桃園の誓い

「ホン、忘れ物とか大丈夫かい?」

 恰幅の良いジャイアントパンダの若い女性が、着替えをトランクに押し込んでいるレッサーパンダの私室を覗き込んだ。

「あ、シン姉さん。丁度良かった!」

 振り向いたホンスーは、トランクの前から少しずれて、蓋を締めて欲しいと嘆願する。

「いいけど…、詰め込み過ぎじゃないこれ?こんなに服を入れるなんて…どっこいしょ」

 ホンスーが苦労していたトランクを、ノシノシ歩み寄って腕力に物を言わせ簡単に締めたのは、伏星声(フー・シンシァン)、

ユェインの妹である。

 兄達に似て体格が良く、サッパリした性格のしっかり者。そして、「乙女の嗜み」として武術…八卦掌と、その兵器の一つで

ある刀術を修めた豪の者でもある。特に父譲りの大刀術の腕前は相当な物で、成人男性の身長ほどもある八卦大刀を軽々振り回

し、直径30センチを超える木柱を一刀のもとに袈裟断ちし、上半分を勢いでコルク栓のように吹き飛ばすほど。職業としては

八卦掌の一大門派の師範代になる。

 元々骨太で丸みを帯びた体つきなのだが、今は一層、腹回りが大きく見える。時折、その張った腹の曲面を気遣うように、そ

して愛おしげに、シンシァンの手が撫でる様を見る度に、ホンスーは気持ちがホワッと温まる。

 大きくなったシンシァンの腹の中には、婿との間にできた伏家の跡取りが居る。ホンスーにとってはいとこに当たる命が。

 両親に祖父母、母方の親族をことごとく失ったホンスーにとって、親類が生まれるのは喜ばしい。まして年下の親族など、二

歳になる前に皆と共に失われてしまったのだからなおさらである。小さくて、可愛らしくて、柔らかくて、暖かい命。思い出す

と哀しくもなり、懐かしくもある故郷の断片…。

 なお、シンシァンはホンスーから見れば叔母に当たるのだが、「おばさん」と呼ぶとあからさまに機嫌が悪くなるので、「シ

ン姉さん」と呼んでいる。

「遠出だから着飾りたいとか?」

 トランクを立てて手を放すなり、いとし子を宿した腹を大事そうに撫でるシンシァンに、ホンスーが頷く。

「はい。おじさんと一緒だし、格好は気を付けないと…」

「は?一緒だからって…、あの兄さんだよ?」

 ホンスーの返答で訝る顔になるシンシァン。その直後…。

「ホン。支度は進んでいるか?」

 部屋の出入り口に姿を見せたのはユェイン。

 下は穿き古しのジーンズ、上は全体的に白く、肩から袖が黒い、胸に太極図がでかでかとプリントされたトレーナー。若者風

の格好と言えば聞こえはいいが、四十代の管理職…それも軍人であり連隊長…上位将校の格好としてはラフ過ぎる、部屋着と変

わらない格好であった。

「ね?」

「?」

 気にする事は無かっただろう、という顔のシンシァンと、胡乱げに首を傾げるユェイン。私的な事に関しては大雑把なユェイ

ンだが、私服も無頓着。袖を通せて丈夫ならそれでいい、の大雑把精神で着る物を選ぶので、価格も見た目も気にしない。

「はい、いま荷造り終わりました」

 ホンスーの大荷物を見ても特段何も指摘せず、「そうか」と頷いたユェインは、

「三十分後に出発する。車庫で待つので、遅れないように。シンシァン、土産を楽しみに」

「あー…、あんまり期待しないで待ってるよ」

 そう妹と言い交わすなりホンスーの荷物を持ち上げ、部屋を出て行った。

「…ねぇ、ホン」

 兄を見送り、顔を廊下に向けたまま、シンシァンは小声で甥に呼び掛けた。

「大丈夫かい?」

「え?」

 ホンスーを振り返った時には、シンシァンは目尻を下げて心配そうな顔になっている。

「帰郷、大丈夫かい?」

「………はい」

 頷きはしたが、ホンスーにも確証はない。

 父の実家に引き取られて以降、ホンスーは帰郷した事が無い。あの年、村人が居なくなって以来、初めての里帰りだった。

「ねぇ、ホン」

 ゆっくり歩み寄って、シンシァンは少し腰を屈めて甥の目を覗き込む。

「辛かったらいつでも帰っておいで…。帰郷の事だけじゃない、「その後」もだよ。ここはアンタの家さ。アンタの家族が居て

アンタの部屋があるアンタの家さ。遠慮なんか要らないんだよ」

 ホンスーが引き取られて来た子供の頃から、ずっと面倒を見てきたシンシァンだから、甥にあてがわれた過酷な運命と険しい

道行きに心を痛める。

 本人が決めたなら反対はしないが、もしも諦めるならそれでもいい。ホンスーが穏やかに、幸せに、人並みの生き方ができる

のならそれが一番良いと、シンシァンも母も思っている。

「…ありがとう、シン姉さん…」

 叔母の顔を見返しながら微笑み、レッサーパンダは礼を言う。

 有り難かった。自分がその好意に甘える事は無いけれど、その厚意に応えられないのは心苦しいけれど、その言葉と気持ちが

嬉しかった。

 やがて、シンシァンが出て行き、独りになった私室で、ホンスーはそっと息を吐き出す。

 緊張はしている。当たり前に。何せ、故郷へ帰ったら…。

 祖母や叔母が好むので、ホンスーの部屋は西洋式の家具が多い。クローゼットもベッドも壁も、北欧風の木材の肌とオフホワ

イトを基調にしたデザインになっている。広い部屋を横切って身だしなみチェック用の三面鏡に歩み寄ると、レッサーパンダは

自分の顔を見つめ、ベッと舌を出した。

 ピンクの舌の表面には、白と黒の陰陽魚が組み合った紋様が現れている。

 太極炉心。炉心自体は異層に存在しており、太極炉は物理的に言えば体積ゼロ。舌の内部にある訳ではなく、投影された物が

見えているに過ぎない。実際に色がついている訳でもなく、舌その物はいかなる変質もしていないので、ホンスーに自覚できる

変化はまだ無い。

 ただ、発生したばかりの頃に比べて安定してきたせいか、以前よりもくっきりしてきていた。今は停止しているが、時々仙気

を発生させて回る。修行していないホンスーにはまだそれを制御できないので、太極炉心が必要に応じて自動運転し、勝手に体

内へ仙気を巡らせている形である。

(コレを、一番すごい邪仙達…、四罪四凶が欲しがった…)

 ユェインから話は聞かされた。仙人…邪仙とその大元である四罪四凶については。

 四罪四凶はこの太極炉心を得て、人から仙人になるために、神仙達を裏切り、しかし果たせずに不完全な炉心を得た。

 その件がきっかけになり、桃源郷の神仙はごく少数を除いて人類を見限った。自分達の同類になるどころか、世界の脅威に成

り得る存在だとして…。

 だが、ホンスーはこの双方の認識を、大前提から覆す最初の例だった。

 太極炉心を神仙から与えられるのではなく、その技術と品を用いて太極炉心を模造するのでもなく、炉心を自己生成した、確

認できている中で最初の、ただ一人の例…。

 ホンスーは、桃源郷の神仙達が人類への評価を再審する材料になる。

 同時に、事情を知れば四罪四凶が確実に狙う、稀有な確認対象になる。

 そして、軍にしてみれば邪仙に対抗し得る戦力を得るための、希少なサンプルである。

 自分が持つ価値を自覚できないまま、ホンスーはユェインの意思に従う事にした。

 太上老君…ルーウーに弟子入りし、桃源郷の神仙達に会い、人類への評価を見直して貰う。それは、邪仙からより多くの人々

を救う助けを得られるかもしれない、大きな希望なのだとユェインは語った。それはとても重要な事だと、漠然とではあるがホ

ンスーも理解している。

 軍を退役してから一ヶ月と少し。第八連隊に所属し、秘匿事項案件にも多少触れたホンスーだが、ユェインの甥なのだから管

理はできているだろうという判断から、監視や行動制限はつかなかった。この辺りはチョウが予想した通り、伏家へ遠慮と配慮

が入った甘い処遇。今後の生活についても一切束縛や制約はなく、家を出てルーウーに弟子入りしても軍や政府に詮索される恐

れはない。伏家は口裏を合わせて行方を誤魔化すだけでいい。

 なお、ホンスーの退役理由は、仙人と遭遇して被害を目の当たりにした恐怖による依願退役という事になっているが、これは

「そうしておけば滅多な事には関わらないと上も判断するでしょう」というチョウの入れ知恵による。本人には不名誉だが、安

全を一番に考えての事だった。

 ただ、ホンスーはこの一連の件に、自分の安全を優先してチョウが知恵を絞った事は知らないが…。

(他に代わりが居ない大事な役目…。修行して、仙人になれれば、助かる人が今よりたくさん…)

 皮肉な事に、触れられる情報に制限があった第八連隊所属の少尉だった時よりも、仙人のタマゴとなって詳しい話を叔父から

聞かされた今の方が、事情に詳しくなっている。

 ユェインが相対し続けている存在がどんな恐ろしい怪物なのかという事も、それらが齎す人的被害がどれほどの規模になって

いるかという事も、以前より詳しく知っている。

 何故自分だったのかという疑問は当然抱いたが、少し納得できる説明を叔父から聞いた。

 伏家は宝貝や簡素な方術と相性が良い家系で、ユェインには仙人になれる資質が少しばかりあった。おそらくその兄であるヤ

ングァンにも資質があったのだろう。もしかしたら弟以上に。

 そして、もう存命の親族が残っていないので確認しようが無いのだが、ホンスーの母方の家系はネパール側から移動してきた

民の末裔で、「その血」を濃く残していた可能性がある。桃源郷とは起源…元々の陣営が異なっている「別種の仙人」が住まい、

そのようになろうとしていたネパールの少数民族の血を…。

(軍人では役立たずでも…、今度は…)

 静かに決意を新たにするホンスー。しかし、そもそも二十歳で少尉になって小隊規模での現場行動に同行させられる辺り、ホ

ンスーは決して無能ではない。一番よく知っている軍人の姿が他でもないユェインで、比較対象が最初から適切ではない上に、

チョウが意図して厳しく接していたせいで自己評価が低いのだが…。軍人でいる事に反対だった猪ですらも、個人の武力はとも

かく指揮官補助としては活躍できると、適性試験やペーパーテストの結果からも評価していた。

(今度は、ちゃんと役に立てるように…!)

 口を引き結び、踵を返す。

 十年以上経って対面する故郷に尻込みしていては、これから打ち込むことになる仙人になるための修行に耐えられないと、気

持ちを強く持って。

 

 

 

 乾いた風が頬を撫でる。

 肌寒いとまではいかないものの、暖かいとも言い難い、少し強い風が。

 高地の山間。荒れ果てた村跡の端に並ぶのは、夥しい数の墓石。

 その一つの前で、がっしり逞しい固太りの猪が跪いている。

 墓碑に刻まれているのは伏姓…ホンスーの両親の名。

 ただ、その下に遺体は無い。空っぽの墓の前で、自分の両親や親族、そして他の全ての墓にそうしてきたように、チョウは祈

りを捧げて日々の報告を行なっている。

 その脳裏を過ぎるのは、まだホンスーが赤子同然だった頃の、昔の出来事。平和で、何もなくて、ありふれていた、村のある

一日の事…。

 

 ドタドタと、軽快なようで面積に対する重さがある足音を聞き、台所のジャイアントパンダは作業台から顔を上げた。

 月餅の具にする餡にゴマや砕いたナッツを練り込んでいた手を、軽く桶で洗い、振って水気を飛ばしながらタオルを取り、手

を拭いつつ玄関へ向かう。下手の横好きと自認していたが、所帯を持つにあたって越して来たこの村では、農作業などの合間に

振舞う手作りの菓子は大変喜ばれた。

 フー家の放蕩息子と、よく揶揄されてきたヤングァンは、この村ではだいぶ評価が高かった。気の良い田舎の住民達は、名家

の長子が越して来た事を単純に珍しがり、興味を持ちはしたが、故郷の者達とは違って、役に立たないから追い出されただの、

弟と比べられるのが嫌で逃げ出しただの、陰口を叩く事は無かった。

 文化が品性を培うとは限らない…とはヤングァン自身のうそぶきだったが、案外持論は間違っていなかったのではないかと思

えてきてしまう。

 玄関口を覗くと、そこには思った通り、走って来た割には入り口で入念に足をトントンして土埃を落とし、失礼が無いように

気配りしている緊張気味の猪少年の姿。

 足元を気にしていたチョウは、ジャイアントパンダが出て来た事に気付くとハッと顔を上げ、背筋を伸ばして「こんには、ヤ

ングァン様」と礼儀正しくお辞儀する。

「やあ、こんにちはチョウ君。どした?」

 応じたジャイアントパンダは、背中を真っ直ぐにした分だけ目立ってしまう少年の大きな腹を見て吹き出しそうになった。

 裕福ではない寒村、生活品は近所でお古をお下がりリレーし、着られなくなるまで使い古すのが慣わし。しかしまだ十四歳な

がらもうかなり体格が良い猪は、貰ったお下がりがだいぶ小さくなってティーシャツの裾が足りておらず、腹の下側が四分の一

ほど出てしまっている。

 少し大きいかもしれないが、自分のお古をあげようかとヤングァンが考えていると、チョウは脇に抱えていた分厚い鳥類図鑑

と航空機の本を示して、「ユェイン様が来てるって聞いて。借りてた本を…」と来訪の意図を告げる。

 田舎育ちながらも頑張って品良く接しようとする猪の子を、可愛い精神性だと感じているヤングァンは、目を細めながら大き

な体を横向きにし、道を譲って廊下の脇に寄る。

「ユェインは奥でホンスーの面倒を見てるよ。オヤツに月餅を作っていたから、チョウ君も食べて行きなよ」

「はい!」

 ヒュンッと房付きの尾を上下させて、嬉しそうにうなずく猪少年。

 良家の子息と大人達から聞いているチョウにとって、村の誰とも違う文化人のヤングァンは、憧れに近い物を抱く大人だった。

農作業も半人前と自嘲し、大した者ではないと謙遜していたが、雅な文化人であり知識人だった。

 何でも中途半端と本人は笑っていたが、知識豊富なゼネラリストとして非常に有能だった。

 村に来てから一年、大雨の度に溢れかえった用水路の再整備や、土壌の改善など、必要な事を把握して二年目に改善を提案し、

実行。三年目には農作物の収穫が全体で20パーセント近くも増加した。これは農作業を共同で行なう村にとっては単純な生産

率と収入の増加であり、国家で言えば収益が2割増しになるなるような物だった。

 ヤングァン自身は農地開墾と治水工事について、父が得意としていた事だったが自分にはこれがせいぜいだと語った。しかし、

土木工事の専門家も業者も入れず、作業期の合間を縫って人力でできる程度の改善でそこまで成果を上げるのは、植物や土壌に

ついての多角的な知識がなければ不可能な事。農業は素人かもしれないが、それを別の視点でサポートする手腕は見事だった。

おかげでチョウはここ数年ひもじい思いをした記憶がなく、栄養不足から重篤な病に罹る者は一人も居なかった。

 菓子を作って皆を楽しませ、困り事があれば知恵を出し、教育水準が低い村で家庭教師の真似をして、子供達を楽しく学ばせ

様々な事を覚えさせた。彼が居なければ軍人になる道もずっと険しかっただろうと、今でもチョウは思う。

 嫁にしたレッサーパンダはそそっかしいと評判だったが、落ち着いてゆったりした性格のヤングァンと上手く噛み合っていて、

夫婦仲は良好。

 理想的な大人の姿の一つとチョウの目には映っていた。目立ちたがる性分ではなかったので村の中心人物という立ち位置には

収まらなかったが、何も無ければいずれ皆から頼まれ、村長役になっていたのではないかとも思う。

 道を譲ったヤングァンの前を、同じく横向きになって、狭い廊下ですれ違おうとしたチョウは…。

「あ、ちょい待ち」

 お互いに出っ張った腹が擦れそうなそのタイミングで、ヤングァンに両肩へポンと手を置かれて立ち止まる。

「服、だいぶ小さいな。ヘソが出てるじゃないか?少しブカブカになるかもだけど、おじさんのお古をあげよう。なに、チョウ

君はもっともっと大きくなるだろうし、その内に丁度良くなるさ」

 シャツの裾を摘まんで捲ったり、生地が張っている肩回りの窮屈さを確認しながら、ヤングァンは笑いかけた。

「チョウ君は、君んトコの父さんより体格が良いからな。ちょっと年上の子のお下がりも、丁度いいのがあまりないだろうし」

「あ、ありがとうございます。でも…」

 猪の少年は嬉しい反面、恐縮もした。ヤングァンは華美な恰好こそしないものの、実家から持ち込んだ衣類はどれも上等な物

である。そんな物を貰うのは気が引けてしまうが…。

「いつもホンスーと遊んでくれているお礼だよ。おじさんも毎日助かってるからさ」

 それで釣り合うだろうかと、子供らしからぬ遠慮を感じるチョウだったが、結局頷かせられて奥へと送り出された。

(ユェイン様にお礼を言わないと…。今度の本も面白かったー!複葉機の写真たくさんあったし、鳥の図鑑も全部色付きで…)

 胸を高鳴らせながら、家の裏手側にある子供部屋へ向かうチョウ。

 たまにヤングァンに会いに来る弟のユェインは、想像し得る限り最も立派な軍人像その物の人物で、こちらもまた憧れの対象。

物静かで、堂々としていて、逞しく、しかし乱暴でも粗野でもない品がある巨漢…。偉い軍人と、説明されなくとも察せられる

風格がある。

 とはいえ近寄り難いのはその強面だけで、正確はむしろ穏やか。ヤングァンが賑やかで活発に見えるほど落ち着きがあり、口

を開けば典雅な発音でゆったりと言葉を聞かせてくれる。

 桃園で卓を挟み、花弁が落ちる下で酒を酌み交わして難しい話をしているジャイアントパンダの兄弟の姿は、幼い頃からチョ

ウには貴く眩しい物に見えていた。

(ん?戸が開きっぱなし…)

 子供部屋の前で足を止めたチョウは、何も聞こえてこない事を不審がりながら中を覗き…。

「………」

 一度きょとんとしてから、顔を緩ませて笑った。

 大きなジャイアントパンダが、床で仰向けになっている。その呼吸で上下する大きな腹の上で、レッサーパンダの小さな幼子

がうつ伏せで寝ている。甥っ子を上に乗せて絵本を読み聞かせていたらしいユェインは、胸の上に本を開いたまま眠ってしまっ

ていた。上下する腹の上で浮き沈みしているホンスーは、よだれで伯父の服を広く染めている。

 そっと後退したチョウは、ふたりを起こさないように、笑いを噛み殺して引き返し…。

「あれ?居なかった?」

「眠ってました」

「あ、そっかー。静かだと思ったら…」

 ヤングァンと小声で言い交わして笑い合って、月餅作りを手伝って…。

 

 村のはずれの共同墓地で、最後の墓の前で長らく跪き、手を合わせていたチョウは目を開ける。

 風雨にさらされ、手入れする者も居なくなった村の墓地にしては綺麗である。傷んだ墓石は修理され、雑草も処理されて、全

体的に見栄えは良い。

 それは、長い休暇に入るたびに、帰って来たチョウが手を入れているから。今回も三日前から一人で大掃除していた。

 チョウにとって、帰るべき故郷は今でもこの村である。迎えてくれる家族が居なくとも、顔を合わせるべき親族や旧友がなく

とも、ここだけがチョウの帰る場所。平時は軍の宿舎を住処にしているが、春節など長い休みはここに戻り、独り実家で過ごし

ている。

 ユェインからは、屋敷の近くに家を構えないかと、休暇の間は我が家に来ないかと、何度も誘って貰ったが、謹んで辞退した。

引き取られてあちらが実家になったホンスーと顔を合わせ辛いからでもあったが、それは理由の半分。もう半分は、他の場所に

落ち着ける住処ができたら、この村から足が遠のいてしまうような気もしていたからである。

 一つ一つの墓標の前で報告を終えたチョウは、両親の墓前で立ち上がると、村を振り返った。

 帰る者が無い多くの家は長年の風雨で傷んで崩れ、中には完全に潰れた物もある。

 ホンスーの実家は伏家が取り壊して更地にしたが、チョウの実家は帰郷の度に手入れして老朽箇所を修繕しているので、唯一

昔の姿を保っていた。

 墓の中に、あの日居なくなった皆の骸は入っていない。

 崩れゆく家々は、中はあの日のまま少しずつ失われてゆく。

 いずれチョウの実家を除き、この村は草木の中に、崩れた石壁と土台だけ残すのだろう。

 いや、と猪は半眼になる。いつか自分も居なくなる。ここはひっそりと、忘れ去られて花木の中に沈んでゆくはずだった。

「さて、と…」

 気持ちを切り替えるように、腰ポケットに半分押し込んでいた手ぬぐいを抜いた猪は、それを頭に巻くように被る。

(昼過ぎにはユェイン様もいらっしゃる。気合いを入れて掃除の仕上げをせねば…。風呂は念のためもう一度。居間ももう一度

確認を。寝室も再度掃除を。家の周りも少し気になる所があるな。それから…)

 家に向かって足を踏み出し、やる事を再確認するチョウは、やや重く感じるその足取りを自覚した。

(一ヶ月半ぶりの、顔合わせか…)

 来るのはユェインだけではない。今回はその甥も、ここへ連れて来られる。

 ホンスーはチョウが異邦人達の護衛として同行している間に退役してしまったので、ふたりが顔を合わせるのは、カナデが仮

設駐屯地に居たあの日以来となる。

 

 

 舗装もされていない山道を、シルバーのワゴン車がガタガタと揺れ進む。

 実家に帰った時しか乗れない愛車、興旺のハンドルを片手で握るジャイアントパンダの隣で、助手席のレッサーパンダは両手

を足の上にきちんと乗せている。

「あと少しだ、ホン」

「はい…」

 家を出て二日目、道中一泊してきた帰郷。もうじき峠を抜ける。緊張が強くなってきたホンスーは、キュッと手を握った。

 左側に続く山肌が切れて、不意に視界が開けると、そこには、風化しつつある故郷の村。

「………!」

 ホンスーが意味を飲む。ユェインは隻眼を前にだけ向けており、甥に視線を向けない。

 潰れた家もある。生い茂った木に隠れそうな家も。だが、面影はまだ濃く残ってる。幼少期を過ごした、あの頃の面影が…。

 広い桃園はそのまま残っていた。道も草木で隠れる程ではない。十年以上も人が住んでいないのに不思議だと感じつつ、ホン

スーは自覚する。

 思ったより平気だった。

 変わり果てた故郷を目にしてどんなに取り乱すだろうかと心配していたのに、思ったほど酷くはなかった。

 そこは、静かに沈んでゆく村。村落の死骸とでも言うべき故郷はしかしゆるやかに自然に還ってゆく途上にあり、うら淋しく

はあれど、そこには想像したような生々しさはなかった。

 ホンスーが大丈夫そうな事を確認しつつ、ユェインはワゴンを進め、村の中のデコボコした地面の上を抜けてゆく。

 やがて、広い更地…ホンスーの家があった場所の、すぐ隣に建つ一軒の家屋と、その脇に停まったジープが見えて来た。

 軍が払い下げた物を買い取った、チョウの私用車。その隣に車を停めると、家の中からガッシリ肥えた大柄な猪が迎えに出た。

「お疲れ様です、ユェイン様」

「世話になる」

 車を降りた上官に丁寧に頭を下げたチョウは、

「あ、あの…」

 助手席側から回り込んできたレッサーパンダを一瞥すると…。

「…しばらく」

「は、はい…。お久しぶりです…」

 素っ気ない挨拶に、尻尾をクタンと下げながら応じるホンスー。

(謝らなくちゃ…。ちゃんと、謝って仲直りを…)

 そう思うのに、言いたかった言葉がつっかえたように喉で止まる。

「道中の運転でお疲れでしょう。どうぞ中へ、すぐに茶の支度をしますので…」

「いや、先に墓参りしてくる。ホン、良いかな?」

「…はい。行きます」

 ユェインに促され、ホンスーが後に続き、ふたりが墓の方へ向かうのを見送ると、チョウは玄関から屋内に戻り…。

 ゴン、と鈍い音が響いた。

 太い柱に額を打ち付け、猪は唸った。

(何が「しばらく」か!)

 ゴスゴスゴスゴスッと繰り返し柱に頭突きするチョウ。

(あれだけ!頭の中で!練習を!したのに!口を開けばあれか!)

 実は、カナデに諭されチーニュイに言われ、腹を決めたチョウはずっとホンスーに話しかける脳内シミュレーションと、発声

練習を密かに繰り返してきた。

 そして、ホンスーを連れての内密な話を交わすため、この村に三人で集まるという話をユェインから提案されて以降、ほんの

数分前まで居間で会話の実動練習までしていたのだが…。

(この根性無し!意気地なし!でんでんむし!)

 頭突きの連打で激しく自分を責め続ける猪。天井からパラパラと埃が落ちて、せっかく綺麗にした廊下が少し汚れた。

 

「…大丈夫か?」

 墓の前で、ユェインは目を開けた甥を窺った。

 まだ手を合わせたままのホンスーは、「はい」と頷く。

 涙は出なかった。心は乱れなかった。幼いあの日に散々泣いて、喪失感で哀しみを吐き尽くしたのか、思っていたほど哀しく

はなかった。

 ただ、ストンと何かが胸に落ちたような感覚はある。

 心残りだった墓参りがやっとできた。安心したような、区切りがついたような、そんな気分だった。

 チョウが帰郷する度に掃除しているという話は、道中でユェインから聞かされた。お礼を言わなければと思うのだが、話しか

けられるのを嫌がっているのではないかとも考えてしまう。

(話し辛いのは…、軍を辞めても変わらなかったな…)

 

 村には電気もガスも水道も通っていないので、チョウは滞在の度に発電機や燃料、食材などを持ち込んでいた。

 ただ、簡素な作りの冷蔵庫や調理器具、食器類は置きっぱなしにしている。年に数度しか帰らないとはいえ、その都度十日前

後は滞在するのだから、置いておける品はなるべく揃えておく方が手間が掛からない。何せここは、泥棒が入る心配すらない僻

地なのだから。

 川紅…ユェイン好みの中国紅茶の香りが漂う居間で、椅子に掛けてテーブルについているホンスーは、叔父と猪の会話に混じ

らず口をつぐんでいる。

「…よって、老君にホンを預ける際には私が送り届ける。想定したくはないが、万が一という事もあるだろう」

「それが良いでしょう。仙人にも、そして軍にも…、勘付かれないと思いたいですが。その間は万全を期して四方を注視し続け

ておきます。離将も睨みを利かせておいて下さるらしいので」

「そちらにも期待しよう」

 ユェインとチョウは、ホンスーをルーウーに弟子入りさせる段取りの、最終段階まで意見を詰めていた。

 一時ルーウー達の旅に同行していたチョウは、桃源郷に入るための困難な道行きについて説明を受けており、その情報をユェ

インとも共有していた。

 そもそも桃源郷とは異空間とも言えて、通常の空間からずれた層に存在する、一種の別世界にして小世界。物理的に地続きに

はなっておらず、特殊な出入口と道で下界と繋がっていた。そこへ招かれた者だけに見える、あるいは天へ登る帯のような坂…、

地の底へ降りてゆくような崖沿いの階段…、そんな「道」を通る事で桃源郷に辿り着く事ができた。

 しかしそれも「かつては」の話である。

 四罪四凶が桃源郷から離反した際に、彼らは追っ手を防ぐ時間稼ぎとして、桃源郷に通じる「道」を全て破壊した。以降桃源

郷は人類と距離を置き、道も修復されていないため、現状では人類が桃源郷に至る道は完全に失われている。

 だが、桃源郷と下界を行き来する手段自体はまだ存在する。ルーウーが、そしてかつては人類に味方した神仙が下界に居るの

はそのためである。

 ただし、人類にその手段は使えない。

 それは道なき道。正規のルートもゲートも介さず、一つの別世界とも異空間とも呼べるイマジナリーストラクチャーへ致る手

段。
現実空間の端にして断絶…異層を突破し、別の層に存在する「ある空間」を通り抜け、桃源郷に至るというその手段は、神

仙であれば実行も可能。

 だが、現行人類にはこの手段での到達は叶わない。

 この手段で利用するのは「無辺の荒野」を抜けるルート。そこは過去の大戦の折に、不要な物、修復や復旧が不可能な程傷つ

いた土地や、破損した兵器、あるいは使用に適さないと判断された兵器類などが廃棄された異空間。不要とされた生物兵器も闊

歩している、危険極まりない果ての大地。

 しかも危険が現地で待ち構えているだけではない。現行人類は元々、異層を突破して生存する機能を持たない。異なる理の中

へ、自分が居ないだろう異層、あるいは居るかもしれない異層へ、何の保護もない状態で進入すれば、そこに自らが在る事を立

証する「意味」が容易く失われ、存在の連続性が消える。

 意味喪失。

 存在そのものの瓦解による消滅、肉体と精神の徹底的な死、魂魄の不可逆な崩壊。そこへ踏み入った瞬間に、この現象によっ

て現行人類は命を落とす。強度も無関係に存在の連続性すら失われるため、修復や再生のような治癒的手段で対抗する事も叶わ

ない。

 短時間であればルーウーが保護する事もできるが、桃源郷に至る無辺の荒野の旅の間、ずっと保護をかけておく事は不可能。

道程の踏破には、ホンスー自身が意味喪失に陥らない程の確固たる存在…正規の神仙になる事が必須となる。

 そして通常、ひとが仙人になるためには、その生涯を費やすほど長い年月、修行に打ち込まなければならない。ホンスーは既

に自前の太極炉心を得ているものの、基本がゼロの状態で太極炉を自分の意思で運転できないため、動力源が太極炉に置き換わっ

ただけのただのひとに過ぎない。存在を確固たる物とし、踏破に十分な状態に至るまで、いったいどれほどの時間がかかるのか

は未知数である。

 最終的には、神仙と人類の橋渡しに成れるかどうかはホンスー頼み。だからこそユェインは可能な部分について最大限に配慮

し、ルーウーに預けるのだが…。

(ボクが失敗したら、誰も代わりは居ない…)

 黙って聞いているホンスーは、少しずつ、肩に重さを感じ始める。

 そうして長々と相談した後で…。

「時にチョウ、夕食はどうなる?」

 唐突にユェインが話題を変え、チョウは「青椒肉絲を主菜に、餃子や乾焼蝦仁などを考えておりました」と応じたが…。

「今日は魚を食いたい」

 ジャイアントパンダの一言。沈黙する猪。

 いつでも何でも黙って食べる…というよりも放っておくと栄養バランスも二の次でメニューを決める面倒を省いて何日でも同

じ出前を取ったりするジャイアントパンダは、真顔だった。猪に真っ直ぐ向けられる隻眼の光も本気だった。

「釣り具はあったな」

「ありますが…」

「釣れない時期か?」

「いいえ…」

「それは良かった」

 珍しく要求が強いなと、訝るチョウは…。

「では、私は炭焼きの準備をする。ホンとふたりで釣って来て貰おう。ホンはずっと釣りを趣味にしていて、上手だからな」

『はい?』

 思わず、突然話を振られたレッサーパンダと声を重ねていた。

 

 川沿いに腰掛け、釣り糸を垂らす。

 ふぅ、と溜息をつき、チョウは視界の端で横を窺った。

 隣…2メートルほどあけた先には、同じく釣り糸を垂らすホンスーの姿。微妙に遠い距離を挟んで、ふたりは黙ってウキを見

つめる。

(思いがけず、ふたりになったが…)

 声をかけるチャンス。話しかけるには都合がいい状況。それなのに、やはりどう声をかけるべきか、腹が決まらなくて…。

「………」

 やがて沈黙に耐えきれなくなったのか、ホンスーが竿を上げて立ち上がり、川べり沿いに歩き出す。

(やっぱり、傍に居たら不機嫌にさせちゃう…)

 それを横目で見送って、チョウは小さくため息をついた。

(一緒に居るだけで嫌な思いをさせてしまうな…)

 お互いの本心を知らず、ふたりの距離は離れてゆく。

 その時だった。腰を下ろす場所を窺いながら歩いていたホンスーが、昔のままの感覚で、十年余りの間に河の縁が崩れて一部

坂になっている事に気付かず、踏み外す格好でバランスを崩したのは。

「あっ!?」

 声を上げたレッサーパンダが川に向かって倒れ込む。ハッと声に反応したチョウの視線の先で、水平になったホンスーが川面

に迫り…。

「ホンスー君!」

 釣竿を放り出し、立ち上がる動作からそのまま駆け出すチョウ。岸を回り込むのではなく、迷い無く岸を蹴って川に飛び込み、

水しぶきを上げながらザブザブ前進、水没したレッサーパンダに急いで近付く。

「ゲッホ!エフンッ!」

「大丈夫かホンスー君!」

 鼻から水が入って咳き込むホンスーは、チョウに支えられて体を起こされる。幸いにも水深はチョウのみぞおち辺りで、ホン

スーも水面から顔を出したまま底に足がついた。

 支えられたまま、首のすぐ下あたりで背中を軽く叩かれて、何度か咳をして落ち着いたホンスーは…。

「ご、ごめんなさい…!」

「無理に喋らなくていいから、まず落ち着いて呼吸をして…」

 チョウと顔を見合わせ、はたと動きを止めた。

 こんな事は初めてではない。何度も、こうして一緒に川に浸かった事があって…。

 おっちょこちょいのホンスーは、泳ぐ時期でもないのに川に落っこちてしまう事もままあって…。

 その都度、居合わせたならチョウが助けに飛び込んで、そのまま水遊びになったりもして…。

 フッと、ふたりの口から同時に息が漏れた。

「ふ…、うふっ…!ふくくっ!」

「プッ…、くくっ…!」

「あはははは!」

「わはははははっ!」

 堪えられたのは一瞬だけ。すぐさまふたりの口から、堪えきれずに笑い声が漏れた。

 笑い出したら止まらなくなった。子供の頃に遊んでずぶ濡れになり、失敗してずぶ濡れになり、今もこうして…。

 しばらくして笑いの発作がおさまって来ると、ホンスーは「あ、あの!」と、改まって声を発した。

「上尉…、ずっと、謝りたくて…」

 見下ろすチョウの顔が、一瞬で笑いの名残を消した。

「あの日…、ボクが誘ったせいで、居合わせられなくて済みませんでした…。軍人になったのに、役に立てなくて、済みません

でした…」

 震える声を絞り出し、積年の気持ちを口にしたホンスーは、頭を垂れて水面を見つめる。

 緩やかに流れる川が、二人の間に浅い波紋を残し続けている。

 程なく、その波紋が増えた。流れに筋を刻む猪の太い胴の横で、両腕が動いて…。

「!」

 ホンスーが目を丸くする。逞しい両腕がそっと回るなり、体を抱き寄せられた。

「…ごめん」

 ボソリと、耳元に吹き込まれたのは詫びの言葉。猪の分厚い胸に顔を埋め、息苦しいほどきつく抱き締められ、驚いているホ

ンスーの額に、ポタッと、透明な雫が落ちて砕けた。

「ごめん…。ごめんな、ホンスー君…!ごめん…。俺…、俺はっ…!ごめん…!本当に、ごめん…!」

 鼻声で、嗚咽混じりに、チョウは十年以上も言えなかった言葉を、やっと口にした。

 悪くないのに謝らせてごめん。自分が詫びるべきなのに先に謝らせてごめん。ずっと辛く当たってきてごめん。故郷の仇を討

てなくてごめん。仇を探し出す事もできなくてごめん。無力でごめん。無能でごめん。あの日、何もできないまま、君に何もか

も失わせてしまってごめん…。

 たくさん詫びたい事があった。それを一つ一つ言えなくて、上手く纏められなくて、チョウはただただごめんと謝り続けた。

「ごめん…。ごめん…!ごめんっ…!引き取られた君の顔を、ろくに見に行かなくてごめん…!俺は情けなくてっ!仇も探し出

せないままの自分が、情けなくて恥ずかしくてっ…!それで君に顔向けし辛くて…、俺はずっと、逃げてたんだ!」

 頭も切れるし弁も立つのに、言いたい事を言いたいように言う事は叶わなかった。

「軍人になった君に辛く当たったが、君が悪い事なんて本当は何もなかった!軍人は危険な仕事だから、平和に暮らして欲しく

て、俺は君に…、辞めて欲しかったんだっ!酷い事を言ったのは、君が悪かったからなんかじゃない…!君は本当は、叱られる

どころか十分に優秀だった…!なのに俺は褒めるどころか!君が軍に居たくなくなるように、酷い事を何度も言った!」

 吐き出す言葉は悔恨まみれの謝罪。判り易く纏められもせず、感情の迸るままにひたすら詫びる。

「本当は…、本当はっ…!他に手は無いと判っているのに、君を老君に弟子入りさせる事にも反対したかった…!君には何も背

負わせたくなかった!人類と神仙の架け橋になるなんて、重責にも程がある!しかも今は、桃源郷を目指す事自体が危険なんだ

と知って…、俺は…!軍に身柄を預けるよりずっと良いと判っていても、俺は…!」

 穏やかに暮らして欲しかった。幸せに過ごして欲しかった。失った故郷の最後の一欠けらに、多くの人類の未来をかけた大役

など担わせたくなかった。

(上尉…、チョウお兄ちゃん…!)

 チョウの本心を知ったホンスーは、嫌われてなどいなかったと判って、安心するどころか、喜ぶどころか、罪悪感を覚えた。

 あの日、釣りに誘った事を恨んでいるのではないかと考えていたホンスーは、チョウが負い目に感じているとは想像もしてい

なかった。

 罪の意識から埋め合わせを考え、良かれと思って軍人を目指したが、それは心配をかけただけだった。頑張った結果として、

チョウに心労を重ねさせていた。

 どちらも相手のせいだと思ってなどいなかったのに、どちらも自分のせいだと思い込んで、結果として離れ離れのまますれ違

いを重ね続けた。喜劇と言うにも笑えない、馬鹿馬鹿しいほど深刻で、哀しいほど滑稽な勘違い…。

 嗚咽で震えるチョウの胸に顔を埋めたまま、ホンスーは…。

「う、うあっ…!ああああああああああああああん!うわああああああああああんっ!ごめんなさいチョウお兄ちゃん!ごめん

なさぁああああい!」

 子供の頃に返ったように、声を上げて泣き始めた。

 留まる事のない川の流れの中で、きつく抱き合って、ふたりはいつまでもいつまでも、繰り返し謝り合っていた。

 

 パチパチと半分生の枯れ枝が爆ぜる。

 濡れた服を脱ぎ、枝を組み合わせた簡易物干しにかけて乾かしているふたりは、下着一枚で火に当たっている。

 枝先で火をつつき、調整しながら、チョウはチラリとホンスーを見遣った。

 膝を抱いて座っているレッサーパンダは、泣き過ぎて目が充血しているが、穏やかな表情だった。恥ずかしそうではあるが。

 正座するように足を揃え、爪先を立てて膝をついて腰を浮かせているチョウも、自覚はしていないが照れた顔。

「ホンスー君。そこ風が当たるだろ?草の陰になるこっち側に座った方がいい」

「え?う、うん…!」

 言われてハッとしたホンスーは、腰を上げてワタワタと焚火を回り込み、チョウに促されて横に座る。猪の大きな体が風除け

になる位置で、火に当たって温まりながら、ホンスーはやっと胸のつかえが取れたような気分だった。

 まだ全然話せていない。ちっとも話し足りない。それでも、もう平気だった。

 これからは言える。話せる。昔のように何でも…。

「チョウお兄ちゃん…」

「う、うん?」

 互いに少し気恥ずかしく、気まずさも完全に消えてはいなくて、まだぎくしゃくしているが、これからは、もう大丈夫…。

「魚、どうしよう?遅くなっちゃうね…」

「あ~…、そ、そうだった…!」

 チョウは鼻先をポリッと掻く。自分の能力…ディエンフーが普段から使える物だったなら、電撃で魚を麻痺させて、浮いた所

を一網打尽にもできるのに、とらちもない事を考えながら。

「仕方ない。ユェイン様に謝って、今夜は予定通りチンジャオロースにしよう。…まだ、好きかい?」

 問われたホンスーは目を大きくし、コクコクと嬉しそうに頷いた。

 チョウがチンジャオロースにしようと考えていたのは、自分の好物だった事を忘れていなかったから…。ほんの小さな、しか

し確かな、あの頃と変わらない物を見つけて、ホンスーは縞々の尻尾を揺らす。

「は…、ハッキシュッ!」

 ホンスーがくしゃみをして、チョウは枝を握って火をつついていた手を止めた。

「風が冷たいか…。ホンスー君、こっちにおいで」

「はい?」

 手招きされたホンスーは、胡坐をかいたチョウに屈んだ格好で近付くと、そのままヒョイッと、両脇に手を入れられて持ち上

げられた。

「わっ!」

「よいしょっと…」

 組んだ脚の上へ横向きに座らされ、ホンスーは赤面する。が、チョウは気にする様子もなく、自分が風防になりながら火にあ

たれる状態にしてやって満足げ。

「これなら温かいだろ?体が乾くまでこうしていよう」

「う…、うん…」

 ホンスーは横抱きされて表情が硬い。左腕がチョウの厚い胸と張り出た腹に密着して、皮下脂肪の下に筋肉がギッシリ詰まっ

てムチムチしている感触に戸惑う。

 ホンスーは成人したとはいえ元々小柄、訓練で多少筋肉がついてもさほど大きくなれなかった。それと大男のチョウを比べれ

ば、大人と子供に等しい体格差である。

 チョウは態度も口調も表情も以前のようになっているが、昔とはやはり違うとホンスーは感じた。こんな体に鍛え上げるのは

どんなに大変なのか。どんな危険に、どんな困難に、どんな苦行に、どれだけ立ち向かってできたのか判らない、巌のような固

太りの、どっしり逞しい体…。

 猪の厚い胸板の左寄りには、被毛の上に描いたように現れている太極図…炉心の影。静かになったホンスーに焚火から目を移

したチョウは、その視線の向きに気付いて「ああ、炉心か…」と呟いた。

「俺の太極炉心はそこにあるんだ。風穴が空いて死ぬところだったんだが、ユェイン様が移植して下さって…。ホンスー君?」

「ふぁい!?」

 じっとチョウの胸を見ていたホンスーは、目の周りやら鼻の周囲やらが赤くなっていた。昔は殆ど裸で水遊びする事も珍しく

なくて、チョウの肢体もよく見ていたのに、今はその、特大の酒樽のようなごつく逞しい固太りの体を見ていると、昔は起こら

なかった動悸が胸を内から震わせて…。

「まだ寒いかな?よし」

 顔が赤い理由を勘違いしたチョウは、ホンスーをギュッと、腕を回して密着させるように抱き直す。

(チョウお兄ちゃん、こ、こんな、昔みたいな感じに…!?もう子供じゃないのに…!)

 ドキドキして顔を熱くさせてしまうホンスー。しかしチョウにはおかしな事をしているという意識は皆無、「これならいくら

か温かいだろう?」と笑いかける。

「肉厚で保温性が高いのは知ってるだろう。よくこうして、川から上がった後に温めてあげてたっけな」

 この猪、全く自覚できていないが、ホンスーが既に成人している事を頭では知っていながら、その対応と接し方は別れた当時

…ホンスーがまだ子供だった頃の、隣のお兄ちゃんとしての物になっている。

 しかもチョウは元から子供や年下に甘い。ヂーに言わせればゲロアマ。ルオチゥァなど通算稼働時間…いわゆる実年齢は子供

ではないにも関わらず子供としてベタベタに甘やかされる。

 根がそんな性分なので、努めてホンスーに刺々しい態度で接していた間は、実はチョウ本人に凄まじいストレス反応が生じて

おり、血圧の乱高下や耳鳴り、不眠や過食に悩む始末だった。

 少し前とは一転し、抱っこしたレッサーパンダを撫でながら焚火で温めるチョウに、もはやストレスはない。その代わりなの

か反動なのか、和解できた途端に、当時そのままのお隣のゲロアマお兄ちゃん状態に巻き戻るという、ある意味重大なバグが生

じているが…。

「チョ、チョウお兄ちゃん…」

「うん?」

 ニコニコしながら枝で焚火を調整しているチョウは、

「…う、ううん…。何でもないです…」

「?」

 何か言いかけて止めたホンスーの震えた耳を、訝しんで見つめたが、問う事はしなかった。

 ホンスーは、もうボクも子供じゃないんだし…、と言おうとしたのだが、やめた。

(もう少し、こうやって昔みたいにくっついてても、いいよね…?)

 やっと昔のような仲に戻れた事を喜び、かつては感じなかった胸の高鳴りに戸惑い、ドキドキしながらホンスーはチョウの胸

に頬を寄せる。単純な嬉しいとも喜ばしいとも違うこの気持ちは、いったい何なのだろうと不思議に思いながら。

(う~ん。やはり寒いんだな、ホンスー君)

 昔のように身を寄せてきてくれた事が嬉しくて、耳をピクピクさせて上機嫌になったチョウが、ホンスーの背中を撫でさする。

「釣りは、また明日改めてやろうか。ユェイン様が言っていたが、ずっと釣りを続けていたんだな?」

「うん。変わらない趣味って言うか…、家の近くに釣りに行きやすい掘りも大きな池も、ゆっくり流れる川もあったし」

「じゃあ、明日はふたりで頑張って、釣果で魚の塩焼きだ。…カナデさんに教わった白身魚のホイルバター焼きも良いかな…。

三日も滞在するんだ、釣りに限らずいろいろやれる時間はたっぷりある」

「そうだね、色々やれる…。たくさん…」

「そうだ。寝室はユェイン様とふたりで一室使って貰うつもりだったが…、ダメだと言われなければ、今夜は一緒の部屋にしよ

うか?俺はもっと話したい事があって…」

「え?いいの?」

「ユェイン様が良いなら。昔お泊りしに行った時のように、夜更かしして話もしたいしな」

「…ボ、ボクも!話したい事たくさん貯まってて!チョウお兄ちゃんに聞いて貰いたい事、いっぱいあって…!」

 パチパチと柔らかに爆ぜる、生木混じりの穏やかな焚火を、しかし、見ているのは二人だけではなかった。

 ホンスーは気付いていない。

 チョウですら勘付けない。

 完全に気配を殺し、ふたりから5メートルも距離が無い位置で、草むらに身を潜めて、ソレはじっと様子を窺っていた。

 鋭く光る隻眼。

 巨躯にも関わらず薄い気配。

 それは…、震将フー・ユェイン。

 いくら草の中に隠れた所で誤魔化しようのない図体なのだが、ふたりは存在に気付けない。ユェインの左目には太極図が浮か

んでおり、仙術が発動されている。

 平時はその太極炉心を秘匿するために用いているが、ユェインは幻惑系仙術を多少使用できる。規模こそ小さいが、看破能力

や解除手段を持たない者には到底見破れない、世界に対しての偽証を成立させられるレベルで。そして今はそれを全力で、隠れ

てこっそり様子を覗くために使用している。

 上手く和解できたふたりをしばし窺い…、

(む。これは良い事をした…)

 満足しつつ屈んだままズリズリ後退してゆくユェイン。

 魚が食いたいと突然話を振ったのも、自分は炭火の準備をすると言ったのも、チョウとホンスーを一緒に送り出すための方便。

釣りの開始から一部始終観察し、上手く行かないようなら食事中にも手を打たねばならないと考えていたのだが、どうやらこれ

以上の策は必要ないらしい。

 チョウがホンスーを無理やりにでも除隊させようとした事について、ユェイン個人としては、軍人となった甥を誇らしいと感

じる自分よりも、ずっと真っ当な人としての対応だと評している。

 本人の意図も周囲の目も一切関係なく、ただ平穏に暮らして欲しい。その望みを押し付ける事はエゴだったとしても、美しく

優しい思いやりだと、ユェインは思っていた。そうでなければ一言二言苦言していた所である。

 場を離れたユェインには気付かないまま、チョウとホンスーは体を乾かし、しばし待って水を切った服を着直して家に戻り…。

 

 持ち運び式大型ガスコンロにかけた大きな鉄鍋をジャンジャン揺すり、ダイナミックに火と格闘する猪。完成間際のチンジャ

オロースーの香りが、緑が鮮やかな桃の木の間から空へ昇る。

 キャンプセットのような簡易ベンチとテーブルを設置した桃園の一角で、夕暮れ空の下、三人は夕食を摂る。

「沢山作り!美味しく食べる!それが料理の醍醐味ですから」

 愛用の大きな鉄鍋でチンジャオロースーをたくさん作ったチョウは、汗をかきながら満面の笑み。とても満足げ。

 その意見に異論はないユェイン。勿論たくさん食べる。

 父も菓子を作り過ぎた時に同じ事を言っていたなと思い出すホンスー。知らないだけで叔母も言っている。

「このエビ、なんだか…、随分大きくない?」

 大皿にドバっと盛られた湯気立つエビチリソースを卓に運びつつ、こんもり盛り上がっているプリプリの剥き身海老を見つめ

て言ったホンスーに、「実は…、ホンスー君に食べさせたくて奮発した…!」と、少し照れた顔でチョウが応じる。

 正直に、素直に、もう偽る必要もなく気持ちを口にできる喜びと解放感からか、今日のチョウの笑顔はユェインから見ても別

格だった。

 やがてテーブルにはチンジャオロースー、エビチリ、餃子、海月の酢の物にユーリンチー、フカヒレスープなどが所狭しと並

べられた。機嫌がすこぶる良いチョウが、美味しく食べて欲しくて腕を振るった全力の料理は、器具も環境も十全でなくとも絶

品と呼べる出来栄え。特に味付けに関してはユェインやその兄が好んだように、ごま油をふんだんに使い、味には各種調味料で

メリハリをつけ、好みの食感と見栄えになるよう食材も大ぶりに切り分けてある。

 そうして夕食の料理が出揃うと、チョウは持ち込んだ酒…これもユェイン好みの桂花陳酒を、香りを立てるように小さなグラ

スに少しずつ注ぎ、乾杯の支度を整えて席に着いた。ユェインもチョウも緊急時に備えて、…そしてそれぞれ若干酒を飲んだ後

の自分に思う所もあるので、普段は飲酒を控えているのだが、今日は特別、気兼ねなく酒杯を煽るつもりになっている。

 ユェインと向き合う形で、ホンスーとチョウが席を並べる。肩を寄せ合う二人の、胸のつかえがやっと取れた、屈託のない楽

しげな表情を見て、ジャイアントパンダは目を細めた。

 旅立つ前に、遠くへやってしまう前に、甥の心は晴れたのだと…。

「老君の都合も、ホンスーの修行の事情も考えねばならないが、少なくとも年に一度は、こうして顔を合わせたいものだな」

 ユェインがグラスを手に、桃の木を仰ぐ。

 収穫も手入れもされなくなったが、それでも村の桃園は瑞々しく枝葉を広げた木々で賑わっている。

「そうですな。お互いの詳しい近況報告と予定の擦り合わせを…。いや」

 事務的な、そして仕事寄りな事に言い換えようとしている自分に気付き、チョウは咳払いして言い直す。

「例え何もなくとも、ホンスー君と顔を見せあって無事を喜ぶ、そんな機会が欲しい物です」

 嬉しそうに耳を倒したレッサーパンダに、ジャイアントパンダが微笑を向ける。

「どうかなホンスー?せっかく集まるなら、この桃園が彩られる季節などが良いのではないかと思うが」

「うん!桃の季節なら、きっとここも…」

 思い描く。昔と変わらず花が咲き乱れる桃園の姿を。

「それがよろしいでしょう。自慢の、故郷の景色です!」

 ニッと破顔してチョウも同意する。

「では、桃の季節に」

「はい。春の季節に」

「うん!花の季節に」

 それはいつか守れなくなる約束。悠久の時を歩むホンスーだけが残ると、判っていてなお交わされた物。

 それでも三人は、この桃園に集まると誓い合った。いつか果たせなくなるその日まで…。

『乾杯!』



















































  ?? ???