなかった、レトロな豚の貯金箱をひっくり返し

ても手も足も出なかった、夢の高級プラモデルが。

 調停者としての稼ぎはかなりあるのだが、アルの給金と貯金は全てネネが管理しており、月々の小遣いは決められている。

これまで手にした事が無い小遣いの額を聞いて、玩具屋のプラモデルコーナーまで意識がトリップしているアルは…、

「褒美ってヤツだ。せっかくダチも来てるし、お前も夏休み中なんだからな、たまにはパーッと遊んでみろ」

 ダウドがニヤリと笑ってそう言うと、ハッと我に返った。

(あ!休暇ってつまり、ノゾムがこっちにいる間は休んでて良いって事っス!?)

 理解すると同時に気を付けしてピッと敬礼したアルは、「じゃあ早速休むっス!」と言い残すなり、部屋から駆け出て力任

せにドアを閉めて姿を消した。

「そんな慌てなくても良いだろうによ…」

 呆れ顔で呟いたダウドは卓上の電話を取ると、

「さて、俺の方も約束を…。アイツが好きそうな物…。そうだな、和食なんかが良いか?今はいい雲丹が入ってるって女将が

言ってたっけな…」

 個人的な秘密の約束を守るべく、特殊回線で連絡を取る。

「…俺だ。運び屋は居るか?夫の方…」

『「へべれけのんべぇ」を推薦する。若大将が今朝、鮮度の高いガゼ雲丹とクルマ海老とアオリ烏賊、カジキマグロを競り落

とした。それにあの店には日本海側の酒が多い。タンブルウィードも喜ぶだろう』

「………」

 要件を告げる前に、最新情報の下調べを済ませた上で飲み屋を推薦してきたユミルの電子音声を耳にして、白虎は何とも言

えない真顔で黙り込む。

「…気持ち悪ぃな、お前…」

『それはどうも』



 そうして、調停者として少し成長したノゾムは、作戦参加で取得し損ねた分の免許は地元で取ればいいと気持ちを切り替え、

残る試験を見事にクリアした。

 ブルーティッシュからは作戦に従事した分として報酬と手当てが出る事になったのだが、宿泊も食事も指導も世話になった

のだからと、ノゾムは受け取りを辞退した。

 だが、断り切れずに受け取った物もある。ブルーティッシュから試験合格祝いとして贈られたアタッシュケース二つだけは、

辞退しても困らせてしまう品だったので。

 一方のケースの中には小ぶりな拳銃…グロック26と予備マガジン、そしてエイルがチョイスしたレーザーサイト、スコー

プ、サウンドサプレッサーなどの各種オプションが整然と収められていた。取り回しに特化したコンパクトなグロック26が

選ばれたのは、訓練での貸し出しで最もノゾムが扱い易そうにしていたのがグロック系だったからである。

 外装こそほぼメーカーから出荷されたままの姿ではあるものの、ブルーティッシュお抱えのガンスミスがノゾムの射撃訓練

データを元に調整を加えた、一丁だけのカスタムメイド品。対危険生物用の特殊強化弾を多用する前提で、バレルやハンマー

などのパーツを耐久性向上と妨害型能力対策のため神鉄合金に置き換えてある。

 二つ目のケースには擲弾発射器。タクティカルグレネードランチャー「トロールバスター」。耐久性と信頼性が重視された

単純構造の元折れ式単発銃で、必要最低限のラインまで全長を短縮してあるシルエットは、アルが用いるソードオフショット

ガンにも似ている。

 市街地での使用は勿論、危険生物との激しい戦闘や接近時に直接打撃を受けた際のダメージも考慮して開発されており、ひ

たすらに頑丈で信頼性が高い。また、用途に応じてストックの取り付けが可能で、砲身の上下にピカティニーレールが設置さ

れ、拡張性を高められている。

 特筆すべきは砲身。必要な強度を満たすために分厚くて重くなっているが、神鉄をふんだんに使用した合金製の砲身は、ブ

ルーティッシュの剣使い数名がジルコンブレードで切りかかるという耐久テストを行なっても切断に至った者はひとりも居な

かった。

 これは最近になって正式採用された逸品で、まだブルーティッシュ内の希望者にも行き渡っていない。先行生産された十丁

の内の貴重な一丁を、エイルが受領辞退した分である。

 ノゾムは恐縮する贈り物を受け取り、試験もパスできて気が楽になった後は、はしゃぐアルに引っ張り回される格好でくた

くたになるまで首都見物を満喫した。

 身に宿ったサラマンダーは、様々な検査の結果、ノゾムの能力に増幅や変化を及ぼしているらしいと解析できたものの、メ

カニズムは不明。しかも助力は常にある訳ではない。サラマンダーは基本的にいつも眠っており、ノゾムの呼びかけなどで起

きた時だけ発火現象に変化が生じる。つまりノゾムにも完全なコントロールはできないのである。

 ブルーティッシュ内のテスト使用でノゾムが再現できたのは二度だけ。よって、内燃結界とでも呼ぶべき特異な現象…「焼

却炉」の原理についても、分析が満足に出来なかったので不明のまま。

 ただ、極めて特異な物となったその発火現象は、既存の能力類による物とは大幅に質が異なるため、改めて固有の名称を与

えられる事となり…。



「あら?トウヤさん夜勤でしたっけ?」

 東護町調停者連合の仮本部、ここの責任者となっているスナイパーがまだデスクに残っている事に気付いて、ゴミ箱を掃除

して回っていた中年女性が声をかけると、

「ああいや、もう帰るところですよ」

 トウヤはそう応じて、自分のゴミ箱は片付けましたと付け加え、デスクトップ端末に目を戻した。

 モニター上に展開されているのは、ブルーティッシュのリーダー、ダウド・グラハルトからの「ノゾムの状況報告」である。

 東護町の調停者は、バベルの出現まで起こってしまった昨年末の大規模戦闘で多くが殉職し、五体満足のチームは一つもな

い。メンバーの大半を失ったチームも珍しくなく、リーダーが殉職したチームも多い。

 大半の機能が死んでしまったチームばかりで町を護るため、立案されたのが「連合化」。いわゆる組合方式にして窓口も事

務も煩雑な手続きも一本化し、互いの傷を埋め合う形で、東護町の調停者達は共同体を構築したのである。

 あの事件では監査官の殉職者も出ており、やってきた後任はまだ勝手が判らない事も多い。カズキら元々の監査官に負担が

かかる中、一つのチームとほぼ同じ形で活動するのは互いの負担軽減にも繋がった。

 よくやってはいる…と言えるのだが、それは「損害がある中で」の話である。人手不足かつ「強力な調停者が不在」の今、

以前の東護とは全体の戦力が比較にならない。もしエマージェンシーコールが必要となるレベルの大事故、大事件、大災厄が

発生してしまったなら、東護単独で持ちこたえる事は不可能である。

 そんな中で、東護に居た調停者数名と縁があったダウドの好意により、国内最大のチームであるブルーティッシュと協定を

結べたのは大きかった。正式なアライアンスとなった事で受けられるのは、緊急時の相互協力だけではない。技術提供や情報

共有、仕事の紹介や身辺警護の業務受け渡しなど、様々な恩恵に預かれる。

 今回ノゾムの滞在を受け入れてくれたブルーティッシュは、大規模な作戦を経ながらも、同盟者として誠意ある対応をして

くれた。

(ヤマギシ君が国の機関に引き渡される事は無い。不定期の精密検査はあるが、基本観察は所属チームと担当監査官に一任…)

 ダウドからの連絡にはこの形に落ち着くまでの背景が一切記されていなかったが、恐らくネネが実家のコネを使って研究機

関送りを阻んでくれたのだろうと、トウヤは察していた。束縛から逃れたくて調停者を目指した少年が、それより辛い研究対

象にされるのはしのびない。心底ホッとしている。

 しかし、正直なところトウヤは複雑だった。

 ノゾムは発火能力を持つが故に、親から忌避され遠ざけられた。

 その発火能力は、少年の色覚と引き換えに進化した。

 そして今度は、サラマンダーが宿った事で変質を遂げた。

 生まれ持った能力のせいで、少年は不自由を強いられてゆく。まるで代償を支払うように次々と…。

(力をつける事で死に難くなるのは歓迎なんだが…、若い内から色々苦労するな…)

 ダウドから提供された新たな発火現象やノゾムの健康状態を示すデータなどを一通り確認したトウヤは、原理不明と結論付

けられたデータの末尾に記されていた一文に目を止めた。

(…「既存の発火燃焼型の能力類とは質を異にするため、このサラマンダー由来と思われる変質が見られる現象に対し、以下

のとおり固有の仮称を設定する」…。ふむ?)

 トウヤは卓上端末の電源を落とし、椅子から腰を上げて背伸びし、凝り固まった肩を揉みながら微苦笑した。

「フェイタル…イグニッション…ね。なかなか格好良いじゃないか」

                                                                             おまけ

おまけ2